240号表紙

No.240(平成4年10月)

特集:

続・神戸はじめ物語

続・神戸はじめ物語
神戸大学経済学部教授 神木 哲男
 神戸の都市としての発展は、明治の開港(一八六八年一月一日)によって建設された外国人居留地にはじまると考えられがちだが、実はそうではない。古代以来長い歴史をもち港として栄えてきた伝統的な地域=兵庫があり、この実績の上に明治以後新しく形成された地域=外国人居留地が積み重ねられて出来上がっているのである。伝統的・日本的なものと、近代的・西洋的なものとをどのように調和させながら、近代都市として一つの有機体を作り上げていったが、神戸はその実験場でもあった。
 兵庫は、古代以来瀬戸内海の重要な港として栄えた場所であるが、実はこの兵庫の発展の中に壮大な「はじめ物語」がかくされているのだ。
 人工島の建設=ポートアイランドや六甲アイランドなどのベイエリアの開発と全く同じ構想が、八〇〇年以上も前に平清盛によって立案・実行されているのである。清盛は山を崩してその土で海を埋め立て人工島を作るという方法を実行した。承安三年(一一七三)、兵庫津(当時は大輸田泊といった)の背後の塩槌山(神戸市兵庫区羽坂通・塚本通付近)を崩して海面を埋め立てる工事がはじめられたが、工事は難航をきわめ、清盛の後、東大寺の重源上人が引き継いで工事を完成させた。こうして出来上がった日本最初の人工島の面積は、およそ四〇万平方メートルといわれ、甲子園球場の十倍の広さをもったものであった。
 この人工島の建設によって兵庫津は、中国(宋)からの貿易船も安全に寄港できるようになったのである。中世・近世を通じて兵庫は、瀬戸内第一の良港として栄え、大小の船の出入りで賑わった。

兵庫津絵 図写(部分) 元禄9年(1696)

絵図の手前左側、入り海の南先端付近が平清盛の築島ではないかといわれている

風俗

文化の発信の地をめざして

新しい「神戸はじめ物語」がはじまる
 明治の開港後、神戸港の整備によって外国貿易が発展し、神戸に住む外国人の数もどんどん増え、かれらの芸術、ファッション、スポーツ、食文化など多くのものが、外国人と神戸市民との交流を通じてもたらされ、神戸を起点として全国に広まっていった。
 ファッションの面では、近代洋服発祥の地として「神戸洋服」が評判になり、流行の先端を行く人々に愛用されたといわれているし、第一次世界大戦(一九一四―一八年)の最中にアメリカ人の看護婦によって考案されたパーマネントが数年を経ずして神戸ではじめられたりしている。
 文化・芸術の面では、日本で最初に活動写真興行が催されたり、水族館が作られたりしている。また日本で最初のジャズ・バンドも神戸で誕生したといわれている(スポーツ・食文化については、一九九二年六月発行の本誌・二三六号に特集されている)。
 神戸が発祥の地であるといわれるものを、まだいくらでも挙げることができるが、多くのものが、神戸を起点にして全国に広まったのは、神戸の私たちの先輩が、外国人との交流を通じて学んだり、試行錯誤を繰り返しながら改良する努力を積み重ねてきたからである。このことを忘れて、ただ「神戸はじめ物語」を自慢するだけに終わってはならない。
 私たちは、先輩たちの努力を生かしながら、未来にむけて、私たち自身が新しい「神戸はじめ物語」を作って行かねばならない。そしてそれは、個々のものについてではなく、神戸が文化の発信の地、つまり神戸それ自身がはじめになって、日本全国に、いや世界にむけて大きな輪を広げていくようなものでありたい。ここにこそ新しい「神戸はじめ物語」のはじまりがなくてはならない。

神木哲男(かみきてつお)氏紹介
 1934年大阪生まれ。神戸大学大学院経済学研究科修了。日本経済史を専攻、神戸大学経済学部教授、神戸大学百年史編集委員長、経済学博士。「ひょうご学研究会」代表幹事の一人。神戸新聞文化センターの「神戸学講座」を担当。主な著・訳書に『日本中世商品流通史論』、『近代移行期における経済発展』(共編著)、『日本経済史の新しい方法』(監訳)など。

ジャズバンド

 大正12年(1923)4月、井田一郎の率いるラッフィング・スター・ジャズバンドが神戸で旗揚げした。これがわが国最初のジャズバンドである。
 彼は明治43年(1910)、16歳で三越少年音楽隊に入団。その後、太平洋航路の豪旅客船で演奏し、船がアメリカの港に入る機会をとらえては、本場のジャズを聴いて勉強した。大正10年、宝塚少女歌劇団のオーケストラに入ったが、同12年に他の楽員4人とともに退団し、神戸でジャズバンドを結成した。やがて東京に活動の場を移し、名前もチェリーランド・ジャズバンドと改めたが、いわゆるディキシーランド・スタイルで演奏したのはこのバンドが最初であったという。
 戦争で鳴りをひそめたものの、神戸では戦後まもなく、関西学院の学生を中心に発足したバンドがディキシーランド・ジャズの種をまき、多くの支持者を得、後継バンドも数多く生まれた。わが国ジャズ発祥の地神戸は、今もディキンーランド・ジャズのメッカとして広く知られている。

水族館

 わが国最初の水族館ができたのは明治30年(1897)9月。国が主催する第2回水産博覧会が和田岬の和楽園(私営の遊園地)で開かれ、その中心施設として水族館が建設された。
 水族館は木造インド風洋館造り(約570平方メートル)。水槽は海水20個、淡水9個。博覧会開催中の3か月間に約100種、5千点の水族が飼育された。魚類を集めるため各府県に出品を求めたり、遠方まで出かけて採集運搬したり、大変苦労している。また、水槽には日本で初めて本格的な循環ろ過方式を採用するなど、基本的には現在の水族館と少しも変わらない立派な施設だった。
 この水族館は後に湊川神社の境内に移築再建され、明治35年から同43年まで、楠公さんの水族館として人気を呼んだ。なお、須磨海浜水族園に当時の和楽園水族館の模型が展示されている。

写真
和楽園水族館平面図。入口を入ると海上遠景を背景に岩礁造景を施したジオラマのプールが人目を引いた。出口に近い展示コ一ナ一では、北海道からマスの卵を取り寄せて人工ふ化の様子を見せるという、当時としては大変珍しい展示方法を試みている

映画

 日本初の「活動写真」は明治29年(1896)、神戸で公開された。アメリカのエジソンが発明したキネトスコープと呼ばれる機械を神戸の鉄砲火薬商高橋信治氏が輸入。11月25日から花隈の神港倶楽部(今の中央区下山手通6丁目)で最初の興行が行われ、評判となった。
 このキネトスコープは、のぞきめがね式の箱型の機械で、1回に一人しか見ることができず、箱の上からのぞいて電気のスイッチを入れると、穴の前をフィルムが通過し、そこに焼きつけられた映像が動いた。使われたフィルムは「西洋人スペンセール銃を射撃の図」ほか数本。入場料は大人30銭、一般の寄席などに比べるとかなり高価だった。
 昭和31年から12月1日は「映画の日」と呼ばれている。本来ならキネトスコープの初公開日、11月25日を記念日とすべきところだが、中途半端で覚えにくいため12月1日にしたという。

よみがえれヒーロー、ヒロイン
10月17日〜「第2回ダウンタウン映画祭」

 かつての新開地のにぎわいを取り戻そうと、新開地アートビレッジ事業の一環として「第2回ダウンタウン映画祭」が10月17日から23日までの1週間、新劇会館(高速新開地駅東口)で行われる。今年のタイトルは「よみがえれヒーロー、ヒロイン」。上映作品は市民投票による次の11本。
 10月17日/ダイハード、インディ・ジョーンズ最後の聖戦●18日/風と共に去りぬ●19日/風と共に去りぬ●20日/男はつらいよ寅次郎ハイビスカスの花、エレキの若大将●21日/慕情、ワーキング・ガール●22日/緋牡丹博徒、嵐を呼ぶ男●23日/ロッキ一5最後のドラマ、007消されたライセンス

デパートの土足入場

 大正12年(1923)5月、新開地に白木屋神戸出張店(本店・東京日本橋)がオープンし、業界で初めて客に土足入場させた。
 「今日は帝劇、明日は三越」の言葉が流行するほど、大正中ごろには上流・中産階級を対象に百貨店が発展したが、どのデパートも"土足厳禁"で、玄関に下足番をおいていた。白木屋の土足入場はたちまち評判を呼び、オープン初日の客は1万6千人、2日目も1万5千人をこえた。日ごろ百貨店に行ったことのない人までゲタばきで押しかけたからである。
 主として衛生的な理由で土足を禁じていた百貨店も、これをきっかけに次第に大衆化され、大正15年の三越開店、昭和に入って大丸、そごうが相次いで元町・三宮に進出し、神戸に本格的な百貨店時代が訪れた。

ブラジル移民

 神戸港は雨である。細々と煙る春雨である。海は灰色に霞み、街も朝から夕暮れどきのやうに暗い。三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。
 南米移民をえがいた石川達三の名作『蒼氓』(昭和10年、第1回芥川文学賞)の起筆部の一節である。作者は国策会社海外興発の助監督として昭和5年に国立神戸移民収容所に入り、ブラジルへ渡った。
 神戸移民収容所(後の移住斡旋所)は昭和3年、山本通に開設された。明治41年(19O8)に最初のブラジル移民船「笠戸丸」が158家族、781人を乗せて神戸港を出航してから20年目であった。以来、昭和46年の最後の南米移住船「ぶらじる丸」まで、戦前・戦後を通じ約25万人が神戸港からブラジルへ渡った。

  • 写真神戸港からブラジルへ向かう移民船「河内丸」(大正13年)
  • 写真
    石川達三の『蒼氓』
  • 写真旧神戸移住斡旋所(中央区山本通三丁目、現神戸市医師会准看護婦学校)の玄関付近に立つ「ブラジル移民発祥の地」碑。昭和五十四年建立。記念碑の石材はブラジル在住の兵庫県人会有志から贈られた

ロマンス・力−

 わが国の市街電車の中で初めて神戸市電に登場したロマンス・カー(昭和10年)は、スマートさ、乗り心地とも抜群で全国にその名を知られた。
 定員88人。窓が大きく、緑色のビロードシートは前後へ自在に向けられた。また、車内灯は懸垂式装飾カバー付き、立ち客の手握りは金物製でスプリングが付いていたため、手を離すと前に折れ、電車の振動による揺れ音などもなかった。

カラオケ機器

 大衆文化のチャンピオンとまでいわれるカラオケ。昨年、ドイツで開かれた第6回国際ポピュラー音楽学会で、日本ポピュラー音楽学会長・三井徹氏(金澤大学教授)が、このカラオケ機器の発祥が神戸だと、研究論文を発表し、反響を呼んだ。
 論文によると、カラオケ第1号機を考案したのは中央区日暮通にある音響機器メーカー「クレセント」で、昭和47年ごろに同社がカートリッジ式カーステレオの機構を応用、曲の頭だしを一発でできるように開発したのがカラオケ機器と呼べる第1号機だとしている。
 クレセントの元会長井上大佑氏は、神戸の繁華街でミュージシャンの歌を聞くより、客の方が歌いたがる神戸っ子気質に目をつけ、バンドマンから転身。アメリカから入ってきたばかりのカーステレオを改良してレンタルを始めたという。

パーマネント

 パーマネント機が日本に初めて入ってきたのは大正12年(1923)である。アメリカのエンプレス父子が、パーマネント機を日本に売り込みに来て神戸に上陸。オリエンタルホテルの理髪部を経営していた紺谷安太郎氏の妻スミさんが、この機械を購入し技術を習得した。横浜に入る予定だった船が関東大震災のため急拠神戸に回港、父子がオリエンタルホテルに泊ったのがきっかけだといわれている。スミさんは、神戸でパーマネントを行うには外国人にも満足してもらう技術が必要と、昭和2年に単身渡仏、さらに腕を磨いた。
 こうして日本のパーマネント技術は次第に向上したが、本格的に普及したのは昭和10年、灘区桜口町の村瀬己之市氏や、元町の坪内好一氏らがパーマネント機を考案し、国産機が出回るようになってからである。

産業

わが国ゴムエ業勃興の碑(長田区神楽町1丁目)

ゴム

 わが国ゴム工業の起源については明治18年(1885)。日本護謨製造所が兵庫上橘通に誕生、ゴム球やゴム枕の製造を行ったのが最初とされている。
 明治42年には脇浜にダンロップ護謨(現在の住友ゴム)が設立され、自転車のチューブ入りタイヤの製造を開始。大正2年、わが国初の自動車夕イヤをつくった。さらに、大正初期に西神戸に立地したゴム履物工業がルーツとなって、戦後まもなく、ゴム原村料の入手難から塩化ビニールの開発が進み、画期的なケミカルシューズの基礎を築いた。ケミカルシューズは今も神戸の主要地場産業として活況をみせている。

黄色煙草記念碑(西区岩岡町上新地)

黄色たばこ

 明治33年(1900)、時代にあった新しいアメリカ種黄色たばこの種を仕入れ、日本で初めて明石郡岩岡村(現在の西区岩岡町)で栽培、好成績をあげた。岩岡が近代たばこ発生地といわれるのはこのためである。同35年農商務省の葉たばこ顧問をしていたアメリカ人技師を招いて技術指導を受け、岩岡は同39年。アメリカ種たばこ耕作の指定地となった。
 岩岡のたばこの歴史は古く、元禄4年(1691)から赤坂煙草の栽培を始め、明治藩の物産の一つとなり藩の財政を豊かにした。

神戸オリーブ園のあった山本通付近図

オリーブ

 明治政府は殖産興業政策の一環としてオリーブ、レモン、ユーカリなど、いわゆる暖地植物を東京で試作していたが、冬の気温が低くて適さず、全国各地に適地を求めた結果、明治12年(1879)神戸を選び、山本通でオリーブの栽培を始めた。そして、同15年には気候に恵まれたこともあって若い果実約3・6リットル、熟果約5・4リットルを採取、塩漬け・製油を試みた。国産オリーブ果での塩漬け・製油のこれが最初である。
 栽培場は同17年「神戸オリーブ園」の看板を揚げたが、その後民営となり、明治29年廃園となった。

鉄道

『日本鉄道史』(上編)所載の最古客車図。明治5年新橋と神戸で組み立てた下等客車。官営神戸工場が実際に客車を製作したのは明治8年で、客車の製作としては新橋工場より4年早かった

 鉄道に関しても神戸は日本初が数多い。神戸〜大阪間の鉄道開業は明治7年(1874)で、このとき出来た石屋川の川底トンネルは日本で最初の鉄道トンネル。この開通で元町方面から多聞通へ鉄道を横断するためにつくられた相生橋も、初めての跨線橋で立体交差のはしりとなった。
 客車や蒸気機関車の国産化も、当時の官営神戸工場(今のJR鷹取工場)で最初に製造された。客車・貨車は明治8年、機関車は同26年。また旅客サービスの面でも、当時、神戸以西の山陽本線を走っていた私鉄の山陽鉄道(本社・神戸へ明治39年国有化)が行った急行列車の運転(明治27年)、食堂車(同32年)、寝台車(同33年)の連結など、いずれもわが国最初であった。
 さらに、昭和6年(1931)に出来た市内高架化も、一つの駅の周辺だけでなく、長距離にわたる連続立体化としては最初である。

マッチ輸出

 神戸にマッチ工業がおこったのは明治10年(1877)。堀某という人が中央区下山手通に製造工場を設立し、マッチ製造を始めた。そして翌11年には神戸からマッチを上海に輸出しており、これが日本のマッチを海外に輸出した最初である。
 明治12年になると明治社、13年に清遂社、その後も良遂社、直木燐寸などがぞくぞく設立。明治20年代には市内全工場の60%を占め、中国・インドなど大陸市場向け輸出を主に、日本のマッチ工業の中心地として急速に発展していった。

電信・電話

 わが国の電信機は、明治4年(1871)のモールス印字機に次いで音響機時代へと変遷していったが、その第一に登場したのが双方から同時に音信を送受することができる、いわゆる二重電信法で、明治12年神戸・横浜間に初めて装置された。
 明治26年、神戸と大阪の電話局内に現在の局内公衆電話にあたる電話所が設置されたが、このとき初めて神戸に設置されたのが「マン式交換機」。呼び出しに信号を用いず、所要の電話番号を告げて接続を求めるというものであった。
 岸壁電話で船舶と陸上間の通話ができるようになったのは大正12年(1923)。それまで岸壁に着いた船への連絡はいちいち口伝えするしか方法はなかったので、横浜、大阪、神戸の海運関係者が逓信省に申請。同省は神戸に対して初めてこれを認めた。

海洋気象台

 日本で唯一の海洋気象台として、神戸海洋気象台が中央区中山手通の高台で業務を開始したのは大正9年(1920)8月。工費20万8千円は、第1次世界大戦で空前の好況をもたらした神戸の海運界が寄付した。当時、気象台といえば東京の中央気象台しかなく、ドイツのハンブルク海洋気象台をモデルにした鉄筋3階建てのモダンな建物は神戸っ子の話題になった。
 大正11年には無線電信所が完成して世界初の船舶向け気象無線放送を開始。昭和2年には日本初の海洋観測船「春風丸」が神戸で進水するなど、海洋気象に大きく貢献した。

  • 写真無線電信所が完成した当時の神戸海洋気象台
  • 写真海洋観測から神戸港中突堤に帰港した春風丸

近代洋服発祥の地碑(中央区東遊園地)。洋服の型紙を石で立体的に表現したユニークな彫刻。昭和49年、神戸洋服商工協同組合が設置

洋服

 神戸で最初に洋服調製を始めたのは外国人だった。明治2年(1869)、横浜のイギリス人カペルが神戸の居留地16番地で洋服商を開業。洋服の調製だけでなく、西洋の服装旅具一切の品々を扱っていた。続いてイギリス人スキップがスキップ・ウォーズ&ハモンド商会を設立。小児服、婦人服、紳士服の仕立てを始めた。
 彼らから学んだ日本人技術者たちは、神戸に洋服調製技術を定着させ、その影響は全国に及んだ。

神戸市第1号の水源池、布引貯水池のえん堤工事

貯水池

 水道布設の気運が神戸で高まったのはコレラが流行した明治23、24年ごろ。26年には市営とする案が市会を通過、神戸に近代的な水道が建設される運びとなった。設計はイギリス人バルトンに依頼。明治30年、計画給水人口25万人、市域のほぼ全域を給水区域とする事業に着手した。工事はすべて日本人の手で進められ、同33年3月、重力式コンクリートダムとしては日本で最初の布引貯水池が完成。翌4月から給水を開始した。

須磨海づり公園

海づり公園

 須磨海づり公園は昭和51年、公営としては全国で初めて須磨浦公園と直結した海上に建設された。釣りを楽しむ人が増えていたので、愛好者とその家族のために計画された海洋レクリエーション施設の一環。赤い鋼鉄のユニークな公園には、延べ1000mの広々とした釣り台と、白い円型の展望塔がある。

完成当時の花時計

花時計

 市庁舎北側の広場に花時計ができたのは昭和32年。市庁舎落成記念式典の行われた4月26日から時を刻み始めた。今でこそ花時計といっても珍しくないが、当時は、高度経済成長の最中。都市景観に対する関心は現在ほど高くなく、日本にはモデルになる資料もなかったため、ジュネーブ(スイス)の公園にあった花時計を参考に建設された。

六甲大橋

二層式斜張橋

 六甲アイランドと市街地を結ぶ六甲大橋は、世界で最初の卜ラス型ダブルデッキ斜張橋。航路幅190m、けた下空間14mが必要なため、経済性・安全性・美観などの点で、主構をロープで斜めにつないで支持させる斜張橋とし、形式上の有利性などから二層式が採用された。渡り初め式は昭和52年9月。

写真・資料提供(順不同)
末広光夫氏、久保田美和氏、柴田音吉洋服店、村橋美容院、住友ゴムエ業梶Aクレセント梶A交通博物館(東京)、逓信総合博物館(東京)、神戸海洋気象台、市立博物館、神戸市文書館、市立中央図書館、須磨海浜水族園、日本国有鉄道百年史、日本のジャズソング、日本のジャズ・ポピュラー史、神戸市史、神戸開港三十年史

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