168号表紙

No.168(昭和61年10月)

特集:

文化財の散歩道

文化財の散歩道
 私たちの住んでいる街には、先祖の残した貴重な文化財や史跡が残っています。今回は、そんな街角の文化財を訪ねて歩いてみました。西から五色塚古墳と舞子の浜(垂水)、旧外国人居留地と異人館街(中央区)、そして、万葉集に歌われた処女(おとめ)の悲恋物語を伝える処女塚古墳と酒蔵地域(東灘区)の3ヵ所です。
 さわやかに晴れ上がった秋空の下、遠い昔の先祖の足跡を静かにたどっていると、なぜか気持ちがなごんできます。

(左)五色塚古墳の墳頂への階段

古代のロマンを求めて

喜谷 美宣(神戸市立博物館学芸課長)

図

 垂水・舞子は、"風光明美"な所として、また、名勝旧跡の多い所として古来須磨・明石と並び称せられてきました。
 私にとって、垂水といえは五色塚、舞子といえば大歳山、この両遺跡への道がお薦めできる散歩道です。
 五色塚古墳は、全長一九四メートル。県下最大の前方後円墳で、今から一五八〇年も昔の五世紀初めに築造されたもので………、などという堅苦しい解説は抜きにして、ぜひ五色塚古墳の墳頂にお立ちになることをお薦めします。
 春・夏・秋・冬、朝・昼・夕、どんな組み合わせでも墳頂からの眺めは私たちを楽しませてくれるに違いありません。南側に広がる明石海峡から淡路島へかけての風光はもとより、東の摂播国境にそびえる鉢伏山、西の舞子ビラあたりの松の縁、北側に広がる住宅地の眺めさえもが、この古代の姿に復元された古墳にぴりたりマッチしているように思われます。
 五色塚古墳へは、国鉄か山陽電鉄の「垂水」駅から西へ徒歩約十分。途中、駅から少し北へ回り道をして西垂水共同墓地内の巨大な宝篋(きょう)印塔(遊女塚)を眺めてゆくのもいいかも知れません。建武四年(一三三七)という室町時代初めの紀年銘をお見落としなく。
 五色塚古墳まで来れは、西方約一キロメートルの舞子公園まで足を延ばされるのもいいでしょう。墳頂から見える舞子ビラを目指して歩いて十五分というところでしょうか。
 公園の東南隅にある移情閣は、六角堂あるいは八角堂と呼はれて市民に親しまれています。この建物は大正の初めに神戸の華僑の豪商呉錦堂の別荘として建てられたもので、現在は「孫中山(孫文)記念館」として利用されています。(月曜日と年末年始以外は見学可)
 公園の西端まで、海岸沿いに、あるいは松林の中を散策すれは国鉄「舞子」駅前へ出ますが、駅前の国道二号を越した南側には文久二年(一八六二)に幕府が明石藩に命じて築かせた砲台址(し)の記念碑が建っています。
 弥生時代の復元住居で市民に親しまれている「大歳山遺跡公園」は、国鉄「舞子」駅あるいは山陽電鉄「西舞子」駅の北方約五百メートル、舞子小学校裏の丘陵上にあります。
 大歳山遣跡は、明石原人の発見者として知られる直良信夫先生が、縄文時代前期の遺跡として学界に紹介された遺跡ですが、現在は遺跡の主要部約四千平方メートルが公園として保存され、復元住居のほか古墳時代後期の小型の前方後円墳も復元されています。なお、復元住居の内部は、毎年十一月一日〜七日の文化財週間に一般公開されています。
 ハイキング気分でもう少し歩いてみようという方は、東側の舞子墓園まで足を延ばされるのがいいでしょう。途中の住宅の傍らや墓園内のあちこちでひょっこり古墳に出合ったり、土器や石鏃(せきぞく)(石製のやじり)が土中から顔を出しているかもしれません。

  • 写真五色塚古墳の石碑と、西側から見た古墳の全景。古墳の表面を覆ったふき石が西日に当つて美しい
  • 写真

    小壺古墳。直径67メートル、高さ9メートルの円墳で、復元工事によって本来の墳丘の上を土砂で覆い、その上に芝を張つている

    写真風趣に富んだ老松の多い舞子公園
  • 写真遊女塚宝篋印塔。総高4.30メートルの堂々たる巨容は関西でも類例がない。建武4年(1337)に士忠禅師が勧進となり、石大工の願一が造立したことを明らかにした銘文がある。県指定重要文化財。この塚には遊女についての伝説がいろいろあるが、確かなよりどころはない(仲田1丁目)
  • 写真移情閣(孫中山記念館)の内部。八方に窓が開いて、どの窓からもそれぞれ変わった景色が眺められるところから名付けられたといわれている(東舞子町)
  • 写真風光明美な舞子海岸に立つ移情閣。中国革命の父・孫文(号は中山)と縁の深い建物で、大正13年に神戸で行った講演を記念した揮ごう「天下為公」の文字を彫った石碑が庭に建てられている
  • 写真

    大歳山遺跡公園内に復元された弥生時代のタテ穴住居。住居の内部は毎年11月の文化財週間にー般公開される(西舞子町4丁目)

    写真大歳山遺跡の前方後円墳から淡路島を望む

旧外国人居留地から北野へ

  • 写真
  • 写真旧外国人居留地のほば中心を南北に通つている現在の京町筋
  • 写真京町筋に面して重厚なたたずまいを見せる市立博物館の正面入り口
  • 写真京橋北詰東側に立つ海軍操練所跡の碑。操練所は、勝海舟が幕府の許可を得て元治元年(一八六四)にこの地に開所、開所期間は短かったが、坂本竜馬、陸奥宗光。伊東祐享などの偉材を出した(中央区・新港町)
  • 写真市内に残る唯一の明治初期居留地の木造の洋館として、往時の面影を残しているノザワ本社(浪花町十五)
  • 写真三宮神社の西南隅にある「神戸事件発生地」の標石。維新早々の明治元年(一八六八)正月、備前池田藩の藩士が外国水兵を傷つけた、いわゆる神戸事件がこの神社の前で発生、外交上の困難な問題に発展しそうになったが、責任者の処刑によって事件は解決した
  • 写真昼の休憩時間を利用して東遊園地でスポーツを楽しむ人たち。ここは旧生田川の堤防敷で、居留地開設後まもなくアメリカ人によって運動場として開かれた。その後「内外人公園」「加納町遊園地」と名を変え、大正11年から「東遊園地」となった
  • 写真開港当時の外国商館の面影をしのばせる外国人居留地68番館の門柱。京町68番地は明治2年に競売され、オランダ人ハルトマン・ヘルツが100坪(330平方メートル)当り201円2銭5厘で落札、同4年ごろにはれんが造りの倉庫が建てられていた(京町68)
  • 写真旧外国人居留地に日系商社が次々とビルを建てるようになったのは大正に入ってからで、居留地内海岸通のー等地を手に入れ、日本人建築家の手によって質の高い高層オフィス・ビルが建てられた。写真右の建物は大阪商船三井船舶神戸支店(海岸通5丁目、大正11年建設)
  • 写真大丸前の旧外国人居留地碑
  • 写真"花と彫刻の道"として整備されている東遊園地東側のフラワーロード
  • 写真神戸の代表的な異人館として知られる風見鶏の館の外観。本格的な復元・修理工事によって、現在は建築当時の姿をほぼ再現している(重要文化財、北野町3丁目)
  • 写真異人館街のしゃれた案内板
  • 写真風見鶏の館の重厚な1階食堂。同館は明治42年にドイツ人貿易商ゴッドフリート・トーマス氏か自邸として建てた建物で、復元工事によって食堂のステンドグラスも昔の姿のままに復元された
  • 写真庭木の緑に美しく映える白い異人館(重要文化財、北野町3丁目)
  • 写真旧外国人居留地から山手へ南北に通じる道路としてー般に親しまれているトア・ロード
  • 写真

    ラインの館前の小道(北野町2丁目)

    写真しっとりとした気分が味わえるラインの館の喫茶室
  • 写真

    緑の多い北野坂

    写真明るい異人館の庭(山本通3丁目)
  • 写真相楽園の庭園。元の神戸市長であった小寺謙吉氏の邸宅で、昭和16年市が譲り受けた。20年の空襲で建物などはほとんど失われたが、戦後、園内の手入れをして春はツツジ、秋は菊花展が開かれるなど市民のオアシスとして親しまれている
  • 写真相楽園内にある旧ハッサム住宅。かつては北野町2丁目の高台に建っていたが、昭和36年に取り壊されるところを保存され、現在の場所に移築された(重要文化財、中山手通5丁目)
  • 写真旧小寺家廐舎、相楽園の正門とともに相楽園に残る創建当初の数少ない遺構の一つ(重要文化財)、相楽園内にはこのほか、江戸時代に使った船屋形(重要文化財)も移築されており、旧ハッサム住宅と船屋形は11月1日から9日まで、旧小寺家廐舎は同月3日から9日まで一般に公開される

伝えるべきもの

  • 写真
  • 写真黒塀と松並木が続く山邑酒造の正門前付近 (東灘区魚崎南4町丁目)
  • 写真県指定の重要文化財である山邑酒造の酒蔵。堅板張りの外壁と小窓を持つ典型的な酒蔵で指定されている3棟のうち1棟は寛政期、他は天保期の建物とみられている。現在も使用中のため一般公開はされていない
  • 写真しっとりとした黒塀とれんが塀
  • 写真昔の面影を現在も残す旧浜街道の家並み。江戸時代、西国街道の本街道は今の国道2号近くを、一方、浜街道はほば国道43号沿いを通り、幕末ごろには庶民の交通路としてにぎわっていた(御影本町6丁目)
  • 写真菊正宗酒造記念館、万治2年(1659)の創業から昭和33年まで使用していた酒蔵で、館内に収蔵されている古い酒造用具や酒器は国の重要有形民俗文化財、開館は、酒造り期間の1〜3月(魚崎西町1丁目)
  • 写真処女塚古墳は、前方後円墳で全長70メートル、後円部は幅37メートルメートルで高さが7.0メートル、前方部は幅32メートル、高さ4.0メートルで、最近整備された。大正11年、史跡に指定された(御影塚町2丁目)
  • 写真住吉ステーションの碑、明治七年、神戸〜大阪間に鉄道が開通したため、西国街道を通る旅人に住吉駅を教える道しるべが明治十四年、地元の有力者らによって建てられた(御影本町一丁目)
  • 写真整備された「酒蔵の道」
  • 写真求女塚の碑(住吉宮町2丁目)
  • 写真処女塚に立つ田辺福磨の万葉歌碑と、湊川合戦で新田義貞の危機を救ってこの塚で戦死した小山田太郎高家の碑
  • 写真公園の中のこんもりと茂った植え込みの中に建てられた求女塚。旧状は前方後円墳だが今はよく分からない
  • 写真処女塚古墳の後円部から前方部を望む
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