200号表紙

No.200(平成1年6月)

特集:

こうべ総集編(上)

こうべ総集編(上)

こうべ総集編(上)

市民のグラフ「こうべ」は、昭和45年(1970)6月創刊、今月で200号を迎えました。毎月15日に発行し、神戸の文化や歴史、市政の動きや話題を主として写真で紹介してきましたが、この機会に、200号記念総集編として、歴史、観光、街並み、文化財、ハイキング・散歩コース、動物…などに分類、2回にわたって振り返ってみます。

桜ヶ丘5号銅鐸(弥生時代、国宝)5号銅鐸は表面に動物の絵や狩り、農耕の様式などを描いた文様があり、当時の生活をさぐる貴重な資料。銅鐸は祭りのときに鳴らしたと思われる鐘で、外からたたくのではなく、風鈴と同じように内側に舌がついている。灘区桜が丘町で14個、東灘区森北町・本山北町・渦森台・垂水区舞子坂で各1個の18個が出土、うち桜ヶ丘出土の14個は国宝。現在は、市立博物館で所蔵・展示している。

歴史 古代〜幕末・開港 市民のグラフ「こうべ」200号記念

●神戸の古代を探る(No.93) 身近に感じる古代人のくらし

 今から1万年前の神戸はどんな状態だったのか。2000年前の人々はどんな生活をしていたのかー。そんな疑問をお持ちの皆さんを、市内で発見された遺物をたどりながら、原始・古代の神戸へ分かりやすく案内する。
 旧石器時代から、弓矢が発明され上器も作られるようになった縄文(じょうもん)時代へ、そして稲作農耕がはじまった弥生(やよい)時代へと移り、神戸が誇るこの時代の遺物「銅鐸」(どうたく)が登場、やがて古墳時代へ入る。銅鐸に鋳出された絵画は、線書きの簡単なものながら、弥生人の生活や、彼らを取り巻く動物の姿を生き生きと描き出しており、一巻の弥生絵巻である。

(写真はすべてNo.93)


  • 弥生土器・つぼ(灘区伯母野山出土)。農耕がはじまった影響で、弥生時代に入ると土器の形が一段と多様化する。神戸における最古の米作りの村は西区玉津町枝吉の吉田遺跡だが、稲作がそのご急速に市内全体に広がったことは他の多数の遺跡から判明しており、農業の開始が狩猟時代に比べて、いかに人口を増大させ、安定した生活を可能にしたかを示している

    夕日に映える五色塚古墳(垂水区五色山)。明石海峡を見下ろす高台にあり、県下最大(全長約200m)の前方後円墳。昭和40年から文化庁と市が復元・整備工事に着手、同50年完成した。明石の国主の墳墓であるとの説があるが、墓の大きさより、こんな景勝地に墓を造った古代人のセンスに感心させられる

  • 石の槍先(旧石器時代後期、垂水区名谷出土)。旧石器代の終りごろになると、長さが10pもあるような大きな槍先をつくるようになった。そのころから環境の変化によって動物の種類も大形のものから、シカやイノシシなど小形のものが多くなり、狩猟道具もやがて槍から弓へ変わっていく


    弥生時代の堅穴住居(復元、垂水区大歳山遺跡公園)。一辺約6・5m、隅がやや丸みをもった方形の住居で、そのかやぶき屋根の感じなど現在も農家に残る屋根とそっくりで、古代人の生活の知恵がうかがえる。住居の内部は、毎年11月初めの文化財週間に一般公開されている
  • I字形の道具を持った男性と、下は魚の絵。座って魚をとっているところらしいが、獲物がたくさんあったせいか、うれしそうな様子が全体に出ている

    銅鐸の絵は何度見ても楽しい。当時の絵は、男性の顔は丸、女性の顔は三角に描かれている。この絵は女性二人のケンカに男性が仲裁に入っているところとみられる。さて、ケンカの理由は?
●源平のあしあと(NO.9) ●源平合戦八百年(No.139) 清盛と神戸と平家物語

 源平一の谷合戦は、今から805年前、現在の神戸の中心街(生田の森=生田神社一帯)から西の須磨一の谷までを戦場として繰り広げられたが、その中でなぜ一の谷が戦場の代表のようにいわれるのか。  有名な源義経の"逆落し"平家一門の花・平忠度、16歳の美少年・平敦盛の戦北など、源平合戦のハイライトのほとんどがこの一帯に集中していたことが大きな要因だが、いま一つ、古くから人々の心に焼きついている須磨の自砂青松と、滅びゆく平家のイメージがぴったりだったことも挙げられるのではなかろうか。多くの人々にとって、平家一門の10人までが1度に亡くなるという気の毒な舞台は、やはり須磨であってほしいのである。  市内に数多く残る合戦の遺跡から、哀感とロマンに満ちた清盛と神戸と平家物語のつながりを振り返ると……。


  • 平知章墓(長田区明泉寺町、大日寺内)。生田の森の大将・平知盛は、子の知章らと三騎で落ちていくところを源氏の武士たちに追われた。知章は父を討たせまいと敵の中に入り、勇敢に戦う間に知盛はただ一騎船へ逃げのびた。知盛は「親をかばって、敵に組みついているわが子を見殺しにしてしまった…」と涙を流すNo.9
  • 平通盛(右)と小宰相の局塔(左)。一の谷合戦のとき湊川で戦死した通盛と、その夫人の墓(兵庫区松本通、願成寺内)。局は、夫が討ち死にしてから初七日に「生きていて、とにかくに人を恋しと思わんより、水の底にも入らばや」と、屋島へ逃げる船から身を投げた。『平家物語』に見る多くの女性の中で、女の入水は、壇の浦で安徳天皇を抱いてお供をした二位の尼(清盛の妻)を除くと、ただ一人であるNo.9
  • 平清盛像。清盛は神戸を愛し、6か月の短い期間であったが福原の地に都を移し、大輪田泊(今の兵庫港)を修築、対中国貿易の拠点として現在の神戸港の基礎を築いた。しかしその死後は、権勢を誇った平氏も衰亡の一途をたどる(六波羅密寺(京都)蔵、重要文化財)兵庫区切戸町に清盛塚と、その横に琵琶塚と清盛の銅像があるNo.139
  • 200_011
  • 「源平合戦図屏風」部分。近世前期、狩野吉信作。六曲一双、紙本金地著色(神戸市立博物館蔵) No.139
  • 太山寺本『平家物語』(西区伊川谷町、太山寺蔵)。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる者も久しからず、唯春の夜の夢のごとし…」No.9

    須磨一の谷(鉢伏山中腹から望む)。源平合戦のころの海岸は今よりもっと遠浅で。恐らく百mも百五十mも先まで砂浜が続いていたものと思われるNo.9
  • 武芸にも歌道にも秀でた平家の一の谷西の手の大将・平忠度は、源氏の岡部六野太と組み合い、馬乗りになって首を斬ろうとしたところを、六野太の家来に右腕を斬られ討ち死にした(源平合戦図屏風から)。忠度の腕を埋めたと伝える腕塚が長田区駒ヶ林町に、胴塚が近くの野田町にある。忠度が討たれたとき、えびら(矢を入れる器)に付けていた「旅宿花」の歌は有名No.139

    行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよいのあるじならまし
  • 一の谷で源氏の熊谷次郎直実に討たれた平敦盛の画像・部分(須磨区須磨寺町、須磨寺蔵)。敦盛は、祖父忠盛が鳥羽院から賜った笛を最後まで錦の袋に入れて携えていたという。須磨浦公園西端の国道近くに供養塔(敦盛塚)があるNo.9

    青葉の笛     大和田建樹作詞
             田村 虎蔵作曲
     一の谷のいくさ破れ
     討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
     暁寒き 須磨の嵐に
     聞こえしはこれか 青葉の笛
●幕末の神戸(No.l32) 開港、そして維新の変動期

 安政元年(1854)、ロシア軍艦ディアナ号が大阪天保山沖から和田岬に来航。皇居に近い瀬戸内への黒船進入は大反響をよび、幕府は摂海防備の強化に乗り出す。
 文久3年(1863)4月、幕府の軍艦奉行勝安房守(海
舟)は、将軍徳川家茂に随行し摂海巡視のため神戸村小野浜に上陸、将軍の許可を受け、神戸海軍操練所を開設した。操練所は半年余で廃止され、海舟の海軍創設の悲願は中途で挫折したが、塾頭の坂本竜馬をはじめ陸奥宗光、伊東祐享など、後年活躍した人々を生み出した。
 急を告げる幕末からようやく迎えた神戸開港(慶応3年(1868)12月7日)、そして神戸事件(慶応4年1月11日)を経て、舞台は維新の変動期へ移る。

(写真のうち、滝善三郎切腹の図以外はNo.132)

〈歴史〉古代〜幕末・開港
●源平のあしあと N0.9 昭和47年(1972)4月
●神戸の歴史 No.25、26 昭和49年(1974)2月、3月
●神戸の城物語 No38、39 昭和50年(1975)6月、7月
●こうべの歴史と人物 NO52、53 昭和51年(1976)11月、12月
●神戸の古代を探る No.93 昭和55年(1980) 6月
●幕末の神戸 No.132 昭和58年(1983) 9月
●源平合戦八百年 No.139 昭和59年(1984)4月


  • 将軍徳川家茂が摂海防備で神戸に上陸した文久3年(1863)、勅使の姉小路公知も一足早く摩耶山に登り、大阪湾を視察した、公知は、このとき勝海舟や坂本竜馬と会談して攘夷の考えが変わる。写真は、旧摩耶天上寺跡から大阪湾を望む
  • 和田岬砲台(兵庫区和田崎町、三菱重工神戸造船所構内)。安政4年(1857)、幕府が諸藩に摂海警備を命じ、大阪湾沿岸に次々とつくらせた砲台の一つ。勝海舟の指導で工事が行われた
  • 諏訪山金星台に立つ勝海舟の「海軍営」の碑。碑は元は操練所内にあったが、操練所が閉鎖されたあと地元の有力者がこれを引き取って保存、大正4年、神戸市に寄贈した
  • 摩耶山の北側を通る徳川道。この道は、神戸開港によって外国人とのトラブルを心配した幕府が、参勤交代の大名や武士たちの行列を外国人居留地のできる神戸の市中をなるべく通さないようにするため、御影から西国街道と分かれて北へ入り、摩耶山の北を回って明石の大蔵谷へ出る大う回路を開いた。しかし、この道は利用されないまま神戸事件が発生、その後廃道となった
  • 坂本竜馬。土佐藩士、幕末の勤王家。海軍航海術を勝海舟に学び、神戸海軍操練所の塾頭になった
  • 海蔵寺(灘区国玉通3)。文久3年(1863)、幕末の摂海防備強化で毛利藩が須磨から武庫川までの警備にあたったとき、隣の国魂神社とともに陣屋として使用した。兵約1200名が付近の民家に分宿、時々、洋式の調練をしていた

  • 坂本竜馬が土佐にいる姉にあてた手紙。海軍操練所について「塾生は五・六百人…」など、その様子を詳しく書いている
  • 神戸開港図。開港当日、神戸付近は「ええじゃないか」の最中で、開港式が行われた運上所(税関の前身)へ群衆が踊り込んだといわれる
  • 神戸海軍操練所の建物

ぱいおにあ神戸 日本一物語


洋服を造型化した彫刻

●近代洋服発祥の地(No.47)

 中央区の東遊園地に、洋服を造型化したユニークな彫刻がある。これは「日本近代洋服発祥の地」を顕彰するための彫刻で、明治5年に洋服着用大政官発令が出されてから100年たったのを記念し、昭和49年10月、神戸洋服商工協同組合が設置した。  神戸に洋服が紹介されたのは明治2年。英国人のカペル(通称)が外国人居留地16番館で洋服店を開業したのがはじまりだった。同じころ日本人で初めて泉小十郎が開業、珍しい洋服職人を目指す人々が各地から開港地神戸へ集まったという。



神港倶楽部で初公開されたときのキネトスコープ

●活動写真(No.49)

 明治29年(1896) 11月25日から5日間、花隈の神港倶楽部(今の中央区下山手通6)で日本で最初の活動写真興業が行われた。神戸の銃砲店主高僑信治が居留地の外国商会を通じてキネトスコープ(活動写真)を購入、5種類のフィルムを毎日1種類ずつ映写した。観覧料は1人20銭、当時の米4升(7.2g)分に相当した。  このとき公開されたキネトスコープは、1889年にエジソンが発明したもので、現在のようにスクリーンに映し出されるのでなく、1人ひとりが箱の上から中をのぞき見る仕掛けのものだった。



明治期の六甲ゴルフ場

●ゴルフ(No.54)

 日本でのゴルフは六甲山からはじまった。六甲山を最初に開いた英国人の茶貿易商A・グルームがある会合で友人たちと談笑中、ゴルフをやろうという話が出た。さっそく彼は友人を誘って六甲上に4ホールだけのゴルフ場をつくった。明治34年のことである。2年後には9ホールに拡張され、会員も120人に増えて日本初の神戸ゴルフ倶楽部が発足した。  日本人初のプロゴルファーや、日本婦人選手権の初代チャンピオンが誕生したのも神戸である。



洗瓶から箱詰まで一貫したラインで行われる
現在の瓶詰工場(菊正宗酒造)

●瓶詰清酒(No.57)

 灘五郷は名代の酒どころ。ここでつくり出される清酒はほとんどが瓶詰にされ全国に送り出されているが、地方の人たちが日本の代表的な清酒が飲めるようになったのは、運送や保管に便利な瓶詰ができてからである。それまでは、大きな杉材の4斗樽で関東などへ船で運送していた。  初めて清酒を瓶詰にしようと思い付いたのが神戸の本嘉納商店で、輸入ビールの瓶をヒントに明治14年ごろから試作を始めた。そのご火入れの研究が進み、保存がきくようになるにつれて瓶詰は本格化、昭和の初期にはほとんどが瓶詰に変わった。


〈ぱいおにあ神戸〉No47 昭和51年(1975)5月〜No66 同53年(1978)3月、20回連載

●近代洋服●サッカーNo.48 ●活動写真●ラムネN0.50●パーマネントNo51 ●ソースNo.52 ●海洋気象台No.53●ゴルフ●水族館No.55●軟式野球N0.56●瓶詰清酒●酒まんじゅうNo.58 ●ケミカルシューズNo.59●外国桟橋No.60●花時計No.61 ●乗馬クラブN0.62●市電ロマンス・カーNo.63●ガントリークレーンNo.64 ●貯水池No.65●二層式斜張橋No.66



思い出 カラー・シリーズ@ 朝日

朝日の写真はなかなか厄介である。特に冬は、真上はよく晴れていても、日の出の水平線に意地悪く雲があることが多い。これは前日の天気予報でも分からないし、朝起きて、家から撮影現場へ行く間に雲の状態が変わることもある。この写真は、正月らしい朝日の写真をと、中央区北野町の高台へ何日か通ったうちの1枚である。冬には珍しい、うろこのような雲が、新年を祝福してくれているようだった。No.171 昭和62年(1987)1月


観光(上) 異人館・酒蔵

〈異人館〉
●神戸の異人館 No.23、24 昭和48年(1973)11月、12月
●北野 No.77 昭和54年(1979)2月
●KOBE北野 No.138昭和59年(1984)3月
●北野再発見 No.175 昭和62年(1987)5月

  • 北野に残る唯一のレンガ告りの異人館・風見鶏の館(重要文化財)。昭和58年末から1年3か月かけて改修工事が行われ、ドイツ人貿易商ゴッドフリート・トーマス氏が建てた建築当時(明治42年)の姿を再現したNo.151 昭和60年(1985)4月
  • 明治の異人館独特の下見張り、よろい戸、張り出し窓(ラインの館)No.175

    北野は異人館だけでなく、新しいブティックやファッションビルも若者たちを引き付ける大きな魅力となっている。北野坂のほぼ中央にあるこのファッションビルも、レンガと鉄とコンクリートの素材がよく調和した、いかにも北野らしいデザインだ(リンズギャラリー)。神戸の建物(上) No.182 昭和62年(1987)12月
  • 若い女性の観光客でにぎわう異人館通り。右の建物がシュエケ邸、左は門邸。昭和52年の異人館ブームから早や12年、北野は今も女性客を中心に根強い人気を保ち続けているNo.175
●北野(No.77) 北野にはフィーリングがある

 2人で散歩しても、坂道を振り返ると、まちやみなとが見渡せて…。やっぱり高台はいいですね。
 そう。それと北野には、フィーリングがあります。少しざわざわしているけど、リズミカルな語らいがあります。
 わたし、若い娘さんが遠力から北野へ来る気持ち、よく分かる気がします。神戸のようなモダーンなみなとまち以外で育った人は、こんなふんい気知らないですよ。
 まちは、古いだけではおもしろくない。やはりチャームでないとね(笑い)

〈お話し〉E・N・カルテゥズゥーさん
ヤスコ・カルテゥズゥーさん
(中央区山本通2丁目在住)


〈酒蔵〉
●灘の酒蔵  No.70 昭和53年(1978)7月
●灘の酒蔵散策  No.151 昭和60年(1985)4月
●灘の酒  No.195 平成元年(1989)1月


  • 松の木と黒塀が落ち着いた雰囲気を醸し出す酒蔵の道(東灘区魚崎南町)No.151

    県指定建造物・山邑酒造の酒蔵(東灘区魚崎南町)No.70
  • 重要文化財の酒造用具を収めた菊正宗酒造記念館(東灘区魚崎西町)No.70

    ジャズやラテン音楽の似合う北野から、こちらは一転してクラシックムードヘ。見るからに歴史を感じさせる酒蔵のいらかと煙突(東灘区御影石町)No.70
  • 黒塀の小道を行く蔵人(東灘区御影石町)No.15
    昭和48年(1973) 2月
●灘の酒蔵散策(No.151) 酒の香ただよう黒塀の道

 時の流れから忘れられたように、昔ながらのたたずまいを残す酒蔵の小道、古い社寺や道標、酒づくりの歴史を伝える資料館、それらをゆっくり見ながら、ほのかに酒の香ただよう黒塀の道をたどっていると、何ともいえず安らいだ雰囲気にひたることができる。



伝統芸能

●神戸の祭り・芸能(No.31)

 昭和49年(1974)10月 祭りとふるさと
 最近のように殺伐とした世の中になってくると、お互いに心のゆとりを持ちたいし、人間がそしり合うのではなく、何かを中心に、ひとつにまとまって共同生活をしたい気持ちが自然と芽生えてくる。すたれつつあるようでなかなかすたれきらない氏神の祭り、それに伴う芸能。最近、伝統芸能の保存会があちこちにできたり、自分たちの住んでいる地域の歴史を知りたいという人が多くなっていることも、そのあらわれである。
(写真のうち鬼追式以外はN0.31)


  • 古式をとどめた御弓神事(北区淡河町勝雄、淡河八幡神社。県の無形文化財)=2月17日

    実りの秋の田んぼ道を練る神幸祭の神輿(みこし)(北区山田町中、六条八幡神社)=9月15日
  • 海上渡御を前に浅瀬を練る神輿。このあと神輿を御座船に移し、多数の船が飾りたてて従い、舞子、駒ヶ林間を往復する(垂水区宮本町、海神社〉=10月10日〜10月12日

    鬼追式(長田区長田町、長田神社)=2月3日No.137昭和59年(1984)2月
  • その年の豊作を祈り、実りに感謝する翁舞(おきなまい)。古い形態をとどめている(須磨区車、大歳神社。国の選択芸能、県の重要無形文化財)=1月14日

    勇壮な善鬼の踊り・修正会(しゅしょうえ)(西区押部谷町近江、近江寺)=2月11日

思い出 カラー・シリーズA 「クイーンエリザベスU号」

英国の豪華客船「クイーンエリザベスU号」(67,140総トン)の5年ぶりの入港というのに、春雨が降り続き、港も市街地も乳白色の濃いもやに包まれていた。白とライトグレーの同船は、そのもやにとけ込むように音もなく接岸し、岸壁には約10万人の市民らが遠来の客を温かく出迎えた。No.127 昭和58年(1983)4月



いまむかし 街並み

〈いまむかし〉
●神戸いまむかし No.16、17 昭和48年(1973)3月、4月
●神戸のまちなみ No. 135、136 昭和58(1983)12月、昭和59年、(1984) 1月
●神戸の街並み探訪 No.158、159 昭和60年(1985)11月、12月
●新開地いまむかし No. 167 昭和61年(1986)9月
●神戸の道 No.193、194 昭和63年(1988)11月、12月


●神戸のまちなみ(No.135,136) ハイカラ神戸

 他都市から神戸に来た人は、神戸は海と山にはさまれた明るいまちで、モダンだという。それも北野の異人館街とか、ポートアイランドのファッションタウンといった個々の地域がどうこうより、神戸のまち全体が何となくハイカラで、あか抜けているという。つまり、明治以後の外来文化が、神戸の風上の中に完全に同化してしまっているモダンさということなのだろう。
 まちの歴史が浅いということは、新しい外来の文化を容易に取り入れ、同化してしまうエネルギーもそれだけ強いということである。
 総集編では、最新の写真も加えて「いまむかし」を再現してみた。


  • 現在のフラワーロード(神戸交通センタービル屋上から望む)。新市庁舎は8月完成の予定
  • 現在の栄町通

    現在のJR三宮駅北側
  • 「いま」のトップバッターは布引山から見た神戸の市街地。手前に新神戸オリエンタルホテル、このホテルをはさんで前方左側に神戸商工貿易センタービル、右側に新市庁舎、写真右端部分にホテルオークラ神戸と、超高層ビルがまず目につく。モノクロームで少し分かりにくいが、新市庁舎とホテルオークラの中間に太陽神戸銀行本店ビルも見える。正面に見えるポートアイランドに加え、山と海にはさまれた細長い市街地は一段と躍動感を増してきた

    現在の海岸通。道路沿い左手のビルは、国の各機関が入居している神戸第2合同庁舎。水上警察署はその西側に移転している
  • 湊川公園にあった神戸タワーから東方向を望む(昭和10年) No.136

    湊川公園から同じ東方向を望む(昭和59年1月)No.136
  • 昭和10年の神戸駅前 No.136

    長田区役所付近から西代方向を望む(昭和41年)。写真に見える山陽電車は神戸高速鉄道の開通(昭和43年4月)から地下に入っている

  • 現在の神戸駅前。バスターミナルを含めた駅前広場として整備されたのは昭和49年で、青空の見える地下ショッピング街「サンこうべ」も同時にオープンした
    長田区役所付近から西代方向を望む現在(昭和63年11月11月)No.193

思い出 カラー・シリーズ カモの行列

池の氷結の様子を見るため、市立森林植物園の長谷池へ行った時にたまたま見掛けたカモの行列。池に張った氷の上を、歩きはじめの幼児のようによたよたと歩くさまがかわいかった。この行列には、池に住みついているカモだけでなく、前年の12月にこの池に飛来し、まだ1か月余りしかたっていない渡り鳥も仲良く交じっている。No.125 昭和58年(1983)2月


動 物 王子動物園

〈動物〉王子動物園
●動物たちと夏 No.29 昭和49年(1974)8月
●王子動物園 No.80 昭和54年(1979)5月


●動物たちと夏(No.29) 楽しい動物たちの仕ぐさ

 夏の動物園に何度か通ったが、見ているうちに何度も噴き出した。手をたたいて褒めてやりたくなった動物もいる。何気ない動物たちの仕ぐさには、育った環境や習性の違いがよく出ている。その顔を見ていると、厳冬の南極や酷暑のアフリカ大陸が、つぎつぎ浮かんできた。


  • チンパンジーの子供に添い寝する母親(右)、子供の体をしげしげと見ながら「この子、男の子だよ」とお父さん。子供を思う夫婦の愛情が伝わってくるNo.193 昭和63年(1988)11月

    ワオキツネザルの親子。外敵から子を守るお母さんは、神経質だ。小さな物音がしてもピクッとして、音の方向をにらむ。でも、緊張の連続でさすがに疲れるのか、ほんの一瞬、お母さんが疲れた表情を見せたときのスナップ No.183 昭和63年(1988) 1月

    コウベグリーンエキスポで、中国・天津市から借り受けた金絲猴の"金金(チンチン)"と"菲菲(フェイフェイ)"。その名の通り金色の美しい毛並みと、いたずらっぽい顔立ちが印象的だった No.154 昭和60年(1985)7月
  • 見ザル、言わザル、聞かザル。人工ほ育で大きくなったチンパンジーNo.29

    大きく口を開けたカバの2代目"出目男"(左)と、むっつり顔の"茶目子"。2代目出目男は昭和60年9月、見物客が投げ入れたボールを飲み込み死亡。
    茶目子は現在、3代目出目男と結婚して、多産記録(16産)を更新中 No.29

    北極グマのダイビング。上から飛び込むのは雌の"キタコ"。下で見ているのは雄の"キタオ"。高い所から飛び込むのはいつも雌で、雄はめったに飛び込まない。見事な飛び込みは雄に対する自己表現だろう No.29
  • ゾウの"諏訪子"。好物のサトウキビをもらい、細い目を一層細くして喜んでいる。諏訪子は、王子動物園がオープンする半年前の昭和25年9月、旧諏訪山動物園に入園。現在46歳。日本一長寿のゾウで、王子動物園の生き字引きだ。幾人となく入れ替わった飼育係さんの顔、そして王子動物園の移り変わりをこの優しい目で見続けているNo.80

    青年期のゴリラの"ザーク"。昭和54年に体重世界一としてギネスブックに載ったザークは、結婚相手に恵まれず生涯独身だった。58年3月死亡。現在、はく製が園内の動物科学資料館に展示されているNo.29

    ヒマラヤグマの親子が、おしゃべりに熱中していた。楽しそうに何を話しているのかな…No.127 昭和58年(1983)4月

    ポートピア'81 (神戸ポートアイランド博覧会)で、中国・天津市から借受けたジャイアントパンダの"寨寨(サイサイ)"ど"蓉蓉(ロンロン)"。会期中、パンダ館の入場者は約1,010万人。ポートピア'81の入場者の6割以上の人がパンダ館に足を運んだNo.103 昭和56年(1981)4月

街 道

〈街道〉
●「丹生文化」の里山田 No.32 昭和49年(1974)11月
●神戸の街道 No.42、43昭和50年(1975)10月、11月
●「徳川道」を探る No.68 昭和53年(1978)5月
●神戸の道 No.193、194 昭和63年(1988)11月、12月


●神戸の街道(No.42、43) ●神戸の道(No.193、194)

 色濃く残る街道筋の面影
 神戸のような近代的な都市にも、昔の街道筋の面影は残っている。古い家並みに、路傍の石碑に、寺院の境内に、そっとかくれるように残っている。いじらしくもあり、また、たのもしい。古くからの畿内と西国を結ぶ幹線・西国(さいごく)街道、須磨浦の難所を避けたう回路・多井畑(たいのはた)街道、白川街道、東六甲最古の山越え道・魚屋(ととや)道、有馬と播磨路を結ぶ北神戸の湯山(ゆのやま)街道・山田道、同・淡河道など、今も色濃く残る古い街道筋のなごりをたどってみた。


  • 魚屋道と住吉道の合流点近くにある住吉川上流の石の本庄橋。昔はここに茶店があり、灘の海の幸と、有馬の山の幸を交換する市が立っていたという。今は石橋は破損して木造に変わり、そばに本主僑跡が整備されている No.42

    東灘区森の稲荷神社にある石の手水鉢の裏に刻んだ魚屋さんの名前。神社は、江戸時代から灘地方と有馬を結ぶ東六甲最古の交通路・魚屋道の出発点で、灘地方の新鮮な魚を担いでこの道を利用した深江、青木村の魚屋さんが文政5年(1822)、手水鉢を神社に奉納した No.42

    三木三田線(旧淡河道)沿いにある淡河八幡神社 No.43

    古い湯山街道・淡河道の面影を残す淡河の町並み。現在はほとんどの家がワラぶきからカワラ屋根になっている No.43
  • 兵庫区松原通の真光寺境内にある「左 京大坂 右はりまみち」の道標。西国街道筋にあったのをここへ移したものらしいNo.42

    ひっそりとした白川の里。近くを通っている神戸三木線(昔の白川街道)の南側の白川台団地には高層住宅が林立しているが、古くから"揚梅の里"として知られるこの村に入ると、隣り合った町とは思えないほど静かである。村には源義経を鵯越に道安内したという、鷲尾経春の子孫と伝える鷲尾家があるNo.43

    昔の白川街道沿いにある禅昌寺の山門(須磨区禅昌寺町)。白川街道は、多井畑街道と同様、須磨浦の難所を避けたう回路とみられ、板宿から白川、太山寺を経て明石へ出ていた No.193

    須磨区多井畑の静かな小道 No.42

    有馬から丹生山田を通って三木へ出る湯山街道・山田道の道標。三木下谷上線沿いの丹生神社鳥居の南の田んぼ道に立ち、「右ひょうご 左ありま」とある。ここから旧山田道と分かれ、南の藍那へ道は通じている No.43
  • 左の木立ちを隔てて国道43号(昔の西国街道)が走っている。国道沿いとは思えないほど、古い家並みに今も街道筋の面影が残っている(東灘区御影本町) No.193

    古い多井畑街道筋をしのばせる道端の石造物(垂水区下畑)。街道筋は、塩屋から下畑を経て多井畑へ入り、今の高倉台団地の北側を回って月見山へ出ていた No.42

    県道沿いの山田小学校の少し南にある古い地蔵堂。県道ができる前の古い山田道はこの前を通っていたNo.43
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