233号表紙

No.233(平成4年3月)

特集:

神戸・地図の風景

神戸・地図の風景

(左)
絵図 福原庄六ヶ村、生田村山論絵図(写)(部分) 享保4年(1719) 神戸市立博物館所蔵

神戸の地図を眺めて―いま・むかし―

仮製二万分一地形図
神戸(明治18年測量、同28年刊) 兵庫(明治19年測量。同27年刊)須磨村(明治18年測量、同24年再版)(各部分)神戸市立博物館所

写真
  • 写真波返しのある酒蔵。南部が埋め立てられるまでは、蔵のコンクリート塀のところまで波が打ち寄せていた(東灘区御影石町1丁目)
仮製二万分一地形図(部分)
明治18年〜19年測量 湊川は現在の新開地本通を経て川崎重工業神戸工場辺りの海へ注いでいた。兵庫運河もまだない

  • 写真
  • 写真
    湊川の付け替え工事でできた会下山の下の通水トンネル。この付け替え工事によって、湊川は今の菊水橋の南手から西ヘカーブ、会下山の下を通って苅藻川に合流し、南の海へ注ぐようになった。明治30年11月起工。同34年7月完成
1:25,000地形図 神戸首部(平成2年修正測量、平成3年発行)
神戸南部(昭和60年修正測量、昭和62年発行)(各部分) 国土地理院発行

  • 写真
仮製二万分一地形図 神戸(部分)明治28年
地図中央部を東西に走る太い線は鉄道(現JR)。この鉄道線は等高線沿いに通っており、きれいな曲線を描いている。これによって住吉川や石屋川などが作り出した扇状地の地形をはっきりと物語っている

  • 写真
  • 写真
    上流からの土砂が積もって川底が周囲の土地より高くなった天井川(住吉川)。川の下をJRが走っている。左の高架線は六甲ライナ一
1:25,000地形図西宮(平成2年修正測量、平成3年発行)(部分)国土地理院発行
現在は市街地が発達したため扇状地の等高線を地図から読み取ることは難しくなったが、それでも鉄道や幹線道路などの曲線にそれを見ることができる

  • 写真
  • 写真
    六甲南斜面にある住宅地。谷あいに扇形の地形を見ることができる(東灘区)

明治時代の絵地図に残る今はなきヘボソ塚

「扁保曽塚址」の石碑(東灘区岡本1丁目)

 井上好太郎家所蔵の「岡本村全図」(8ページ参照)は、縦158センチ、横105センチの絹布の上に描かれた色塗りの絵図です。岡本村は中世末にできた郷村で、明治22年(1889)の町村制施行により旧本山村の一部を構成し、神戸市との合併(昭和25年)後は、東灘区岡本となりました。
 この岡本村の全図には描かれた年代が記されていませんが、井上家にはこれとほぼ同じもので、明治八年(1875)制作の文字が入った絵図がありますので、これも同年代に作られたものと思われます。絵図作成年(明治8年)と思われるその前年(明治7年)には神戸・大阪間の鉄道が開通しており、この絵図の下方、左右に赤い太い線が引かれているのがその鉄道を示しているものです。ただ、まだこの時には摂津本山駅は開設されておらず(昭和10年に開業)、絵図にはもちろんのことながら、駅の表示はありません。また、大正9年(1920)開業の阪急電車の路線が記されていないのは当然のことです。
 上半分は、鮮やかな緑色をしており、岡本村の山の様子がよくわかりますし、下半分は道や川などによる区割りの様子が一目瞭然です。また、町名変更によって、今では地図の上から消えてしまった古い集落名(小字名)がこの絵図には記されており、その境界についても絵図から明らかにすることができます。
 さて、この岡本村全図は非常に重要なことを我々に教えてくれています。それはヘボソ塚の向きと形状についてです。ヘボソ塚(扁保曽塚)は現在の岡本1丁目、阪急とJRの間にあった古墳です。ところで、「ヘボソ」という名は16世紀に初めて現れますが、その意味は今もって不明。古い里歌に 岡本のオサバに立てるヘボソ塚布織る人は岡本にあり、とありますが、江戸時代の『摂津名所図会』にはすでにその歌の意味はわからないと書かれています。ただ、「オサバ」の「オサ」は「筬」(機織りで使うくし形の道具)のことを言っているのだとしますと、あとの「布織る人」にうまくつながりますが、それにしてもヘボソの意味はわかりません。
 話が横にそれてしまったので、元に戻しましよう。文献(田辺眞人「東灘歴史散歩」15頁参照)によれば、この古墳は古墳時代前期の全長60メートルの西北西向きの前方後円墳であったとされています。が、古墳が消滅してしまった今、そのことを証明するものはないに等しかったと言ってもよいでしょう。ところが、この岡本村全図に記されているヘボソ塚の様子から、明らかに塚は西北西向きに造られており、その形状も前方後円墳であるということが証明されるのです。

丹念に見れば、絵地図も大事な歴史の生き証人
 古墳が消え去った今、当時を偲ぶものとしては、岡本1丁目にある「扁保曽塚址」という石碑しかありません。旧正月の2日に織姫が布を織る音が聞こえるとか、在原業平の墓だという言い伝えもあるヘボソ塚。築造後、1500年以上が過ぎ、今ではその塚もなく、誰が葬られていたかも定かではありません。それでも、明治時代に作られた絵地図の中に、ヘボソ塚は今も立派に生き続けているのです。何気なく眺めれば色鮮やかで美しい絵地図で終わってしまいますが、その一部を丹念に見て行けば、絵地図も大事な歴史の生き証人なのです。
道谷 卓(神戸深江生活文化史料館研究員)

江戸時代の岡本梅林(『摂津名所図会』より)
  • 写真

神撫山から高取山に名称が変わった?!

 六甲山系の中で独立峰に近く、ひときわ目立つ高取山(標高約320m)。市街地に接していて毎日登山などで市民に親しまれています。さて、この山、今でこそ"高取"山という名称がすっかり定着していますが、かつては"神撫"山とも呼ばれていたのです。一つの山に違った名称、考えてみれば人間が命名しているのですから、立場の違いで複数の名称が生まれても不思議ではないでしょう。その辺の歴史的な事情を江戸時代の絵図で探ってみましょう。

西代・妙法寺村と禅昌寺の間で山の呼称と関連して土地争いも
 寛文9年(1669)高取山東方の西代村、西方の妙法寺村の両村と、南方の板宿村にある禅昌寺との間で、山の呼称と関連して土地争いが起こりました。禅昌寺は「神撫山は寺の境内地で、かつては山上に寺があり、今でも遺跡がある。西代・妙法寺村民が山に入り込むのは押領だ」と主張。一方、西代村は「この山は高取山といい、古来から西代村が支配してきた」、妙法寺村も「十王谷などは村の領内なのに禅昌寺が境内地と主張するのは迷惑」と反論しています。
 この裁判の結末は、高取山と主張した西代・妙法寺村側の勝利になります。判決を記した絵図でいうと、寺の境内に認められたのは木々の生い茂る三角形に近い斜面だけで、その東側は西代村支配、その西側の谷は妙法寺村支配に決まりました。
 この判決の当否は別にして、この山はそれ以前どのように呼ばれていたのでしょうか。山の地名が確かな古文書に出てくる例は鎌倉・室町時代に一例ずつあり、両方とも神撫と記されています。中世では神撫山という名称が定着していたようです。では、なぜ神撫山から高取山に名称が変わったのかといえば、禅昌寺の寺勢と密接に関連しているようです。
 禅昌寺は山号を神撫山といい、高取山南麓に位置する有力禅刹で、近世初頭には織田信長政権から寺領安堵をうけています。ところが、江戸時代に入ると寺勢にかげりがみえ、無住になるなど退転を余儀なくされるなか、事実上"高取"山を草山に使ってきた西代・妙法寺両村の主張が裁判で認められ、高取山の呼称の方が優勢になったと考えられます。もっとも、神撫という名称が全く消えたわけではなく、明治の地図にも神撫山と記す場合があったり、須磨区内に神撫町という町名がつけられ、今に続いています。
(文・神戸市立博物館)

板宿村禅昌寺、西代村妙法寺村 山論裁許絵図
寛文9年9月4日(天保11年7月頃写) 神戸市立博物館蔵

写真
  • 写真

    市街地に囲まれ、独立峰として知られている高取山。寛文9年、この山をめぐって西代・妙法寺村と禅昌寺の間で土地争いが起こった

    写真禅昌寺の総門。高取山の名前の変遷はこの寺の寺勢と深く関係している
  • 写真高取山上にある高取神社の急な石段。高取山は毎日登山などで市民に親しまれている
  • 写真町名表示に残るかつての高取山の呼び名「神撫山」
  • 写真古くから山号を「神撫山」という禅昌寺(須磨区禅昌寺町)
摂津国八部郡全図(部分)明治18年 神戸市立博物館所蔵
写真
摂州神戸山手取開図(部分)明治5年 神戸市立博物館所蔵
写真

百二十年前の絵地図でタイム・トラベル

山手から見た生田の森と神戸港。神戸の風景では最も古い写真のひとつ。(1869年撮影)神戸市立博物館所蔵

 神戸は、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の開港以来、貿易の振興とともに欧米などの文化を取り入れる窓口となり、日本の近代化にも大きな役割を果たしたといわれます。
 その中心となったのが、外国人居留地と雑居地と呼ばれた地域(現在の中央区西部)です。居留地は、安政の五ヶ国条約で条約国の人々の居住と貿易を認めた区域。神戸では、東西は生田川(現フラワー・ロード)から鯉川(鯉川筋)まで、北は西国街道付近(花時計北側道路)から南の地域に設けられました。いっぽう、政治的な混乱もあり、開港当時居留地の造成工事が未完成だったため、新政府は、外国人の居留地外での居住を認めます。これが(日本人と外国人との)雑居地で、東は生田川から西は宇治川までの山辺から海岸に至る地域をさします。
 右の絵地図は、開港5年後の居留地とその背後に広がる雑居地を中心に描いたもの。東端に「古生田川」とあるのは、生田川が氾濫すると下流の居留地に被害を及ぼすことなどから、前年の明治4年(1871)に現在の流路に付け替えられたためです。旧川床は埋め立てられて、加納町や税関線が出現します。また、すでに山手には随所に外国人が住居を構えており、神戸・大阪間の鉄道(2年後開通)、三ノ宮筋道(翌年竣工、現トア・ロード)などの新道が計画され、市街地が発展していく様子がわかります。

明治元年に居留地北東部で外国人による競馬会開催
 ところで、当時生田神社の東に外国人の競馬場があったことは。案外知られていないのではないでしょうか。神戸では、1868(明治元)年のクリスマスに、居留地の北東部で外国人による競馬会が初めて催され、まもなく6000坪ほどの競馬場が設けられたといいます。当時の白熱したレースや観客の応援の様子は、関西で活躍した浮世絵師・長谷川小信(のちの2代貞信)の錦絵でも知ることができます。
 下の写真は山手から南方を眺めたもので、1869年の撮影と伝えられます。右奥に生田神社の森、左(東側)に競馬場、その向こうに旧西国街道の松並木と居留地が見え、生田川はまだ古い川筋を流れています。現在は神戸の代表的な繁華街のひとつ・生田神社周辺の、のどかな風景です。 絵地図と写真で、つかの間のタイ・トラベルをどうぞ。
(文・神戸市立博物館)

「摂州神戸西洋人馬駆之図」長谷川小信画 明治初期 木版色摺 神戸市立博物館所蔵
外国人の競馬熱は高く、競馬場を横断するという当初の鉄道計画まで変更させたという。しかし、鉄道が完成し人力車が出現すると、外国人は馬を飼う必要もなくなり、外国人の競馬クラブも数年で解散した

  • 写真明治4年に着工した生田川の付け替え工事。布引から見た写真で、左下に新生田川、右側に蛇行した旧生田川と神戸港が見える。正面上は外国人居留地。神戸市立博物館所蔵
  • 写真

新川運河・兵庫運河―明治のまちづくり

 今、兵庫区南部ではJR兵庫駅南側の再開発、史跡をめぐる「兵庫津の道」の整備など、新しいまちづくりが進められています。この地域は江戸時代まで政治・経済・文化の中心だったのですが、幕末の開港を契機に都心の機能は次第に東へ移ることになります。

神田兵右衛門ら地元民が結束して新川運河開削
 しかし、地元では退勢を盛り返し、近代化に即応するため種々の努力が取り組まれました。その一つが明治7年(1874)に始まった新川運河の開削です。兵庫津には江戸時代以来の舟入場が南北に二力所ありましたが、いずれも狭く、風難にあう船舶も少なくなかったようです。当時の第二区長神田兵右衛門らは、当初、和田岬をう回せず兵庫に入港できるよう駒ヶ林の海岸から兵庫を結ぶ運河を計画したのですが、財源の目途がたたず、結局、計画を縮小して半円形の運河を開削し、運河周辺に新市街地を造成することになりました。
 工事は官民協力の形で進められ、費用は兵庫の町の税積立金と北風家など資産家の出資によってまかなわれ、出資に応じて造成地を分配することになっていました。運河は明治9年5月に完成し、築島寺の正面を運河が通り、その西側の舟入場は大半埋立てられて市街地化し、切戸町の勤番所跡地などは運河に囲まれて中の島と呼ばれるようになります。また、開削で出た土砂で浜地の埋立ても行われています。
 和田岬う回の危険と不便を解消しようとした当初の運河計画は、兵庫運河株式会社によって明治26年ようやく実施に移されました。新川運河と東尻池の海岸とを結ぶ運河本線、兵庫駅付近と本線を結ぶ支線、延べ約25qに及ぶ開削工事が同29年に始まり、同31年5月にほぼ完成しています。計画途中に設計変更があったり、地元との間で井戸水への海水の影響や交通路分断などで問題が起こったりしましたが、年に船舶5万隻、筏(いかだ)1万連ほどの利用があったといいます。また。開削による土砂で海口部の浅瀬を埋立てて苅藻島を造成しています。運河開通が船舶の交通に多大の便宜を与えたことはもちろんですが、その後荷揚場や道路の新設など施設整備が進むにつれ、運河近辺は倉庫・工場が並ぶ市街地に変容していきました。
 なお、運河のしゅんせつや護岸修築、橋・道路の改修など運河の維持の面で問題が起こったため、大正8年(1919)に市営になり、新川運河も一体的運営のため県から市に移管されています。
(文・神戸市立博物館)

和英詳密神戸市全図(部分)明治24年 神戸市立博物館所蔵
 兵庫の町を半円状に開削した新川運河(明治9年完成)が見える。兵庫運河(明治31年完成)は、真光寺と薬仙寺との間を西南に延びることになる

  • 写真
兵庫運河計画図 明治30年 神戸市立博物館所蔵
写真
写真
兵庫築島寺(日本名所絵葉書帳1より) 大正〜昭和初期 神戸市立博物館所蔵
写真
兵庫細見全図(部分)明治2年 神戸市立博物館所蔵
  • 写真清盛塚(兵庫区切戸町)。平清盛は経ヶ島築造の大事業を完成するなど、今日の兵庫の基礎を築いた
  • 写真兵庫運河で材木も操る筏(いかだ)師

歴史・文学の舞台―史跡がのこるまち須磨

海岸の崖に滝が流れ、茶店があった「滝の茶屋」(現在の山陽電鉄滝の茶屋駅付近)。西国街道を往来する人たちは、淡路島を眺めながらここで一服したという。明治中期。神戸市立博物館所蔵

 古代の王城中心の考え方からすると、須磨の地は畿内の西端にあたります。王城の京都から延びた当時の一級国道、古代山陽道は六甲山系の南麓をほぼ直進し、須磨で海にせり出した鉢伏山に行く手をさえぎられる形になります。当時、須磨・明石間の海岸沿いは難所の一つだったようで、古代山陽道は須磨から内陸部へう回していました。そのルートは確定してぃませんが、一つは板宿から白川・伊川谷を通るルート、もう一つは多井畑を経て塩屋へ抜けるルートが考えられています。多井畑厄神八幡神社の地は、8世紀後半疫神を祀った畿内の国境10か所の一つで、それが神社の始まりといわれています。このように、須磨の地は陸上交通の要衝であり、畿内の西端にあたることから、歴史・文学の舞台になり、それにちなんだ数多くの史跡が残っています。

多くの史跡がみえる『摂州須磨浦細見図』
 地元の旧家、前田家から幕末に出版された「摂州須磨浦細見図」(26・27ページ)には、須磨寺を始め多くの史跡が記載されています。弁慶鐘・敦盛首塚・師盛首塚など源平ゆかりの史跡が見えます。一の谷合戦は、都落ちした平氏が畿内の西端を足場に今一度、京都を奪回しようとしたもので、須磨が舞台になったのも理由のあることといえます。在原行平と松風・村雨の姉妹との物語にちなんだ松風村雨堂や衣掛松も見えます。行平は京都の官人で有名な歌人ですが、何らかの事件に関わって須磨に籠居(ろうきょ)することになりました。須磨が古来から和歌などで知られていたので籠居先に選んだのでしょう。「枕草子」に「関は逢坂・須磨の関」と記されたように、古来から著名な須磨の関の跡も見えます。
 須磨から海岸沿いの街道が利用されるようになるのは中世に入ってからで、後にこのルートは西国街道と呼ばれ、陸上交通の大動脈となりました。山や台地が海にせまる交通の難所だっただけに風光明媚(めいび)で知られ、古くから人々に賞賛されてきました。一の谷から少し西へ行くと敦盛塚があり、境川を越えると播磨国です。垂水の手前、滝の茶屋付近には海岸の崖に滝が流れ、数軒の茶屋があったといいます。舞子付近はかつて山田荘といわれ、平清盛が愛した景勝の地です。「吾妻鏡」には清盛の遺骨を山田荘に葬ったとあります。
 須磨・明石間の海岸沿いのルートは、現代でも、JR、山陽電鉄、国道2号線が密集する陸上交通の幹線で、昔と変わらないのどかな瀬戸内の陽光がふり注いでいます。
(文・神戸市立博物館)

六十余州名所図会 播磨舞子の浜 歌川広重画 嘉永6年(1853年)神戸市立博物館所蔵
  • 写真だだだだだだだ
摂州須磨浦細見図 前田松琴亭蔵板 江戸末期 神戸市立博物館所蔵
写真

ページトップへ