193号表紙

No.193(昭和63年11月)

特集:

神戸の道(上)

神戸の道(上)

昭和初期の境浜付近の旧西国街道筋(現国道2号)。山陽電鉄は昭和23年、少し北の現在の軌道へ移動した。境川が流れ込んでいる海浜は境浜と呼ばれ、かつては海水浴場としてにぎわった

今も昔も東西を結ぶ大動脈
西国街道(国道43号・2号)、神明道路

兵庫地理学協会会員 小林 茂



  • 昭和39年ごろの国道2号
    (中央区春日野道付近から三宮方向を望む)。
    そのころはまだ市電が走っていた

  • 現在の国道2号
    (中央区春日野道付近から三宮方向を望む)。
  • 六甲アイランドと市街地を結ぶ優美な六甲大橋
  • 東灘区の山の手を東西に走る山手幹線
  • 大型車が行き交う港湾幹線道路
  • しっとりとした酒蔵の道(東灘区御影石町)
  • 昭和38年の国道43号(東灘区住吉南町)。道路上に高架構造の阪神高速道路はまだ通っていない。左の建物は白鶴酒造
  • 現在の国道43号(東灘区住吉南町)。
  • 写真上方を東西に走っている高架線は阪神高速道路。下の海をまたいでいるアーチ型の橋は六甲アイランド・摩耶埠頭・ポートアイランドを結ぶ港湾幹線道路の灘大橋。橋の中央付近へ流れ込んでいる川は石屋川。川尻には酒蔵が多い
  • 昔の街道筋をしのぼせる静かな家並み。左の木立ちを隔てて国道43号が走っているとはとても思えない(東灘区御影本町)
  • 東灘区魚崎南町の児童公園にある「左兵庫道 右大坂道」の道標。昔は浜街道筋にあったのがここへ移されたらしい
  • 昔のたたずまいを今も残している浜街道の街並み。 道は国道43号のすぐ北を国道と並行し東西に続いている(東灘区御影本町)

    阪神石屋川駅北方の西国橋。西国街道の本街道が通っていたのでこの橋名が付けられた(東灘区御影石町)

神戸の外交史の貴重な遺跡 ー徳川道ー

 慶応三年十二月七日(西暦一八六八年一月一日)の神戸開港によって、外国人とのトラブルを心配した徳川幕府は参勤交代の大名や武士たちの行列を、外国人居留地のできる神戸の市中を避けて西国街道のずっと北を通らせることにし、「西国往還付替」として新道を開いた。これが徳川道である。
 その道筋は、東からたどると、御影から街道と分かれて北に入り、篠原を経て杣谷、そして山上の杣谷峠から摩耶山の北を回って今の森林植物園を抜け、有馬街道を越えて藍那、白川を通り、高塚山、漆山から明石の大蔵谷へ出るという大う回路である。長さは約八里二十七丁(約二十四q)で、各道筋の村人たちが工事に従事した。
 しかし、この道は利用されないまま明治元年一月十一日、いわゆる神戸事件が三宮神社前の西国街道で発生、同年八月廃道となった。廃道後は、田畑に戻されたりして、道は体をなさないものとなってしまったが、神戸の外交史の貴重な遺跡である。



  • 三宮神社(中央区三宮町)境内にある「神戸事件発生地」の標石。神戸事件は、明治元年1月、備前池田藩の一隊が当時の西国街道の三宮神社前付近へ差し掛かったとき、隊列を横断しようとした外国水兵を隊士が傷つけたことから、維新早々の困難な外交問題に発展しかけたが、日本側の責任者が切腹して事件は解決した
  • 昭和31年10月に王子競技場で開かれた第11回国体秋季大会の際に整備された国体道路(中央布引町〜灘区城内通)

    現在の大丸前付近。西国街道はこの道から元町本通りを経て兵庫へ向かっていた

    日本一短い国道一七四号。手前の東西の広い道が国道二号。一七四号は二号から南の阪神高速道路のガードを越えてすぐの所にある神戸税関までの百八十七m
  • 昭和四十七年ごろのフラワーロード付近

    現在のフラワーロード付近
  • 港湾幹線道路、浜手バイパス、阪神高速道路ポートライナーが複雑に立体交差する神戸商工貿易センタービル(中央の高層ビル)の南側。
    左は建設中の市役所新庁舎

  • 赤いポートタワーの見えるメリケンパークのすぐ左を高架で走っているのは浜手バイパス、
    その左は阪神高速道路、さらに左の地上線は国道二号
  • 現在の海岸通(現国道2号)
  • 分離帯のイチョウ並木が美しい高松線。兵庫区の運南地区を走る同線は、南部に西部埋め立て工区があり造船所など工場街の利便のため整備された
  • 商業と金融の中心として栄えた昭和初期の栄町通の現在
  • 緑の山の中をゆるやかなカーブを描いて東西に伸びる山麓バイパス(右)。左の市街地寄りに見えるのは西神戸有料道路の丸山大橋(長田区雲雀ケ丘)
  • 兵庫区松原通の真光寺境内にある「左 京大坂 右 はりまみち」の道標。西国街道筋にあったのをここへ移したものらしい
  • 着々と建設の進む神戸ハーバーランド。高架線の手前がJR神戸駅、その南側は阪神高速道路と国道2号
  • 源平勇士の碑(長田区四番町)。
    一の谷源平合戦のとき、生田の森の大手を守っていた父の平知盛の危急を救って、自らは戦死した平知章(ともあき)の塚は、もとは長田の奥の明泉寺のそばにあったが、こんな孝子の墓は人目につきやすい場所に移して世の手本にしたいと、二百五十年ほど前に西国街道筋の現在の村野工業高校の南手に碑が立てられた。今は、この付近で戦死したという平通盛(みちもり)や、源氏方の木村源吾重章らの碑とともに、敵味方交えて碑が立っている。
  • 長田区役所付近から西代方向を望む(昭和四十一年)。写真に見える山陽電車は神戸高速鉄道の開通(昭和四十三年四月)から地下に入っている
  •  
  • 国が明治14年に発行した「兵庫神戸実測図」。西国街道は右中央に見える外国人居留地の北側を通り、現在の新開地本通りを流れていた湊川を渡って兵庫の町に入り、ほぼ中央部から北に折れ西代へ向かっている

    長田区役所付近から西代方向を望む(現在)。
  • 須磨離宮公園を見事に囲んだ主要道路。すぐ南側を東西に走っているのは県道神戸明石線(旧神明道路)。公園の東側は第二神明道路で、トンネルを通って西へ伸びている。西側を南北に通っているのは県道神戸加古川姫路線
  • 昭和45年ごろの須磨海浜水族園前の国道2号
  • 現在の須磨海浜水族園前の国道2号
  • 道の所々に残る街道筋のおもかげ
    街道筋の昔のおもかげを残す山陽電鉄須磨寺駅の少し南の東西の道
    (須磨区天神町)
  • 松並木が美しい離宮道
  • 写真左の須磨ヨットハ―バーのすぐ北側から力−ブして北西へ伸びている高架線は阪神高速道路。左上方、山際付近から西は第二神明道路になっている。写真中央、三角屋根の須磨海浜水族園のすぐ北側を国道二号が通っている。広くなった須磨海岸の砂浜が美しい
  • 垂水区下畑の昔の多井畑街道筋。辻の角の電柱のそばに「北すぐ多井畑」の道標が立っている
  • 三つの線路と国道が階段状になって走る山陽電鉄東垂水駅付近。写真左上から山陽電鉄、JR新快速・JR快速・普通、国道2号
  • 昔の白川街道沿いにある禅昌寺の山門(須磨区禅昌寺町)。白川街道は、多井畑街道と同じように須磨海岸から塩屋にかけての難所を避けたう回路とみられており板宿から高取山のふもとを北上、妙法寺、白川、太山、寺、伊川谷を経て明石の大蔵谷へ出ていた
  • 太山寺仁王門(重要文化財)。門のすぐ前を昔の白川街道(現・上脇布施畑線)が通っている
  • 昭和40年ごろの造成中の須磨区高倉台団地。市街地北側の山すそを県道神戸明石線が東西に通っている。第2神明道路(全線開通・昭和45年)はまだ通っていない(次ページ見開きカラー写真参照)
  • JR舞子駅から西へ150mほど行くと、国道2号と海岸の間に西国街道のなごりを残す静かな道が続いている
  • 写真左、こんもりとした森は舞子公園。右側上方に五色塚古墳が見える。海岸寄りをJRと並行して国道2号が通っている


塩屋の難所を避けてう回 ー多井畑街道ー

 須磨浦公園の辺り、明石海峡に鉢伏山の迫ったはざまをJR、国道二号、山陽電鉄がひしめきへ合って通っいる。その西方、塩屋との間を南流する境川は古来、摂津・橘磨両岡の境とされてきた。畿内西限として「赤石の櫛渕」の名が古くからあり、海岸線が櫛の目状に出人りする荒磯を思わせるが、それが現在のこの一帯だと考えられている。このように、昔この辺りは山が海に迫る厳しい難所であったため、古山陽道は、須磨と塩屋の間は山間をう回していたとされている。これが多井畑街道である。
 塩屋から下畑を経て多井畑へ入り、今の高倉台団地の北側、横尾山のふもとを回って月見山へ出る
コースだが、多井畑から横尾山の北を東へ進んで奥妙法寺に出ると、妙法寺川を下って板宿に出られる
し、さらに東、高取山北麓を越えると、明泉寺谷を下って長田に出る。また、その谷から東の尾根を越えると夢野を経て兵庫の北方へ道は通じる。つまり、兵庫から塩屋までの山間の脇道としてつながっていた。


 中央に見えるのは高倉台団地で、すぐ南側を走っているのは第二神明道路。団地の右側の山すそを南北に県道神戸加古川姫路線が通っている。写真下、須磨の旧市街地北側の森の中を見え隠れしながら東西に走っているのは県道神戸明石線(旧神明道路)。神戸明石線から南へ白く伸びているのは神戸流通業務団地と須磨海岸を結ぶ須磨ベルトコンベヤー。北方には名谷、白川台団地、神戸総合運動公園、神戸流通業務団地。また北東には、しあわせの村の芝生広場などが遠く望まれる。

ページトップへ