227号表紙

No.227(平成3年9月)

特集:

噴水・「太平記」と神戸(下)

タイトルタイトル

噴水

高塚公園の水上噴水
日本有数の高さ(50m)を誇る直上噴水と、周辺にアーチ噴水があり、アーチ噴水は自動制御によってさまざまな形に変化する。西区高塚台の西神工業団地内

噴水公園から水辺空間づくりへ

  • 六甲アイランド・リバーモール(水路広場)の滝リバーモールは六甲アイランドの中央部を南北に流れる水路を利用した広場。現在開放されているのは北半分の約540mだが、南端のマリンパークが完成すると約1qに伸びる
  • 六甲アイランド・リバーモールの噴水形を様々に変化できる水の特性を生かして、霧状に水を噴き出し、あたかも水が気体のように演出されている
  • 六甲アイランド・リバーモ−ルの水上ステージステージの一角にフランスの彫刻家アントワーヌ・ブールデルのブロンズ像「高貴な重荷」がある
  • 楽しい水の仕掛け「スプラッシュガーデン」六甲アイランドで今夏オープンしたスプラッシュガーデンは、50本の水の滑り台が絡み合ってスピードとスリルが楽しめる「スーパーフーパー」と、日本最長740mの流水プール「ストリ一マー」(写真)がある。ストリーマーは1周20分以上、長さだけでなくさまざまな水の仕掛けを楽しめる
  • 六甲アイランド・リバーモールと「神戸ファッションマ一卜」ファッションマートは地上10階、地下2階。日本で初めての国際ファッションビジネスセンタ一で、アパレルを中心に、200社を超える国内外のファッションメーカーなどが集う新拠点として、10月1日オープンする
  • 楽しい水の仕掛け「スプラッシュガーデン」
  • 六甲アイランド水リサイクルセンターの噴水と滝東灘処理場から出る下水処理水の一部を海底トンネルでリサイクルセンターに送り、オゾン処理などをして色やにおいを取ったうえで、島内のビルや緑地の雑用水として再生利用。噴水や滝にも再生されたきれいな水を使っている
  • JR住吉駅ターミナルビル休憩広場の水時計同ビルにはコープこうべのデパート「シ一ア」と、専門店35店舗が入っている。シーアの2階に設けられた水時計は、涼し気に時を刻むだけでなく、定刻になると円柱の天井から人形が下りてきて音楽を奏でる
  • 六甲アイランド水リサイクルセンターの噴水と滝

    JR灘駅北側広場の噴水
  • 六甲アイランド・リバーモールの噴水リバーモールの北端にあり、六甲山から力強くわき出す水源をイメージ。石柱9本(高さ1〜6m)は市内の9区を表現している。左は六甲ライナー
  • 都賀川公園の噴水公園は灘3か町村の神戸市編入50周年記念として昭和55年建設された。公園のすぐ東側の都賀川では毎年夏"川開き"が行われ、多くの子供たちでにぎわう

    「R0KK023」の噴水 小泉製麻鰍ェ灘区新在家南町の本社地区の再開発事業として建設したショッピングゾーン「ROKK023」は、明治・大正期に造られたレンガ建築の工場や木造洋館の事務所などがレストラン、外車ショールーム、ケーキハウスなどに活用され、ヨーロッパ調の中庭を囲むように並んでいる

  • 「生田川ふれあい広場」の放水広場川の両岸から噴水を放射、神戸の玄関口としての駅前にふさわしいダイナミックな水の景観を演出している
  • 「生田川ふれあい広場」の水辺広場ふれあいの泉(写真手前)からわき出る水は広場内の水路を通って右側の生田川へ注ぐ。六甲連山をイメージしたデザイン、布引の滝を流れ落ちる水の躍動感を表わしている
  • メリケンパーク東入り口の噴水フィッシュダンスホールの前にある。池の中に、姉妹港提携20周年記念としてシアトル港(アメリカ)から贈られた「イーグル&サーモン像」がある
  • ポートアイランド北公園の「イルカの噴水」イルカは御影石で、制作は環境造形Q。左前方の建物は北野から移築したみなと異人館
  • ートアイランド南公園の「スクリューのある噴水」スクリューはコンテナ船用のもので径6・7m、高さ2・3m
  • 東遊園地の「虹の泉」すり鉢状の泉のノズルから水が一斉にふき出し、これに日がさすと美しい虹を描く。市庁舎の南側にある東遊園地は、明冶8年(1875)に旧居留地の東端に開設された市内で最も長い歴史をもつ公園。"花と水と彫刻のまち神戸"を代表する都心の中央公園として、3年余の期間をかけて行われた再整備がこのほど完了した
  • 東遊園地のコミック噴水歩道の横に設けられた噴水が歩行者を感知して作動し、飛び出した水で歩行者を驚かす仕組みになっている
  • 県民オアシスの噴水県庁南側の緑に囲まれた憩いの空間。オアシスの向こう左側の建物は栄光教会と県民会館
  • 東遊園地の「ふれあいの滝」石壁と滝を背景に、心のなごむ計14点の青銅のレリーフが、憩いの場所を人びとにもたらし、ふれあいが生まれる。レリーフの制作は彫刻一家で知られる新谷英夫・澤子・e紀・英子氏
  • ハーバーランドの水路に流れ落ちる滝建設が進むハーバーランド内にある広場には、壁面の模様を浮かび上がらせる滝やハネ橋がある
  • 「みどりの泉」の噴水中突堤の入り口にある。噴水の中央に新谷英夫氏作の彫刻・美の女神像がある。現在は整備工事中
  • 噴水「水とたわむれる子供達」大倉山公園の神戸文化ホール東側にある。大理石の噴水は高さ2.5m、水盤の直径2.0mで、規模は小さいが、ロ一マのレパブリカ広場にあるエセドラ噴水を模して作られた。神戸市出身でローマ在住の網野仁郎氏から市に寄贈された

    市立中央体育館前の噴水
  • 水の科学博物館前の噴水池の左右からふき出す水が中央で交わりかわいい水のトンネルをつくっている。館内は、水のふしぎゾーン、水の惑星・地球ゾーンなど四つのゾーンに分け、入館者が見て、体験して、感じる参加型の展示を行っている。兵庫区奥平野浄水場内
  • 新長田駅前の水時計小さな噴水の泡立ちを利用して時刻をデジタル表示している
  • 神鉄一番街の「小便小僧」兵庫区大開通1丁目の神鉄一番街と神戸高速鉄道新開地駅の地下連絡道の壁際に並んでいる。表情もさまざまで、あっちを向いたりこっちを向いたりしているのがユーモラスだ

    有馬・湯けむり広場有馬の玄関口にあり、人口の滝や太閤秀吉像のほか展望台、遊歩道などがある。
  • 涼を呼ぶしあわせの村の水路ジャングル温泉と総合センターの中間から滝となって流れ落ちた水が、約100m離れたふれあい広場まで中央緑道に沿って流れ、最後は花や彫刻のあるカスケード(段々滝)をゆるやかに下る
  • 有馬・炭酸泉源この広場すぐ上に泉源がる。昔ここに水たまりがあって昆虫などが泉水に触れると死んだため、土地の人は毒水と呼んで近寄らなかった。明治8年(1875)に分析の結果、飲料としても優れている事が分かり、有馬の湯客も賞味するようになったという
  • 須磨離宮公園のメインフォール(瀑水)とポセイドン像レストハウスからわき出た水はさらに段々滝を下り、芝生・花壇を配した水路を通って最後はダイナミックな大噴水となる。ポセイドン像(ブロンズ、高さ2m)は、古代ギリシャ彫刻の名作のレプリカ。左足を踏み出し、右手を思いきり後ろにひいて遠くにものを投げようとする雄姿は、須磨離宮公園の守護神としてふさわしい

    須磨離宮公園「花の庭園」の彫刻噴水水と花と緑のハーモニーが美しい
  • 須磨離宮公園の夏の夜のカラー噴水夏の夜間開園中(8月31日まで)、大噴水を中心に色とりどりのライトが噴水を七色に輝かせ、幻想的な世界をつくり出していた
  • 地下鉄総合運動公園駅前の大噴水「Date6」神戸総合運動公園のシンボルとして昭和60年完成。六甲山と神戸港をかたどった石造彫刻と噴水を組み合わせ、世界各国からユニバーシアード神戸大会(同年8月24日〜9月4日)に集う若者たちを、彫刻の中央に交わる水で表現している
  • 西区高塚公園の「泉の広場」ダイナミックな滝や水に親しめる広い空間もある
  • 地下鉄西神中央駅前中央広場の噴水中央広場はプレンティのメインステージともいえる多目的スペース。"手をつないだ子供"の彫刻のある噴水は、広場とプレンティの接点にある
  • 「プレンティ」の小さな噴水フラットな地面から水がふき出して、幼児でも手を触れることができるくらい親水性が高められている。プレンティは西神ニュータウンの中核商業ゾーンで、このほかにもプレンティモールなど親水空間がいろいろ 工夫されており、人々の憩いの場所になっている
東遊園地の大噴水。このほど改修され、噴水の高さを十七mにアップ、キャンドル、アーチ噴水も設置された。噴水の向こう左手の建物は管理事務所、その右側は七月にオープンしたレストハウス(軽食・喫茶)「居留地127番館」。どちらもレンガを用いた洋風建築で、居留地時代東遊園地付近にあった神戸クラブや、神戸レガッタ・アンド・アスレチック・クラブをモチーフにしている。

『太平記』と神戸 下
〜新田義貞・処女塚決戦から観応の擾乱、そして、『太平記』その後〜

神戸深江生活文化史料館研究員 道谷 卓

新田義貞・処女塚決戦

 1336(延元1)年5月25日、湊川の戦いで勝利した足利尊氏であるが、彼にもこの戦いの最中、次のような伝説が残されている。前に紹介した長田の宝満寺にまつわる言い伝えとよく似た話である。九州から兵庫に上陸した尊氏軍が楠木正成軍と戦い、楠木軍にじわじわと追いつめられたときのこと。尊氏軍の軍勢の近くに一人の僧侶が現われ、その僧が尊氏めがけて飛んでくる幾本もの矢を空中で受け止めては投げ捨ててくれた。おかげで、尊氏は難を逃れ、戦いにも勝利したのであるが、このときの僧侶が常日頃信仰していた兵庫・魚(ぎょ)の御堂(みどう)の地蔵尊が変身したもので、その後、尊氏は須磨の車(くるま)にお堂を建て、この地蔵尊を兵庫から車に移し、篤く信仰したという言い伝えである。そして、これが車の慶雲寺(写真1)のおこりだと伝えており、寺にあった本尊の地蔵をその話にちなみ「矢拾い地蔵」と呼んでいた。
 さて、湊川の戦いにおいて、足利水軍を討つべく兵庫・経ケ島に陣を置いた新田義貞であるが、足利軍の巧みな戦略で、中央区の生田の森(写真2)まで後退することになる。すでに楠木軍を討った足利軍は、この生田の森で三方から集中して新田軍に襲いかかった。激しい戦いが展開されたが、味方の三倍以上も敵がいては新田義貞にも勝ち目はなく、結局は丹波路めざして敗走したのである。「生田ノ森の東より丹波路を差(さし)てぞ落行ける」と『太平記』にもあり、その後、足利軍はこれを急いで追撃するのであった。
 京めがけて東へと逃げる新田義貞に足利軍が追い付いたのが、ちょうど東灘区の御影東明(とうみょう)・処女塚(おとめづか)(写真3)の付近である。その時の様子は『太平記』に記されており、義貞は味方の軍勢を落ち延びさせるため、一人この地で踏張ったのであるが、彼の乗る馬に矢がささってしまう。この時の様子を「義貞の乗られたりける馬に矢七筋まで立ける間、小膝を折て倒けり」と『太平記』は描いている。身動きのとれなくなった義貞は馬を捨て、処女塚の上にかけ上り、敵の激しい攻撃を受けることになる。足利軍の矢が雨あられのように降る中、それに対する義貞の気迫もすさまじいもので、「鬼切(おにきり)・鬼丸(おにまる)とて多田満仲(ただのまんじゅう)より伝たる源氏重代(じゅうだい)の太刀を二振帯(ふたふりはか)れたりけるを、左右の手に抜き持て」というようにさしずめ二刀流の使い手のごとく相手に立ち向ったことが『太平記』には記されている。こうした、義貞の奮戦に、新田方の小山田(おやまだ)太郎高家が気付き、すぐさま処女塚の上に駆け寄り、自分の馬に義貞を乗せ、高家は塚の上にとどまって、義貞を東へ逃れさせた。しかし、味方の敗色は濃厚でついに、高家はこの塚の上で討たれてしまうのだった。高家は計ち死にしたが、おかげで義貞は何とか京へ落ち延びることができたのである。今、この小山田高家の武勇を記念して、処女塚の東脇に高家の碑(写真4)が建てられている。

湊川神社(中央区)この神社は湊川神社というよりむしろ、「楠公(なんこう)さん」という名で呼ばれ親しまれている。「楠公さん」とはもちろん楠木正成のことで、そのほか一族17人の霊を祀る神社であるが、創建は新しく、明治に入ってから。この神社一帯は湊川の戦いの古戦場で、江戸時代に徳川光圀が楠公の墓碑を建てた。明治時代に入り、その墓碑の場所を神格化しようと伊藤博文らの努力により、明治天皇の命で1872(明治5)年に別格官幣社として創建される。社号については「楠神社」「大楠霊神社」という説もあったが、結局「湊川神社」で落ち着いた。1934 (昭和9)年に社殿の大改築が行われたが、1945(昭和20)年の空襲で焼失し、現在の本殿と拝殿は1953(昭和28)年に建てられたものである。(写真提供:湊川神社)
焼失後作られた「矢拾い地蔵」(慶雲寺蔵)
  • (1)慶雲寺(須磨区車字松ケ原)臨済宗南禅寺派の寺院で、正しくは海蔵山慶雲鳳翔禅寺という。寺伝によれば、湊川の戦いのとき足利尊氏の前に一人の法師があらわれ、飛んでくる矢をつかまえては捨てた。この法師が日頃信仰している兵庫の地蔵尊が姿を変えたものだということを知った尊氏は車にこの地蔵をまつるお堂を建て、善福寺を建てたという。明治に入り今の寺名にしたが、その本尊である地蔵尊は、この話しにちなみ「矢拾い地蔵」と呼ばれていた。この矢拾い地蔵も、1953(昭和28)年の火事で焼失してしまった。
  • (2)生田の森(中央区生田神社内)その昔、源平の争乱でも舞台となった「生田ノ森」は、この『太平記』の湊川合戦での舞台にもなる。足利軍のうまい戦略で兵庫・経ケ島から生田の森に後退した新田義貞はここで態勢を整え足利軍を迎え討とうとした。しかし、軍勢の数であきらかに劣る義貞は、この地を捨て京めがけて敗走したのである。
神戸北部での戦い

 足利尊氏が新田義貞を追って、京で戦っている時、神戸の北部では義貞の一族・金谷兵庫助経氏(かなやひょうごのすけつねうじ)が足利方の赤松氏と戦っていた。北区の丹生(たんじょう)山・明要寺(みょうようじ)が(写真5)に本拠(丹生山城)を置いた兵庫助が、寺に多数いた僧兵を引きつれ赤松軍を攻略しようと考えていた。そして、彼は足利方に服しない西区の近江寺(きんこうじ)(写真6)や性海寺(しょうかいじ)(写真7)、さらには太山寺の衆徒をもその配下に置いたのである。
 こうして多くの軍勢を味方につけた金谷兵庫助であるが、1338(延元3)年4月には赤松氏の領する播磨国福田荘に乱入した。赤松則村(円心)軍はこれに対し、三草(みくさ)山で金谷軍と戦い、続いて6月には明石まで進軍した。金谷軍と赤松軍はその後も、明石の和坂(かにがさか)・兵庫津・生田ノ森などで激しく戦っている。そして、9月になると赤松軍は金谷軍の本拠・丹生山城にせまり、とうとう城を必死で守っていた吉川経清が戦死してしまう。また、その後も、赤松方の赤松範資(のりすけ)や赤松則祐が金谷車の拠点を次々と攻めていったのである。
 この金谷・赤松両軍の戦いは翌1339(延元4)年にもつづいている。7月13日に、赤松則祐が三木市の志染(しじみ)に陣を置き、8月4日には西区の雄岡山(おっこさん)へ、さらに同13日には西区の押部谷へ軍を進めた。この赤松軍と金谷軍が対峙し、大きな合戦が行なわれたのが同月20日、北区のシブレ山(写真8)で、両軍は激しくこの地で争った。この戦いで、赤松軍の勝利が濃厚となり、結局、9月8日、赤松則祐が櫨谷(はせたに)城を攻略したことにより、赤松軍は東播と西摂の南部を手中におさめることになったのである。

南北朝分裂

 湊川の戦いで楠本正成が戦死し、新田義貞が敗走したことにより、足利尊氏は京へ戻り、1336(延元1)年8月に、後醍醐天皇を廃し、持明院統(じみょういんとう)の光明(こうみょう)天皇を擁立した。しかし、その年の12月、三種の神器を奉じ、京を脱出した後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、皇居をこの地に移したのである。そして、後醍醐天皇は自己が正統の天皇であると主張し、ここに京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)が両立することになり、以後たがいに激しく争うことになった。世に言う南北朝の動乱のはしまりである。
 こうした南北朝の争いは、地方の武士集団の指導権をめぐる争いと結びつき、各地で両朝のどちらかに味方し相争うことになり、内乱が全国へと広がって行くわけであるが、前述の神戸北部における争乱も、この一つのあらわれといえよう。そうした中、南朝では後醍醐天皇が諸皇子を各地に派遣し北朝方と戦うのであった。しかし、1338(延元3)年、北畠顕家が大阪の堺で、また、新田義貞が越前の藤島であいついで戦死したため、形勢は南朝に不利な展開となってきた。また、翌1339(延元4)年8月16日、京帰還に執念を燃やしていた後醍醐天皇が準后・阿野廉子(あのれんし)の見まもる中、ついに帰らぬ人となった。天皇は臨終の際、「玉骨はたとえ南山(吉野)の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕(京都)の天を望んと思ふ」と述べたと『太平記』は伝え、この遺言通り、天皇の陵(みささぎ)は吉野に、京都の方角である北向きに築かれたのである(塔尾陵(とうのおのみささぎ))。
 この間、足利尊氏は1338(延元3)年8月、北朝の光明天皇から、念願の征夷大将軍の宣下を賜り、幕府を開くのであった。なお、1344(興国5)年に、足利尊氏が、兵庫区の福海寺(写真9)を創建したと言われている。尊氏はかつて、新田義貞に迫われ京から九州へ敗走するとき、兵庫のこの地にあった観音堂に身を隠し難を逃れたといい、その報恩のためにこの寺を建てたと伝えられている。
 さて、後醍醐天皇なきあと、後村上天皇をささえた南朝の中心人物は楠木正成の子・正行(まさつら)であった。楠木正行も、1347(正平2)年12月、後村上天皇に別れを告げ、死を覚悟した戦いへと向うのである。その時、吉野の如意輪堂(にょいりんどう)の壁板に「返らじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」と辞世を書き留めたと『太平記』は描くが、この話はフィクションだと言われている。翌1348(正平3)年1月、楠木正行は足利方の高師直(こうのもろなお)軍と大阪府の四条畷で戦うことになり、結局、激しい戦闘の末、正行は戦死してしまうのであった(四条畷の戦い)。

  • (3)処女塚(東灘区御影塚町2丁目)処女塚は御影塚町に現存する全長70メートルの古墳時代前期の前方後方墳である。処女塚を中心に東
    西それぞれ約2qにある東灘区住吉の東求女(もとめ)塚と灘区の西求女塚の三塚には万葉の時代から菟原処女(うないおとめ)にまつわる悲恋伝説があったことで有名。処女塚は『太平記』の湊川合戦の舞台でもあり、新田義貞がこの塚の上で死を覚悟して戦った。兵庫・経ケ島から生田ノ森へ後退した義貞は京へ戻ることを決意し、東へと走った。逃げる義貞に足利軍が追いついたのがこの塚の付近。義貞の馬には矢が七本つきささり、身動きがとれなかった。「義貞求塚ノ上に下立て、乗替の馬を待給共、あえて御方これを知られけるにや」と『太平記』にあり、義貞の苦戦がうかがえる。この「求塚」が処女塚のことである。
  • (4)小山田高家の碑(東灘区処女塚内)処女塚古墳の東隅にある小山田太郎高家の碑は1846(弘化3)年に建てられた。処女塚の上で敵を防いでいた新田義貞を見つけた高家が塚に駆け登り、自らの馬に義貞を乗せて逃がした末、壮烈な戦死を遂げたという武勇を記念したもの。ところで、高家はどうして自らの命を犠牲にしてまで義貞を助けたのだろうか。『太平記』には次のような話が描かれている。高家が従軍中、兵糧に困り付近の農家の麦を刈り取ったことから軍法で死刑を宣告された。その時、義貞が「武将に兵糧の不自由をさせたのは自分の責任だ」と、麦の代金を畑の持ち主に支払い、麦を高家に渡した。このことから高家は義貞に大いなる恩義を感ずるようになったというのである。
  • (5)丹生山・明要寺跡の丹生神社(北区山田町坂本) 丹生山の山上にある丹生神社はかつて明要寺があった場所である。湊川の戦いで新田義貞が京都へ敗走した後も、神戸北部では義貞の一族・金谷兵庫助経氏が足利軍と奮戦していた。その金谷兵庫助が本拠に置いた場所がこの明要寺である。6世紀の創建と伝えられるこの寺も、南北朝期には多くの僧兵を擁していた。これらの僧兵を引きつれ金谷軍は足利方の赤松軍と戦ったのである。明治のはじめ寺が廃されたあと、丹生神社と改称した。
  • (6)近江寺(西区押部谷町近江)

    (7)性海寺(西区押部谷町高和)近江寺(写真6)は法道仙人の開基と伝えられる古い寺院。性海寺は行基が730(天平2)年に開いたといわれている。いずれも南北朝時代には多くの寺坊を持ち、多数の僧兵をかかえた大きな寺であった。この両寺とも、新田義貞の一族・金谷兵庫助に味方し、足利方の赤松氏と戦った。
  • 処女塚への道標(東灘区御影塚町2丁目)旧西国街道の脇に建てられているこの碑は、小山田高家の碑のある処女塚への道しるべである。
  • 『摂津名所図会』より、小山田高家の奮戦
観応の擾乱

 北朝方はつぎつぎと南朝方を破っては行くものの、最終的な決着をつけるには至らなかった。そうこうしているうち、今度は北朝方の足利氏内部で内紛が起ころうとしていた。征夷大将軍に任ぜられ幕府を開いた足利尊氏は執事・高師直とともに、地方武士を取り込み、新体制を樹立しようとしていた。しかし、尊氏の弟足利直義(ただよし)はこうした体制に反対で、鎌倉幕府的体制の再建をめざしたのである。こうして、尊氏・高師直と直義は対立することになり、とうとう両者は武力衝突してしまう。これが1350(正平5〈北朝年号の観応1〉)年からの観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)であり、両軍はこの神戸を舞台に激しい戦いをくり広げたのである。
 まず、1350(正平5)年、直義の養子足利直冬(ただふゆ)(尊氏の子)が九州で挙兵、これを討つため尊氏が九州へと向かったすきに、直義は京を固めてしまう。翌1351(正平6)年1月、尊氏はそれを知り京へ引き返して直義と戦うが負けてしまい、兵庫へ落ちのびることになり、摂津守護・赤松範資のもとに走ったのである。同年2月17日、打出・越水(こしみず)・鷲林寺(じゅうりんじ)(芦屋・西宮の山手付近)に陣を置く直義に対し、これを攻めるべく尊氏は2万の軍勢を東灘区の御影の浜(写真10)に進めた。2万という大軍では、多すぎて逆に身動きが取れないと察知した尊氏の部下、薬師寺次郎左衛門公義(きみよし)が自らの手勢を東灘区魚崎の雀の松原に待機させるという気を効かせた場面が『太平記』には描かれており、そこには「一族の手勢二百余騎、雀ノ松原の木陰にひかえて」とある。結局、この打出・御影浜の戦いでは、大軍で統制がとれなかった尊氏方は敗れ、総崩れとなり西へと走り、やっとのことで須磨の松岡城(写真11)へと逃れるのであった。『太平記』には、この時残った軍勢が「かれこれ五百騎に過ぎ候はじ」とあり、もはやこれまでと思った尊氏は松岡城での切腹を決意、別れの酒宴を開いていた。その時、逃げたと思っていた尊氏の部下・饗庭命鶴(あえばみょうづる)が駆け付け、直義との和議が成立したことを伝えた。間一髪で切腹を取り止めた尊氏は2月25日須磨を出発、山陽道を京へと引き返していったのである。なお、京へ戻る途中、武庫川で高師直が殺され、また、その翌年今度は足利直義が尊氏に殺害されたことで観応の擾乱は一応の決着がついた。

『太平記』その後―むすびにかえて―

 さて、観応の擾乱のあと、『太平記』は足利義満が三代将軍となり、その執事に細川頼之(よりゆき)が就いたところで終わり、「中夏無為(ちゅうかぶい)の代になりて、めでたかりしことどもなり」という言葉で締めくくっている。しかし、南北朝の動乱はその後もしばらく続き、最終的に両朝が合一するのは1392(元中9)年10月のこと。三代義満の呼び掛けにより、南朝の後亀山天皇が三種の神器を渡し、北朝の後小松天皇に譲位するという形で実現したのである。
 その後、こうした一連の出来事は『太平記』という作品を通じて人々の心のなかに生き続けて行くことになる。神戸は湊川の戦いで楠本正成が戦死した場所とあって、後にそのことがクローズアップされる。
いつの頃からか、楠木正成が戦死したあたりに正成の小さな塚が築かれた。江戸時代に入ると、自領内に正成の塚のあることを知った尼崎藩主青山幸利(よしとし)(写真12)がそこに梅と松を植え、五輪塔を建て楠公の墓標にしたのである。それを管理していたのが楠公の大ファンであった広厳寺(こうごんじ)の千巖(せんげん)(写真13)であり、彼は今以上の立派な墓を建てたいと考えていた。水戸藩主徳川光圀(写真14)に楠公の建碑の意志があることを知った千巖は、光圀に対し建碑の請願を行ったところ、光圀も快諾し、楠公建碑に着手したのである。1692(元禄5)年、光圀は家臣の佐々介三郎(ささすけさぶろう)を湊川に派遣し、建碑の工事にあたらせ同年完成させた。これが湊川神社境内隅にある「鳴呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)(写真15)である。
 江戸幕末になると光圀の建てた楠公の墓碑に勤皇の志士たちが訪れ、それ以後一般にも崇拝されるようになったという。明治時代に入り、後に初代兵庫県知事となる伊藤博文らが楠公墓碑の地に神号を賜るよう働きかけることになる。この努力が実り、明治天皇の命により、この地に神社が建てられることになった。これが1872(明治5)年に別格官幣社(かんぺいしゃ)として創建された湊川神社である(P28参照)。
 そろそろ私に与えられた紙幅も終わりに近付いたが、ここまで3回にわたって神戸に残る『太平記』ゆかりの場所を紹介してきた。湊川の戦いや観応の擾乱といったその時代を左右した非常に重要な出来事が神戸を舞台に繰り広げられ、しかも、『太平記』の時代の最初から最後まで、その至る所で神戸が登場していることに驚かれた方も多いのではないかと思う。異人館やポートアイランド・六甲アイランドに象徴される異国情緒あふれる近代的な町神戸で、その昔、楠木正成が、足利尊氏が、そして新田義貞が自らのロマンを追い求め、神戸の歴史にその一ページを刻んでいった。彼らの夢を壊さないためにも、神戸に残る『太平記』ゆかりの地が、近代化の中に埋没されることなく、未来へと継承されて行くことを願ってやまない。
(完)

  • (8)シブレ山(北区)標高348メートルのシブレ山は「志武礼山」とも書く。1339 (延元4)年8月20日、新田義貞の一族・金谷兵庫助と足利方の赤松則祐の両軍が激しく戦った地である。
  • (9)福海寺(兵庫区西柳原町)山号を大光山と言い、臨済宗南禅寺派の寺院。1336 (建武3)年、京都を脱出し西へと敗走する足利尊氏が新田義貞の軍勢に追われた時、この地にあった観音堂の下に身を隠して難を逃れたと言われ、その報恩のために後に足利尊氏がこの寺を建立したと伝えられている。寺の紋である「二引両」は、足利氏の家紋からきている。なお、足利尊氏が兵庫で敗れ九州へ逃げた後、逃げ遅れた足利軍の軍勢は持っていた軍旗の「二引両」の紋の間を黒く塗り、二本線を一本線にし、にわか「一引両」(これは新田家の家紋)にしたという逸話が残されている。
  • (10)かつての御影浜あたり(東灘区御影本町・御影石町付近)湊川の戦いに勝ち幕府を開いた足利氏も、尊氏と弟の直義の対立から内紛が起こる。それが1350 (正平5)年からの観応の擾乱で、翌年の2月17日にこの御影浜を舞台に両者が合戦を行った。このあたりも昭和30年代までは海岸に砂浜が残り、「浜」というのにふさわしかったが、その後急速な埋め立てが進み今では砂浜の面影はない。
  • (11)松岡城跡(須磨区大手町勝福寺一帯)観応の擾乱の際、打出・御影浜の戦いに敗れた足利尊氏が逃げ込んだ場所が須磨の松岡城である。城がせまかったため、ほとんどの武士が入城できずに締め出され、「破れたる蓑を身にまとい福良(ふくら)の渡し・淡路の迫門(せと)を船にて落つる人もあり」と『太平記』は敗者の悲惨さを描く。いざ切腹という直前、饗場命鶴が和解の成立を伝えに駆け込んだため、尊氏は間一髪で助かった。須磨区大手町にある勝福寺一帯がこの松岡城のあった場所である。勝福寺の石段の上り口の左手に証楽上人の墓所があるが、このあたりを「ハラキリ堂」と呼んでいるのは、切腹しようとした尊氏に由来してい
    るのだろう。
  • (12)青山幸利侯景仰碑(中央区楠町8丁目、安養寺内)尼崎藩主青山家の菩提寺・安養寺(あんようじ)にある青山幸利の善政をたたえた碑。藩主幸利は、自領の坂本村に楠木正成の塚があることを知り、その塚に梅と松を植え、五輪塔を建てた。
  • (13)千巖禅師景仰碑(中央区楠町8丁目、広厳寺内)広厳寺境内にある千巖を讃える碑。延宝年間(1673〜1680)に大和からこの地にきた千巖は荒廃していたこの寺を再興する。千巖は熱烈な楠木正成のファンで、湊川神社にある楠公の墓碑が建てられたのは、この千巖の努力によるところが大きい。
  • (14)徳川光圀銅像(湊川神社内)楠公墓碑の横に建てられている、水戸藩主・徳川光圀の銅像。「水戸黄門」でおなじみの光圀は、広厳寺の千巖の要請により、兵庫・湊川の地に楠木正成の墓碑を建てた。もともと光圀は朱子学を重んじ、自ら編纂した『大日本史』で南朝正統理論をとり、後醍醐天皇を正統の天皇と認め、それに殉じた楠木正成を大いに評価していた。そのため、千巖の要請にも快く応じたのである。ちなみに、光圀はこの兵庫に一度も訪れたことはなく、いわゆる『水戸黄門漫遊記』はフィクションである。
    この光岡の銅像は水戸家に残る資料をもとに身長(五尺四寸〈163・3センチ〉)から持ち物まで実寸で造られており、1955(昭和30)年に建てられた。
  • (15)大楠公墓碑(湊川神社内)1692(元禄5)年、水戸藩主徳川光圀が家臣佐々介三郎宗淳を兵庫湊川に派遣し、楠公墓碑の建設にあたらせた。同年完成し、碑の表には「嗚呼忠臣楠子之墓」の八文字が刻まれた。この字は光圀自らが謹書したもので、中国の「嗚呼有吾延陵季子之墓」にならったものである。そして、碑の裏には光圀の師・朱舜水(しゅしゅんすい)が撰んだ楠公賛美の文を刻んでいる。また、この墓石は亀の胴体から龍の首が出ているものの上にのせられているが、この形態を「ち首亀趺(ちしゅきふ)」と呼び、朱子学を志した者の墓の形式である。
  • 『摂津名所図会』より、湊川
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