254号表紙

No.254(平成5年12月)

特集:

神戸の茅葺民家

神戸の茅葺民家

「消えゆく神戸の茅葺民家」

神戸市教育委員会文化財課
佐藤 定義

 神戸は、慶応三年(一八六八年)の兵庫港開港以来、港を中心に国際交流を通じて発展してきた国際港湾都市であり、北野・山本通地区の異人館や旧居留地の近代建築はハイカラな町神戸を代表する建築物として、全国的に注目されています。一方、実は神戸はもう一つの顔として、古くから県下でも有数の農業生産を誇る農業の盛んな町としての顔も持っています。
 六甲山を境に南側には商・工業都市としての神戸。北側には豊かな自然に恵まれ美しい農村風景の広がる田園都市としての神戸。一見相反する二つの顔が神戸にはありますが、実はこの二つの顔があってこそ神戸は、現在一五○万人もの人口を有する我が国を代表する大都市の一つとして発展してこれたのです。すなわち、農村部は、都市部に生活する人々の台所として重要な役割を果たすとともに、様々な面でその発展を支えて来たと言えます。
 そして、驚くことにこの六甲山の北側には、平成二年から四年にかけて行った「神戸市歴史的建造物実態調査」によって、今なお一二○○棟程の我が国の伝統的民家である茅葺民家が、残されていることが確認されました。しかも、これらの茅葺民家は、地区により実に多様な集落を形成していて、生産緑地である水田や畑、あるいは背景の里山と一体となり美しい農村景観を作り出しています。ともすれば、明治以降の近代化のイメージの強い神戸に、伝統的な建物である茅葺民家が、これほど集中して残っていることは驚きであり、このことは、我が国最古の民家である箱木家住宅(国指定重要文化財)を残しているこの地区の、伝統文化を根強く維持する風土が、背景にあることを示しています。
 現在神戸市では、二十一世紀まで十年足らずとなった今日を、時代の大きな転換期に立っていると考え、二十〜三十年先を見据えながら、都市活力と自然とが調和した暮らしやすいまちを目指して、新・神戸市マスタープランを策定中ですが、長い時間を経て現在に至っている茅葺民家は、まさに自然と調和しながら持続する身近なお手本であり、神戸という都市のイメージを再構築していくための重要な要素として位置づけられるのではないかと考えています。

(左)
箱木家住宅のおもて座敷。移築前は畳を敷いていたが、昔は板敷であったと推定されたため、台カンナが使われる前のチョウナ(手斧)はつりの板敷として再現された。囲炉裏の煙は、竹を組んだ簀子(すのこ)天井を通して屋根裏の茅をいぶし、補強の役目をしていた
写真

〈神戸の民家とその特徴〉

1 数と分布
 神戸市教育委員会が、奈良国立文化財研究所他の協力を得て、北区と西区で行った「神戸市歴史的建造物実態調査」によれば、北区には九四五棟、西区には一九一棟、計一一三六棟の茅葺民家が確認され、とくに北区に集中して所在していることが分かりました。
 分布の状況としては、表1のように北区では淡河町と山田町が多く、西区では東寄りの押部谷町と神出町に多く見られます。建築年代別には、江戸時代が全体の三分の一を占めてもっとも多く、明治時代二七%、大正時代一三%、昭和初期九%、戦後八%となっています。江戸時代の内一七世紀が四棟、十八世紀が八十三棟の多数にのぼり、改造の大きいものも多いが、軸部はおおむね保存されています。

2 摂丹型と播磨型民家
 民家では、主要な出入口がある面を正面としていますが、主要な出入口が棟と平行な側にある場合を平入(ひらいり)と呼び、棟と直角の側にある場合を妻入(つまいり)と呼びます。
 神戸の茅葺民家は、上記の平入、妻入の両方があり、妻入は縦割片土間(通り土間を持ち土間に面して部屋を取る)の平面を持つ摂丹型、または能勢型と呼ばれるタイプです。平入はいわゆる一般的な形式であり、便宜的に播磨型と呼んでいます。
 表2で平入・妻入民家の分布を見ると、妻入民家は北区の東部の道場・長尾・大沢・八多・有野町に分布し、北区西部の淡河・山田と西区にはほとんど分布していません。すなわち、摂丹型が分布するのは旧摂津国地域に限られており、旧播磨国地域は平入民家のみの分布となっていることから、平面形式の違いは旧国境を界にしていることがわかります。一般的には、妻入は格式を表現するための形式で、板葺き切妻屋根に多いとのことです。吉田桂二著の民家ウオッチング辞典によれば、茅葺民家における妻入形式は、全国的には京都を中心に分布しており、妻入のなかでも、縦割片土間の摂丹型は、北摂から丹波にかけて分布し、その他の地区で分布する妻入は、ほとんどが前上間型であるとのことです。したがって神戸の北区東部に平入民家と混在している妻入民家は、極めて持徴的な平面形式の民家であると言えます。

3 間取りと建築年代
 調査した民家は、一間取りから九間取りまで分かれていますが、全体の六二%は四間取りが占め、茅葺民家をイメージするときに使う「土間と田の字の間取り」という言い方が、当てはまることを示しています。また、六間取りの民家は二二%あり、平入民家と妻入民家における割合では圧倒的に妻入民家に多くしかも妻入民家の五一%をしめており。旧摂
津国地域では六間取りが主流となっています。
 平入四間取りの建築年代をみると、江戸時一四%、明治時代二八%、大正時代一四%、昭和時代二〇%、不明七%、と茅葺民家全体の年代分布と同じ傾向を示しているのに対して、六間取りの妻入民家は、江戸時代二七%、明治時代四一%となり、明治以後に増加しています。このことから、妻入六間取り民家は、比較的新しい民家だと言えます。

  • 写真ほほえましさの漂う民家。恐らく低く小さい部分は、後で増築したために当初の部分にくっつけるような屋根の形になってしまったものと思われる(北
    区八多町附物)
  • 写真明治35年建築の茅葺民家。近年屋根を葺き替えたらしく美しい。また、台所の屋根(写真右側)からレンガ造りの煙突が出ているのも珍しく、かわいい(淡河町北僧尾)
  • 写真茅葺き屋根が点在する淡河町木津。木津は、志染川支流の淡河川中流域に位置している戸数38程の集落である。今でも伝統的な茅葺民家が多く残っており、北斜面の地形をうまく活用しながら、広がる田と一体となって昔ながらの落ち着いた農村のたたずまいを見せている
  • 写真木津の茅葺民家。稲架(はさ)の風景もすっかり少なくなった
  • 写真大沢町の中でも、特に茅葺民家の遺存度の高い簾(すだれ)の、わずか二間の民家。土間まわりを含めよく当初の姿をとどめていて、一見古さを感じさせる
  • 写真
  • 写真
4 入母屋屋根
 調査した茅葺民家の屋根の形は、妻入、平入共すべて入母屋(いりもや)造となっており、近畿地方に多いと言われている屋根の形式として、改めて納得させられてしまう結果でした。
 以前、宮城県で見る機会があった茅葺民家は、すべて寄棟(よせむね)造で、話を聞くと、伊達藩が入母屋造を民家の屋根形式とすることを禁止していたということでした。入母屋屋根は、形の上から見ると、寄棟屋根の上に切妻(きりつま)屋根を乗せた格好となり、単調な二つの形が一つになることで、屋根の印象としては、変化とある種の豊かさを感じるようになります。
 摂丹型にせよ、播磨型にせよ、神戸の茅葺民家の屋根は本当に美しく、均整のとれた屋根の高さと勾配(こうばい)、妻側に小さく開いた煙だしのデザイン、あるいはガラスと呼ばれる飾りをかねた棟押さえといい、遠景からでも、近景からでもそのたたずまいに、安らぎと、練り上げられてきた美しさを感じてしまうのは筆者の欲目でしょうか。この辺りの屋根屋さん(茅葺職人さんをこう呼んでいる)の技術は相当に高いと感じています。

5 小屋組の形式
 屋根を支える構造を小屋組(こやぐみ)と言いますが、神戸の茅葺民家ではこの小屋組の構造が大きく三つの形式を取っています。束組(つかぐみ)と叉首組(さすぐみ)、そして束組・叉首組併用の三形式で、詳細調査をした八三棟の例では、一七、一八世紀の民家はほぼ束組となっており、叉首組と束組・叉首組併用は一九世紀に建築したものに多く見られます。束組の中には。オダチ・トリイ組の構造を持つ民家が七棟あり、いずれも一七世紀から一八世紀にかけて建築されています。
 オダチ・トリイ組の小屋組を持つ民家としては、箱木家住宅が知られています。我が国最古のこの民家の小屋組は、梁間中央に置かれた束踏(つかぶみ)に三本の棟束(むなづか)(丹波地方ではこれをオダチと言う)が立ち、この棟束に貫(ぬき)を通し両側に立てた母屋束と繋いで補強をしています。この補強材が鳥居の形をしていることから、オダチ・トリイと呼ばれており、叉首組よりも古い形式と言われています。

  • 写真箱木家住宅の屋根裏小屋組。オダチ・トリイ組の構造で、クギ1本使わず屋根を合理的に支えている
  • 写真主屋と納屋が共に茅葺き。これも今では珍しい(淡河町北畑)
  • 写真付近の人々から、小部千年家と呼ばれる平入の大型民家。18世紀中期の建設と推定され、当初の雰囲気をよく残し、都市化の進んだこの地区にあって、この家のまわりには、不思議な静けさが漂っている(北区鈴蘭台西町)
  • 写真
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  • 写真神戸電鉄道場駅の南、有馬川沿いの旧道に立つ茅葺きの家。表まわりを格子造りとして一見町屋風である。棟飾りとして置いた7組のカラスも風情を感じさせる(道場町平田)
  • 写真今年に復元した門
  • 写真18世紀後期の建設といわれている民家。茅葺屋根のボリュームは見る人を圧倒し、軒高も高い(淡河町淡河)

〈消えゆく神戸の茅葺民家〉

 茅葺民家は、二〇年程前までは各地で見る事が出来、その地方の風土に応じた伝統的な形態を通じて、我々はその地方の持色を感じることが出来ました。しかし、この二〇年来の開発の進展や、生活様式の変化によって急速に姿を消しつつあります。
 神戸でも、二〇年程前には、一九〇〇棟を越える茅葺民家が残されていました。今回の企画で、一緒に見て回ったカメラマンのIさんは、淡河町の淡河本陣のある街道筋はほとんどの家が茅葺きだったと懐かしそうに話してくれ、行く先々であそこにもあったここにもあったと思い出しては、つくづく数の少なくなったことを感じていたようです。また、消えてゆく日本の茅葺民家を撮り続けて二〇年になるという、吹田市在住の写真家のAさんは新聞記事を見たと言って電話をくれ、以来神戸にこんなに多くの茅葺民家が残っているとは思わなかったと言いながら、何軒かの茅葺民家が気に入って、四季を通じて撮影に来ています。
 存在を知りながら、しかし、意識を向けることのなかった茅葺民家が、こうして正面に据えて見れば、心を魅了してやまない建物であることに驚かされています。それは多分単に建築単体としての魅力よりも、周囲の自然環境に溶け込み一体となって発揮する美しさに引かれているのであり、田や畑やため池や里山や空や、取り巻くすべての組合せが造り出す風景が、きっと誰もが持つ、日本人としての心の原風景を呼び起こすきっかけとなるからに違いないと思います。茅葺民家を失うことは、心の原風景を失うことになるような気がしてなりません。
 古いもので三百年以上、新しいものでも九〇年以上の年数を経ているこれらの民家を我々はいったいどうやって残せるのか。様々な時代の評価に耐えられたからこそ、今こうして残っているこの伝統的な茅葺民家を、どうやって次の時代に渡せるのか。
 この二〇年程の間に四割も減ってしまった神戸の茅葺民家は、今もかなりの早さで消えて行きつつあります。平成四年に詳細調査を行った八十三棟の内でさえ既に五棟の茅葺民家が、新しい家に建て替っており、更に山田町坂本に建つ民家と原野に建つ民家の建て替えの話が進行中です。坂本のT家住宅は丹生山のふもと、山田川の谷筋の北岸にあり、集落の北端の最も高い位置に、周りを見下すように立地していて、もとは庄屋だったと伝えられています。十九世紀前期の建設とみられるこの家は、極めて規模の大きな平入六間取りの葺下ろしの茅屋根を持つ家で、その大きな茅屋根は、見る者に圧倒的な印象を与えてくれます。建築的価値の上からも、景観の上からも、価値の高いこの家を保存できなくてなんの保存かと思わずにいられないくらい、北区に残る茅葺民家の中でも印象深い民家です。また、M家住宅は、規模こそ小さいが、十七世紀中期の建築と考えられており、市内に残る民家としては、箱木家住宅に次ぐくらいの古さであり、この家も是非とも保存したい民家の一つです。

〈茅葺民家保存に向けて〉

1 ハードル
 茅葺民家の保存を進めてゆくためには、幾つかの大きなハードルがあります。第一に屋根材料である"茅"の確保です。昔は茅場が確保され、毎年秋から冬の時期にかけて茅を刈り取って、葺き替え用にストックしていたのですが、茅場の消減などでそうしたことをする家もほとんど無くなってしまいました。
 第二は"茅葺職人"の確保です。高度成長期の昭和四十七・四十八年頃に身分保証のない職人の仕事に見切りを付け、サラリーマンに転職する者が多かったと、現在では市内でただ一人の屋根屋さんとなった北僧尾の藤原さんが教えてくれましたが、藤原さんに跡継ぎがいるのかと尋ねたら「いない」と返事が返って来た。若者が嫌う三Kの職業の内に入るだろうこの職業は、藤原さんを最後に、このまますたれてしまうのでしょうか。
 そして第三は"意識"の改革です。所有者もまわりも、古い家を改造しながら住みこなしていくことより、時代に合わなくなった家として、一気に取り壊して大きな家を新築することの方がずっと評価が高いのが実情です。この評価・価値観をなんとか逆転させ、古い家を大事にしながら住み続けることの方への評価がもっと高くなるような価値観の変化が必要ではないでしょうか。これは単に、茅葺民家に限ったことではなく、今の社会全般に言えることで、古いものや、残されてきたものに対する評価がきっちりと出来る社会的状況を作って行く必要があります。

2 ネットワーク
 保存の為のハードルを越えて行くとき、大事なことは、ネットワークを作ることです。神戸という限定された地域の問題としてではなく、同じように茅葺民家の保存に取り組む地域と、情報の交換や協力体制を作りながら輪を広げて、大きな場の中でこの問題を考えていくことが必要だと考えています。さらには、所有者と行政の問題としてだけではなく、職人さんや学職経験者あるいは市民を含めた様々な人々の参加を得て、保存のための議論や試みを通して、システム作りを進めることが大事です。

  • 写真

    市内に残る民家としては、箱木家住宅に次いで古いと思われる民家。17世紀にさかのぼる民家として極めて重要な存在である(山田町原野)

    写真建築上古式な技法を伝える大規模なもと庄屋の建物(山田町坂本)
  • 写真民家の土間。夏の暑いときにこの土間に入ると、ヒヤリとした空気が出迎えてくれ、暑さを忘れてしまう
  • 写真茅葺屋根の補修に精を出す茅葺職人の藤原静昭さん(西区伊川谷町前開の太山寺龍象院で)。藤原さんはこの道40年。今では、市内で名の知られた職人といえばこの人一人になった

茅葺民家ウォッチング

1 前田家住宅(淡河町神田)
 旧湯乃山街道は、八多町を過ぎるとまもなく、弓ノ木から淡河町の神田を通って吉川町へ抜ける道とに別れます。前田さんの家は、この吉川へ抜ける道からさらに奥へ入った狭い谷あいの山裾に位置しています。集落の狭い道を進んで行くと、家が途切れたかと思った瞬間に木立の間に、きれいな茅葺きの屋根が見えてきます。周りを水田に囲まれたこの家は、前田さんご夫妻の性格そのままに清潔なたたずまいで、見る人を魅了します。
 入母屋の葺き下ろしの茅屋根は、一段高い位置から見るせいか、その大きさの割りにはやさしい印象を与えてくれます。十九世紀前期の建設と推定され、規模の大きい四間取りの主屋は、玄関や台所を改造して生活しやすいようにしていますが、全体の間取りは当初のままで、改造を巧みに行い、古い民家をよく使いこなしています。主屋の他に土蔵、離れ座敷・付属建物があり、水田から切り取るようにこれらの建物を生垣が囲っています。座敷の前の「センダイ」と呼ばれる庭は、よく手入れがされていて、見応えがあります。また、昔は大事な農作業の場だった主屋の前の土間には、きれいに芝生が敷かれ、その薄い緑色が茅の屋根とみごとに調和し思わず感心してしまいます。よく手入れのゆき届いたこの家は、茅葺民家を考え直すきっかけを我々に与えてくれます。

  • 写真前田家住宅の太い垂木。この垂木(たるき)が茅の重さを支えている。下のむしろで干しているのは落花生
  • 写真

    水田に囲まれた前田家住宅

    写真白壁が美しい土蔵
  • 写真明るい台所。古い簀子(すのこ)天井と新しいキッチンをうまくアレンジし、趣を出している
  • 写真風の通る気持ちのいい縁側で取材に応じてくれた前田さん夫妻
2 淵上家住宅(大沢町日西原)
 大沢、八多、古川を結ぶ三差路の西側に位置する淵上さんの家は、その広大な敷地に表門と勝手門を開き、表門の前面には堀を造り代々この地方の大庄屋を務めたという家柄の高さを示しています。
 主屋は、三室三列の九室構成の大規模なもので、その大きさで見る者を圧倒する茅屋根は、四周に棧(さん)瓦葺の屋根をまわしていますが、茅のボリュームに目がゆき、瓦がまわっていることを後で気付く程です。
 建物の質も高く、客玄関と呼んでいる式台や、床・棚・書院の座敷構えも正規の造りからなり、近世の大型民家の系譜上にある市内でも一級の茅葺民家といえます。建設年代は幕末から明治にかかる位と推定されていますが、建物が上質なだけに、実際の年代より新しく映るのかも知れません。
 敷地の西側は、美の川の谷筋から縁を切るように高く積まれた石垣が、見る人に城の石積みを連想させます。谷を隔てた西側の高台から見るこの家は、茅屋根の妻側が大きくそびえるように見え、石垣やその上の塀、あるいは庭の樹木と一体となって見応えのある景観を作っています。神戸の茅葺民家を代表する大型民家として、ぜひとも残していきたい民家の一つです。

 
  • 写真家の裏手にそびえるケヤキの大樹
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    城を思わせるような石垣。半分以上は大正4年に増築された。石垣の上に主屋の茅葺屋根が見える

    写真

    神戸建築百選'93特別賞(歴史・伝統)淵上家住宅

    神戸建築百選'93は、今年開かれたアーバンリゾートフェア神戸'93の一環として行われ、市内の各地域や年代を特徴づける代表的な建築が選ばれた。
  • 写真昭和40年代初めまで使っていたかまど
  • 写真茅のボリュームに圧倒される主屋

〈農村の景観〉

 北区と西区とでは、農業に違いが見られます。北区は、米の一毛作と花き栽培が主流となっており、西区は米の他に野菜や果樹の栽培、そして酪農が行われています。兼業農家世帯が多い北区に対して、西区は専業農家世帯の比率が高く数字の上からは、西区の方が農業が盛んだといえます。この二つの地区の農村景観を通して見ても、そのことは感じられます。西区では、広々とした生産緑地と点在する溜(ため)池や民家が作り出す景観は、明るく開放的で広々とした印象です。北区では、山間部が多いことから閉鎖的になりやすいのですが、その地域の地形をうまく活用して、生産緑地の確保に努力しており、全般的に棚田が多くなっています。しかし、この棚田と背後の里山が、茅昨きの家と相まって作 り出す景観は、目を見張るものがあります。とくに大沢町の日西原、市原、簾や淡河町の南僧尾、北僧尾にかけての美しい景観は、訪れるたびに、何とか残して行きたいと思わずにはいられません。
 茅葺の民家と周辺環境とのハーモニーによって作り出される、美しさとやすらぎを感じさせてくれる農村景観は、ダイナミックな躍動感を感じさせる都市景観の対極に位置すると言えます。都市以観の整備と同時に、こうした対極にある農村景観を保存していくことは、今後の神戸のまちの大きな魅力になって行くでしょう。

  • 写真コスモスと茅葺民家。茅屋根は西区ではめっきり少なくなった。主屋は中規模の平入で、その技法から19世紀前期の建設とみられている(西区櫨谷町福谷)
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    刈り入れが終わった水田。田の向こうにススキが群生している。以前はススキを秋から冬にかけて刈り取り、屋根材(茅)として保存する農家が多かった(北区淡河町北僧尾)

    写真秋の気配が漂う集落。カキの実の色は不思議なほど茅屋根に合い、美しさを感じさせてくれる(淡河町野瀬)
(参考資料リスト)
1)『神戸の茅葺民家・寺社・民家集落』神戸市教育委員会 1993.3
2)『日本列島民家史』宮沢智士著 住まいの図書館出版局 1989.7
3)『日本列島民家入門』宮沢智士著 INAX 1993.4
4)『民家ウオッチング事典』吉田桂二著 東京堂出版 1987.6

寺社と農村歌舞伎舞台

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    下谷上農村歌舞伎舞台(重要有形民俗文化財、北区山田町下谷上)江戸時代の天保11年(1840)に建てられた村芝居の舞台。この舞台の特色は、@規模が雄大(間口12m、奥行8m)A花道、太夫座、回り舞台など多種の舞台機構を備えているB花道の一部が回転して、反り橋が出る特殊機構がある(全国唯一)など。昭和52年1月に不審火で焼損したが、同54年9月に修復された

    写真下谷上農村歌舞伎舞台での歌舞伎上演風景
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    南僧尾観音堂(県指定重要文化財、北区淡河町南僧尾)承和7年(840)の創建と伝えられるもと新善寺の本堂であった建物。文化財としての調査の際、堂内から出てきた「堂頭日記」は、延徳元年(1489)から天正12年(1584)までのもので、村人の生活の記録として貴重である。正面3間、側面4間で、正面及び各側面に各1間の縁を設けた簡素なつくりとなっている

    写真上谷上農村歌舞伎舞台(県指定重要有形民俗文化財、山田町上谷上) 上谷上の鎮守である天満神社の境内に、社殿と向かい合って建っている。建築年代は文久3年(1863)と推定されている。舞台は割拜(わりはい)殿形式で、中央の参道部は芝居をする時には床を張るようになっており、床下に石積みの奈落を設けて楽屋にあてている
  • 写真チョウナけずりの曲った柱が建築の古さを思わせる(南僧尾観音堂)
  • 写真北僧尾農村歌舞伎舞台(県指定重要有形民俗文化財、淡河町北僧尾) 北僧尾の鎮守、厳島神社の境内に社殿と向かい合って建っている。建設は安永6年(1777)で、現存する農村舞台として日本最古のものとされている。神社には長床といって神事のために使われる建物があるが、この舞台はその長床と舞台を併用した形に造られている
  • 写真大歳神社(淡河町木津)周囲を田に囲まれた開けた境内に茅葺きの本殿覆屋(おおいや)と摂社(付屈神社)が立ち、趣のある景観を形成している。享保元年(1716)、五穀成就を祈って創祀された。覆屋は、中にある本殿を風雨から守るためにつくられたもの
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「神戸の茅葺民家・寺社・民家集落」
−神戸市歴史的建造物実態調介報告書−
現存する茅葺民家の内の主要な83棟、集落に建つ31件の寺社建築、主要集落の形態とその環境の特性等について行った調査報告書です。
頒布中
●頒布価格 3,000円
●頒布場所 さんちかインフォメーションこうべ・神戸市教育委員会文化財課
●問合わせ 神戸市教育委員会文化財課TEL078-322-5798      
晩秋の農村風景。カキの実が落ちると厳しい冬がやってくる(北区淡河町木津)
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晩秋の農村風景。カキの実が落ちると厳しい冬がやって来る(北区淡河町木津)
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