241号表紙

No.241(平成4年11月)

特集:

小磯良平の世界

小磯良平の世界
小磯画伯、その作品と同様、温雅で気品にあふれた人柄がしのばれる

小磯良平の絵の中を吹き抜ける、
モダンで気品あふれる爽やかな風は、
生まれ育った神戸の街が奏でる、西洋的叙情。

神戸市立小磯記念美術館学芸員 廣田 生馬

親しみやすい女性像で、市民に広く慕われていた、洋画家・小磯良平は、一九八八年十二月、静かな眠りにつきました。神戸市民から愛され、神戸市の名誉市民でもあった小磯良平は、同時に、誰よりも神戸という街を、深く愛したひとでした。

神戸のモダンな空気の中洋画家を志す良平少年
 一八六八年の開港以来、外国文化との交流の場として、異国情緒あふれる独特の香りを、常に漂わせつづけてきた、エキゾチックな街、神戸。この神戸の街に、一九〇三年、小磯良平は生まれます。その四年前の一八九九年に、外国人居留地が日本政府に返還されました。旧居留地から出てきた外国人たちが、神戸市民たちの日常生活の場に、足を運びだすようになり、神戸はより一段と、モダンな雰囲気を、かもしだすようになります。一方、市民たちも、ガス燈がやさしい光を石畳に投げかける、旧居留地の優雅なたたずまいを、自由に味わえるようになりました。両者のふれあいは、異国的なものと伝統的なものとが、絶妙に調和する、神戸特有の折衷文化を、形作ってゆくことになったのです。
 小磯良平は当時のことを、次のように回想しています。「私は諏訪山の麓(ふもと)で生まれた。ここで五歳までいた。聖公会派の教会の美しいベルの音を毎日きいた、南京寺の中庭の夾竹桃(きょうちくとう)と色つき硝子(がらす)の天井を覚えている。私が最初に描きはじめた旗の絵は今から考えるとスエーデンの国旗らしい。」(一九三五年「アトリエ」)。このような、恵まれた文化環境の中、クリスチャンの母親の影響をうけ、小磯良平は大変心のやさしい少年に、育ってゆきます。絵が大好きだった小磯良平が、神戸のモダンな空気の中、洋画家を志すようになったのも、自然のなりゆきと言えましょう。一九二二年に東京美術学校(現東京芸術大学)に入学してからも、天から授かった、たぐいまれなる才能と、ゴツゴツと努力を重ねる地道さでもって、西洋的な絵画技法を磨いてゆきます。二年におよぶパリ留学ののち、神戸に帰郷した小磯良平は、新制作派協会(現新制作協会)を結成するなど、精力的に活動し、正統的な古典主義芸術を完全に確立します。
 太平洋戦争末期の神戸空襲で、それまでのアトリエを失った小磯良平は、終戦後、静かで、緑豊かな御影に、新しいアトリエをかまえ、気分を新たにキャンバスに向かい始めます。描き手のおだやかな人柄が反映された、あたたかみのある画風で、小磯良平の絵は多くの人の心を魅了します。一九七九年に文化功労者に選ばれ、一九八三年には文化勲章を受章しています。

小磯良平の清楚な女性像は優れたデッサン力の賜物
 小磯良平は、デッサンをとても大切にし、晩年でも、その練習をおこたりませんでした。「最近では制作はもっぱら午前中のべ二時間をあてている。モデルは毎日といってよいくらいその時刻にアトリエに来る。」(一九八四年 画集「裸婦・踊り子」)。丁寧に描かれた小磯良平の清楚な女性像は、すぐれたデッサン力の賜物なのです。それは、西洋の伝統にのっとった古典的技法に、基づいています。そして、小磯良平の絵の中を気持ち良く吹きぬける、モダンで気品あふれる爽(さわ)やかな風は、小磯良平が生まれ育った神戸の街が奏でる、西洋的叙情なのではないでしょうか。

廣田生馬(ひろたいくま)氏紹介
一九六六年生まれ。一九八九年、関西学院大学文学部卒業(フランス文学専攻)。一九九二年、同大学大学院博士課程前期課程修了(近代美術史専攻)。現在、神戸市立小磯記念美術館学芸員。
小磯良平 主要年譜
1903(明治36)年 旧三田九鬼藩の旧家で貿易商を営む岸上文吉、こまつの次男として、神戸市の現中央区中山手通7丁目に生まれる(7月25日)。のち山本通5丁目、奥平野梅元町に転居。湊山、平野小学校に学ぶ
1917(大正 6)年 県立第二神戸中学校(現兵庫高校)に入学、同級の竹中郁と親交を結ぶ
1922(大正11)年 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に入学
1925(大正14)年 この年父が死去、祖母の姪にあたる小磯家を嗣ぐ。「兄妹」が第6回帝展に初入選
1926(大正15)年 第7回帝展で「T嬢の像」が特選となる
1927(昭和 2)年 東京美術学校を首席で卒業。卒業制作は竹中郁をモデルにした「彼の休息」と「自画像」
1928(昭和 3)年 渡仏。竹中郁と2か年パリ滞留
1929(昭和 4)年 サロン・ドートンヌに「肩掛けの女」が入選
1932(昭和 7)年 萩原貞江と神戸教会で挙式
1936(昭和11)年 新制作派協会結成、第1回展
1938(昭和13)年 陸軍報道部の従軍画家となる。以後40・41・42年にも従軍
1945(昭和20)年 6月5日の神戸空襲で住居とアトリエを焼失
1949(昭和24)年 現在の東灘区住吉山手7-1に住居とアトリエを新築
1953(昭和28)年 東京芸術大学教授となる
1971(昭和46)年 束京芸術大学を定年退官
1973(昭和48)年 勲三等旭日中綬章を受ける
1979(昭和54)年 文化功労者に選ばれる
1982(昭和57)年 親友・竹中郁(詩人)死去。日本芸術院会員となる
1983(昭和58)年 文化勲章受章。妻貞江死去。神戸市名誉市民の称号を贈られる
1988(昭和63)年 12月16日死去

1903〜1930年

絵画との出会い
 幼い時から絵が好きな少年だった小磯良平を、スケッチに誘い、本格的に絵の道に導いたのは、平野小学校で一緒だった、田中忠雄(洋画家)でした。そして兵庫県立第二神戸中学校(現兵庫高校)に進学すると、同級に竹中郁(詩人)がいました。この頃、竹中郁とともに倉敷に出かけ、大原コレクションに接しています。実物のフランス絵画と初めて出会い、大きな感動を受けた小磯良平は、画家になる決意を次第に強めてゆきます。
 1922年、「花の美校」と呼ばれていた、東京美術学校西洋画科に入学した小磯良平は、翌年、藤島武二の教室に入り、そこで猪熊弦一郎、牛島憲之、荻須高徳、高野三三男、山口長男といった、手強いライバルたちと、腕を競い合います。1926年に描かれた「自画像」からは、若い情熱のみなぎりが、強く感じられます。同じ年、「T嬢の像」が、第7回帝展で特選に輝いています。23歳の画学生が描いたとは思えない、すぐれた描写力が目を引きます。小磯良平は1927年に、東京美術学校を首席で卒業しましたが、その時の卒業制作の一つが、親友竹中郁を描いた「彼の休息」です。ラガースタイルの親友の脇に、マネの画集が置かれており、若き小磯良平の、フランス絵画への熱い思いが伝わってきます。
 美術学校卒業の翌1928年、小磯良平は、ついにフランス留学へと旅立ちます。1929年に描かれた「肩掛けの女」は、数少ない滞欧中の作品の一つで、サロン・ドートンヌの入選作です。留学先での小磯良平は、制作に励むよりも、ヨーロッパ文化を、じっくりと肌で味わうことに、専念します。各地の美術館をくまなく巡り、巨匠たちの芸術を吸収した小磯良平は、1930年、帰国します。

1931〜1945年

激動の時代と小磯
 ヨーロッパからの帰国後、小磯良平は、再び精力的に制作活動を再開します。この頃の作品に「洋和服の二人(みなとのまつりの日)があります。今の「神戸まつり」の前身である、「神戸みなと祭」が初めて開かれた一九三三年に描かれたものです。対照的な装いの、二人の女性。和洋折衷という、神戸の街の特色を象徴するかのような作品です。文部省による美術界統制、帝展改組断行に反対した小磯良平は、一九三六年、猪熊弦一郎、中西利雄らと新制作派協会(現新制作協会)を結成します。「着物の女」は、この年に描かれた作品です。清らかにたたずむ若い上品な女性像からは、小磯芸術の本流が読みとれます。第五回新制作派展に出品された「肖像」(兵庫県立近代美術館蔵)は、一九四〇年の作品です。椅子に腰掛けた女性を斜め正面からとらえた構図は、アングル・ビューという、正統的な、ヨーロッパ古典主義の画法にのっとっています。この一九三〇年〜四〇年は、小磯良平自らが「もっとも脂ののりきった時代」と称したと言われているほど、すぐれた作品が次々と生まれた時期です。
 しかし、戦争の嵐は美術界にも激しく吹き寄せてきます。デッサン力に抜きんでた小磯良平は、陸軍報道部の要請で、従軍画家として戦争画に手を染めざるを得なくなります。小磯良平は戦争画の体については、生涯沈黙を守りますが、当時の心境をうかがえる作品があります。「斉唱」は、一九四一年に描かれています。素足の女性たちの、清らかで、祈るような歌声が、見る者の心に強く響きわたってきます。太平洋戦争末期の一九四五年六月、神戸を襲った空襲で、小磯良平は多数の作品とともに、住居とアトリエを失います。

1946〜1988年

家族の愛につつまれて
 二人の愛娘をモデルにした「二人の少女」は、終戦の翌年に描かれています。戦争で大きな痛手を受けた小磯良平ですが、ここでは、自分の娘たちに対する深い愛情を、画面一杯に、惜しむことなくあらわしています。ほのぼのとした、心暖まる作品です。また、1947年には、小磯夫人をモデルにした「K夫人像」(神戸市立小磯記念美術館蔵)を描いています。夫人に対しても、画家が大変深い愛情を抱いていたことが、容易にうかがえます。
 1950年代に入ると、小磯良平の画風は、大きく変化してゆきます。神戸の街を背景に、働く人々を、黒い輪郭線を使ってたくましく描いた、「働く人びと」は、この頃の代表的な作品です。この「働くびと」を制作するにあたっての下絵を、小磯良平は、何枚か残しています。「働く人・網を持つ男」、「働く人・男の休息」、「働く人・レンガを積む人」からは、この大作の制作過程を、かいま見ることができます。
 さらに、1950年代の後半からは、「働く人びと」の背景の神戸の街に表されている、キュービスム(立体主義)が、絵の前面に出てくるようになります。「室内の少女」、「リュートのある静物」といった作品には、その傾向が強く見られます。その一方で、小磯良平は、新聞の連載小説の挿絵も多数描いています。ノーベル賞作家である、川端康成著の「古都」のカッ卜からは、卓越したデッサン力を生かした小磯芸術がうかがえます。
 1970年代以降は、着衣の女性、卓上の花、あるいは人形といったものが、おもなモチーフとなってきます。晩年の1986年、第50回新制作展に出品された「御影の風景」は、数少ない風景画です。また他界する前の年に描かれた「帽子の少女」は、絶筆と伝えられる作品です。この美少女の「やさしげな微笑み」でもって、小磯良平の60年余におよぶ画業は、その幕を閉じます。

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  • 小磯絵画によく登場するモチーフ(1)時計とバイオリン(2)リュート(3)帽子
    神戸市立小磯記念美術館蔵
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神戸市立小磯記念美術館の回廊と中庭。中庭には東灘区にあった小磯画伯のアトリエを移築復元、明るく開放的な雰囲気を持たせている

温雅と気品―「小磯良平の世界」
神戸市立小磯記念美術館開館

 11月3日「文化の日」から一般公開された神戸市立小磯記念美術館は、小磯良平画伯の作品約2,200点を収蔵するわが国有数の個人記念美術館。展示室が3室あり、今後、小磯作品を中心に市民をはじめ多くの人たちに美術に接する機会を提供していく。鉄筋コンクリート造り2階建て、延べ3,971平方メートル。
 同美術館の特色は、昭和24年から晩年に至るまで小磯作品の創作の舞台となっていた画伯のアトリエ(美術館中庭に移築復元)。創作の場の雰囲気を再現するとともに、パネル写真等で画伯を紹介している。このほか、110インチの大画面で作品の紹介・解説をするハイビジョンギャラリー、映像で作品を検索できるコーナーやミュージアムショップ、美術講演会や絵画教室を随時行う絵画学習室などもある。
 一般公開と同時に始まった開館記念特別展「小磯良平の世界」は、同美術館の収蔵作品を中心に、代表作はもちろん、未公開作品も合わせて183点を展示。また、小磯作品のなかでも最大スケールの壁画「働く人びと」(194.0×419.0cm)が、およそ10年ぶりに公開されている。

  • 写真小磯記念美術館の外観。建物の右側向こうに六甲ライナー「アイランド北口駅」が見える
  • 写真美術館のエントランス・ホール
  • 写真笹山幸俊神戸市長や小磯画伯の長女澤村嘉子さん、次女嘉納邦子さんらによるテープカット
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    写真展示室は3室あり、婦人像・素描・版画・肖像・群像などが年代順に分けて展示されている
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  • 写真小磯画伯愛用のイーゼルやパレット、モチーフとなった人形やモデルのコスチュームなどを展示したアトリエの画室
  • 写真美術館中庭に移築復元されたアトリエ
  • 写真モチーフのいろいろ
  • 写真アット・ホームな感じの絵画学習室
  • 写真パレットと絵筆
  • 写真ミュージアムショップ
  • 写真図書コーナーを備えたロビー
  • 写真アトリエと並び美術館の大きな特色となっているハイビジョンギャラリー
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