217号表紙

No.217(平成2年11月)

特集:

旧居留地(上)

居留地の誕生と、そこで活躍した人々

神戸外国人居留地模型(神戸市立博物館展示)

神戸外国人居留地設計図。明治5年(1872)にJ・W・ハートが作成。居留地内は整然と区画され、西端にパブリック・ガーデン、海岸に沿ってプロムナード、旧生田川堤防跡を利用して遊園地(現在の東遊園地)が設けられている。歩道と車道の区分、街灯の位置、下水道の流路なども示され、当初から諸施設が計画的であったことが分かる

神戸外国人居留地

 神戸外国人居留地は、120年あまり前の慶応3年12月7日(1868年1月1日)の開港に際して設けられました。居留地は、安政5年(1858年)の通商条約に基づき、開港場・開市場で条約国の人々の居住・貿易を認めた区域で、横浜・長崎・大阪・東京にもありました。神戸の居留地では、開港当時から居留地が返還される明治32年(1899)までの30年あまり、外国人による自治が行われています。居留地を中心とする彼らの諸活動は日本人に大きな影響を与え、神戸の発展に貢献したといわれます。
 神戸の居留地は、慶応3年(1867)の取り決めで、東は旧生田川(現フラワーロード)から西は鯉川(鯉川筋)、北は西国街道付近(花時計北側直路)から海岸あたりまでの範囲と定められ、工事は日本側が行うことになりました。しかし、政治的な混乱もあって開港当時でも居留地の造成工事は完成せず、開港後の慶応4年7月から明治6年(1873)まで、4回にわたって永代借地権が競売され、イギリス人が全区画の約半数を占めます。居留地の基本的なプランは、初代兵庫県知事・伊藤博文のもとで、イギリス人ハートが作成し、全体が126区画に分けられました。
 居留地の自治運営は、各国領事らで構成され、日本側(知事)も参加する居留地会議があり、38番に置かれた行事局がその実務を担当しました、行事局は道路・下水・公園の管理などを行い、消防・警察組織ももっていたのです。

雑居地に南京町誕生

 先に述べたように、開港当時居留地の造成工事が未完成だったため、新政府は外国人の居留地外での居住を認めます。これが雑居地で、東は生田川から西は宇治川までの、山辺から海岸に至る地域です。開港当時非条約国だった中国の人々が多く住んでできたのが、現在の中華街南京町です。また、来神する外国人の増加や道路整備が進んだこともあって、明治中ごろから山手に住居専用の「異人館」が盛んに建てられます。北野町・山本通に「異人館」が残っているのはこのためです。
 居留地時代を通じて、神戸在留外国人のなかで最も多かったのは中国人です。『神戸市史』によると、明治元年(1868)10月470人を数えた外国人のうち、中国人は5割を占め。同32年には2、500人の外国人のうちの6割を超えています。また、欧米人のなかではイギリス人が圧倒的多数を占め、同じような傾向は横浜でも見られます。
 外国人は、外交官、貿易業者、お雇い外国人、宣教師、医師などいろいろな地位や職業の人たちでした。

日本人とのかかわり

 ここで、明治時代の神戸在留外国人と日本人との関係を見てみましょう。
 まず、外国人は、彼ら独自の社会をもっていました。欧米系の外国人は社交の場である神戸クラブ、スポーツの団体「コーベ・レガッタ・アンド・アスレチック・クラブ(K・R・&A・C)」、英字新聞「コーベ・クロニクル」、共同の外国人墓地など。また、中国人には中華総商会、中華同文学校、関帝廟(寺院)、墓地がありました。
 一方、日本人社会と密接な交流もありました。例えば、神戸港長になり築港計画をつくったマーシャル、水道の調査設計を行ったパーマーやバルトンなど、日本の役所に仕事を依頼された外国人がいます。また、シム、トローチックが活躍した居留地の消防、警察の設備・組織は、居留地返還後日本側に受け継がれます。そして、ウォルシュ兄弟の製紙工場が三菱に引き継がれたように、外国人が始めた企業を日本人が成長させた場合もあります。

プライベートな面での交流

 また、プライベートな面での交流も見られます。例えば、グルーム、モラエス、日立造船の祖ハンター、貿易商デラカンプなどは日本女性と国際結婚し、日本で没した人たちです。また、外国人のスポーツクラブと日本人の学生チームとの野球の試合もありました。
 明治27年(1894)、神戸の居留地で生まれた箏曲家宮城道雄は、『春の海』のなかで、居留地で西洋の音楽などを見聞きしながら育ったことが、自分の作曲や芸の上に幸いしているのではないか、と記しています。ほかに、衣食住など外国人から始まり日本人に普及した分野も数多く見られます。
 同時に、神戸港から輸出された有田、平戸焼の陶磁器が欧米人に愛用されたり、居留地行事局長兼警察署長トローチックの夫人イーダが、母国スウェーデンに茶室を建て(昭和初期)日本文化を紹介したように、外国人も日本人から何らかの影響をうけたと考えられます。
 一方、居留地は、日本人にとっての不平等条約を背景としていたため、日本の法の及ばない「外国」であり、貿易活動をはじめ、外国人との摩擦の事例も数多く残されています。また、明治〜昭和期にかけての度重なる戦争によって対戦国の人々が帰国を余儀なくされたり、「六甲山の開祖」と讃えられたグルームの碑が第2次大戦中に破壊されるなど、政治情勢や社会の風潮で外国人と日本人の関係が左右されることもありました。

■参考文献
■写真・文提供

神戸市立博物館

■写真・資料提供(敬称略)

旧居留地連絡協議 関西学院KRAC 神戸市立文書館 神戸オリエンタルホテル 神戸女学院 神戸ユニオン教会 JGAゴルフミュージアム 聖和大学 中山手カトリック教会 パルモア学院 藤田与志恵 びいどろ資料庫 横浜開港資料館

神戸外国人居留地区画図

明治時代の主な居住者

No.1.
モーリャン・ハイマン商会
No.2.
香港上海銀行
No.5.
ドイツ、イタリア、ロシア、スイス領事館
No.7.
コーンズ商会
No.9.
イギリス、スペイン、オーストリア=ハンガリー領事館
No.15.
アメリカ領事館
No.16.
P・S・カベルデュ商会
No.18.
A・C・シム商会
No.20.
A・N・ハンセル設計事務所
No.29.
E・H・ハンター商会
No.31.
ビリヤード場
No.37.
ローマカトリック教会
No.38.
居留地警察署、居留地行事局
No.40.
ヒョーゴ・ブリュワリー(ビールエ場)
No.41.
カトリック・ミッション学校
No.47.
エストマン商会
No.48.
ユニオンプロテスタント教会
No.56.
ホテル・ド・コロニー
No.79.
クラブ・コンコルディア(ドイツ人クラブ)
No.80.
オリエンタル・ホテル
No.90.
オランダ、スウェーデン、ノルウェー領事館
No.108、119、124.
モーリャン・ハイマン商会倉庫
No.118.
ベルギー領事館
伊藤博文

伊藤俊輔(のち博文)と神戸とは縁故が深く数々の足跡を残している。俊輔が新政府の東久世通禧(みちとみ)と兵庫に来たのは明治元年(1868)1月で、神戸事件が起きた直後だった。神戸事件は、神戸沖に停泊していた外国軍艦の水兵を備前池田藩士が今の三宮神社前付近で傷つけたことから、軍艦から陸戦隊が上陸して神戸を占領した。神戸の人々の動揺は大変なものだった。
この事件を解決した俊輔は、兵庫の切戸町にあった幕府の大坂奉行所に仮事務所を置き、新政に着手した。当時の兵庫は幕吏はすでに去り、すべての制度・施設・事務は一からのやり直しで困難を極めた。同年5月、兵庫県庁の発足と同時に俊輔は初代知事となった。
外国人居留地の創設にも深くかかわった彼の名は、伊藤町の地名で今も残っている。

ヘルマン・トローチック

トローチックは神戸開港直後来神。明治五年(一八七二)から、居留地が日本に返還された明治三十二年まで居留地行事局の局長を勤め、居留地警察署長も兼ねた。行事局は居留地の行政や運営に当たる外国人の自治機関で、彼の就任は初代兵庫県知事伊藤俊輔の強力な後押しがあったといわれている。
ところで、トローチックが神戸に着いた時、彼は目をむいて驚いた。居留地とは単に予定地に過ぎず、日本政府が用意していた1マイル四方は、ただの砂浜だった。上陸してきた外国人は例外なく住居に悩まされ、最初は寺院の軒先などを借りて雨露をしのいだ。

A.C.シム

居留地18番でA.C.シム商会を開いたシムは明治3年(1870)、スポーツ好きの居留外国人に呼びかけ、「コーベ・レガッタ・アンド・アスレチック・クラブ」( K.R.&A.C.)を創設。彼らはレガッタのほかクリケット、ラグビー、サッカー、野球などさまざまなスポーツを行い、これがやがて日本人の間に普及していった。シムは居留地消防隊の隊長としても活躍。火災の際はいつも先頭に立って消火にあたった。
K.R.&A.C.は、120年後の今も神戸在住の外国人たちのスポーツクラブとして活動している。

ラムネ瓶 大正〜昭和初期びいどろ史料庫蔵

「18番」という名のラムネ

明治17年(1884)ごろ神戸で初めてラムネが売り出され、「18番」の名で人々に親しまれていた。
ラムネの製造・発売元であるA.C.シム商会が居留地18番にあり、ラムネを「18番」の商号で売り出したためである。英国製の瓶に詰められた「18番」は、そのハイカラさと、泡の出る珍しい飲みものということで日本人の間で大変な人気を呼び、18番のシム商会は一躍有名になった。

A.H.グルーム

イギリスのロンドン生まれ。神戸や横浜で貿易に従事。六甲山の開祖として知られ、山上に別荘地を開き、明治36年(1903)に日本で最初のゴルフクラブ(神戸ゴルフ倶楽部)を創設した。親日家で、三女の岸りうの回想では、服装や髪型など家族に日本の伝統を守らせることは、日本人以上だったという。葬儀は日蓮宗で行われた。

ハンセルが設計した旧ハッサム住宅(相楽園内、重要文化財)。明治35年築。かつては北野町2丁目に建っていたが、昭和36年取り壊されるところを保存され、同38年相楽園に移築された

A.N.ハンセル

ロンドンで建築の修業をした後、明治21年(1888)来日、同25年に神戸居留地に移り、日本を去る大正8年(1919)までここに設計事務所を開設していた。この間、ハッサム住宅(相楽園内、重要文化財)や北野の萌黄の館(重要文化財)など、彼が手がけた外国商館、住宅、学校は40数棟にのぼる。その作風は、既成の考え方にとらわれず、自由で幅の広い技法を用い、壁面・切妻・煙突の処理などに特徴があった。

W.J.d.モラエス

ポルトガルのリスボン生まれ。もと海軍軍人で明治22年(1889)年に初来日し、同31年、日本永住を決意して神戸へ移住した。神戸・大阪総領事などを務め、晩年は妻の故郷徳島へ移り、そこで没した。この間多くの著作で日本文化を世界に紹介している。昭和39年に、県・市・商工会議所、ポルトガル外務大臣、神戸史談会らの有志によって、モラエスの記念像が東遊園地に建てられた。

J.W.ランバスは居留地47番に南美以美教会を設立した 神戸美以教会、神戸中央教会として発展し大正11年(1922)、下山手通4丁目に赤レンガ造りの神戸栄光教会を新築した。神戸を代表する教会の一つである

J.W.ランバス(老ランバス)

ランバスは明治19年(1886)、アメリカ南部の教会から日本伝道の責任者として日本に派遣され、神戸に来た。続いて当時32歳の青年宣教師だった長男のW.R.ランバスも来神、居留地47番の自宅を教会代りに開放し、老ランバスは礼拝のつどいに力を注ぎ、夜は若ランバスが自室を「読書館」と名付けて英語を教えた。礼拝のつどいは栄光教会(中央区下山手通4丁目)の基礎をつくり、読書館は後にパルモア学院(中央区北長狭通4丁目)として発展、さらには関西学院の創立へとつながった。
老ランバスは明治25年、62歳で神戸で死去、彼の足跡を刻んだ墓碑は修法ヶ原外国人墓地にある。

W.R.ランバス(若ランバス)

生まれは中国。15歳の時、中国伝道の両親と離れてアメリ力へ単身帰国し、大学で神学と医学を学んだ。この間に彼は両親に、「私がそちらに帰るまで東洋にいて下さい。たとえいられなくても、私は東洋へ行く決心です」という手紙を送っている。
 彼は明治22年(1889)9月、神戸市東部の原田の森(現在の王子公園の一角)に木造2階建ての校舎兼寄宿舎を建て、授業を始めた。関西学院の始まりである。初代院長となり、学校はその後、昭和4年(1929)に西宮市上ヶ原に校舎を移転、同7年に多年の念願であった大学昇格を果たした。

メリー・イサベラ・ランバス(J.W.ランバス夫人)

エディンバラの名門の出身で、第22・24代のアメリカ大統領クリーヴランドの従妹にあたる。いわゆる上流家庭の女性だが、黒人家庭での伝道集会でランバスと知り合い結ばれた。神戸に来てからも婦人を集めて英語や洋裁、手芸を教える一方、明治21年(1888)、ランバス記念伝道女学校(聖和大学の前身)を創設するなど、自らも女子教育の振興に尽くした。

神戸のキリスト教会と学校

神戸でキリスト教が隆盛したのは、外国人居留地が設定され、宣教師が海陸交通の要衝であるこの地を拠点として教勢の発展を妬ろうとしたことによるといわれている。明治19年に居留地47番にランバス父子が教会・読書館を創立し、現在の栄光教会、関西学院の基礎となった例のほか次のような教会、学校、病院がある。

パルモア学院 ランバス父子が開いた読書館は、明治20年(1887)パルモーア英学院と命名。昼間部を関西学院として独立させた後、大正12年(1923)にタイプ科女子生徒を分離しパルモア女子英学校(啓明女学院の前身)を設立。昭和27年(1952)、パルモア診療所(現パルモア病院)を設立した。

聖ミカエル教会・聖ミカエル国際学校・松陰女子学院 英国福音宣布協会(SPG)のH.J.フォスが設立した聖バルナバ教会(明治9年、下山手通3丁目に設立)、乾行義塾(同11年、栄町通4丁目)、松陰女学校(同25年、北野町1丁目)が、それぞれ発展して神戸の宗教、教育界に大きく寄与している。

神戸女学院 イライザ・カルカット、ジュリア・E・ダッドレイが明治8年(1875)中央区山本通2丁目に兵庫県内で初の女子学校を開設。宣教師には「神戸ホーム」、一般には「神戸諏訪山女学校」または「山本通の女(おんな)学校」と呼ばれていた。現在の西宮市岡田山には昭和8年に移転。

中山手カトリック教会 明治3年(1870)、居留地37番に聖堂が完成、ムニクウ神父が献堂式を挙行した。大正12年(1923)、聖堂が老朽化したため、現在の中山手1丁目に新築、移転した。

日本キリスト教団神戸教会 明治7年(1874)、元町通5丁目に関西で初めて日本人が設立したプロテスタント教会(摂津第1公会)を前身にしている。明治21年、現在の中央区花隈町9丁目に移った。

居留地92番ヘリア商会での茶の包装作業。茶(緑茶)は、明治20年(1887)まで神戸港からの輸出品では第1位を占めた

小泉 八雲(こいずみ やぐも)

ラフカディオ・ハーンは島根の松江中学、熊本の第5高等学校の英語講師を経て明治27年(1894)、神戸でロイター通信社と特約した最初の英字新聞「コーべ・クロニクル」の論説記者となり、同29年8月、束京大学英文科講師として東京へ移るまで妻節子と神戸での生活を楽しんだ。彼はこの間、29年2月にイギリス国籍から日本に帰化し、姓を小泉八雲と改めた。
 クロニクルでの待遇は月給100円。1日1本、好きなことを書いてもらえばよいという条件だったようで、彼はよく町に出て、そこで見た印象をそのまま記事にしていた。

E.H.ハンター

ハンターはアイルランドの生まれ。慶応3年(1868)、同郷のキルビーが神戸で機械・雑貨の輸入を始めると、彼も神戸に来て居留地29番で貿易を始めた。キルビーは、日本でも将来造船業が盛んになると予想し小野浜に造船所をつくったが、ハンターも明治12年(1879)大阪に大阪鉄工所をつくった。これが日立造船所の前身である。
貿易と造船業のほか、ハンターは精米・製紙・海運業など種々の事業を経営、大正6年(1917)神戸で死んだ。北野町にあったハンター邸は昭和38年、王子公園に移築、重要文化財として保存されている。

旧居留地を望む。東はフラワーロード、西は鯉川筋(写真左)、北は花時計〜大丸神戸店北側道路、南は海岸辺りまでの区域。昔の面影は年々なくなってきた(昨年7月、ホテルオークラ神戸から撮影)

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