179号表紙

No.179(昭和62年9月)

特集:

市境を歩く(上)

明舞団地の市境沿いの大きなイチョウ並木。道路をはさんで神戸(右)と明石(左)に分かれている  表紙写真・神戸と明石の市境線になっている明舞団地の中央幹線道路。街路樹の緑が美しい道路をはさんで両市の住宅が仲良く並んでいる。前方は明石海峡と淡路島

複雑で表情豊かな西の市境

神戸の市境は一体どんな顔をしているのだろうか。西は明石市・加古郡稲美町、北は三木市・美嚢郡吉川町・三田市、そして東は宝塚・西宮・芦屋市の六市二町と境を接している長い市境。田んぼや池や山があったり、市街地化の進展によって急増した家と家の狭い空間、場合によっては一軒の家の中を市境が通っていることもあるだろう。いずれにしてもこの市境を全般にわたって知る人は意外と少ない。そこで、市境線を丹念に歩き、合わせて周辺に点在する歴史のにおいなども肌で感じてみようというのが今回の企画である。今月は垂水区と西区を歩いてみた。

垂水区

国道2号、山陽電鉄、JR線の下をくぐつて海岸ヘ流れ込む狩口川。ここが海から見た神戸と明石の市境で、JR朝霧駅をすぐ左に見ながらこの川を北ヘニ〜三百メートル行くと市境は川から団地内の中央幹線道路に移る

両市の住民が一緒になって踊りを楽しむ明舞団地の地蔵盆(明石市松が丘)

団地内に設けられた垂水区役所明舞サービスコーナー。同じ部屋に明石市のサービスコーナーもある

歩道橋の中央に仲良く並んだ神戸側と明石側の標示

色濃く残る農村の面影

 神戸のまちは、大きく三つの地域に分かれている。一つは六甲山系南麓の細長い東西の傾斜地。これが神戸の旧市街地で、もう一つはその北、六甲山系の背後に広がる北区。この二つの地域は、山をはさんで南と北の違いはあっても、歴史的には古来、摂津国の西端という共通の文化的条件の中で過ごしてきた。これに対し、三つ目の西区と南隣の垂水区は、古代から播鷹国の東端の明石郡に属し、近代まで神戸よりむしろ明石との結び付きの方が強い所であった。
 ただ、海岸地帯の垂水区が都市化の進展とともに六甲南麓の各区に近い景観をもっのに対して、西区は戦後(昭和二十二年三月)神戸市に編入され、近年は西神ニュータウンなど住宅地として急速に発展しながら全体的には農村の面影を色濃く残しており、この点では北区とよく似た地域といえる。

複雑な伊川谷町有瀬の市境

 さて、現実の市境はどうか―。まず飛水区は明舞団地の中央幹線道路が神戸と明石のほぼ市境になっている。ほぼというのは、海岸からJR朝霧駅の北二、三百メートルまでは道路の少し東側の狩口川が市境になっているからである。
 明舞団地は、昭和三十九年から関発が始められ、それまでのこぎり歯状だった両市の境界を整理して直線とし、ここに中央幹線道路を通した。朝霧駅はこの団地の足として昭和四十三年に設けられた。
 第二神明道路を西に折れて伊川谷町有瀬の南部に入ると、市境はぐっと複雑になる。この一帯は今も都市化が進んでおり、ちょっとした空地を利用して一戸建てやマンションの建設が盛んに行われている。ある地元の人は「もともとは高い台地が神戸で、低い谷が明石ということで境界はある程度分かったけど、最近は低い所を埋めて家がどんどん建つのでさっぱり分からなくなった」と話していたが、市境を忠実に歩くという意味で一番泣かされたのがこの一帯だった。

新田開発で増えたため池

 玉津町に入ると、市境沿いに流れる伊川の右岸をたどって進み、北から流れてくる明石川との合流点に立った。北区に近い押部谷町に源を発して平野・玉津町を流れてきた明石川はここで神戸を離れ、明石の市街地を抜けて播磨灘に注ぐ。西区の人々にとって、昔から非常に関係の深い川だ。合流点から北西ヘ約一・五キロ離れた玉津町枝吉にある弥生時代前期の吉田遣跡は、ここから出土した弥生式土器などによって神戸で最古の米作りの村といわれており、明石川の両岸に広がる地域を水田として耕していたのだろうと推定されている。吉田郷土館には、吉田遣跡をはじめ明石川流域の各遣跡から出土した考古資料を一堂に集めて展示している。

近代タバコの発生地・岩岡

 玉津から野々池を西側に見て平野町に入ってすぐ目についたのは、林崎疎水路とその石碑。疎水路は明石川上流、平野町黒田から野々池までの約六キロで、今から三百三十年前の明暦三年(一六五七年)に、鳥羽地方(明石市)の水利のため庄屋らが当時の明石藩主松平忠国に願い出て許可を受け完成した。忠国の子の信之は新田関発に熱心で、伊川谷の堀割工事を行うなどして台地に田畑の開拓を勧めた。
 こうして、新しい関拓の度に農民たちは池を作り、やがて明治から大正にかけて淡河川疎水や山田川疎水ができると。その疎水の水を貯えるためにまた新しい池を築くといった具合で、この地方にどんどんため池が増えた。
 それでも水利の便が悪く、米作りの難しかった岩岡では元禄四年(一六九一年)に本格的なタバコの栽培が始まったといわれている。明治三十三年には、アメリカ産の黄色タバコを日本で初めて輸入してここで栽培し、好成績をあげた。岩岡が近代タバコの発生地といわれるのはこのためである。同三十五年に農商務省の葉タバコ顧問(アメリカ人)を招いて栽培法や乾燥室の造り方などの技街梃導を受け、次第に耕地面積を広げた。もちろん戦後もタバコの栽培は続けられていたが、水利の便が年々良くなり、他の作物への転換が容易になったことなどから、十年ほど前から耕地面積は急速に減り、現在では皆無の状態になっている。

伊川谷町

中央を市境が通る呉錦堂池

 岩岡から神出に入ると、市境沿いの道からますますはっきりと雌岡山が見えてくる。もちろん神出だけでなく、明石平野の東西に雄岡・雌岡と二つの山が並んでいるわけだからもっと遠くからでも見えるのだが、やはり近くになるほどその姿は美しい。ともに神出富士と呼ばれ、文句なしに神出のシンボルである。
 雄岡山の標高が二四一・三メートル、片や雌岡山は二四九・五メートル、なぜ雄岡山の方がわずかばかり低いのかというと、両山の間に池があって、大昔に両山が互いに高さを競い、それぞれが金棒を中心に土盛りをしていたとき、雄岡山の金棒がこの池に折れ込んだので、金棒池の名になったという伝説がある。雄岡山の低いのはそのためだと伝えられている。
 山麓の田園地帯を走る大規模なサイクリングロード(神出山田自転車道)や、池のほぼ中央を市境が通っている呉錦堂池、あるいは、神戸と三木と稲美町の接点近くの田んぼにひっそりと立つ分境の標石などがここでは印象的だった。
 この神出町と押部谷町の北部の山地は明石川と加古川両水系の分水線になっており、これが神戸と三木市の境界でもある。押部谷町では、市境近くの月が丘公園展望台からの眺望が見事だった。目の前に押部谷第二団地の造成地。前方やや東に桜が丘、秋葉台の新興住宅地、そして西南方向には、ここ何日かかけて歩いてきた西区の田や池や家々…が夏の日差しを受けてまぶしく光っていた。

玉津町

玉津町・平野町

平野町・岩岡町

岩岡町

岩岡町・神出町

神出町

神出町・押部谷町

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