214号表紙

No.214(平成2年8月)

特集:

和田岬線の風景

ノスタルジー和田岬線 1世紀の歩み

楽しそうに開業百年を祝った沿線の住民

 JR西日本の和田岬線(兵庫駅〜和田岬駅間二・七
キロ)が七月八日、開業百周年を迎えた。この日、兵庫・和田岬両駅では記念行事「ノスタルジー和田岬線・一世紀の歩み」が開かれ、昭和三十年代に東京〜大阪間の特急「つぼめ」号で活躍したマイテ492(一等展望車)など、新旧五両連結の記念列車を走らせたり、駅・乗務員らが明治時代の詰め襟の制服を着て、郷愁を誘った。このほか、駅コンサートや記念グッズの販売、縁日などが設けられ、沿線の人々もたくさん詰めかけて、鉄道ファンと一緒に楽しそうにこの日を祝っていた。

「祝和田岬線百周年」のヘッドマークを付け快調に走る記念列車(七月八日)。鉄道ファンが線路のすぐそばで盛んにカメラを向けていた

鉄道建設用の資材運搬線として開業

 和田岬線は明治二十三年(一八九〇)七月八日、山陽鉄道株式会社(明治三十九年国有化)の貨物専用線として開業した。鉄道の敷設工事が行われるようになって、イギリスから送られてくる機関車や資材を和田岬棧橋で陸揚げして兵庫へ運ぶ資材運搬線が必要になったためである。
 明治二十三年といえば、神戸市が誕生した翌年である。市制発足時の市の人口は約十三万五千人。市域も神戸区に葺合村と荒田村(現・中央区・兵庫区の一部)をあわせた約二十一平方キロというごく狭いもので、兵庫の町並みの外郭は市の西端であった。和田岬線は柳原停車場(現・兵庫駅)から下り方向へ出て半径の小さい曲線で南東方向に向きを変え、この外郭線に沿って、ほぼ直線で和田岬に向かっていた。
 最初の和田岬駅は、今より南の和田岬の先端に近い所(現在の三菱重工業神戸造船所構内)にあった。海に近く、周辺は一面の小松原で砂浜が続き、近くには砲台と和田岬灯台があり人家はなかった。砲台は、徳川幕府が摂海防衛のため勝海舟の設計で元治元年(一八六四)に完成したもので、今も三菱構内に保存されている。
 そんな人けのないひっそりとした岬に、和田岬線が開業した同じ年に私設の遊園地「和楽園」ができ、同二十八年には付属の和田岬水族放養場が設けられた。これが神戸での水族館の始めである。

沿線企業の操業が相次ぎ、隆盛の一途

 そして、明治二十九年鐘淵紡績兵庫工場、同三十八年神戸三菱造船所(現・三菱重工業神戸造船所)、同三十九年川崎造船所運河分工場(現・川崎重工業兵庫工場)と沿線企業の操業が相次ぎ、明治三十二年には兵庫運河も開通した。特に日露戦争終結(明治三十八年)以後は、周辺の人家、工場等が急増し、和田岬線は兵庫のまちとともに隆盛の一途をたどった。
 ちなみに、精紡機百台で昼夜運転を開始した鐘淵紡績は、明治の終わりごろには従業員数は三千人を超え、全国大規模作業所の上位三十位以内に入っていたという。このため、和田岬線も明治四十四年にそれまでの貨物専用から旅客車の運転を開始、同四十五年には中間駅として「鐘紡前駅」を開設した。
 また、引込線も次々と設けられた。現在も健在で活躍しているのは川崎重工兵庫工場の引込線だけになってしまったが、兵庫新川の運河から陸揚げされる物資の運搬を目的として明治三十三年に開設された新川貨物線(その後中央卸売市場、兵庫港へ延長)のほか、鐘紡兵庫工場、日本製粉、川西機械(神戸工業↓現・富士通)などが、それぞれ和田岬線から工場内へ引込線を設けていた。

市電の開通で旅客は約三分の一に減少

 このように開業以来、ひたすら快調だった和田岬線が最初に受けた手痛い打撃は、市電の開通である、大正十三年(一九二四)、市電和田・高松線が開通して神戸駅への足の便がよくなると、旅客はどっと市電に流れ、たちまち以前の約三分の一に減
少した。和田岬線イコール貨物線という開業時のイメージへの逆戻りである。
さらに昭和八年(一九三三)兵庫港駅が新設されて、和田岬線は三菱関係以外の一般貨物の取扱いが廃止となったため、倉庫業者や運送業者が相次いで兵庫港へ移転。その後鐘紡の工場の一部移転等もあって、ついに旅客汽動車の昼間運転を中止(昭和十年代)。和田岬線は三菱専用線の別名に甘んじなければならなくなった。

空襲で全く塗り替わった兵庫の下町

 そして迎えた昭和二十年。神戸空襲ー川崎・三菱造船所等爆撃(二月四日)同−市内の西半分焼失(三月十七日)。二度の空襲によって兵庫の下町一帯は焼け野原と化し、その地図は完全に塗り替わってしまった。現在の三菱造船所内にあった和田岬駅も二月に焼失、一部未完成であった今の駅舎に移転したが、ホーム以外に柵などはなく、付近一帯は畑で野菜作りをしていたという。
 しかし戦後は、駅と周辺は次第に整備され、貨客の輸送も年を追って増加していった。列車の運転本数も増え、客車をけん引する機関車は大正時代の花形8600型式機が昭和三十七年、DD13型にその地位を
譲り現在に至っている。この間、企業は伸長し、それにあわせて通勤客もどんどん増えた。「デッキに鈴なり、超満員列車」「定員の三倍乗せて……」などと、マスコミがとりあげたのもこのころである。

一日約七千人が利用する朝夕の通勤列車

 昭和三十七年度の和田岬駅の収入構成をみると、旅客五十六%、貨物四十四%と初めて旅客が貨物を抜き、四十三年度になると差はさらに開いて、旅客八十二%、貨物十八%となった。現在は朝夕の通勤列車だけを運行しているが、それでも一日に約七千人が利用する都会の中の"ミニローカル線"として、みんなから親しまれている。
 明治から百年、数々の喜び、悲しみをその鉄路に刻み込んできた和田岬線は、これからも郷愁をふりまきながら、地域とともに元気に走り続けることだろう。

写真・資料提供(敬称略)

エリエイ出版部・神戸市立博物館・神戸市立文書館・遠矢尋常小学校同窓会・西日本旅客鉄道叶_戸駅・文芸春秋社・三菱重工業叶_戸造船所・石山芳夫・亀井一男・小寺康正・坂本守夫・雑喉謙・山本雅生

和田岬線近くの繁華街

郷土史家 三船 清

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