208号表紙

No.208(平成2年2月)

特集:

神戸列車物語(下)

神戸列車物語(下)

表紙写真・舞子の海をバックに走る山陽電鉄5000系特急(川崎重工業兵庫工場製)。西日に映えた海岸の移情閣が美しい


神戸の電車 市電の歴史

 神戸市が民営の神戸電気鰍買収、電気局(現・交通局)を創設して、軌道事業(市電)と電気事業を開始したのは大正6年(1917)8月である。


軌道事業(市電)の開始で市制実施後の急速な発展に対処


昭和10年に登場したロマンス・カー。窓ガラスの大きさは従来の2倍強、座席は緑色ビロードクッションで転換式と、何もかもがざん新だった

 神戸電気の前身・神戸電気鉄道鰍ヘ明治43年(1910)4月、春日野道〜兵庫駅間で電車運輸を開始。大正2年に当時電気供給事業のライバルだった神戸電灯鰍ニ合併、社名を神戸電気と改めたが、軌道敷設が一向にはかどらず、このままでは市制実施後の人口増大や商工業の急速な発展に対処できないため、神戸市が買収に乗り出した。買収時の路線網は12・27km、車両数は木造単車90両、散水車4両。1日平均乗客数11万3769人、同収人3479円であった。
 買収後の市電の路線拡張はめざましかった。大正8年、熊内延長線(熊内一〜坂囗二)が開通。この延長もあって翌年開通した阪神急行電鉄梶i現・阪急電鉄)の神戸終点が上筒井に設けられ、東神戸と連絡。さらに、大正から昭和の初めにかけて山手・中央・浜手の三ルートが整った後も拡大の一途をたどり、昭和10年(1935)東部国進線(敏馬〜三宮駅)が開通、阪神電鉄国進線と連絡した。


日本初のスチール・カーやロマンス・カーも誕生


神戸市電気局(昭和17年5月交通局と改称)長田車両工場(大正11年9月30日建設)では、昭和2年〜28年にかけて車両を建造していた。それ以降は、車両の改造(43年まで)と点検・修理(46年まで)を行った。

 一方、市営となってからの技術面での開発も目を見張るものがあり、大正9年、車体中央部にも乗降口を設けた低床式ボギー車(C形車)を完成、続いて大正12年に日本初のスチールカーが完成した。また、市電が"みどりの市電"に変身したのは昭和8年である。そして昭和10年、スマートで乗り心地のよいロマンス・カーが誕生、東洋一の神戸市電とうたわれた。  このように順調に飛躍の道をたどった市電は、二度にわたって大きな試練にたたされた。昭和13年阪神大水害と、昭和20年の神戸大空襲である。特に大空襲では、全車両の50%が全半焼するという悲惨な状態だった。


モータリゼーションに勝てず昭和46年、全線廃止


大正12年にデビューした日本初のスチールカー。堅固、安全、軽量で、補修費も安くてすむため、鉄道省や私鉄各社もこの製作に乗り出したという

 終戦後の焼け野原の焦土から立ち上がった市電は、10年そこそこで飛躍的に発展、乗客数は昭和20年度の1日平均20万人が31年度には34万人に増えた。しかし喜びもつかの間、経済の高度成長に伴うモータリゼーションの進行で市電は自動車の洪水に埋まり、乗客は急激に減少、41年(1966)5月の税関線の撤去を皮切りに、つぎつぎと姿を消す悲しい運命を余儀なくされた。昭和46年3月、54年間にわたって市民と喜びや悲しみをともにした神戸市電は全く姿を消した。  昭和46年(1971)の市電廃止で、廃車の憂き目にあった車両は次々と第二の人生へ転身したが、広島へ引き取られ、あの懐かしの緑の車体そのままで今も広島市民に親しまれていものもある。



  • 昭和13年の阪神大水害で流木に埋まった市電。電車、バスは全く運転不能になった(写真提供=小曽根實さん)
  • 三宮・そごう前を走る開港百年祭祝賀の花電車(昭和42年)。沿道には見物の人も大勢見えなごやかなお祭りムードだが、前年には乗客の減少で税関線が廃止になっていた
"第二の人生"で今も広島で活躍

アメリカヘ"再々就職の幸運車も

 神戸から広島へ送られたのは、570形17両、1100形5両、1150形7両の計29両。1100形と1150形は、前面がしぼりこまれた流線形のスマートな車体だが、製造年代が古い570形は、現在までに7両が現役を引退した。しかし、このうち1両、578号はアメリカのサンフランシスコ市に"再々就職"するという幸運に恵まれ、話題になった。  同市が毎年5月から十月まで、世界中の古い電車を集めて開いている「トロリーフェスティバル」に参加することになったもので、参加する電車は展示するだけでなく、営業車としてお客を乗せて走る。578号は広島で化粧直しをすませ、昭和61年4月、生まれ故郷の神戸港からサンフランシスコヘ送られた。  フェスティバルのオープンパレードでは市長を乗せて行進、終了後は博物館に展示された。


  • 広島市の原爆ドーム前を走る旧神戸市電(写真提供=鳥元春三さん)
  • サンフランシスコに送られた広島の旧神戸市電(578号)
わが国最初に走った電車


明治28年開業当時の京都電気鉄道車両

 わが国における電車の発祥を明治23年(1890)とするか、5年後の同28年とするかについては意見が分かれている。23年は、東京で開かれた第3回内国勧業博覧会で初めて電車が展示された年。28年は、京都電気鉄道が開通した年である。28年とする説は、博覧会の展示品は本格的電気鉄道とせず、一方の京都電気鉄道は官の免許を得た事業であるから、「公共用電気鉄道」の創始として扱うという考え方だ。
 しかし、博覧会の展示品とはいうものの、東京府知事に電気鉄道の敷設と運行についての許可を受けているうえ、試乗に際して料金を徴収することにつ
いても認可申請書に明記されており、相当しっかりした展示品であったことは開違いない。
 ちなみに、明治12年(1879)のベルリン勧業博覧会で公開されたジーメンスの電気機関車は、電気鉄道の「実用に供された」最初とされている。


夢誘う多彩な改造列車 神戸生まれの列車たち


神戸の電車 新型車両

神戸電鉄(株) 全軽合金製冷房車「3000形」

 急激なテンポで進んでいる沿線開発のイメージを盛り込んだ新形通勤電車。車体をアルミ合金製として大幅に重量を軽減、抑速ブレーキ時の定速度運転機構を付加して保安度の向上を図るとともに、台車に車体直結式空気バネを採用し、冷房装置を設備して乗客のサービス向上を図っている。


阪急電鉄(株) セミクロスシート「8000系」

 神戸線は平成元年12月から、引き続き宝塚線でも一部クロスシート車両(8000系)を導入。神戸線では昭和35年以来、すべてロングシートになっており、約30年ぶりの登場で、宝塚線では初めて。クロスシートは自動転換装置付き(車掌台から自動転換)、また、背もたれ部及び座ぶとんはバケットタイプとして座り心地を良くしている。


山陽電気鉄道(株) オールアルミ合金製「5000系」

 昭和37年に日本で初めて採用した全アルミ合金車両の実績をもとに、さらに改良を加えた省エネタイプのハイグレード車。客室は、中央部を集団離反形にレイアウトした固定式クロスシート、車端寄をロングシートとしたセミクロスシート配置、また、電力回生ブレーキ制御の導入により、省エネ、運転コストの低減を図っている。



英語併記の特急表示

阪神電気鉄道(株) 自動音量調整装置付き「8000系」

 自動音量調整装置は、各車両に騒音検知用センサーを備え、これで車内の騒音を測って、車両ごとに最適な車内放送の音量になるよう自動的に調整する。この結果、不必要に大きな音量の放送で不快な思いをしたり、逆に混雑した車内で放送が聞き取れないといったことが解消する。


北神急行電鉄(株) ハイレベル新造車「7000系」

 市営地下鉄と相互直通運転をしているため、車両寸法や運転性能は双方同じだが、マイクロコンピューターによる制御、モニタリングシステム、VVVF方式(回生ブレーキ付き可変周波・可変電圧制御方式)による交流モーターの採用など、新しい技術を積極的に導入した高性能車両。室内は暖色を採用、あたたか味のある感じとしている。



神戸市営高速鉄道(市営地下鉄) 快適、安全、省力化「2000形

 神戸のシンボルカラーの縁を幕調に、上部をパールグリーン、下部を鮮やかなライトグリーンに塗り分けた明るい車体はおなじみ。チョッパ制御装置、自動列車運転装置、空気制動装置などのほか、屋根上に集約形の冷房装置を2台搭載、混雑時でも冷房効果を上げるため、車内に横流ファンを取り付けている。


  • 市営地下鉄
  • ポートライナー
  • ポートライナー
神戸新交通(株) わが国唯一の無人運転「ポートライナー」

 中量輸送機関として神戸ポートアイランド線に採用された新交通システムは、安全性、快適・利便性、低公害性、運転・駅業務の無人化、経済性など、優れた特徴を数多く持っており、第2の新交通六甲アイランド線も今月21日開通する。車体はアルミ合金の溶接構造。窓は大きく、明るいクリーム色に縁のアクセントを配したスマートなデザイン。


六甲アイランドを試運転中の六甲ライナー(アイランド北口〜アイランドセンター駅間)。アルミニューム合金製の軽量車体は白色系のベーシックカラーに、伝統の緑のストライプラインとブロンズガラスで引き締めている。車内も、先頭車前半分をクロスシートとして開放感をもたせ、また、地元の御影石をイメージした床とブラウン系統のシートモケットを調和させるなど、グレードアップしている。
日本の鉄道車両の"ふる里路線"和田岬線


日本の鉄道車両の”ふる里路線” 和田岬線

和田岬線百年に寄す   上川 庄二郎


工場や倉庫、民家などを縫うようにして和田岬へ

 今年は、和田岬線(通称、正確には山陽本線の一部)が開業してから百年になる。
 山腸鉄道会社は、神戸港の南方和田崎で資材を陸揚げするため、兵庫・和田崎町間に資材運搬用の仮線を建設した。その後、この線で一般旅客・貨物の運送をも行いたいとして免許を得、明治二十三年七月八日に営業を聞始したのが和田岬線の誕生である。

川崎重工兵庫工場の引込線としても活躍

 また、川崎造船所は、兵庫分工場への引込線として、明治四十一年十一月に和田岬線の使用を許可され、南海鉄道の電車がここから初めて輿入れした。以来、今もJRの車両は言うに及ばず、日本国中の鉄道会社への車両は、この線を通って嫁いでゆく。その意味では、日本の鉄道車両のふる里路線と言っても言い過ぎではなさそうだ。
 その後、いろんな変遷を経て、貨物輸送も無くなった現在は、旅客専用で二・七キロ、所要時間わずか六分のミニ鉄道になっている。乗客は一日一四、〇〇〇人と意外に多いのだが、神戸にこんな鉄道路線があることを知らない市民も沢山いる。何故なら、和田岬線は、三菱重工、三菱電機の社員のための專用線のようなものだからである。列車は、朝五往復、夕方六往後の運転で昼間は全く走らないといった徹底振りだ。
 古めかしい佇まいの兵庫駅和田岬線ホームは、駅舎の南側地上に昔の姿で健在である。しかし、往年の貨物輸送華やかなりし頃の幾条にも敷かれたレールは今はもうない。しかも、ここに待機している列車は、DL牽引の古い客車の改造車で、座席が片側の半分だけで十人ほどしか掛けられない。まるで荷物車で、客も荷物同然の扱いだ。それでも、こんな列車に揺られての六分の旅は、なかなか味のあるところを見せてくれる。

和田岬線ならではのノスタルジックな光景

 今も残るレンガ造りの煙突や四季に咲き競う線路沿いの草花、運河に横たわる貯木の群れなどの風景に知られざる神戸の素顔を垣間見ることができる。どれをとってみても、和田岬線ならではのノスタルジックな光景といえるひと駒ひと駒である。
 百周年を迎える七月八日には、花博で復活することになった義経号か、梅小路蒸気機関車館で保存されている小型のSLでも走らせることにして大いに祝
ってやれたらと思う。これを契機にして、昼間の時間帯や休日に義経号やレールバスを走らせ、観光列車として、また市民の鉄道としてサービスするような粋な計らいはできないものだろうか。
 折しも、周辺に点在する清盛塚や兵庫の大仏の復興を待つ能福寺など史跡や文化財を結ぶ"歴史の道"兵庫連河を市民に親しまれる水辺に再生しようとする"キャナル・プロムナード"などの整備構想が進む中、まさに、兵庫南部の"まちおこし"の機運が盛り上がっている。
 和田岬線にも、こうした機運に協調して、市が真剣に取り組んでいるインナーシティ活性化対策にひと役買って欲しいと願っているのは、筆者ひとりの片想いなのだろうか。

(神戸市企画調整局調査部長)

  • 和田岬線に連結している川崎重工兵庫工場の引込線。川崎製の車両は工場から直接和田岬線へ乗り入れ、この線を通って国内の鉄道会社へ送られる

    和田岬線の車両の検査、修理は、鷹取駅に隣接するJR明石電車区鷹取派出所で行われる。ここには、神戸で唯一の転車台がある。
  • 和田岬線の客車内部。座席は片側の半分だけで10人ほどしか掛けられない

    和田岬線は朝5往復、夕方6往復しか運転しない。朝夕の役目を終えると、車両はJR鷹取駅へ戻って待機する
  • 和田岬線はJR兵庫駅のすぐ南側高架下が起点。しばらく本線と並行して西へ走り、南ヘカーブする

    川面に横たわる貯木の群れを眺めながら兵庫運河を渡る列車

    和田岬駅の朝のラッシュアワー

鉄道こぼれ話

「西京神戸之間 鉄道開業式諸民拜見之図」

鉄道開通。ごった返した神戸駅周辺 「神戸駅史」より

 明治7年(1874)5月11日。全国で二番目、関西で初めて神戸〜大阪間に鉄道が開通した日である。初夏の微風の中、朝のうち少し雨を見た空に灰色の雲が厚くたちこめていた。
 すでに3月、試運転列車が汽笛を鳴らし、黒煙をはいて、ゴーゴーと走るのを見た人たちであったが、この日はお客が乗って走るのである。近郷近在の部落から、線路沿いにまるで黒アリのような人渦がぞくぞく駆け集まって、ごったがえしの有様だった。
 殊に、相生橋から堤防の辺りは、汽車が下を通るというので橋上は人の波、また橋のたもとと神戸駅構内の木さくを結ぶ堤防の傾斜は、夜明け前から人が座り込み、場所を占拠し合った。これらの見物人を当て込んでの物売り屋台も並び、構内は芋の子を洗う騒ぎであった。
 やがて、時刻になって汽車がやってきた。観衆は、日の丸の小旗をちぎれるほど振りながら大歓声をあげ、箱から首を出した乗客も、扇子を振ってこれに応えた。



開通当時の駅員の服装

「その方いずれへ参るか?」
「へい、大阪まで」
「神戸駅史」より


 この開通時に使用された機関車は、明治4年英国製のB一アンダー機関車D一形(後の五〇〇〇型式)二号と同型式四号の2台。客車ももちろん英国製で、下等客車(三等)を例にとると、定員30人、外部の出入り口には「ラッチ」もなく、旅客が乗車した後で車長(車掌)がカギで扉を閉鎖した。
 当時の駅員は英国製ラシャのフロックコートを着、胸には二列の金ボタン八つをピカピカ光らせ、いきなフランス帽子をかぶっていた。乗客は乗り降りには必ず車掌に頭を下げ、ドアを開けてもらったという。
 頭を下げるのはこの時だけではない。窓口で切符を買うのも。
  「その方はいずれへ参るか?」
  「へい。大阪まで」
  「40銭じゃ。釣り銭の要らぬよう出せよ」
 といった具合で、どちらが客だか分からぬ態度。そして乗車場へ行くと、汽車はもう待っている。余り立派だから土足のままでは失礼と、草履やげたを脱ぎ、手ぬぐいでぐるぐる巻いて懐にねじ込むと、例の物々しい駅員が、履物はそのままでよろしいと言う。きまりわるそうに懐からそっと出して、履き直すといった有様だった。


川がないのに橋があるー全国初の跨線橋、相生橋

昭和4年の相生橋付近。下の線路は国鉄、前方の相生橋の上を市電が通っている。国鉄線に沿って鉄道高架工事が行われており、同6年、これが完成すると橋は姿を消し、鉄道が高架に、市電が路面になった

 神戸〜大阪間の鉄道の開通で、当時の神戸のメイン道路であった元町通から多聞通への道に鉄道が横断したので、人道は幅5・4mの階段式の木造の陸橋をまたがらせ足の便を図った。これが相生橋で、全国で初めての跨線橋だった。
 相生橋は、橋の上から下を走る汽車を見下ろせるということでたちまち神戸の名所となり、「川がないのに橋がある」とうたわれた。明治21年には神戸初の電灯も橋にともった。
 明治43年(1910)、神戸電気鉄道(株)による市内電車(のち市電)が開通して橋の上を通り、下の鉄道と立体交差した。昭和6年(1931)、鉄道が高架になり、相生橋を取り払い市電線を平面道路に付け替える工事が行われたため、橋は姿を消し、これまで下に見下ろしていた汽車を、頭上に仰ぐようになった。
 この付け替え工事は、徹夜の突貫工事でたった一晩で完了したので沿線の家々では国旗を掲げ、大倉山では花火を打ち上げて快挙を祝福した。


「グリーンD51」で"第二のお務め"

 昭和50年(1975)12月の廃車まで、北海道・函館本線などで活躍していた蒸気機関車の人気スターD51(愛称デゴイチ)が、第二の務めとばかり、元の三越(現・ホテルシェレナ)西側広場「グリーンD51」で、今も雄姿を見せている。
 D51は、昭和11年に初めて登場、その後10年間に一形式で、最多の1115両も製作され、全国のあらゆる幹線で活躍した日本の代表的SL。とりわけD51 1072は、つぎつぎと姿を消していったSLの中で、最後までその使命を全うした数少ない機関車の1両である。
 大倉山の神戸文化ホールから神戸駅〜元町商店街を結ぶ緑道計画の一環として、昭和53年に市が広場を整備。この広場が、明治7年(1874)に神戸〜大阪間に鉄道が開通したとき、鉄道をまたぐ全国初の跨線橋「相生橋」があったゆかりの地であること、また、神戸駅が東海道線と山陽線の起点駅であることから、札幌市の国鉄苗穂工場に置かれていた同機関車を誘致、広場のシンボルとして据えた。なお、広場の愛称「グリーンD51」は市民からの公募によって決めた。


  • 函館本線で活躍していた頃のD51 1072の雄姿
  • 西元町「グリーンD51」広場のD51 1072
  • 王子動物園のD51 211
鷹取工場の第一号機関車 王子動物園で健在

 西元町の「グリーンD51」広場と同じ"デゴイチ"が、王子動物園の園内にも保存されている。平担線の貨物列車用。また勾配線の旅客列車用として国鉄を代表する人気ものSLであったことは同じだが。こちらのD51 211は国鉄鷹取工場生まれで、いわば故郷の神戸へ里帰りをした蒸気機関車であり、昭和46年(1971)3月の引退後に同工場で、外観を生まれたときの形にできるだけ近づけるための整備や、修繕・塗装など、生きた文化財として入念な化粧直しを受けてここへ送られてきたものである。
 D51 211は、鷹取工場の第一号機関車として昭和13年10月に完成した。それまでは修繕が専門で新しくつるのは初めてだったうえ、作業のピーク時に阪神大水害に遭遇、人手や材料不足と戦いながら昼夜交替でつくり上げたという。東海道、山陽線の貨物輸送で活躍したのち、戦後は梅小路(京都市)機関区を経て奈良機関区に転属され、廃車になるまで関西線で活躍した。


明治18年、宇都宮駅でお目見えした駅弁  「鉄道一〇〇景 走りつづけて一世紀」より

「えー、弁当や弁当ウ」列車が駅に着くごとに見られるこの光景は、旅の風物詩としておなじみになっている。
 駅弁の歴史は古い。明治18年(1885)。日本鉄道が上野〜宇都宮間の営業を開始したとき、宇都宮駅で同市の旅館白木屋の主人・斉藤嘉平が始めたのが最初といわれている。ゴマをふりかけた梅干入りの握り飯2個にたくあんを添え、竹の皮で包んだだけのもので、値段は5銭だった。
 こうして駅弁は上州から東海道など全国に広まっていくわけだが、本格的な駅弁誕生は何といっても明治21年の山陽鉄道姫路駅のものだろう。経木の折りに盛りつけられた中味はかまぼこ、伊達巻、きんとん、うど、ゆり根、奈良漬、とり肉、タイといった豪華版で、今日見られる駅弁の"原型"がこれである。
 売り子は、当初は16歳以上の男に限られていたようだが、現金を扱う仕事だけに中には不心得者もいて、"西行"(売上金を持逃げすること)する売り子が出たため、経営者は各駅に人相書をはって同業者同士防衛したそうである。


(左)神戸の(株)淡路屋で再現した明治時代の最初の駅弁 (中)神戸らしさを押し出した淡路屋の今の弁当。神戸ワインと神戸ビーフを組合わせた神戸ワイン弁当(右)加熱装置付き中化飲茶(ちゅうかやむちゃ)弁当


神戸駅と三ノ宮駅が「停車駅争奪戦」  「神戸の鉄道−随走記−」より

 戦後初の山陽線特急列車「かもめ」が昭和28年(1953)3月。京都〜博多間で運転された時、国鉄は当初から、停車駅をなるべく少なくして東海道線並みに時間を短縮するため、その選考基準を「県庁所在都市、又はそれに準ずる都市に限る」とする強い方針を打ち出した。
 こうして停車駅は、大阪、姫路、岡山、広島、小郡、下関、門司と、このへんまではほとんど異議なく決まっていったが、懸案として残ったのが神戸であった。もちろん、県庁所在都市として、神戸のどこかに停車させることは既定の事実だったが、神戸市内のどこにするか、つまり神戸駅と三ノ宮駅のどちらにするかという問題が最後まで残った。
 神戸の市民団体などは、最初は戦前並みに二駅停車で足並みをそろえて連動を始めた。しかし、国鉄の決意が動かし難いことを知ると、神戸駅停車を当然とする派と、市の中心駅は三ノ宮駅であるとする派の二つに分かれて猛烈な「停車駅争奪戦」を繰り広げた。
 その間にもタイムリミッ卜は迫ってくる。困り果てた国鉄が持ち出したのが、まことに"味な判決"であった。つまり、「かもめ」の下り列車は三ノ宮停車、神戸駅通過。上り列車は逆に神戸駅停車、三ノ宮駅通過。同じ特急列車で上り下りで停車駅が違ったというのは恐らくこれが最初だろうが、とにかくこれで両者の顔が立ち、一件落着となった。



変だな?「三ノ宮駅」 「神戸の鉄道−随走記ー」より

現在のJR元町駅

(1)県・市・中心駅の名前が三つとも違うのは神戸だけ

 JR三ノ宮駅。乗降客数などをみても神戸の中心駅
である。しかし、この駅はいろいろな意味で変わっている。
 まず、県の名前、県庁所在市の名前、その市の中心駅の名前が、三つとも違っている。つまり、兵庫県、神戸市、三ノ宮駅。普通、この三つは一致するものだ。広島県、広島市、広島駅。京都でも大阪でもそうである。
 もちろん、一致しないのもある。例えば愛知県、名古屋市、名古屋駅。埼玉県、浦和市、浦和駅。あるいは福岡県、福岡市、博多駅。だが、三つとも違うのは神戸だけである。そして、福岡市には博多駅だけで福岡駅がないので話は簡単だが、神戸は三ノ宮駅のほかに神戸駅があるから、遠方の人々にとってはいっそう分かりにくい。事情を知らない人は、神戸だから神戸駅で下りたらよかろう、とつい思うようである。


JRと阪神電車の駅名表示。阪神、阪急、ポートライナー、市営地下鉄はすべて「三宮」

(2)なぜ「ノ」の字が入るの?

 次は、「さんのみや」は神戸市の地名では「三宮」と書き、「ノ」の字は入らない。阪急・阪神・ポートライナー・市営地下鉄はすべて「三宮」なのに、JRの駅名は「三ノ宮」であって「ノ」の字が入る。
 そこで「ノ」の字の駅名を調べてみると、同じ東海道本線で「おわりいちのみや」は「尾張一宮」、「にのみや」は「二宮」であって、「ノ」の字は入らない。しかし関西では「ノ」が入ってくる。西ノ宮、桜ノ宮、森ノ宮。西ノ宮の場合も、市の名前は西宮で、阪神も西宮、阪急も西宮北口となっていて、いずれも「ノ」は入らない。
 これは、昔は地名にも「ノ」を入れて書いていたが、その後表記法が簡略化されて「ノ」を入れないようになった。しかし駅名表記の変更は。特にJRの場合は多大な経費と手間がかかるため、ついそのまま見送っているということのようだ。


現在のJR元町駅

(3)三宮町にないのに三ノ宮駅

 三つ目は、この三ノ宮、実は三宮にはないのである、目と鼻の先に中央区三宮町はあるが、駅の所在は中央区布引町である。
 これは鉄道が神戸〜大阪間に最初にできた時、実はこの駅は現在の元町駅とほぼ同じ位置にあり、その時は三宮神社が近くにあったので三ノ宮と自然に命名されたのだろう。昭和に入って神戸市内の国鉄線が高架になり、駅は東に移動して現位置に建設されたが、駅名はそのままになった。
 このような例は東京にもあって、品川駅は品川区にはなくて港区にあり、目黒駅は目黒区になくて品川区にある。品川駅からは京浜急行が出ているが、なんと品川駅の一つ南の駅が北品川である。同じように神戸にも、灘駅の少し東に東灘という貨物駅があるが、これと全く同じ経度にある阪神の駅は西灘、阪急も現在は王子公園だが元は西灘だった。
 国鉄の方がこの地方の大きい地名である灘を代表させて駅をつくってしまい、その東にある駅を東灘としたのに対し、私鉄の方は、灘のうちでもこの地域は西の方に当たるので、西灘と呼ばれている小さい単位の方を代表させて命名したためこうなった。


「神戸列車物語」(上)(下)の主な参考文献

●「神戸の鉄道一随走記ー    雑喉謙
●「川崎重工業株式会社社史」  川崎重工業(株)
●「国鉄鷹取工場六十年史」日本国有鉄道鷹取工場
●「蒸気とともに一世紀」 日本国有鉄道鷹取工場
●「機関車義経号」    日本国有鉄道鷹取工場
●「100年の国鉄車両」   日本国有鉄道
●「神戸駅史」      神戸駅
●「JR西日本の車両ガイドブック」 JR西日本
●「神戸港駅史」     神戸港駅駅友会
●「国鉄有情115年」   (財)日本交通文化協会
●「日本の鉄道と時刻表」 高松吉太郎、佐藤常治
●「産業フロンティア物語〈川崎車両〉」     ダイヤモンド社
●「神戸電鉄六十年史」   神戸電鉄(株)
●「ひろしまの路面電車」  広島電鉄(株)
●「新三菱神戸造船所五十年史」 新三菱重工(株)
●「鉄道100景 走りつづけて1世紀」     (財)交通協力会出版部
●「鈴高新聞」      鈴蘭台高校編集委員会
●「さよなら神戸市電」  神戸市交通局
●「車窓 創業60記念特集号」 神戸市交通局
●「神戸市中央卸売市場本場開設50周年記念誌」 神戸市中央卸売市場運営協議会営協議会


取材協力、写真提供 (アイウエオ順 敬称略)

●(株)淡路屋
●小田急電鉄(株)
●川崎重工業(株)兵庫工場
●京都市交通局
●京阪電気鉄道(株)
●神戸電鉄(株)
●札幌市交通局
●山陽電気鉄道(株)
●JR西日本本社、鷹取工場、神戸駅、鷹取駅、明石電車区鷹取派出所
●JR東日本本社
●仙台市交通局
●西日本鉄道(株)
●日本貨物鉄道(株)神戸港駅
●阪急電鉄(株)
●阪神電気鉄道(株)
●広島電鉄(株)
●三菱重工業(株)神戸造船所
●小曽根實(中央区)
●高松吉太郎(東京都)
●鳥元春三(長田区)
●松本崇(垂水区)

 
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