210号表紙

No.210(平成2年4月)

特集:

神戸の碑

神戸の碑

神戸の碑

激動の開港前後

(1)開港当日の神戸港風景
(2)和田岬砲台(三菱重工業神戸造船所構内)。沿岸防衛のため、幕府は安政4年(1857)から諸藩に命じて次々と砲台を作らせた
(3)明治初期の大砲(三宮神社境内)
(4)神戸外国人居留地跡の碑(大丸神戸店前)


表紙写真・源平古戦場「戦の浜」(須磨区須磨浦公園)

 寿永3年(1184)2月、東は生田の森、西は須磨一の谷の付近までを戦場にした源平の合戦は、平家一門の主だった10人が戦死するというさんたんたる敗北に終わり、平家は海から四国・高松の屋島へ逃げた。神戸を愛し、経ヶ島の築造や福原遷都を成し遂げた平清盛の没後3年に、同じ神戸でこの出来事が起きたのは何とも皮肉である。
 源平古戦場「戦の浜」碑をはじめ、平家一の谷西門の大将・平忠度の腕塚(長田区駒ヶ林4)、生田の森の大将・平知盛の身代わりとなったその子知章の碑(長田区5番町8)、16歳の若武者・平敦盛の供養塔(須磨浦公園)など、この合戦にちなんだ碑や墓が15ほど今も市内にある。

神戸の歴史を語りかける記念碑

神戸史学会副代表 有井 基


  • 海軍操練所跡
    (中央区海岸通1丁目)
     文久3年(1863)、将軍徳川家茂(いえもち)が沿岸視察でこの地に立ち寄ったとき、案内役を務めた勝海舟は海軍興隆を説き、士官養成のための海軍操練所をここに開設することを申し出て許された。やがて操練所の建物や塾生の宿舎もでき、蒸気船2隻も配備されて元治元年(1864)5月、開所された。このころ海舟は軍艦奉行に任じられている。
     海軍操練所には坂本竜馬や陸奥宗光(のち外務大臣)らの逸材が集まったが、入所を希望する者は幕府に反対派の者まで入所させたりしたので、海舟はこの年の秋に江戸に召還され、軍艦奉行を解任。操練所も翌年3月閉鎖された。将軍家茂の上陸を記念して、海舟がここに建てた「海軍営の碑」は大正時代に諏訪山金星台に移され、現在も建っている。

    海軍営の碑
  • 神戸電信発祥の地
    (中央区海岸通1丁目)
     海軍操練所跡の碑のすぐ前に「神戸電信発祥の地」の碑がある。明治の幕あけを告げるように明治3年(1870)10月、神戸電信局が開局、神戸・大阪間に電信が開通した。電信局は最初は東運上所(現・第三港湾建設局の地)にあったが、明治10年ごろ東川崎町へ移った。運上所は明治6年、神戸税関と改称された。
     居留地内でガス事業が始まったのは明治7年、神戸で初めて湊川神社と相生橋に電灯がついたのは同21年、そして神戸電話交換局の開設は同26年である。
  • (すずめ)の松原跡
    (東灘区魚崎西町4丁目)
     住吉川口、魚崎一帯の美しい松原は、古くから景勝地として知られ、雀の松原と呼ばれてきた。魚崎西町の児童公園に、松原跡の碑とここを歌った歌碑がある。山陽道沿いの松林は軍事的にも利用されており、源平の合戦、南北朝の動乱、戦国の乱世の各時代に、ここが戦時の陣地になったことが「平家物語」などに記録されている。

    伝説〈雀の合戦〉
     昔、雀の松原にはたくさん雀が住んでいた。そこへ3年に一度ほど山奥の丹波から雀の大軍が押し寄せて、ここの雀と大合戦をしたという。数十日続くこの雀合戦を見ようと、大勢の人々が訪れた。そのうちある村人が、斃(たお)れた雀をひろい集めて見物人のために、合戦のあいだ焼鳥の店を開いた。これがまた灘名物となり、松原には旅人のための「雀宿」という宿屋もできたということである。

    雀の松原を歌った歌碑。「雀松原遺址 杖とめて千代の古塚とへよかしここや昔のすゝめ松原」
  • 有鐶銅繹(ゆうかんどうたく)発掘之地
    (東灘区渦森台1丁目)
     弥生時代の首長たちが、その権威のシンボルとしたのが鐸や剣、鉾(ほこ)など青銅の宝具である。昭和9年、住吉川西谷の上流、渦ケ森で道路工事中に銅鐸が発掘された。高さ47.7cm、表面に四区に分けた袈裟襷文(けさだすきもん)をもち、内部に舌をつるすための環状の装置があるのが注目された。銅鐸は今は東京国立博物館に保管されている。
     また、発掘から30年後、灘区桜ケ丘町で銅鐸14個と銅戈(どうか)7本が出土した。これらの出土品は昭和45年国宝に指定され、市立博物館に保管されている。
  • 兵庫城跡―最初の兵庫県庁の地―
    (兵庫区中之島、中央卸売市場本場北側)
     天正8年(1580)。池田信輝・輝政父子は花隈城を攻め落とした功によって織田信長から兵庫の土地を与えられ、池田氏は翌9年、天守閣を備えた兵庫城を築いた。その位置は、中央卸売市場本場の山手側の切戸町と中之島の一部にかけて東西、南北ともおよそ140mの地域で、周囲には幅3・6mの堀があった。
     明治維新になって新政府は元年(1868)1月、この城の一部に兵庫鎮台を設けたが、2月に兵庫裁判所と名が変わり、5月には「兵庫県」と改められた。つまりここが最初の兵庫県庁となり、伊藤俊輔(博文)が初代知事になった。
     なお、兵庫区西柳原町の柳原えびす神社の北角に柳原(神戸)惣門(そうもん)跡の碑がある。ここは兵庫城の西門として、東門である湊口惣門(兵庫町1丁目、湊八幡神社前)とともに重要な門となっており、西国街道から兵庫津に入る西の入り口でもあった。
  • 兵庫県里程元標
    (中央区多聞通3丁目、湊川神社正門前)
     明治7年(1874)、日本で2番目の鉄道が神戸〜大阪間に開通し、元町通から多聞通への道は鉄道を横断することになった。このため、人や荷車の交通を便利にするためできたのが相生橋で、明治43年、橋の西詰に方30cm、高さ303cm余の石柱の「兵庫県里程元標」が建てられた。元標には大阪府、兵庫県、鳥取県、岡山県界や明石標柱までの里数が記されて、長い間往来する人に親しまれていたが、鉄道が高架になってから橋とともにのけられ、今は湊川神社の正門前に保存されている。
  • 映画記念碑
    (中央区メリケンパーク)
     高さ約3m、横幅約4mの大きな自然石の中央をスクリーン風にくり抜き、その前面に観客席風に玉石40個を配置、また、その背後には港をバックにした舞台を設置している。玉石には、映画評論家淀川長治さんが選んだ内外の著名映画俳優の名が一人ずつ刻んである。碑は、神戸開港120年記念事業として、「映画の発詳地神戸に記念碑を建てる会」が広く募金を集めて設置した。
     日本の治動写真は、明治29年(1896)11月25日から5日間、花隈の神港倶楽部(今の中央区下山手通6)で行われたキネトスコープによる興業が最初である。
  • 有馬温泉開祖の行基菩薩像
    (北区有馬町、ねがいの庭)
     行基菩薩は神亀元年(724)、六甲越えでこの地に来て衰えていた温泉を復興したが、その道中記に次のようないわれが伝えられている。菩薩が魚屋道(ととやみち)にさしかかると、一人の病人が倒れていた。聞くと「三日間何も食べておらず歩けません。どうか助けて下さい」と言うので、かわいそうに思った菩薩は里まで下りて魚を求め、再び引き返してこれを病人に与えた。すると、病人の姿がたちまち金色荘厳の仏体となり、「我は、この温泉山の薬師仏である。上人の慈悲心を試すため病身となったのだ」と告げ、姿を消した。
     感激した菩薩は、有馬で等身大の薬師如来像を刻んで温泉ゆう出の底に埋め、一寺三院を建てたという。
  • 神戸事件発生地
    (中央区三宮町1丁目、三宮神社)
     神戸の中心繁華街の一角にある三宮神社は、西国街道に面しており、かつては深い木々に覆われて旅人の憩いの場であった。
     神戸開港早々の慶応4年(1868)1月11日に起きた神戸事件は、この神社の前であった。この日、西宮警備のため西国街道を行進中の備前藩士の隊列を横切ろうとした外国水兵を、砲隊長の滝善三郎が傷つけたことから、停泊中の軍艦から外国兵が上陸、交戦のすえ付近一帯を占領した。新政府は東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)をつかわし、運上所で外国側代表と折衝した結果、善三郎を切腹させることで維新早々の外交問題を円満におさめた。兵庫の永福寺で、外国代表者立会いの前で立派に切腹した善三郎の墓は、今は兵庫区逆瀬川町の能福寺にある。
  • A・C・シムの顕彰碑
    (中央区東遊園地)
     明治3年(1871)、香港から神戸に来たシムは、「スポーツ活動と社会活動を含めたようなクラブが必要だ」と居留地の外国人に呼びかけ、同年9月、KRAC(神戸レガッタ・アンド・アスレティック倶楽部)を創設。彼らは主として競技的スポーツの場を異人山(現在の東遊園地)に、海に、六甲山にと神戸全域に広げ、スポーツに全く無知だった当時の日本人に強い刺激を与えた。また、シムは居留地消防隊の功労者で慈善事業家としても知られた。
     この碑は明治34年、KRACのクラブハウスのあった東遊園地に神戸はじめ横浜、長崎の友人たちの善意によって建てられた。
  • 六甲開祖之碑
    (灘区六甲山上)

     六甲山の開祖といわれる英国人A・H・グルームの功績をたたえ、明治45年(1912)に現在の西六甲山上の記念碑台に建てられた碑。この碑は昭和17年に壊され、現在は、「碑を建てることば」が記された六甲山記念碑が同じ場所に建っている。開祖のことばを省いたのは、戦時中のように碑が再び取り壊されるのを恐れたグルームの遺族が、個人の顕彰碑にすることに強く反対したためといわれている。
     外国人居留地で製茶業を営んでいたグルームは、六甲山上からの景観に魅せられ、明治28年に山上に別荘を建てた。彼のすすめで間もなく50軒ほどの外国人村ができ、明治34年には日本最初といわれるゴルフ場がグルームらによって開設された。グルームはこのほか、登山路の改修、植林、砂防等にも自ら努め、また知事らにも開発の進言をするなど献身的な努力を続けた。

    グルームら多くの先覚者たちの功績をたたえた現在の六甲山記念碑
  • 雪見御所旧跡
    (兵庫区雪御所町、湊山小学校)
     平清盛が晩年の十数年を暮らした別邸のあった所。神戸の地を好んだ清盛は治承4年(1180)、わずか半年であったが京から都を福原へ移した。京都に都があった千年近い歴史の中で天皇が京の外へ出られたのは、清盛が安徳天皇をご案内した福原の都と、吉野朝時代の吉野の都の2度だけである。
     このほか、大輪田の泊(今の兵庫港)を大改修し、経ヶ島の築島をつくって、中国との貿易を開くなど、神戸と清盛のつながりは深い。塔の台石に弘安9年(1286)2月の刻銘がある13重の清盛塚が兵庫区南逆瀬川町1丁目に。また、経ヶ島を築くとき、海神の怒りをおさめるためすすんで人柱になった松王丸の石塔が、同区島上町の築島寺にある。

    平清盛画像(北区有野町二郎、布袋寺蔵)
  • 金星観測記念碑
    (中央区諏訪山金星台)
     明治7年(1874)にフランスの観測隊がここで金星の観測を行った記念碑。この観測には日本のマッチエ業の開発者清水誠も参加しており、碑にその名が出ている。諏訪山の展望台を金星台と呼ぶのはこの記念碑が建っているからである。勝海舟の「海軍営」の碑や、俳人它谷(だこく)の「紀の海の阿波へ流れる月夜かな」の句碑もあり、この山からの海の眺望の素晴らしさを伝えている。
  • 兵庫の生(いけ)洲趾
    (兵庫区今出在家町1丁目)
     兵庫南浜の今出在家町に「史蹟生洲趾」の石碑がある。一帯は古くから海運上の要地で、この浜に生簀(いけす)があったことは、今から150年前の「摂津名所図会」に、「生簀は今出在家町にあり、長さ十三間、幅四間ばかり、タイ、ハモ、スズキ諸魚を多く放ち生けて常に貯う。これを兵庫の生け魚という」と、2ページにわたるさし絵を入れて記している。また、俳人の吉分大魯(よしわけたいろ)(蕪村の門下)の句集に、兵庫の生簀にてとして「活魚のけふと過ぎけり秋の風」がある。
  • 八尾善四郎の銅像と兵庫運河
    (長田区東尻池町9丁目)
     八尾は兵庫運河開設の功労者。この銅像は、太平洋戦争中の金属供出のときも地元民の懇請で供出を免れ、最近まで高松橋のたもとから兵庫運河を見下ろしていたが、橋の改修工事で現在は取り除かれ、工事完了後(平成4年の予定)に再び立てられることになっている。
     兵庫運河が明治32年(1899)にできるまでは、兵庫の港に入る西からの船は和田岬をう回しなければならなかった。そこで、明治7年の兵庫新川の開設を継承して同28年、八尾が仲間たちと兵庫運河株式会社を設立、当初の目的であった東尻池から吉田新田・御崎町を経て兵庫新川を結ぶ大運河の建設に乗り出した。しかし、日清戦争後の土地の急騰で土地買収費が予算の6倍にはね上がるなど事業は困難をきわめ、仲間の脱落もあって、結局は八尾ひとりで工事を完成させた。また、この工事と同時に運河開削の土砂で苅藻島を整備し、船舶の運行、貨物の陸揚げを合理化した。
  • 蓮(はす)の池跡
    (長田区蓮池町)
     蓮の池は行基菩薩がこの地方のかんがい用水として造ったといわれ、美しい蓮の花が咲いたことからこの名がついた。4ヘクタール余りもある大きな池だったため、風波のうねりでたびたび堤が決壊したので、住民は池の中央に堤防を築き、風波を弱めて災害を防いだ。江戸時代の絵図を見ると、長田から一直線に西へ走る西国街道のすぐ北に、二つの目玉のような蓮の池があるが、これは中央の堤防によって、一見すれば二つの丸い池に見えたのだろう。
     この池も、今は蓮池町の地名と、市民運動場の中に「史蹟 蓮の池址」の石碑が2本残っているだけだ。なぜ2本あるかというと、昭和6年に池が埋め立てられて運動場になった時に、土地の人たちが池をしのんで碑を建てた。ところが、戦後の米軍の接収のどさくさでこの碑を失ってしまい、仕方なく新しい碑を造って元の位置に建てたところ、後になって最初の碑が出てきたので、「せっかくだから一緒に…」と2本の碑が誕生したわけだ。
  • 旧生田川址
    (中央区加納町3丁目交差点)
     旧生田川は、布引から加納町3丁目、現市庁舎前を流れ税関のところで海へ注いでいた。上流に布引の滝があったため、「津の国の生田の川の水上は今こそ見つれ布引の滝 基隆」などと詠まれ、古くから有名であった。
     しかし、この川の水害で下流の居留地がしばしば被害に遭ったため、明治4年(1871)から4年がかりで現在の新生田川へ付け替えた。旧川敷は加納宗七らが払い下げを受けて約10万坪を市街地とし、功労者の加納の名を残して加納町と名付けた。東遊園地東側のフラワーロードにも、加納宗七の像がある旧生田川跡の新しいモニュメントがある。

    旧生田川跡の新しいモニュメント
  • 鯖(さば)大師の十六羅漢
    (須磨区一の谷町2丁目、貞照寺)
     須磨浦公園の「みどりの塔」の東側から山陽電鉄のガードを北へくぐって右手へ少し上ると、真言宗八海山貞照寺がある。寺の本尊の弘法大師木像が右手に鯖一尾をさげているので、「鯖大師」と呼ばれている。境内の珍しい中国産石仏の十六羅漢像と釋迦如来像は、米騒動で知られる鈴木商店の大番頭だった金子直吉が大正8年に寄進したものである。中国・明時代の作品といわれる。
     鈴木商店は、大正はじめの第一次世界大戦当時は三井物産、三菱商事と天下を三分する大貿易商社となったが、大戦後の反動でつまずき、大正7年(1918)、米騒動で栄町通りの本店が焼打ちされ、昭和2年の金融恐慌で破産した。
  • 黄色煙草紀念碑
    (西区岩岡町上新地)
     たばこは、鉄砲とともに十六世紀の中ごろポルトガル船によってわが国に伝えられ江戸時代に入って急速に流行した。天知二年(一六八二)、越前大町から転封されて明石城へ入った松平直明は、ただちに岩岡、神出などの開拓を始めたが、岩岡では水をあまり必要としないたばこを栽培させた。赤坂煙草といって後に明石藩の物産の一つとなり、藩の財政を豊かにした。
     明治政府も、たばこの有利さに目をつけて政府の専売品とし、明治三十三年(一九〇〇)、アメリカ種の黄色たばこのたねを仕入れて岩岡で栽培し好成績をあげた。日本では最初のことで、近代たばこ発祥の地は岩岡だといわれている。現在も岩岡黄色たばこ耕作組合があり、西区の岩岡・神出町のほか明石市と加古川市の六町が加入している。
  • 呉錦堂顕彰碑
    (西区神出町小束野)
     舞子の移情閣(八角堂)を建てた神戸の華僑・呉錦堂は、明治40年(1907)ごろ神出町雌岡(めっこ)山麓の小束野の山林を開拓し、水田をひらいた。山田川疎水組合に加入して山田川の水を神出に引いたり、宮ヶ谷池をつくって水利を図った結果、大正7年には新開墾地としてはかつてない3石5斗の収穫をあげ、県から表彰された。
     また、多額の私費を投じて山林の開拓、池の築造、入植者用の無償住居を建てたりしたため、今日は農地の所有者となって繁栄している小束野の住民は昭和32年10月、小束野の中心部に呉錦堂の顕彰碑を建ててその徳をたたえ、宮ヶ谷池を呉錦堂池と改称して名を後世に伝えることにした。


  • 舞子の八角堂の内部。八方に窓が開いていて、どの窓から見てもそれぞれ景色が変わり、思わず見とれることから「移情閣」とも呼ばれている。中国の革命家・孫文が来神した際、ここで歓迎会を開いたことがある

    呉錦堂の徳をたたえてその名を残した呉錦堂池と、池に沿って走る神出山田自転車道(神出町古神)
  • 淡河川山田川疎水 大改修記念碑
    (西区神出町紫田(ゆうだ))
     西区の神出、岩岡町一帯は土地が高燥で利用できる河川がないため、古くからかんがい用水に不自由していた。明和8年(1771)に淡河川からの引水を計画したが実現せず、明治21年(1888)になって、英国人の技師の指導でまず淡河川疎水の工事が行われた。この完成で約1、800町歩の田がかんがいされたが、せっかくのこの水も、現在の加古郡稲見町一帯だけが利用し、神出や岩岡は使用することができなかった。
     そこで、明治41年に山田川疎水工事に着手、8年間かかって大正4年にようやく完成した。遠い祖先の代から水不足に悩んできた両町の農家にとっては画期的な大事業であった。
     この工事の完成によって神出町紫田の練部屋(ねりべや)に分水所が設けられ、分水所に流れ込む淡河川・山田川疎水の水をここで調整して神出、岩岡町や加古郡などへ仲良く分水している。

    淡河川山田川疎水の分水所
  • ジョセフ・ヒコ居宅跡
    (中央区中山手通6丁目)
     ジョセフ・ヒコはもとの名を浜田彦蔵といい、県下加古郡で生まれた。嘉永3年(1850)、15歳のとき江戸から兵庫へ船で帰る途中、暴風に遭い漂流、米国船に救われてサンフランシスコに着いた。約1年後、便船により送還されたが、志を立てて香港から再びサンフランシスコへ引き返し、ミッションスクールで学んでカトリック教徒となり、日本人として初めて米国に帰化。安政6年(1859)のわが国開港の際に米国官吏として日本へ帰った。
     文久2年(1862)から横浜に住み、わが国最初の新聞「海外新聞」を発行。約2年間にわたって貴重な海外ニュースを紹介した。明治8年(1875)神戸に来て製茶貿易や製米業を営み、中山手通6丁目29番地に家を新築、同21年、病を患い東京へ移るまでここに住んでいた。一代の風雲児であった。今の神戸掖済会病院玄関西側に「本邦民間新聞創始者ジョセフ・ヒコ氏居址」の碑がある。
  • 大楠公湊川陣之遺蹟
    (兵庫区会下山公園)
     九州から大軍をひきいて攻め上ってきた足利尊氏を迎え討つ官軍の布陣は、楠正成の軍が今の会下山一帯に陣を張って陸路の敵に備え、新田義貞軍が和田岬から兵庫駅付近に布陣して海軍に備え、その一部は楠公の本隊の援護にあたる態勢であった。
     延元元年(1336)5月、湊川の合戦は朝8時ごろから霧の晴れ間をついて始まり、わずか6時間後に楠公勢は壊滅、正成と弟の正季が付近の民家で切腹するという悲劇的な結末となった。楠公を援護するはずだった新田勢がほとんど戦わずに逃げたため、完全に敵軍の中に孤立したのが敗北の原因といわれている。会下山公園に、海軍元帥東郷平八郎書の「大楠公湊川陣之遺蹟」の碑がある。

    花見客でにぎわう会下山公園(4月1日)
  • 水島銕也先生終焉(しゅうえん)之地
    (中央区熊内町5丁目)
     神戸高等商業学校(現・神戸大学)は明治36年(1903)、東京に次ぐ第二の官立高商として開校した。神戸開港30周年にあたって神戸市が強く要望していたものであるが、設立について激しく大阪と争った。
     初代校長水島銕也は、創立委員当初から関係し、商業大学に昇格するまで実に27年間にわたって在任しただけでなく、創設・経営ともにその手腕に負うところが多かった。そのため「水島の学校」とまで言われたほどだった。すでに生存中に校内に寿像が建てられ、65歳で没した熊内町の地には門下生らによって終焉の地の碑が建てられた。なお、高商跡は現在の市立葺合高校である。
  • 処女(おとめ)塚古墳
    (東灘区御影塚町2丁目)
     この処女塚を中に、東西それぞれ約2kmの地に処女塚の方を向いた2基の前方後円墳があった。住吉川下流西岸(東灘区住吉宮町1丁目)の塚は東求女(もとめ)塚、都賀川下流西岸(灘区都通3丁目)のものは西求女塚と呼ばれ、これらの塚にまつわる悲恋の伝説が古くからある。
     昔、この辺りに住む美しい処女に、多くの若者が言いよった。中でも、和泉の国から来た壮士(おとこ)と、この地の壮士の二人が求婚。彼らは太刀をにぎり弓を取って、火の中、水の中もいとわずとせりあった。処女はそれを見て、私のような者のために立派な若者を争わせたうえは、この世でだれとも結婚できない。あの世で待つしかないと、母親にささやきつつ死んでいった。これを知った壮士2人も、それぞれが近くの川に飛び込み後を追って死んでしまった。そこで縁者が集まり、純情かれんな三人の話を後世に語り継ごうと、これらの塚を造ったという。
     大伴家持ら万葉の歌人もこの伝説を歌にうたっている。

    求女塚(東灘区住吉宮町一丁目)
  • 賀川豊彦生誕100年記念碑
    (中央区小野柄通1丁目、生田川公園)
     明治43年(1910)の暮れ、荷車にふとんとこうり一つを積んだ見すぼらしい青年が葺合(現・中央区)の新生田川地区に引っ越してきた。この青年がのちに社会悪とたたかう先覚者として、日本はもちろん海外にその名を知られた賀川豊彦で、当時は神戸神学校の学生であった。彼は5畳敷の朽ち荒れた狭い家に住み、皮膚病やトラホームに感染しながら、貧しい人たちへの献身的な奉仕を黙々と続けた。
     このような奉仕活動のほか、大正10年(1921)に起こった川崎、三菱の大争議でも無抵抗主義の指導者としてストライキの先頭に立ち、多くの労働運動幹部とともに警察に検挙された。大正9年に彼の指導で誕生した神戸消費組合は、今日の灘神戸生活協同組合として発展している。賀川の自伝小説「死線を越えて」は有名である。
  • 山本亀太郎顕彰碑
    (中央区諏訪山公園)
     山本亀太郎は文久元年(1861)大阪で生まれ、茶業の見習いをした後、明治8年(1875)ごろから神戸の居留地の外国商館へ茶の売り込みに来ていたようだ。茶は明治の中ごろまで、神戸の輸出第一位であった。明治12年、第1回全国製茶共進会が発足。その影響で神戸にも「製茶改良会社」が設立され山本はその副社長となっている。その後も兵庫県茶業組合取締役頭取、神戸区茶業組合長などを歴任、同25年に神戸商業会議所の6代目会頭に推された。
     明治32年、製茶課税廃止陳情のため渡米、その先頭に立って運動し、目的を達成した。彼の顕彰碑は、全国の茶業者がそれを徳として、諏訪山公園に建てたものである。
  • わが国ゴム工業勃興の地
    (長田区神楽町1丁目)
     神戸のゴム工業は、明治後期から始まった。明治四十二年(一九〇九)にダンロップ株式会社が脇浜に工場を建設したことが、神戸のゴム工業の技術を進歩させた。大正七年(一九一八)神港ゴム工業所が日本で最初の硫化ゴム靴を製造し大当たりしてから、長田区内に小規模なゴム工場が続々と誕生し、日本有数のゴム工場街に発展した。戦争中は原料のゴム不足から激減したが、戦後、塩化ビニールの登場でケミカルシューズの製造が始まり、伝統がよみがえった。ケミカルシューズは国内だけでなく、広く海外に輸出されて日本の経済復興に貢献、今日も神戸の主要地場産業として活況をみせている。
  • 耕地整理紀念碑
    (兵庫区菊水町4丁目)
     神戸における近代的まちづくりの先駆は、明治初年の旧居留地の築造だが、その後、道路、鉄道、公園などが順次整備されていった。そんな当時のまちづくりに大きく貢献したものに耕地整理がある。これは将来、市街地に発展することが予想される農地に、計画的な道路を整備し土地の整理を行ったもので、明治四十二年(一九〇九)に改正耕地整理法が施行されると、葺合、神戸、西部、板宿、東須磨、西灘などの各耕地整理組合が設立され、次第に市街地が形成された。
  • 日本近代洋服発祥の地
    (中央区東遊園地)
     洋服の型紙を石で立体的に表現したユニークな彫刻である。神戸に近代洋服が紹介されたのは明治2年(1869)、英国人カペル(通称)が外国人居留地16番館で洋服店を開業したのがはじまりだった。明治5年に洋服着用大政官発令が出され、それから100年たった昭和49年に、神戸洋服商工協同組合が顕彰のためこの彫刻を設置した。
  • 毎日登山発祥の地・善助茶屋跡
    (中央区再度山)
     神戸の誇り毎日登山は、再度山から生まれた。明治38年(1905)ごろ、在神外国人が北野から山に入り、ここにあった善助茶屋にサイン帳を置いて署名する習わしをつけた。元町や栄町、海岸通りの商社の人たちがこれに倣って登りだしたのが、市民の毎日登山の始まりである。外国人が母国で体験したハイキングや狩猟の習慣と、神戸での彼らの生活圏の近くに好条件の山があったことが大きな要素となっている。
     大正初期から昭和10年ごろまでが最盛期で、善助茶屋に百冊に余る大小登山会の署名簿が置かれ、早朝ににぎわいを見せていた。しかし、このゆかり深い善助茶屋も戦後次第に訪れる人が少なくなり、老朽化してしまったので取り壊され、茶屋跡に「毎日登山発祥の地」の碑と、しゃれたあずまやが建てられた。

    再度山を登る市少年団員
  • 弘法大師修法之地
    (中央区再度公園)
     再度山は弘法大師とゆかりの深い山である。延暦年中(782〜805)、弘法大師が入唐のとき、登山して求法を祈り、帰朝したときに再び登山したので、再度山の名が起こったといわれている。また、再度谷のことを蛇谷というのは、大師が渡唐のとき船を守った大蛇が、登山のときにもこの谷に現われたのでこの名があるといい、再度山中腹の大龍寺の名もそのためについたと伝えている。
     池を中心に山あいのオアシスとしてにぎわっている修法ヶ原は、昔、大龍寺の坊さんたちが修法を行ったところといわれ、池の近くの静かな松林の中に、「弘法大師修法之地」の碑がある。
  • ブラジル移民発祥の地
    (中央区山本通3丁目)
     ブラジル第1回移住船「笠戸丸」が七八一名の移住者を乗せ、神戸港を出帆したのは明治41年(1908年)4月28日である。その後、昭和46年に最後の南米移住船が出港するまで、戦前戦後を通じ約25万人が神戸港から遠くブラジルへ移住した。この碑は、これを記念して元国立神戸移住あっせん所の玄関付近に昭和54年に建てられた。記念碑に使用された石材は、ブラジル在住の兵庫県人会の有志から贈られた。

    最後の南米移住船として神戸港を出港する「ぶらじる丸」(昭和46年5月)
  • 六甲植林発祥の地
    (北区山田町、再度公園)
     今は緑豊かな六甲山も、明治の中ごろまでは全山が荒れるにまかせたはげ山だった。明治36年(1904)、水道の水源かん養と防災上の必要から植林事業を開始、再度山地域に73万本の植林が行われた。六甲山系における植林の最初である。以後、営々と努力が続けられ今日の姿にまで回復した。
     昭和62年5月、神戸市が六甲山系における緑化事業の功績で内閣総理大臣表彰を受けたのを記念し、再度公園修法ヶ原池のほとりに記念碑が設置された。碑は、再度山をイメージしたシンボルストーンと、樹木を表した支柱2本の御影石で、支柱には植林事業が始まった明治36年から大正2年までの再度山の姿を、銅板エッチングで描いたプレートなどが埋め込まれている。
  • 牛七疋墓
    (灘区六甲ケーブル下駅西側)
     六甲山系南面一帯は、断層が海に迫って水流の急な小河川が多く、江戸時代の元禄・享保のころには、その水流を利用する水車が谷々に建設された。六甲川上流に位置する水車新田は、文字どおり水車業のために開拓された新しい村である。最初は菜種油、それが伸び悩むようになると、灘五郷の酒造用の米つき水車に転換していった。
     この水車新田で原料の運びあげや、製品の運びおろしに活躍したのが牛で、川沿いのがけ道で足を踏みはずして深い谷底へころげ落ちることがしばしばだった。この碑は、そのような不幸な牛たちの冥福を祈って、村人が建てたものらしく、碑に「嘉永四年十二月一日」と刻んである。
     東灘区住吉台、住吉霊園にも、同じようないわれの丑供養の塚がある。

    無縁仏と一緒に丑供養塚が祭られている(東灘区住吉台、住吉霊園)
  • 水災紀念碑
    (東灘区住吉台)
     死者616人、負傷者984人、家屋の流失・全半壊16,692戸、浸水81,190戸(神戸市水害誌)。市内全域にみぞうの惨禍をもたらした阪神大水害(昭和13年7月)の碑は、今も市内のあちこちに残っている。とりわけ住吉川のはんらんはすさまじく、阪急電鉄の鉄橋がアメのように押し曲げられた。流域の住宅地の塀や石垣に使われている御影石の巨石は、水害時の流石を利用したものだといわれている。
     住吉川本流と西谷が合流する分岐点に立つこの水災紀念碑は、右有馬道左六甲道の道標も兼ねていて、台座の右わきに水害の最高水位の線を刻んでいる。

    阪神大水害での住吉川の惨状。山肌の傷跡が痛ましい(写真提供=小曽根實さん)




  • 阪神大水害の流石の碑(兵庫区楠町37)と、裏面に刻まれている「流石の弁」。「"ながれ"石と読むも可、"さすが"と訓ずるもまた佳なり…」とあり、流石のひどかったこと、また市民が協力して復旧に当たったことを記している

  • 本間重氏遠射之趾
    (兵庫区和田宮通6丁目、和田岬小学校)
     和田岬の景色は、一五〇年前の「摂津名所図会」によると海内無双の名勝地とたたえており、長く景観美が保たれていた。延元元年(1336)の湊川の合戦のさい、新田義貞がここに陣取り、足利尊氏の上陸に備えたが、そのとき尊氏の軍船に遠矢を放って誉れを残したのが本間孫四郎重氏である。
     両軍の兵士がかたずをのんで見守る中、弓をかまえた重氏が沖の船に向かって「珍しき御肴(さかた)一つ参らせ候はん」と大声をあげ、はっしと矢を放つと、折りから、60pほどの魚をくわえて飛び去ろうとしたみさご(海鳥の一種)を見事に射抜き、魚もろとも敵船に飛び込んだという。重氏の矢は6町(約650m)余り飛んだと「太平記」に記されている。
     この故事から和田岬の松原を「遠矢の浜」と呼ぶようになり、今も遠矢町・遠矢浜町の地名を残している。
  • 神戸空襲戦没者慰霊碑
    (兵庫区今出在家町4丁目、薬仙寺)
     この碑は、神戸空襲で犠牲となった多数の人たちの冥福と、戦争の悲惨さを訴えるために「神戸空襲を記録する会」によってつくられ、市内の西半分を焼失した昭和20年3月の大空襲の30回忌にあたる50年3月16日に除幕式が行われた。平和の風と焦熱地獄の熱風を象徴した卍(まんじ)がくっきりと刻まれた大きな黒御影石の碑の前で、毎年この日に盛大な慰霊祭が行われている。
  • 迷い子のしるべ石
    (兵庫区兵庫町1丁目、湊八幡神社)
     湊八幡神社は、西国街道の兵庫津の東の入り口・湊口惣門前にあったので、旅人の目につきやすく、湊の八幡さんとして知られていた。その辻に立てられていたのが「迷い子のしるべ石」である。
     つまり、子供が迷い子になるとここに来て、子供の特徴・年齢・住所・名前を紙に書いて、ここの石に張りつけておく。また、子供を発見した人は、ここへ連れてきて、尋ねる家の人に会えばすぐ引き渡し、会えなければ、石に住所・名前などを書いた紙を張っておく。双方がここへ来るから、たいていの場合はすぐ解決することが多く重宝がられていた。古い石は戦災で折れたので鉄の枠がしてあり、その横に新しいものも立ててある。

    湊八幡神社の前にある湊口惣門跡の碑
  • 宮城道雄生誕の地
    (中央区浪花町56、太陽神戸三井銀行神戸本部ビル東側)
     箏(そう)曲家で新日本音楽の創始者・宮城道雄は、明治27年(1894)、旧居留地内の58番館茶倉で生まれ、8歳のころ失明。神戸の2代目中島検校(けんぎょう)に師事し11歳で免許皆伝。家庭の事情で韓国に移住し、14歳のとき処女作「水の変態」を作曲して才能を認められた。
     その後、西洋音楽を邦楽に取り入れるなど意欲的な創作活動を展開、特にフランス人バイオリニスト ルネ・シュメーとの合奏による「春の海」のレコードで世界的な名声を博した。昭和5年東京音楽学校(現・東京芸大)講師、教授、同23年芸術院会員。
     生誕の記念碑は午前9時から午後5時までの間、1時間おきに「春の海」のメロディーが流れる。
  • 中央区諏訪山の金星台一帯は、市内の桜の名所の一つとして知られている。写真中央やや左の茂みの中に見えるのは金星観測記念碑。そのすぐ北側に、古びた御影石の勝海舟の「海軍営の碑」が建っている。
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