236号表紙

No.236(平成4年6月)

特集:

神戸はじめ物語 スポーツ・グルメ編

神戸はじめ物語 スポーツ・グルメ編

(左)
内外人公園(現・東遊園地)にあった神戸クラブ。居留地の外国人の代表的な社交場として親しまれたほか、公園ではレクリエーションやクリケット、フットボールなどがしばしば行われた(1912年撮影)。彼らの日々の活動は"ハイカラ神戸"を築く大きな原動力となった

スポーツ編

日本の近代スポーツの伝搬を果たした神戸
神戸商科大学教授 棚田 眞輔(たなだしんすけ)

 近代スポーツの伝搬という視野から神戸を見ると、兵庫の開港と神戸外国人居留地の設置に伴う、外国人直通の紹介や摂取に関するもの、明治政府が軍隊や高等教育機関を拠点に本格的な普及に乗り出したところの、いわゆる中央集権のネットワークに乗った性急な採用作業に同調して始まったと言う二つの大きな流派がある。
 特に直通のスポーツは、文字通り近代スポーツ導入の窓口的存在となり。海浜・市街地・六甲山などで、娯楽や競技スポーツが日常茶飯事のように展開され、外来スポーツの持つ文化的要素を身をもって積極的に取り入れ鑑定しながら、洗練して全国に伝える役割を果たしてきた。
 神戸がこの時期に西洋伝来のスポーツをどのように受容したか、で、新しい物好き・移り気で、民間主導のもとに、レクリエーション的な身体活動を愛好するという、神戸特有のスポーツ指向を生み、楽しむものという意識が日本一強く、民間主導のリベラルな一面を持つ活動として定着させたのである。
 この特性はその後、長期間にわたって神戸のさまざまな文化から、有り様を問いかけられ微妙な働きかけがなされたにもかかわらず、さしたる影響を受けることなく、頑として今日も脈々と引き継がれている。そして、神戸が日本の近代スポーツの伝搬に果たした役割は、この個人的な楽しみを主体とする民衆文化への貢献であると言えよう。

居留地でのスポーツ展開
 慶応4年(1868)7月に居留地が設けられ、最初に登場したスポーツは、狩猟・乗馬・散歩の個人的な娯楽であって、それらを主として日常生活圏域で行なうために、パブリック・ガーデン(前町公園)、プロムナード(海岸遊園)や各国遊園地などが誕生し。そして明治元年(1868)12月に東北部の砂浜で12種目の大規模な「競馬会」を開催して、様相が一変する。明治2年の3月に「兵庫レースクラブ」、同年10月に「兵庫クリケットクラブ」、明治3年12月には「神戸レガッタ アンド アスレチック クラブ」、明治13年9月に「神戸野球クラブ」のスポーツ集団が次々に組織される。そして、これらのクラブは、自分達の得意なスポーツを実施したようであるが、これらのうち初期の年・月を示すと、レガッタ(明治2年7月)、クリケット(明治2年10月)、スケート(明治3年1月)、フットボール(明治4年2月)、陸上競技(明治4年4月)、ラグビー(明治9年12月)、野球(明治13年1月)
 これらは、単発的に行なわれたものや、単なる紹介程度のもの、さらに本格的な競技スポーツまでが含まれている。しかし、各クラブがフランチャイズの場所を確保しながら、シーズン制を採用し定期的に実施したものも多く、中には、横浜外国人クラブ(Y.C.A.C.)とのインターポートマッチにまで発展させたスポーツもあった。これらの活動はクラブの創設当初から、外国人共同体の社会活動として位置付けられたもので、神戸市民との交流が意識されてクラブの運営に携わるようになるのは、明治後期になってからのようである。

写真
海から見た居留地(明治中期)
  • 写真東遊園地でレクリエーションやスポーツを楽しむ人たち。内外人公園は大正11年9月、東遊園地となった(大正後期)
  • 写真
  • 写真神戸開港当時の様子を伝える「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」(1868年3月)

県立二中(現・兵庫高校)の新運動場落成記念絵はがき(昭和5年)

ラグビー

 神戸のKRACは、明治9年12月8日、神戸に寄港中のイギリスの軍艦船"Modeste号"の船員と試合を行っており、そのルールがラグビーと酷似したものであることが当時の「The Hio-go News」に記されていることからこれが日本で初めて行われたラグビーではないかとの見方がある。
 そして明治35年から横浜のYCACとインタータートマッチを、同41年から慶応チームと定期戦を開くなど、日本のラグビーの発展に多大の先導的な働きをした。京都の三高、同志社も好んでKRACに試合を申し込んで、本場の技術と試合後の楽しいパーティー
を味わいに神戸まで足をのばした。

クリケット

 明治2年10月、居留地に住む外国人たちにより兵庫クリケット・クラブ(H.C.C.)が結成され、同時に外国人間で最初の試合を行った。
 ところで、KRACのグラウンド・キーパーで、のちにクリケットやテニス、ラグビーなどでクラブの花形選手になった山本由太郎は、明治10年代に植木職人の父親についてクラブに出入りするうち、13歳でクラブに雇われた。利発できびきびしていたのでみんなにかわいがられ、子供ながら大人の普通の職人と同じくらいの月給を得ていたという。

第1回全国少年野球大会と、学校ボール(パテント46870)の記念絵はがき

軟式野球

 野球がわが国に紹介されたのは明治6年。大正に入って、夏・春に全国中等学校野球大会が開催されるようになり、子供たちの野球熱は一気に高まったが、当時は硬式ボールしかなかった。そこで、子供たちにも安全に楽しく野球をさせてやりたいと、大正8年(1919)、神戸の東洋ゴムエ業が全国で初めて軟式の「学校ボール」を製作。翌9年、大日本少年野球協会が神戸に創設され、同年、第一回全国少年野球大会が阪神の鳴尾運動場で開かれた。

フットボール

 KRACは、明治4年2月に外国人同士で試合を行ったことが当時の「The Hiogo News」に記しててあり、それが日本で初めてでないかと思われる。KRACから広まったフットボールはその後、学校では県立神戸商業が明治22年、それまで運動といえば体操だけで剣道も柔道も実施していないとき、英語教師であった米国人ランバスがフットボールの技術を教えた。当時、県商の生徒数は全校で100名余であったが、フットボールが盛んに行われ、費用は有志が持ち寄ったという。

野球

 KRACでは、明治13年1月に居留地で外国人間の野球を行っており、さらに同年の9月にはクラブも創設している。このように団体同士の試合は、当時の日本人には非常に珍しいものだった。この居留地での野球の影響などで、御影師範では明治28年ごろから野球を行うようになった。関西学院も明治34年、野球部を創設。その時の服装は捕手が剣道用の面をかぶり、グローブを使った以外はすべて素手で脚絆草鞋がけだったという。

長距離競走

 明治中期に中央から始まった軍隊の行軍や学校における遠足・競走・教練が、健脚を養成することを主要目的として、神戸にも伝えられ奨励されて、健脚でなければすべての行動が閉ざされると言う、極端な体力観が定着する。そして、運動会で主役となり、冬期にわざわざ長途競走会まで開き、しきりに長距離競走が実施された。
 明治32(一八九九)年に、県の武田千代三郎書記官が、兵庫師範学校の生徒に"油抜き練習"と言う秘法を伝授し、京都帝国大学の陸上運動会での「府県立師範学校選手徒歩競走」に優勝させて"啓発旗"を連続して獲得することに大きな役割を果たした。そして、明治40(一九〇七)年に同校が全校生徒を対象に「校内長距離競走」を御影・西宮間往復で実施し、上位入賞者に賞金を与え、普及させた。
 大阪毎日新聞社が明治42(一九〇九)年3月、「マラソン大競走」を実施したが、このレースの出発は神戸からされた。最初"神戸元居留地唐人山東裏空地"となっていたが、"神戸湊川埋立地、金毘羅橋北手(革池の東側)"に変更され、決勝点の大阪西成大橋間で競われた。

  • 写真わが国初の公式マラソンとして明治41年3月に実施された「マラソン大競走」の予選風景絵はがき(大阪毎日新聞社発行)。予選は鳴尾関西競馬場で行われ、申し込み者408名が4組に分かれてそれぞれ10周走り、各組5名の本大会出場者が選ばれた。
    スタートする選手
  • 写真力走する選手

ゴルフ

 日本でのゴルフは六甲山で始まった。そのころ六甲山はイギリス人の茶貿易商A・H・グルームが中心となって開発を進めつつある段階で、山上には60軒余りの別荘が建っており、一種の外人村を形成していた。ある集まりで、グルームが友人たちと談笑中、ゴルフをやろうという話が出た。
 さっそく彼は数人の友人を誘って山上に4ホールだけのゴルフ場をつくった。明治34年のことである。二年後には9ホールに拡張され、会員も120人に増えて、日本初のゴルフクラブ、神戸ゴルフ倶楽部が発足した。

プレーランド六甲山

 海や市街地で約20年も激しい競技スポーツに付き合い、体力の限界を感じた会員達によって、今度は六甲山をプレーランドとして集団による野外活動が展開されるようになる。
 そのきっかけは、明治28(一八九五)年にA・H・グルーム氏が六甲山の三国池周辺の上地を、長男の宮崎亀次郎名義で「歩納涼遊園場」の敷地として借り受け、そこに別荘を建て、外国人仲間に山頂住まいを奨励したことに始まる。そこに日本で最初のゴルフ場が4ホールで開設されたのが明治34(一九○一)年で、同36年2月に「神戸ゴルフクラブ」が組織され、その5月、9ホールに拡張して服部一三知事や坪野平太郎神戸市長らを招き開所式を行う。知事をパトロンに迎え、日本人にも入会を許し、日本の子供達をキャディーに雇い、クラブ選手権・横浜と
のインターポートマッチ・日本ゴルフ選手権・キャディー競技といった、ゴルフに関する日本事始めが続くのである。
 さらに、冬季に別荘を利用してスキー・スケ−卜の他、「神戸背山登山」が行われる。H・E・ドーント、J・P・ワーレン氏らが、ゴルフと共に六甲山登山の奨励に、私費を投げ出し尽力して、明治30年代に「神戸登山会」を創設、機関誌「INAKA」を発行するとともに登山道の整備や補修に乗り出す。明治43(1910)年に塚本永尭氏が、これらに刺激され「神戸草鞋会」を結成、機関誌『ペデスツリアン』を発行して背山登山の基盤が形成され、神戸市民に浸透して大正から昭和にかけて多くの団体が誕生し、今日も引き継がれ継続している。

  • 写真キャディだけでゴルフの腕を競う日本最初の"キャディ競技"が行われ、優勝した横田留吉(明治38年)。キャディは青木、住吉、篠原、唐櫃といった近辺の村の少年が多く、けわしい山道をわらじばきで麓から通っていた
  • 写真「INAKA」
  • 写真明治45年、グルームの功績をたたえる「六甲開祖之碑」が六甲山上に建立され、除幕式が行われた。碑は昭和17年、軍の命令で取り壊された

背山豊山

 明治初期まで、日本には猟や山仕事のほか参詣、修養などを目的とした宗教登山の習慣しかなかった。わが国に初めて「スポーツ」としての登山を伝えたのは、開港以後、神戸へやって来た外国人で、運動好きの彼らは身近にある布引や六甲山などへ暇をみては登った。そして日本アルプスの開祖といわれたウォルター・ウエストンは明治21年から同28年まで神戸に滞在、神戸を拠点に登山を始めた。
 毎朝山へ登ってからオフィスに出勤するという、神戸ならではの毎日登山のはしりである。

スケート

 六甲山では、明治7年ごろから神戸の浅井氷店と京都の山田氷店が山頂付近に大小30余の池を掘り、氷を採集していた。スポーツ好きな外国人が六甲山の至る所に掘られたこの採氷用の池を見逃すはずがなく、古くからスケートが楽しまれていたと推測できる。スケートに適した池はグルームの別荘の近くにあった三国池で、大阪朝日新聞記者の大江素夫が報じた"六甲山の外人村"によると、明治30年代後半にしばしばここでスケートが行われたと言われている。

スキー

 スキーに関しては次のような逸話がある。
 明治34年から3年間、ノルウェー総領事として神戸に在住したペーター・オッテセンが、明治35年1月に発生した青森県八甲田山における青森第5連隊将兵240名の雪中行軍中の遭難事件を知り。本国のクリスチアニアにあるハーゲン商会にスキーを注文して取り寄せ、神戸在住のノルウェー商人たちと共に六甲山頂で滑り、日本人にも教え、軍関係者にもいろいろと進言したと言われる。
 これがスキーを日本に紹介した最初ではないかとみられている。

  • 写真六甲山上でのスキー(昭和初期)
  • 写真
    六甲山上でのスキー(昭和初期)
写真
現在の生田神社東側付近で催された競馬の錦絵で、明治初期の作。当時の日本では上級武士か祭礼行事でなければ経験しない乗馬を、外国人が娯楽等に日常茶飯事のように行うのを見て人々は好奇の目を見張った。

「1868 (慶応4)年のクリスマスにただの砂道にすぎない居留地の東北部で最初の競馬が行われた。(中略)競馬クラブは神戸に競馬場を設けることを決め、広さ6,000坪の土地を入手してそこに1,200ヤードのコースをつくった。今の鉄道線路の北側、生田神社の東側にあり北の境はもとの万国病院の下手であった。(「神戸外国人居留地」より)
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