225号表紙

No.225(平成3年7月)

特集:

渓流を歩く・「太平記」と神戸(上)

飛び石を伝って屏風川を渡る。骨りやすく、水かさの多い時は川からほんの少ししか頭を出していない石も多い。こんな徒渉を右に左に何度となく繰り返す

渓流を歩く

1.屏風谷(熟練者向き)

神戸電鉄大池駅〜天下辻〜屏風谷出合〜屏風辻(バス停) 所要時間約5時間

えん堤一つない深山幽谷の趣

谷の遡(そ)は下流から上流へ谷を詰めていくのが普通ですが、今月の特集「渓流を歩く」では暑い季節、体力消耗をしなくて済むよう上流からの散策を提案してみました。か細い源流が、見る見る水かさを増し、たくましくなっていく様子を、子供の成長でも見るような気分でのんびりと下って行くのもまた良いものです。下りは上り以上に足元に注意しながら、また下半身に体重がかかるので、ひざを痛めないように沢歩きしてみましょう。
屏風谷へは、神鉄大池駅から大池聖天さんの前を通って天下辻へ向かう。しばらく人家の間を通り、太陽と緑の道の道標のある所から山道に入って十五分ほど上ると、もう天下辻です。上りはここまで。
後はゆるやかな下り一方の道となります。
天下辻から屏風谷への道を北へ下ると、間もなく道の横から水がわき出し、小さなせせらぎとなってだんだん川らしくなっていく。これが屏風川の源流の一つです。
いよいよここから屏風谷出合、さらに下流へとたどります。踏み跡や、ときたま木の枝などに巻いてあるテープを目印に、小さな飛び石を頼りに川を右へ左へ渡ったり、川べりの滑りやすいコケ付き岩を踏みしめたり、時には川から離れて高巻き道を歩きますが、コースになれない人は徒渉を楽しむどころか、道に迷わないようにするだけでも大変です。初めての人はぜひ地理に明るいベテランに案内してもらうようにして下さい。
言い方を変えると、だれもが気軽には行けないため、自然がそのまま残っているところにこの谷の良さがあります。谷の自然にひかれた登山愛好家だけが訪れるようなコースなのです。砂防えん堤一つない深山幽谷の趣は昔から少しも変わっていません。
下流の川から屏風辻バス停(神姫バス)までは一本道を約三十分。大池を午前十時半スタートし、途中、写真を撮ったり何度か休憩(昼食を含む)して、屏風辻午後三時四十分発の三宮行に間に合いました。三宮行は一日にこの一便しかなく、乗り遅れた場合は、一時間に一本程度ある三田行で神鉄道場南口駅へ行けます。

2.摩耶山から布引へ(初心者・家族向け)

摩耶ケーブル・摩耶駅

摩耶山〜穂高湖〜シェール道〜徳川道〜トエンティクロス〜布引 所要時間約5時間

よく整備された明るい散策道

神戸背山の数多い渓流道の中で最もポピュラーな気持ちのよいコースです。道はよく整備されているので、家族連れでものんびりと歩いてみて下さい。
初めに名称の由来を紹介しておきますと、コースにあるシェール道は明治から大正にかけて外国人が背山をよくハイキングしたころ、ドイツ人のシェール氏が好んで歩いたのでこの名があるといわれています。トエンティクロスも、うねった川を右に左に徒渉すること二十回、ということからこの名が付きました。ほかにも六甲山に片仮名のコースが多いのは、六甲の開発期の主役が外国人であったのと、市民の側にも外国語に抵抗感の少ない神戸ならではのハイカラムードがあって、そのような呼び名にも違和感をもたなかったからでしょう。
また徳川道は、開港に伴ってたくさんの外国人が神戸に来たので、この人たちとの間のトラブルを避けるため幕府が大急ぎで山の中につくった大迂(う)回路です。この道は結局は使われず、三宮神社前で神戸事件が発生してしまいました。このように、このコースはいろいろな意味で外国人と縁の深い道です。
摩耶山へはケーブルとロープウェーを利用。久しぶりに乗るとやはり浮き浮きした気分になります。山上の摩耶自然観察園のあじさいが満開でした(見頃は七月中旬まで)。ドライブウェーを下って穂高湖へ。湖畔の周遊路を通って湖の西側に出ると、ダムから水が流れ出し勢いのよい川となって下っている。厳密に言えば、布引川は西六甲の三国池付近から流れ出し穂高湖に注いでいますが、まあ穂高湖も源流の一部とみていいでしょう。
あとはこの川に沿って幾度も川を横切りながら散策道を下りていきます。道標も整備しており、初めての人でも迷うことはまずありません。最後の布引渓谷はさすがに圧巻でした。

3.有馬滝めぐり(熟練者向き)

六甲山頂・一軒茶屋〜白石谷〜百間滝〜似位滝〜紅葉谷〜神鉄有馬温泉駅 
所要時間約4時間

変化に富んだ滝か楽しめる

六甲山から有馬へ流れ込んでいる谷筋には"有馬四十八滝"と呼ばれるほど多くの滝があります。今回はその代表的な白石谷と、支流の百間滝、似位滝をご紹介します。岩が崩れやすく、熟練者向きコースなので注意して下さい。
白石谷へは一軒茶屋から有馬側の魚屋(ととや)道を五十メートルほど下り、道標の所から左に折れ吉高神社の境内に入る。そして祠(ほこら)のような社の横を通って草深い茂みの中の小道を下ります。老杉が林立していて昼でも暗く、道が狭くて谷が迫っているため体の引締まるような思いがします。九百メートルを超す六甲最高峰直下の谷ですから、丹生・帝釈山系の屏風谷とは谷の風格、趣といった面はとにかく、荒々しさ、深さが違います。
谷筋へ出るまでに二か所ほどガケ崩れした所があります。コースに目印のテープがあり、ロープも付いているので危険というほどではありませんが、以前より荒れがひどくなっているようです。
谷筋へ下りてダムを一つ越し、しばらく下ると大安相滝です。この辺りから谷の中はどの白竜滝にかけてが谷の核心部で、名もない小さな滝も数多く、奥深い渓谷の感じが身にせまってきます。特に白竜滝の前はスケ−ルも大きく、谷全体が岩と深い緑に覆われた感じで見ごたえかあります。 
谷の入り口付近まで下り、四段になった白石滝を見てから、次は白石谷の横の支流をさかのぼると廊下状の谷になり、その上流の右の谷に百間滝、左の谷に似位滝があります。どちらもかなりの高さはあるが水量が乏しくなっています。百間滝の冬の凍結は有名で、その迫力は一見の価値があります。

『太平記』と神戸 上
〜後醍醐天皇の即位から建武中興の破局まで〜

神戸深江生活文化史料館研究員 道谷 卓

はじめに
今年のNHK大河ドラマの影響でいま『太平記』が
大ブームとなっているが、周知の通り、その中の中心的な戦い・湊川の戦いがこの神戸を舞台にくり広げられている。『太平記』は中世、南北朝の動乱期を描いた軍記物語で、14世紀頃に小島法師が著したものではないかといわれているが定かではない。なお、この物語は後醍醐天皇の倒幕運動から、鎌倉幕府の滅亡、建武中興、湊川の戦い、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)を経て三代将軍義満の時代までの半世紀近くを描いている。
そうした『太平記』の中に、湊川の戦いはもちろん、その他にも神戸が舞台となる場面が数多く登場するのである。なかでも、『太平記』の主人公のうち、楠木正成・新田義貞・足利尊氏の三人はこの神戸を舞台にしてそれぞれの運命を左右したといっても過言ではない。すなわち、正成は湊川の戦いで、義貞は御影東明処女塚(とうみょうおとめづか)の決戦で、尊氏は観応の擾乱における須磨松岡城で、という具合に三者ともこの神戸を背景に運命を決しているのである。
そこで今号から三回に分け、太平記の流れに添いながら、神戸に残る『太平記』ゆかりの場所を紹介することにしよう。

①雀の松原(東灘区魚崎西町4丁目)

②布引の滝(中央区葺合町)
元弘の変に敗れた後醍醐天皇が隠岐に流される途中、立ち寄ったとされる古来の名勝が「雀の松原」と「布引の滝」である。「雀の松原」は東灘区魚崎一帯がむかし松林であったことを伝える史跡で、今は松林の跡形もないが、魚崎西町ちびっこ広場にこの松原を詠んだ二つの歌を刻む歌碑がある。また、「布引の滝」は日本三大神滝のひとつで古くから神秘的な伝説がつくられたりした。高さ43メートルの雄滝から流れ落ちる水しぶきの壮大さには酔いしれるほどである。これらいずれの史跡とも、「源平盛衰記」などの古典文学作品にしばしば登場した。

③摩耶山(灘区摩耶山)
高さ689メートルの山で、山上に釈迦の母堂、摩耶夫人(まやぶにん)をまつる天上寺があることから名付けられた。赤松則村が摩耶山合戦を戦ったときこの山に摩耶山城を築いて幕府六波羅軍を敗退させたことは有名。

④赤松円心の碑(灘区摩耶山)
もとの摩耶山天上寺の裏手にある「円心入道赤松公」の碑。円心入道赤松公とは摩耶山合戦を戦い幕府六波羅軍を功みな戦略で破った赤松則村のこと。

『摂津名所図会』より摩耶山仞利天上寺
1796(寛政8)年発行の『摂津名所図会』に書かれた天上寺の様子。この絵の中央部にある「ニノ尾」や中央下の「七曲り」という名は『太平記』にも登場する。『太平記』の赤松則村・摩耶山合戦の箇所に、赤松入道が敵をおびき寄せた難所として「七曲とて険しく細き路」とあり、その敵を「ニノ尾より討って出たりける」とある。円心が奉納したといわれる刀(仞利天上寺蔵)

後醍醐天皇の即位と倒幕運動

二度にわたる蒙古の襲来(元寇)によって鎌倉幕府が衰退しようとしていた頃、朝廷内部でも持明院(じみょういん)統(後の北朝)と大覚寺統(後の南朝)の二派に分かれ対立していた。そして、1317(文保1)年、文保の和談の後、その翌年に即位したのが大覚寺統の後醍醐天皇であった。ところが、両統と幕府の協定のため、後醍醐天皇は自らの皇子を皇位につけることができなくなってしまい、この事態を打破するためには、天皇は幕府を滅ぼすしかなかったのである。
こうして、後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕の意志を固め、それを実行に移すことになる。天皇はまず、1324(正中1)年、日野俊基(としもと)・日野資朝(すけとも)らの計画で正中(しょうちゅう)の変を企てるが、事前に密告され失敗に終わってしまう。この時天皇は事件とは無関係であると主張し、何とか難を逃れるのであった。この失敗にもめげず、天皇の倒幕の意志は強く、今度は1331(元弘1)年に元弘の変を起こすのである。しかし、この変も天皇の近臣の密告により失敗し、天皇は南山城の笠置(かさぎ)山に逃れることになる。この時、後醍醐天皇が夢で南の木に武将の影を見たという話から楠木正成が笠置に駆付けたという説話を『太平記』は伝えている。
笠置にこもった天皇も結局は幕府に捕えられてしまい。その結果、今度はとうとう隠岐に流されてしまうことになる。1332(元弘2)年3月7日、後醍醐
天皇は京を発ち隠岐へと向かったのであるが、その時天皇はこの神戸を通過して隠岐に向かったのである。その時の様子が「増鏡」に出ており、そこには「(後醍醐天皇は)雀の松原、布引の滝など御覧じやらるるも、……生田の里をば訪はで過ぎさせ給ぬめり。湊川の宿に著かせ給へる」とあり、東灘区魚崎の「雀の松原」(写真①)や中央区の「布引の滝」(写真②)を見ながら、隠岐へと流されていったことがうかがえる。「雀の松原」「布引の滝」といった名は、他の古典文学作品にも登場し、当時としては全国的に知られた景勝地だったのである。

摂津摩耶山合戦と鎌倉幕府の滅亡

さて、後醍醐天皇が隠岐へ流された頃、鎌倉幕府ではその内部から崩壊がはじまりつつあった。将軍に代わり、実質上幕府を支配していた北条氏の専制化がよりひどいものとなり、反北条氏の御家人達との間に亀裂が生じてきたのである。そして、北条氏自身だけの横暴ならまだしも、北条家個人の一家来にしかすぎない内管領(うちかんれい)・長崎高資(たかすけ)が北条氏以上に専制をふるったた
め、より反北条派の御家人の反発を招くことになった。この反北条派の御家人が足利尊氏であり、新田義貞であった。鎌倉幕府はこのように内部体制の矛盾から破局への道を迎えるのであった。
一方、流された後醍醐天皇は、隠岐から全国の反北条派の武士たちに檄を飛ばし、鎌倉幕府倒幕を呼びかけていた。そうした中、1332(元弘2)年11月、吉野で大塔宮護良(だいとうのみやもりなが)親王が、またそれに呼応して河内千早城で楠木正成が挙兵し、幕府軍を悩ませたのである。
こうした倒幕の動きにこれまで何の動きも見せなかった播磨の赤松則村(円心)であったが、彼が幕府の六波羅探題を攻略するために兵を挙げたのが、1333(元弘3)年2月のことであった。「太平記」によれば、護良親王に従っていた則村の三男赤松則祐(のりすけ)が、親王の令旨(りょうじ)を携え、父則村に挙兵をすすめたことがその発端とされている。そして、赤松則村は播磨から摂津へと進撃し、「太平記」に「兵庫の北に当たって摩耶という山寺ありけるに、まず城郭を構えて」とあるように、閏2月とうとう摩耶山(写真③)に摩耶山城を築くのであった。今でも、摩耶山天上寺近くに赤松円心の碑があり(写真④)、もとの天上寺の境内には赤松則村・則祐親子の五輪塔が建っていた。さて、合戦の方はといえば、赤松の挙兵が護良親王にも伝わり、親王は西区の太山寺(写真⑤)の衆徒に赤松応援を命ずる令旨(写真⑥)を出し、衆徒は結局則村に従い、摩耶山合戦を戦うことになった。2月21日付けの護良親王の令旨の追記に「今月二十五日寅一点に軍勢を率いて、当国赤松城に馳せ参ぜしむべし」とあるのがそれである。こうした赤松軍の動きに、幕府六波羅軍は五千の兵で赤松の摩耶山城攻撃にのぞんだが、太山寺衆徒を含む七千騎を従えた則村は巧みな計略で幕府軍を打ち破るのであった。なお、この合戦の日を「太平記」は閏2月21日としているが、他の資料などから3月1日とするのが通説である。
こうして神戸の摩耶山を舞台に戦われた合戦の後、とうとう1333(元弘3)年5月7日に足利尊氏、赤松則村らによって六波羅探題が攻略され、同月20日には新田義貞が鎌倉を攻略し、ここに鎌倉幕府はその幕を閉じるのであった。

建武政権とその破局

隠岐を脱出し伯耆の船上山(せんじょうせん)で六波羅陥落の知らせを聞いた後醍醐天皇は、1333(元弘3)年5月23日に船上山を出発し、京へと向かったのである。その途中、5月31日に兵庫に到着している。天皇はこの時兵庫区の福厳寺(ふくごんじ)(写真⑦)を行在所(あんざいしょ)とし、数日間滞在しており、『太平記』にはその様子を「兵庫の福厳寺といふ寺に、儲餉(ちょしょう)の在所を点じて、しばらく御座ありける」と伝えている、また、天皇はこの寺に滞在中、病気にかかられ、兵庫区の薬仙寺観音堂の東にあった霊泉の水を薬を飲む際に使用したところその病気が治ったとの言い伝えがある(写真⑧)。
福厳寺滞在の6月1日、天皇のもとに新田義貞から
鎌倉幕府滅亡の一報が入り、翌2日、福厳寺出発の間際に河内から楠木正成の軍勢が駆付けた。その時、後醍醐天皇は正成に先導を命じ、赤松則村ら数千人の武士たちが京へ帰還する護衛として天皇に従ったのである。
こうして京都に戻り、後醍醐天皇は建武政権を樹立することになる。天皇は理想を平安時代の延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治に求め、自らの政策をすすめて行くのである。天皇に熱意はあったものの、いかんせん時の進展を無視し、その理想を当時より約300年も前の時代に置いたため、どうしても矛盾が生じることになる。しかも、鎌倉幕府を倒した武士たちに対する恩賞があまりにも薄く、その時ほとんど何もせす逃げ回っていた公家たちには比べものにならないような多額の恩賞を与えたのである。そうしたことから、恩賞に不満を持つ武士たちは、次第に後醍醐天皇の建武中興の政権から離反するようになるのであった。(つづく)

執筆者紹介
道谷 卓(みちたに・たかし)

昭和39年神戸市生まれ。
現在、関西大学大学院法学研究科在籍、神戸深江生活文化史料館研究員、東灘文化センター歴史講座講師、東灘区区民市政懇談会委員。主な著書に「日本史の中の東灘」(平成元年、東灘文化センター)、「中央区歴史物語」(平成2年、神戸市中央区役所)がある。

ページトップへ