226号表紙

No.226(平成3年8月)

特集:

神戸の樹・「太平記」と神戸(中)

諏訪山にある連理のクスノキ。連理とは、1本の木の枝が他の木の枝と自然にこすれあい、連なって木目が一つになることをいう。このような見事な連理は珍しいといわれている。「連理の枝」は「比翼の鳥」とともに、夫婦や男女の深いちぎりをたとえる言葉として使われる

神戸の樹

神戸の名木・名林

「四季―神戸の樹々」写真展

神戸市公園緑化協会からのお知らせ

神戸市緑化事業基金に募金(五千円以上)をされた方には、神戸在住の写真家小林政夫氏撮影による写真集「樹―神戸の名木」(一三六ページ)を贈呈しています(在庫限り)。受付場所 (財)神戸市公園緑化協会(中央区雲井通五丁目一ー一、中央区総合庁舎七階。電話番号 二三ニー四四六一(代))。
また同氏による「四季―神戸の樹々」写真展を市民ギャラリー(神戸市役所一号館二階)で開催中。入場無料。八月二十六日(月)まで。

乱舞するように空に向かって伸びる相楽園のクスノキの枝

相楽園(そうらくえん)のクスノキ

所在=中央区中山手通5丁目/樹種=クスノキ(クスノキ科)/樹高20.0m/幹回り4.0m

相楽園の総ケヤキ造りの正門を入り、右にソテツ群を見ながら左に折れると、大きな石灯ろうのそばに立っている。
クスノキは寿命の長い木である。1000年はおろか1500年も2000年も生き続ける木がある。相楽園のクスノキは、永禄11年(1568)ごろ、織田信長の命によって荒木村重が現在の中央区花隈町に花隈城を築いたとき、鬼門よけのために植えたと伝えられている。樹齢は400年以上ということになるが、それでも、クスノキの仲間ではまだ"青年の樹"だ。新緑シーズンのクスノキ独特の葉の緑のつややかさ、枝ぶりの若々しさにそれがよく出ている。
相楽園は、元神戸市長小寺謙吉氏の邸宅を昭和16年に市が譲り受け、都市公園として整備した。池泉回遊式に加え、明治の欧米化の影響を取り入れた豪放で明るい日本式庭園である。

〈あし〉地下鉄山手(県庁前)駅 北200m。相楽園は1月4日から12月28日まで9時〜17時開園(毎週木曜日休)。入園料150円。電話番号 351-5155。

南国情緒を醸し出す相楽園のソテツ

相楽園(そうらくえん)のソテツ

所在=中央区中山手通五丁目/樹種=ソテツ(ソテツ科)

相楽園の東寄りの小高い丘の一角に、見事なソテツが群生している。背の高い木は四m以上もあり、鳥の羽のような長い葉が重なり合って一面に生い茂り、明るい南国情緒を醸し出している。
ソテツは南九州、沖縄などの暖地に自生する植物であるが、庭園木としては西日本一帯で広く植栽されている。相楽園のソテツは、明治末期に相楽園を築造した際、鹿児島からこの木を運んでここに移植したものだと伝えられている。日本式庭園に南方産のソテツをわざわざ取り寄せたのは、外国との交易、とりわけ南方貿易が盛んになりつつあった神戸の土地柄にソテツが似合ったということのほかに、当時は、庭木を遠方から運んでくるような例はごくまれで、それが富豪のステータスシンボルの一つになったようだ。
ソテツは「蘇鉄」と書く。樹勢が衰えたときに鉄くずを肥料としてやり、また、鉄クギを幹に打ち込むと、勢いをとり戻して蘇(よみがえ)ることからこの名が付いた。

幹の高みから一斉に枝を伸ばす中勝寺イチョウ園

本堂の屋根より高く枝を張ったイチョウ

中勝寺。赤松則村(円心)の部将で、むかし御影の郡家にあったといわれる平野城の城主をつとめた平野忠勝の菩提寺として永正2年(1505)、子孫が開基したと伝えられている

中勝寺(ちゅうしょうじ)のイチョウ

所在=東灘区御影町郡家字千本田/樹種=イチョウ(イチョウ科)/樹高15.Om/幹回り2.7m

寺の境内左手奥の墓地の中に立っている。どの枝も空を向いて伸び、扇形をしたイチョウ独特の葉がきらきらと光って美しい。淡灰褐色の樹皮は、さすがに長い年月を経て縦に無数の裂け目をつくっているが、まだまだ"若い者には負けないぞ"といった気概がこの木には感じられる。
気概といえば、こんな話がある。昭和二十年の神戸大空襲のとき焼い弾がこの木を直撃したが、弾ははね返ってそばの墓地に落ちて爆発し、木も寺の本堂も類焼を免れた。また、明和四年(一七六七)に寺が火災に遭い、本堂や庫裏が全焼したときも木は焼けずに生き延びたと伝えられている。イチョウも火に強い木なのだろう。
ギンナンはイチョウの実で、十月ごろに熟し食用となる。高い枝から降るように落ちる実は、墓参りに来る檀家の人たちが喜んで分けて持ち帰るそうだ。

〈あし〉市バス御影水道路 北東100m。

ヤマモモなどの老樹が林立する保久良神社の境内

鳥居の前に立つ"灘の一つ火"

保久良(ほくら)神社のヤマモモ

所在=東灘区本山町北畑/樹種=ヤマモモ(ヤマモモ科)

六甲山系の金鳥山の南中腹、保久良神社の境内はヤマモモのほか、モチなどの老樹がうっそうとした森をつくっており、昼でもひんやりと薄暗い。ヤマモモは樹齢100年以上の木も多く、根元とか幹に空洞やコブをつくり、樹皮のあちこちに白い班点がある。森の中に一歩入ると、落葉の朽ちたようなにおいがする。
 境内の西側、金鳥山へのハイキングコースにかなり広い梅林もある。
 神社の鳥居の前から見る大阪湾の眺めは素晴らしい。ここに立つ石灯ろうは文政8年(1825)に建てられたもので、沖を通る船の夜間航海の目印として利用され、船乗りたちから"灘の一つ火"と呼ばれ親しまれていた。灘の酒樽を積んだ樽回船も、この一つ火に見送られてひんぱんに大阪や江戸へ向かったことだろう。
 薄暗いヤマモモの森を透いて、鳥居の先に石灯ろうの立っているのがくっきりと見える。

〈あし〉阪急岡本駅・JR摂津本山駅から北東約1.5km。うち約1kmは舗装された急こう配の坂道になる。毎日登山が盛んでハイカーも多く、所々に道標がある。

根元を石で囲まれて立つ長田神社のケヤキ

長田(ながた)神社のケヤキ

所在=長田区長田町3丁目/樹種=ケヤキ(ニレ科)/樹高12.Om/幹回り3.5m

長田神社の表参道は、長田区役所のすぐ西側の道を北へ上がり、苅藻川に架かる朱塗りの八雲橋を渡って鳥居をくぐる。ケヤキは八雲橋のたもとに、木が痛まないよう根元を石で囲まれて立っている。
 ケヤキは、関東の武蔵野を表徴する木として知られており、姿も紅葉も美しい。神戸でも街路樹に多く植えられている。灰褐色の樹皮は、老樹になると薄片になってはがれる。シンパクやカヤ、クスノキなど、老樹になって樹皮に縦の裂け目ができる木が多いが、ケヤキは薄くはがれるだけなので見た目にいつまでも優しく感じるのだろう。
長田神社には本殿の裏手に、神木としてあがめられているクスノキの巨木もある。木の前に楠宮稲荷大神が祭られ、願をかけて成就すると人々が絵馬を奉納するので、木の周囲の垣には絵馬がたくさん結びつけられている。

〈あし〉市バス長田神社前、西100m。地下鉄長田駅・神戸高速鉄道高速長田駅、北約300m。

少し離れた高みから木を見ると、クスノキの大きさがよく分かる

どっと大地に根を下ろした神前のクスノキ

神前(かみまえ)のクスノキ

所在=灘区神前町3丁目春日神社/樹種=クスノキ(クスノキ科)/樹高17.0m/幹回り7.0m/天然記念物

春日神社の社殿横にある。どっかと大地に根を下ろした、という形容はこんな木のことをいうのだろうか。大きな根元の少し上で二またに分かれ、それがさらに4本の幹となって空へ伸びている。枝は西へ大きく傾き、民家の屋根を覆っているので何本もの鉄枠で下から枝を支えている。県の天然記念物の指定を受けている大樹である。社殿前に大きなクスノキの切株も残っている。
春日神社は、天正年間(1573〜92)の鎮座と伝えられている。この付近の神前町は神社に由来してできた地名だが、神社とクスノキとの由緒について詳しいことは分かっていない。
木の傍らに立つ神戸緑化協会の説明板には『春日社の千年楠の…』と歌が詠まれている。樹齢が千年かどうかはとにかく、市内にある何本かのクスノキの名木の中でもこの木が最古参格であることは間違いない。神社が鎮座するずっと以前から、クスノキはここにそびえていたのだろう。

〈あし〉市バス神前町 北100m。

狭い道の脇に2本のエノキが並んで立っている

都由之森(つゆのもり)のエノキ

祠(ほこら)のそばにそびえる都由之森のエノキ

所在=兵庫区都由乃町1丁目/樹種=エノキ(ニレ科)/樹高20.0m/幹回り2.7m

家の立て込んだ狭い道の脇に、近隣の家を圧するように枝を広げている。すぐ南に同じようなエノキがもう1本ある。エノキは漢字で「榎」と書く。木へんに夏という文字が当てられているのは、街道の夏の涼をとるために一里塚の木として植えたことからきている。一里塚とは昔、全国の街道に、1里ごとに土を高く盛り上げ、樹木などを植えて道しるべとした塚である。
 都由之森にはこんな伝説がある。
 今から1200年ほど前に、丹生(にぶ)の山田(今の北区山田町)の郡司・山田左衛門尉真勝が京都で淳仁天皇に仕えていたとき、左大臣藤原豊成の次女白滝姫に恋をして求婚したが、つれなく断られた。天皇は真勝を哀れに思われ、自ら仲をとりもって二人を夫婦にされたので、真勝は喜び姫を山田へ連れ帰った。
 都由之森は、鵯越(ひよどりごえ)を経て山田へ越す古道の近くにあったので、二人は途中この森で休んだ。折しも梅雨であったが、日照り続きで里人が悩んでいるのを聞き、姫が手にした杖(つえ)で地面を突くと、清水がこんこんとわき出したので人々は大いに喜んだという。後にこの森に姫をまつって記念とし、「栗花(つゆ)の森」と言うようになったと伝えられている。地名の都由乃町の都由は、この栗花からきている。
 また、山田町原野の真勝の屋敷跡の近くにも、白滝姫をまつった弁財天の社と、毎年、悔雨の栗の花の落ちるころには、清水がわき出て絶えることがなかったという「栗花落(つゆ)の井」の史跡が今もある。

〈あし〉市バス石井橋北西200m。

枯淡を感じさせる枝ぶり

縦の裂け目が入り乱れるように走っている幹

八多町の吉田邸。家の左手の高い木がシンパク。後ろにも大きな木が何本かあり、そのすぐ北側を三木三田線が通っている

八多(はた)吉田邸のシンパク

所在=北区八多町屏風/樹種=シンパク(ヒノキ科)/樹高15.Om/幹回り1.8m

三木三田線の神姫バスの屏風辻停から西へ二〇〇mほど行き、細い坂道を南へ少し下ると吉田邸がある。この道は、渓流の道として知られる屏風谷への行き帰りの道に近いので、この高い木に気付いた人も多いだろう。吉田邸のすぐ南側のあぜ道を通って家の裏手に回ると、シンパクがある。
 見るからに枯淡というか、古さを感じさせる木だ。腐れが入った赤褐色の幹の樹皮は、薄くはげ落ちて、太いシワのような縦の裂け目が入り乱れるように走っている。複雑に曲がりくねった枝ぶりもユニークである。幹だけを見ると枯れかかったようで痛々しいほどだが、枝先の葉は、なお高々と緑にもえて天をついている。生命力の素晴らしさというものだろう。
 シンパクは、ミヤマビャクシンを指し、あまり大きくならない。八多吉田邸のシンパクはビャクシン、あるいはイブキともいわれるもので、生け垣に用いられるカイヅカイブキもこの仲間である。

〈あし〉神姫バス屏風辻 西200m。

多聞寺の本堂とカヤ

カヤの根元にあるトラの石像。木を守っているのだろう

多聞寺(たもんじ)のカヤ

所在=北区有野町唐櫃/樹種=カヤ(イチイ科)/樹高15.0m/幹回り3.0m

老杉に囲まれた多聞寺の140余の石段を上りきった右手、本堂前にカヤの木がそびえている。樹齢は300年以上といわれている。カヤは、老樹になると樹皮が縦に裂けるが、この木も灰褐色の樹皮に幾筋も割れ目が走り、いっそう風格を増している。根元にトラの石像があり木を守っている。
多聞寺は、孝徳天皇の御代(645〜54)、法道仙人の開基と伝えられる古寺である。平清盛が治承年間(1177〜80)に京都から福原に遷都したとき、この地が丑寅(うしとら)(北東)の方角にあたるので、京都の鞍馬山になぞらえて、新都・福原の守護として寺領千町歩を与えたので寺は大いに栄えたという。もとは六甲山北側の古寺山にあったが、後花園天皇の代(1428〜64年)に現在の地に移して再建した。カヤの木もそのころに植えられたものだろう。
カヤは、材色が淡黄色で優美なところから碁盤や将棋盤の最適材で、また、腐りにくいのでふろ桶にも用いられる。

〈あし〉神鉄六甲駅 北すぐ。

石抱きカヤの南側の根元にある祠(ほこら)と、その左前、道角に立つ道標。道標の左の道を北へ行くと北区の藍那へ出る

白川堂東(しらかわどうのひがし)の石抱きカヤ

所在=須磨区白川字堂東/樹種=カヤ(イチイ科)/樹高20.0m/幹回り4.5m

カヤの木の根が石塔を抱き込んでいるので、この名で呼ばれている。石塔は室町末期のものと伝えられている。昔、木の近くに毘沙門(びしゃもん)堂が建っていたといわれ、木とほぼ並んで祭られていた石塔が、木の成長につれ、いつの間にかこんな形で抱き込まれてしまったのだろう。
 灰褐色の樹皮は縦に大きくひび割れ、幹や枝のあちこちにツタカズラや宿り木がからみ、根元のあたりに大きな空洞がある。
 木は、東西道と北へ行く道の角に立っている。木の前に右兵庫道、左太山寺道と刻んだ道標がある。北へのなだらかな山道をたどると、北区の藍那へ出る。
 白川は古い歴史をもつ土地柄である。かつては自生のヤマモモの木が多く、「献上の楊梅」として広く知られ宮中や、後には江戸幕府にも珍重されて明治維新まで献上は続けられていた。現在は白川台団地が整備され高層住宅が林立しているが、それでも古い白川村の堂東は、由緒ある静かなたたずまいを今も残している。

〈あし〉神姫バス白川 北東600m。

舞子公園(まいここうえん)の松林

所在=垂水区東舞子町/樹種=クロマツ(マツ科)

舞子浜の松林は古くから有名で、徳川幕府の参勤交代で江戸へのぼる西国大名が舞子の松を推賞して諸国に宣伝したため、その名が高まったといわれている。今は舞子公園となっているが、風流に富んだ老松が多く、千両松の言い伝えもあって、須磨と並ぶ風光明媚な名所地である。千両松は、むかし肥前の鍋島侯が舞子の浜で清遊したとき、松の美しさにうたれ「この松を自分の庭に植えることができれば、千両の黄金も惜しくない」と讃嘆したことから、「舞子の千両松」と言い出したと伝えられている。しかし、昔の見事な老松はほとんどが枯れて、現在の木は戦後植えられたものが多い。
 舞子という地名の起こりは、在原行平や平清盛が、ここで女子に舞を舞わせたとか、松の姿が舞子の舞うのに似ているからだとか言われているが、この浜は潮流の関係で、潮の舞い込む浜の意味だという説もある。

〈あし〉JR舞子駅 南すぐ。

須磨海浜公園(すまかいひんこうえん)の松林
太山寺(たいさんじ)の原生林

所在=西区伊川谷町前開/天然記念物

太山寺を囲む原生林は、まるで波打っているように見える。表面に頭を出している高い木はシイノキ、アラカシ、シラカシなど。その下にヤブツバキ、カクレミノ、ヒイラギなど、ざっと一六〇種類もの木が人の手を加えずに、自然のままに生い茂っている。
枝葉が日光を遮ぎるため、原生林の中はひんやりと湿っぽく、樹木特有のにおいが鼻をつく。
長い、はげしい生存競争にうち勝って生き残った樹木の群生の究極の姿を、植物学的には極成相という。例えば、寒い北海道などで見られる針葉樹林や、熱帯地方のジャングルなどがそれである。六甲山系に限らず、近年はほとんどの山が林業用、治山用に植林された木が多いだけに、自然の造形の妙技がそのまま息づく太山寺の原生林は貴重である。

〈あし)市バス・神姫バス太山寺前 西300m。

須磨離宮(すまりきゅう)公園のクスノキ

所在=須磨区東須磨/樹種=クスノキ(クスノキ科)/樹高25.0m/幹回り3.8m

公園内の中門前広場の手前にある。根元の一・五mぐらいのところから分かれて四方に枝を伸ばしている。枝の伸び方が非常に均整がとれているのと、周囲に支障になる木がなく、日の差す方向にのびのびと枝を張っているので、こんもりとした樹冠(樹のかんむり)は優美である。黄褐色の樹皮の木目も美しい。
クスノキは腐りにくいので、以前は防腐剤の樟脳(しょうのう)が枝葉や幹から精製された。木の寿命が長いのもそんなせいだろう。
須磨離宮公園はもと武庫離宮跡で、戦災後、神戸市に下げ渡され現天皇のご成婚を機に着工、昭和四十二年完成した。

〈あし〉市バス離宮公園前
須磨離宮公園は開園9時〜17時、8月31日まで夏季開園21時まで。休園年末年始のみ。入園料300円。電話番号 732-6688。

須磨離宮公園のクスノキ

『太平記』と神戸 中
〜足利尊氏の朝廷離反から湊川の戦いまで〜

神戸深江生活文化史料館研究員 道谷 卓

中先代の乱と足利尊氏の朝廷離反

横山大観筆「大楠公像」(湊川神社蔵)
1935(昭和10)年5月25日の大楠公六百年際にあたり、奉納された楠木正成の画像

鎌倉幕府を倒し隠岐から京へ帰還した後醍醐天皇は、1334(建武1)年から建武中興の政権を樹立することになったが、その政権も公家・武士間の恩賞に対する不公平などからはやくも混乱の様相を呈するのであった。さらに、てんのうは大内裏造営を計画しその費用を武家に負担させようとしたため、武家方の不満を一層つのらせることになる。このような建武政権の混乱ぶりは1334(建武1)年8月に掲げられた「此比(このごろ)都ニハヤル物、夜討、強盗、謀綸旨(にせりんじ)…」ではじまる『二条河原落書』によくあらわれている。結局、基本的には武家の実力が支配するこの時代に、北条氏にとってかわって武士の要求を満たしてくれる武家政権の樹立を求めた武士たちは、足利尊氏にその期待をつなぐのであった。
ところで、建武政権樹立当初、足利尊氏は後醍醐天皇から最も信任を得ていた人物の一人であった、それは、天皇の諱(いみな)「尊治(たかはる)」の一字を与えて「尊氏」(もともとは北条高時の一字をもらい「高氏」)と名乗らせたことからもうかがえる。こうした尊氏にとって、その基盤をゆるがす力を有していたのが大塔宮護良親王(だいとうのみやもりなが)であり、新田義貞であった。
尊氏はまず、1334(建武1)年11月、彼の打倒を策していた護良親王を鎌倉に流すことに成功する。しかし、1335(建武2)年7月には北条高時の遺児時行が信濃で兵を挙げ鎌倉を攻略することになる。世に言う、中先代(なかせんだい)の乱である。なお、この乱をきっかけにして後醍醐天皇と尊氏の間に築かれていた信頼関係が崩れることになる。ところで、この時鎌倉を守っていたのが、尊氏の弟足利直義(ただよし)であったが、彼はこの乱の混乱に乗じて、護良親王を暗殺してしまうのであった。しかし直義は北条時行が鎌倉に乱入すると、結局は鎌倉を捨て西へ逃れるということになったのである(同年7月25日)。
直義鎌倉撤退の報を聞いた足利尊氏は、弟救援のため、後醍醐天皇の勅許を得られないまま東へと向い、最終的には鎌倉を回復することになる。鎌倉から北条勢を追い出し勢いに乗った尊氏はつぎに、新田義貞を討つ名目で全国の武士に呼びかけを行うのであった。ここに足利尊氏は、後醍醐天皇に対し反旗を翻すことになったのである。1335(建武2)年10月のことであった。

足利尊氏、京乱入、兵庫そして九州へ

①魚ノ御堂あとと言われる切戸町付近
(兵庫区切戸町)

1336(建武3)年1月末に京都を脱出し、九州へ敗走する途中、足利尊氏が陣を置き、もはやこれまでと切腹しようとまでした場所でもあり、また、湊川の戦いの際、弟の足利直義がここに本陣を置いて、楠木正成の首実検をした所でもあるということが『太平記』『梅松論』『灘太平記』などに登場する。有名な場所であったらしいが、所在地ははっきりしない。ただ、今の新川のもと須佐野橋のあった付近を土地の人は「ギョノンド」と言っていることから、そのあたりではないかと思われる。

後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏に対し、朝廷はその討伐のため、1335(建武2)年11月、新田義貞を鎌倉へ向け派兵。足利・新田両軍は同年12月、箱根竹ノ下で戦うことになる(竹ノ下の戦い)。結局足利軍は新田軍を駆逐し、その勢いで足利尊氏は翌1336(建武3)年1月に京都へ乱入した。それに対し、後醍醐天皇側は、京に入った足利尊氏を排除すべく、奥州から北畠顕家(きたばたけあきいえ)を呼び戻した。
結局、北畠・新田らの軍勢に押され、尊氏は同年1月30日には京を脱出し、丹波路を通り三草(みくさ)越えの道をとって、2月3日には兵庫の魚(ぎょ)ノ御堂(みどう)(写真①)に陣を置くのであった。この時、赤松則村は尊氏を摩耶山城に移すことを進言したが、周防(すおう)から大内氏が来援したこともあって、京奪還を計画し東へ軍を進めたのである。そして、追撃してきた後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成軍と芦屋の打出で激しい戦闘をくりひろげた。これが2月10・11日に戦われた打出合戦であるが、今、芦屋市の打出にはこの戦いにちなんで「大楠公戦跡」の碑が建てられている(写真②)。
尊氏はこの合戦に敗れ、12日に全軍をあげて兵庫から船で海路九州へと敗走したのである。兵庫から船に乗り敗走する足利軍の様子が「とるものもとりあへず、乗りおくれじとあはて騒ぐ。舟はわずかに三百余艘なり。乗らんとする人は二十萬騎に余れり」と『太平記』に描かれており、その混乱ぶりがうかがえる。また、今川了俊の書いた『灘太平記』によれば、尊氏らが魚ノ御堂で切腹しようとしたという様子が伝えられている。
なお、尊氏が兵庫を敗走する時、その地の白藤彦七郎惟村が、逃げる尊氏に対し、一族を率い中央区の脇浜より北風にのって、これを破り、新田義貞から賞賛されるという話が残されている。この時の功績により、惟村は義貞から「北風」の名字を得、名も義貞の一字を受け「貞村」とし「北風貞村」と名乗ったという。これが後世、兵庫津の名家として数えられた北風家の起こりだという(写真③)。なお、このとき義貞が白藤惟村に出したと伝えられる「新田義貞感状」が北風家には所蔵されていた。
ところで、足利尊氏が兵庫に立ち寄った際、長田区の宝満寺(写真④)の仏さまに再起を願い、武運を守るようにと祈願していったとの言い伝えが残っている。その後、尊氏は兵庫から九州へ敗走することになったが、その時次のような伝説が残されている。尊氏が敗走した筑紫(福岡県)の多々良浜で激しい戦いをくりひろげているときのこと、突風が吹き、その中から一人の少年が尊氏の前に現われ、矢竹をほしいと頼み、尊氏はその少年に一本の矢竹を与えた。そして、その後また兵庫まで攻め上ってきたとき、再び宝満寺を訪れ、矢竹の話を僧にしたところ、その僧は驚き、寺の本尊の下で見つけた矢竹を尊氏に見せた。その矢はまさしく尊氏が少年に与えた矢で、尊氏はこの寺の本尊が自分を守っていてくれたのだと悟り、のちに尊氏はこの本尊を深く信仰したという言い伝えである。
さて、九州へ逃れた足利尊氏であるが、彼は九州一円の武士を従え、水陸両軍で再び京都へ攻め上ろうとしたのである。その時、尊氏は水軍を従え、弟直義は陸軍を従えたのであった。

湊川の戦いと楠木正成の戦死

⑤楠木家、家紋「菊水」
菊は天皇家への忠誠、水は楠木一族の氏神建水分(たけみくまり)神社をあらわすという。また、一説によれば、笠置へ駆け付けた正成に後醍醐天皇が賜った酒に菊が浮かべてあったところからきているともいう。

⑥「非理法権天」の旗(湊川神社蔵)
楠木正成が軍旗に用いた「非理法権天」という言葉は、「非は理に勝つ事あたわず、理は法に勝つ事あたわず、天は明にして私なし」ということを意味する。すなわち、天つなり心理の前においては権力も束の間のものでしかなく、いつの時代においても天こそが私心なき平等な心だということである。結局、天を欺くことはできないということを示し、正成の信念がこの文字に象徴されているといえよう。

⑦南宮宇佐八幡神社(中央区脇浜町2丁目)
もともとは堂ノ川八幡と南宮八幡の2つの神社であったが、1932(昭和7)年に堂の川を南宮に合祀した。古老の言い伝えでは、楠木正成が湊川の戦いにむかう前、この地に馬を留め、宇佐八幡宮を拝んだことから、後に村人が八幡社をこの地の建てたという。なお、南宮は楠の「きへん」を後世おとしてしまったものであるといわれている。

⑧広厳寺(中央区楠町8丁目)
広厳寺は別名、楠寺ともいう。後醍醐天皇の勅願で1329(元徳1)年に開山し、開祖は元僧俊明極(しゅんみんき)和尚、本尊は薬師如来である。臨済宗南禅寺の末寺になり、正式には医王山広厳宝勝禅寺(こうごんほうしょうぜんじ)という。創建当時は七堂伽羅が完備され、四丁にわたる寺域をほこっていたという。1336(延元1)年、楠木正成が湊川の戦いを戦う前、この寺で俊明極和尚と「問うて曰く、生死交謝の時いかん。師答えて曰く、両頭倶に裁断、一剣倚天寒し。…」というような禅問答をし、大いに悟るところあって戦いにのぞんだといわれている。一方、この寺は湊川の戦いの翌年、赤松範資(のりすけ)が建立したと主張する説もある。

九州で軍勢を整え、足利軍が京へ向け出発するのは1336(延元1)年4月3日のことである。軍勢は東へ東へ進み、5月10日には備後(広島県)の鞆(とも)ノ津(つ)を出発した。一方、尊氏討伐のため、新田義貞が西へと向かったが、播磨の赤松則村の白旗(しろはた)城(赤穂郡上郡町)を攻めあぐんでいた。また、義貞の弟、脇屋義助はその西の備前国(岡山県)三石(みついし)城を攻めていた。5月15日、海上を行く足利尊氏が備前児島に到着し、5月18日には陸路の直義軍が、三石攻めをする脇屋軍を三石から撤退させ、その知らせを聞いた新田義貞も白旗城攻撃をやめ、いったん東へ退却を余儀なくされてしまった。
一方、新田軍不利といった情勢が都の後醍醐天皇にも伝わり、天皇は楠木正成を援軍に新田のもとへ走らせることにした。5月21日、楠木正成は菊水の旗(写真⑤)と「非理法権天」の旗(写真⑥)をなびかせ京都を出発。途中、楠木正成は5月22日に桜井の駅で、長男正行(まさつら)を河内に帰したという「桜井の駅の別れ」を『太平記』には描くが、これの真偽についてははっきりしない。
さて、楠木正成が兵庫に到着したのは5月24日のことであり、その軍勢は五百とも七百とも言われる。なお、正成が兵庫に向かう途中、中央区の南宮宇佐(なんぐううさ)八幡神社(写真⑦)付近に馬を留めて武運を祈願したという古老の言い伝えがある。また、正成は中央区の広厳寺(こうごんじ)(写真⑧)に立ち寄り、この寺で禅問答をし、大いに悟るところあって戦いにのぞんだとも言われている。兵庫に着いた正成は24日の夜、新田義貞の陣で最後の軍議を持ち、その夜二人は「夜もすがらの物語に、数盃の興をぞ添えられける」と遅くまで酒をくみかわしたことが『太平記』には書かれている。
軍議の際、新田義貞・楠木正成の両将は合戦の布陣を決めたが、それは正成が足利の陸軍に対するため兵庫区の会下山(えげやま)付近に、また、義貞が水軍にあたるために兵庫経ヶ島(きょうがしま)に陣を置くというものであった。この時、正成は約七百、義貞は約二万という数の軍勢であったが、それに対する足利軍は『太平記』には五十万とも百万とも伝えられるがこれは誇張で、実際のところは多くても十万くらいであったものと思われる。
いよいよ、翌日、1336(延元1)年5月25日、『太平記』のクライマックスともいえる「湊川の戦い」が戦われるのであった。兵庫区の会下山付近に陣を置いた楠木正成、そして弟の正季(まさすえ)であったが、会下山公園の中に「大楠公湊川陣之遺蹟」の碑が建てられている(写真⑨)。なお、当時の湊川は今の新開地の本通りを流れており、会下山はこの川の西側に位置することになる。さて、足利の陸軍は弟の直義を大将に、会下山付近の楠木軍と戦うことになったが、数の上では圧倒的に不利な楠木軍もよく奮闘し、一時は大将の直義を捕まえんとするところまでいったという。
一方、新田義貞と弟脇屋義助は、足利尊氏水軍の上陸地点を経ヶ島と考え、これを迎え討つべく、大輪田ノ泊・経ヶ島付近に陣を置いた。この時、新田方の本間孫四郎重氏という武将が、沖に浮かぶ尊氏方の軍船めがけて遠矢を放ったところ、魚をくわえた海鳥の羽をつらぬき、それらもろとも敵の船に飛び込んでいったという話を『太平記』は伝えている。そして『太平記』によれば「その矢六町あまりを越て」とあり、矢が六町(約650メートル)も飛んだということが記されている。この話にちなみ、今、和田岬小学校の校庭には「本間重氏遠射之趾」の碑がある(写真⑩)。
さて、尊氏方の水軍の一部は、経ヶ島付近に上陸したのであるが、大部分はそのまま東へ進んでいった。新田軍は上陸してきた一部の足利軍と戦いながらも、足利水軍の本隊がなおも東行するのに驚き、水軍本隊の上陸をくい止めるために、新田軍もそれについて東へ行ってしまうことになる。新田軍が生田の森あたりまで後退した時、足利水軍は反転し、備えのうすくなった大輪田ノ泊方面めがけて大挙上陸したのである。このため、会下山の楠木軍から大輪田ノ泊の新田軍というラインで布陣をとり足利方を駆逐しようとしていた作戦も意味がなくなり、足利尊氏と弟直義の両軍に挟まれ楠木軍が完全に孤立してしまうのであった。
楠木軍は総勢七百余りで、尊氏・直義両軍に囲まれてからは、前方の直義軍に向かうのが精一杯であった。三刻(六時間)ほどの間に16回もの激戦がくりひろげられ、「その勢次第々々に滅びて、後わずかに七十三騎にぞ成たりける」と楠木方はとうとう73人になってしまったことが『太平記』には描かれている。楠木正成も、もはやこれまでと思い、部下を布引方面に逃した後、湊川北の民家に入って小屋に火をかけ自刃した。これに殉ずるもの28人という(なお、『太平記』の中では73人全員が自刃したと記されている)。正成らが自刃した場所が現在の湊川神社付近で、神社の境内には「楠木正成戦歿地」の碑(写真⑪)が建てられている。
さて、『太平記』によれば、まず部下たちが念仏を十回唱えて一度に腹を切り、最後に楠木正成と弟正季が残ることになる。その後、正成・正季兄弟は刺し違えて果てるのであるが、その間際、人間は最後の一念で善悪の生を引くが九界のうちどこに生まれたいかと兄正成の問に対し、正季が「七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ」と言った『太平記』のくだりは有名で、「七度(ななたび)生れて君が代を まもるといひし楠公の いしぶき高き湊川 流れて世々の人ぞ知る」と『鉄道唱歌』64番の歌詞にもなっている。
こうして、1336(延元1)年5月25日の短いようで長かった一日が終わるのであるが、この日の戦いを後世、「湊川の戦い」と言うようになった。これは、湊川が戦いの中心であったことを物語っている。この湊川の戦いで、後醍醐天皇方の楠木正成が戦死したことは、その後の情勢を大きく左右することになり、建武政権にかわり、足利政権の樹立という新たな局面を迎えることになるのであった。(つづく)

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