170号表紙

No.170(昭和61年12月)

特集:

みなとの120年(上)

開港と、居留地の造成で急速に発展

 慶応三年十二月七日(西暦一八六八年一月一日)、神戸の沖合に停泊する黒い外国船団から二十一発の祝砲がとどろき、波止場を埋めた村人たちの歓声と拍手の中で、港は開かれた。西国街道沿いのひなびた農・漁村に過ぎなかった神戸は、この開港と、それに伴う外国人居留地の造成によって、文明開化への急速な足取りをたどって行った。
 それからざっと五十年後。大正十年三月に行われた神戸開港五十年を祝う式典で、桜井鉄太郎市長は「開港当時、人口二万人、年間貿易額百万余円だった神戸は、地の利、人の和によって他に例を見ないほど急激に興隆し、今や人口六十余万人、貿易額十五億円に達し、わが国第三位の大都市としてますます発展しようとしている…」と式辞を述べた。まさに「嗚呼(ああ)、盛んなるかな」である。
 翌十一年五月には、千五百九万二千円の巨費と十六年を費やした歴史的な神戸港築港第一期工事が完成、さらに十二年九月一日、関束地方に突然起こった大地震は、日本中を文字どおり震かんさせたが、鉄道不通のため救援物資の輸送基地になった神戸には、皮肉にも、港湾機能が壊滅した東京や横浜の業者がどっとやって来て、港は一層活況を呈するようになった。
写真提供・参考図書

(順不同、敬称略)

神戸市立博物館、新修神戸市史編集室、横浜開港資料館、荒尾親成、神戸開港100年の歩み(神戸市港湾局)、神戸港工事事務所のあゆみ(運輸省第三港湾建設局神戸港工事事務所)、神戸の歴史(落合重信著)、神戸港1500年(鳥居幸雄著)、神戸の史跡(神戸市教育委員会)、生田いまむかし(生田区振興連絡協議会)、神戸洋服百年史(神戸洋服百年史刊行委員会)、三井倉庫50年史(三井倉庫kk)、神戸商船大学50周年記念誌(神戸商船大学)、神戸開港百年史(建設編・港勢編)(神戸市)、神戸港大観(神戸市)

神戸港年表

開港まで
嘉永6年6月 1853年 ペリ−(アメリカ東インド艦隊司令長官)、浦賀に来航して開国を迫る。いわゆる"黒船の到来"で、徳川300年の鎖国政策を強引に開国・開港へ転換させる序幕となった。
安政元年9月 1854年 プチャーチン(ロシア極東艦隊司令長官)、大阪湾に来航。艦隊は大阪の天保山沖に停泊、大阪・兵庫の人々は大変驚いた。以後、摂海(大阪湾)防衛論大いに起こる。
安政2年3月 1855年 網屋吉兵衛、神戸村に船たば場を建造
船たば場は、船底をくすべて船虫を駆除したり、付着している貝殼を取ったりして船の耐久を図るもので、これが神戸港におけるドックの第1号といえる。それまで讃岐の多度津まで行かなければならなかった不便を解消するため、吉兵衛は、当時砂浜続きあった神戸村の浜に自費でこれを造った。船たば場は、のち運上所(税関)の船入場となり、開港場としての神戸港築造のきっかけをつくった。
安政5年1月 1858年 ハリス(アメリカ初代駐日公使)との間に兵庫開港の交渉あり。同年6月、幕府は勅許を待たず日米修好通商条約を結ぶ
文久2年5月 1862年 ロンドン覚書締結され、江戸・大阪開市、兵庫・箱館・新潟開港を5カ年延期
文久3年4月 1863年 将軍家茂、大阪湾巡視のため神戸村小野浜に上陸
元治元年5月 1864年 幕府の軍艦奉行勝海舟の建議により、海軍士官養成のため神戸海軍操練所開所
〃 6月 摂海防備強化のため、湊川出州と和田岬の砲台ほぼ完成
慶応3年3月 1867年 徳川慶喜、諸外国公使に対し兵庫開港を内諾、同3月5日朝廷へ奏請す
〃 4月 外国人居留地域を定める(翌年6月竣工)
居留地の地域は、神戸村の東は生田川、西は鯉川、北は西国街道、南は海岸で、この間を126に区画、外国人による自治制が敷かれ、警察権・裁判権も外国人に掌握され、日本の主権はほとんど無いに等しかった。しかし一方、居留地は内外貿易・経済の拠点となり、西国街道沿いの寒村に過ぎなかった神戸村付近は急速に発展した。近代神戸は、開港とこの居留地に始まるといっても過言ではない
〃 5月 兵庫開港の勅許下る
〃 10月 将軍、大政を朝廷へ奉還
〃 12月 1868年
(1月1日)

慶応3年(西暦1868年)の神戸港
大型の和船や外国船を横着けする波止場がないので、荷役はすべてはしけ取り荷役であった。

兵庫開港。開港式を完成したばかりの運上所において挙行
運上所は神戸で初めての洋館で、窓にガラスがはめられていたのが珍しく、ガラスに日光が反射するのを見て人々は"ビードロの家"といって賛嘆した。ちょうどそのころ、天から神符が降る騒ぎの最中であったので、老幼男女ともに「エエジャナイカ、エエジャナイカ」と街を踊り歩いた

神戸市立博物館が再現した明治3O年ごろの居留地の模型。縮尺20O分の1、建物数は約350棟。設計図の製作は坂本勝比古氏

明治年間
明治元年1月 1868年 神戸事件起こる
備前池田藩の一隊が当時の西国街道、今の元町通を西から三宮神社付近へ差し掛かった時、この隊列を横断しようとした外国人水兵を藩士・滝善三郎正信が手槍で傷つけたため、英・仏・米国が停泊中の軍艦から兵を上陸させるなど紛糾した。結局、正信が責任をとって切腹、事件は解決した
〃 〃 現・兵庫区中之島に兵庫鎮台設置
鎮台は同年2月2日に兵庫裁判所と名が変わり、5月23日にまた兵庫県と改められた。つまりこれが最初の兵庫県庁で、伊藤博文が初代知事となった。職制の改革で何度も名を変えたが、執る事務は同じで、今の警察や裁判所の役目も含めていた
明治元年2月 1868年 運上所、業務を開始。運上所は「東運上所」と称し、同時に分派所として「西運上所」を開設した
東運上所は現在の第3港湾建設局の位置、西運上所は現在の国産波止場付近にあった
〃 4月 波止場規則を定め、東運上所前を第1波止場、西運上所前を第2波止場と称す
〃 5月 波止場2カ所増設。米国領事館前を第3波止場(現在のメリケン波止場)、宇治川尻を第4波止場と称す
この年 神戸の人口23,713人
明治3年10月 1870年 神戸〜大阪間に電信開通
当時、「風の便りに聞いたは昔、今は線金(はりがね)ものをいう」の俗謡がはやり、珍しがられた。しかし電信料は決して安くなく、一般の利用は少なかった。電話の開通は明治26年である
明治4年2月 1871年 西運上所前波止場の改修工事着工(同年10月竣工)
改修工事は、この波止場を輸出波止場にするためのもので神戸港築港上、最初の大規模工事といえる。この完成によって神戸港はやっと港らしい形になった
〃 〃 ジョン・マーシャル(英国人)初代神戸港長となる
〃 3月 生田川付け替え工事着工(同年6月完成)
旧生田川は、布引方面から加納町3丁目・現市庁舎前を流れて税関のところで海へ注いでいたが、居留地が出来てからもしばしばはんらんしたため、外国人から苦情が出た。そこで川を東へ約1km振って付け替えることにし、完成後、新生田川と名付けられた。この付け替えによって生じた川尻の土地は民間に売却され、官民一体となった神戸港の基盤づくりの第一歩を踏み出すこととなる
〃 4月 和田岬に灯台を建設、この日仮点灯す(本点灯は翌5年8月)
〃 〃 工部省、造船業振興のため兵庫東出町に「兵庫製鉄所」を設置し、修理用船渠を建設。同製鉄所はその後、兵庫造船所と改称された
明治5年12月 1873年

明治5年ごろの港
明治元年、神戸運上所開設。三棟の貸倉と四ヵ所の波戸を築造。明治5年、神戸税関設置とともに、「兵庫港」は「神戸港」と改称された。その後、港湾区城も明治25年10月に改められて、旧兵庫港区も係船場に編入された。

12月3日から太陽暦を採用、1日を24時間に定めた。この改正によって、明治5年12月3日は明治6年1月1日(西暦1873年1月1日)になった。(本年表は、これまで旧暦の年号月日で記入しており、開港以前(1868年)は、それぞれ換算して西暦年を記入した)
明治6年1月 1873年 運上所を「神戸税関」に改称
〃 10月 ジョン・マーシャル、「神戸築港計画」を神田県令に建白、県令はこれを大蔵卿に上申したが、12月不許可となる
かつて船長としてヨーロッパ各地の港を見知っていたマーシャルは、神戸港長就任後も毎日、港の気象を観測し、港内の潮の干満を検測した。この結果、風や高波による海岸の破壊が甚だしいのを知り築港の必要を痛感、この計画案を作った。案は採り上げられなかったが、しかし後年行われた神戸築港は、マ−シャルの首唱に基づくものであった。また、彼の行った観測は、後の気象観測の礎石となった
〃 11月 栄町の大通り完成
東西の交通を中心とする神戸の将来の発展に備えたものだが、当時は"無用の大道"と呼ぶ人も多かった
明治7年3月 1874年 ジョン・マーシャル立案の「神戸港則」成る
〃 5月 神戸〜大阪間鉄道完成、仮営業す
〃 7月 兵庫新川開削工事着工(明治9年5月完成)
兵庫港には適当な船の避難所がなかったため、風波の災害を受けることが多く、また和田岬の突端を回って入港する不便があったので、兵庫区長神田兵右衛門が中心になって兵庫新川の建設が計画され、幾多の困難と戦いながらもこれを完成した。
〃 11月 神戸に初めてガス灯ともる
初めは外国人の経営で主として居留地中心であったが、後には一般市街にも街灯がともるようになった
明治8年4月 1875年 鉄道寮(後の鉄道省)、神戸停車場構内に蟹川船渠を開設
明治9年6月 1876年 鉄道寮、神戸停車場構内海岸に鉄道桟橋を架設
明治10年9月 1877年 市内にコレラ流行
兵庫港に停泊中の九州帰りの船中で、西南の役の帰還兵7人が発病(うち4人死亡)、これが市内に伝染したため、和田岬に臨時検疫消毒所を設置、また夢野村東山、兵庫区吉田新田・和田岬に避病院が設けられたが、コレラの猛威は押えられず、翌年6月までに480人が発病、355人が死亡した
この年 南京町できる
開港当時、無条約国の中国人は当初居留地に住むことを許されなかったので、近辺の海岸寄りに住んでいたが、明治10年ごろから次第に元町1丁目南辺りに移り住むようになり、ここに南京町を形成した
明治11年5月 1878年 弁天浜埋め立て工事着工(明治12年2月完成)
〃 10月 兵庫商法会議所設立(会頭神田兵右衛門)
〃 12月 キルビー(英国人)、小野浜に造船所を建設。日本最初の鉄製汽船を造る
明治12年1月 1879年 郡区町村編成法により、従来の行政区を廃し、新たに「神戸区」が置かれた
明治15年  1882年 居留地ホテル(後のオリエンタルホテル)、京町筋(居留地80番)に開業
明治17年3月 1884年 海軍省、キルビー商会の造船所を買収し、「海軍省主船局付属小野浜造船所」と称す
〃 11月 神戸桟橋会社、小野浜に鉄桟橋建設
明治19年4月 1886年 川崎正蔵、兵庫造船所の払い下げを受け、「川崎造船所」と改称し経営
明治21年11月 1888年 山陽鉄道(現国鉄)兵庫〜明石間開通
明治22年4月 1889年 神戸に市制施行(神戸区に葺合村・荒田村を編入して神戸市とす)。人口134,704人、初代市長・鳴滝幸恭
神戸区役所を神戸市役所と改め同年6月から事務を開始したが、事務分掌は庶務・戸籍・収税・出納の4掛が置かれた。この時の職員数は書記27名、付属員30名、使丁27名であった。使丁が意外に多いのは、連絡用務に当たったものとみられる
明治22年7月 1889年 国鉄東海道本線全線開通
明治26年11月 1893年 日本郵船、神戸〜ボンベイ間航路開設(わが国初の遠洋定期航路)
明治27年7月 1894年 日清戦争起こる
明治29年1月 1896年 兵庫運河起工(明治32年12月完成)
兵庫運河は、明治9年に完成した兵庫新川の当初の構想を継承した工事で、西尻池の大地主池本文太郎と、駒ケ林の魚問屋八尾善四郎は、林田村(現長田区)の海岸から南逆瀬川町を経て新川に至る運河を開削すべく、資金集めに奔走、私財も投げ打って工事に着手した。そして完成後は航路として、避難泊地として、また荷揚場として大きな機能を果たした
〃 5月 神戸市会は「神戸港築港建議案」を可決、意見書を知事に提出
〃 8月 兵庫運河の開削によって生じた土砂を利用し、苅藻島埋め立て工事着工(明治33年1月完成)
〃 10月 神戸港波止場の増改築工事着工(明治31年4月完成)
明治30年11月 1897年 湊川付け替え工事着工(明治34年7月完成)
旧湊川の地ならし工事は明治38年11月に完成し、やがて湊川新開地の繁華街として発展した
この年 神戸港の輸入額、全国の55%を占め、輸入港としての地位を一段と高める
明治31年5月 1898年 神戸開港30年記念祝典挙行
〃 7月 開港港則公布。神戸港の境界設定される(11月1日施行)
明治32年7月 1899年 居留地授受式が、外国側代表と政府代表の間に行われ、居留地は神戸市に編入される
〃 9月 神戸税関は、加納町地先海面に物揚場と防波堤築造工事着手(明治35年3月完成)、神戸港最初の防波堤となる
明治34年8月 1901年 和田岬防波堤築造工事に着手(明治39年末完成)
明治36年4月 1903年

明治35年
当時の港の施設としては、はしけや小型船の物揚場や防波堤等が主体であって、当時3,000トン級の船が接岸出来たのは、明治17年に造られた小野浜の鉄桟橋がただ一本あるのみであった。明治35年、旧生田川尻の物揚場(明治32年ごろ築造)を被覆するため防波堤を2本築造した。小野浜の鉄桟橋(水深約一7m)の構造長さ178m幅13m橋脚と桁は鉄製で、その上に板を張り、3本のレールを敷いたものであった。

神戸港沖で観艦式挙行
当時は、日露の風雲急を告げている時で、明治天皇の御観閲に市民は感激して意気盛んであった。市内の小学校児童代表数百名は、口一里山の南面山腹(諏訪山の北東)にイカリ形に並び、手に手に国旗を打ち振ってお迎えした。その跡に松を植え、錨山と名付けて記念とした
明治37年2月 1904年 日露戦争起こる
明治38年4月 1905年 阪神電鉄、三宮〜大阪出入橋間開通
〃 7月 神戸三菱造船所創業
〃 9月 鈴木商店、小林製鋼所を買収し、「神戸製鋼所」として経営す
明治39年3月 1906年 神戸電灯会社、電力の供給を開始
〃 4月 神戸港築港工事に着手
予算額396万円。これが翌40年9月起工の第1期工事に含まれていく
明治40年3月 1907年

明治40年、「神戸港第一期修築工事」新港1・2・3・4(西半分)突堤の建設に着手(大正11年に完成)。明治43年、第3防波堤の建設に着手(昭和10年に完成)

神戸港第1期修築工事予算、帝国議会を通過(総工費1509万2037円、39年度〜46年度まで8カ年で完成の計画)
〃 5月 神戸市章制定
〃 7月 小野浜臨港鉄道完成
これが神戸港初の臨港鉄道で、東海道線灘駅(東灘貨物駅)から脇浜海岸、生田川尻を経て小野浜に至る延長4km余。港で扱う貨物の増加とともに大きな機能を果たした
〃 9月 神戸港第1期修築工事起工式を小野浜埋立地で挙行(工事は、第1〜第4突堤(西半面)と上屋18棟、防波堤1,149m、鉄道20,378mなどの建設。大正11年完成)
起工式に出席した大蔵大臣阪谷芳野は「第1期工事は神戸港の第一歩である。本港が速やかに第2期工事を続行し、幾多の新施設を必要とするような大発展が近い将来訪れることを期待する」と述べた。起工式を記念し、市章山に市章形の植樹を行った
明治41年4月 1908年 ブラジル移民第1船「笠戸丸」(6,023トン)、718名の移住者を乗せて神戸港を出港
明治42年12月 1909年 市庁舎新築落成(中央区橘通1丁目)
明治43年3月 1910年 兵庫電気軌道(現山陽電鉄)兵庫〜須磨間開通
〃 7月 東防波堤築造工事着工(大正7年末第1期工事分完了)
大正年間
大正元年11月 1912年 川崎造船所のガントリークレーン完成
大正3年7月 1914年 第1次世界大戦起こる
大正5年   1916年 第1次世界大戦の影響による海運ブームのため、汽船会社多く創立される
大正6年8月 1917年 市街電気鉄道、電灯電力事業が市営となる
この年

大正6年、第1防波堤の建設に着手(昭和9年に完成)。大正8年、「神戸港第二期修築工事」新港第4(東半面)・5・6突堤、兵庫第1・2突堤、中突堤の建設に着手(昭和12年に完成)。大正9年、第2防波堤の建設に着手(昭和9年に完成)。昭和5年、第4防波堤の建設に着手(昭和13年に完成)。

防波堤築造工事着工
神戸岡崎銀行(現太陽神戸銀行)設立
大正7年8月 1918年 米騒動発生、神戸に波及
この年1月に1升23銭だった米は7月には46銭3厘になり、民衆は生活に苦しんだ。8月12日、米騒動は神戸にも波及し、数千人の群衆は鈴木商店本店に押し寄せ、火を放った。群衆はさらに米屋、高利貸しを襲い、この鎮圧に軍隊も出動した
大正8年4月 1919年 内務省神戸土木出張所設置
〃 7月 神戸港第2期修築工事着工(工事は第4突堤東半面と第5・第6・中・兵庫1・兵庫2の各突堤及び上屋33棟、防波堤5,337m、物揚場5,228m、鉄道17,060mなど、総工費5022万9916円)
〃 12月 市は兵庫運河及び苅藻島を買収、市営とする
大正9年4月 1920年 須磨町、神戸市に合併
〃 7月 阪急電鉄神戸線(終点・上筒井)開通
〃 8月 神戸海洋気象台、業務開始
〃 10月 第1回国勢調査施行、市の人口608,644人
大正10年3月 1921年 開港50年、市制実施30年、電気事業市営、水道拡張工事完成、須磨町合併の総合記念祝賀会開催
大正10年は、実際は開港53年に当たるが、他の祝賀と合わせて盛大な記念行事を行うことになった関係でこの年が選ばれた。3月20日から3日間、折からの海運不況を吹き飛ばすかのように、市内の至る所で市民の仮装行列や踊が練り歩き、街には花電車が走り、イルミネーションが輝き、祭り一色に塗りつぶされた
〃 7月 川崎・三菱両造船所を中心に労働争議起こる
争議の波は神戸製鋼所、台湾精糖、ダンロップや小さなマッチ工場にも及び、約5万人の工場労働者が争議に加わった。川崎・三菱両工場の争議は労働側の敗北に終わったが、これを機に、労働者階級の力が社会にクローズアップされた
大正11年4月 1922年 第5突堤着工(昭和6年11月完成)
〃 5月 神戸港第1期修築工事竣工式挙行
〃 〃 メリケン波止場増築工事着工(大正14年5月完成)
〃 〃 兵庫第2突堤着工(昭和5年6月完成)
〃 8月 神戸海洋気象台の無線電信設備完成、同年12月4日船舶向け気象無線放送を開始
〃 12月 第4突堤(東半面)着エ。(大正14年度完成)
大正12年4月 1923年 兵庫第1突堤着工(昭和7年8月完成)
〃 8月 神戸港は、内務省指定の重要港湾となる
〃 9月 関東大震災発生。鉄道不通のため、神戸港が救援物資輸送基地となる
大正13年3月 1924年 神戸港港域改正。岸壁係留船のために、日本最初の有線による港湾電話開設
大正14年4月 1925年 市は県営国産波止場を買収し、市営とする
〃 7月 第6突堤着工(昭和11年3月完成)
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