151号表紙

No.151(昭和60年4月)

特集:

灘の酒蔵散歩

昔は"雀(すずめ)の松原"の名で呼ばれる景勝地だった名残か、魚崎一帯の浜辺には松の木が多い。街路樹として植えられた松の緑が酒蔵の黒塀に映えて、落ち着いた雰囲気を醸し出している(東灘区魚崎南町)

整備された「酒蔵の道」。石畳状に舗装された道路、街路灯。蔵の高い煙突と屋根がわらの向こうに六甲の山並みが見える

酒の香ただよう黒塀の小道

黒塀と白壁、四角い煙突。六甲の山並みに向かって毅然と立つ酒蔵は、堂々として誇らしげである

酒蔵と真新しいマンション

犬を連れて静かな歩道を行く仲良し同士

六甲おろしの北風をとり入れる灘の酒蔵

 阪神電車の魚崎駅を降りると、すぐ西側に住吉川が流れている。魚崎は、この川によって運ばれた六甲山地の土砂が川口に積もってできた砂州である。
 魚崎に限らず、阪神間の海辺に沿って飛び石のように点在している灘の酒蔵は。住吉川とか石屋川、都賀川といった川口の砂州にかたまっている。その理由は、六甲山系からの急流がつくった砂州は酒づくりに必要な良質の水が得やすく、また海に近いため、原料米や製品の搬出入に便利だった。しかも、清らかな酒を醸すのに欠かせない精米と気温の面でも、それぞれの川の上流には昔は精米用の水車小屋が並んでいたし、六甲おろしの自然の寒気にも事欠かない。灘の酒蔵がたいてい棟を東西に長くのばし、窓を北向きにとっているのは六甲おろしの北風をとり入れるためである。
 灘の酒づくりが活発となったのは十八世紀になってからだが、はじめ灘では、西郷、中(御影)郷、東(魚崎)郷、西宮郷、今津郷のいわゆる灘五郷のうち、西宮の酒が大きな比重を占めていた。それが次第に、神戸市東部の三郷が灘の生一本の産地として注目されるようになったのは、魚崎の酒造家、六代目山邑太左衛門の功績によるところが大であった。彼が、西宮の夙川の伏流水である宮水の効用に着目して、それを魚崎まで水樽で運び、加えて六甲山系の水車で入念に精製した酒米を用い、上質の清酒を醸しだしたのが天保年間(一八三〇〜四四)のことだと伝えられている。宮水の発見は、同じ魚崎の雀部市郎右衛門の功績だとする説もある。いずれにしろ、古く天保期から魚崎は灘酒生産の中心地となり、浜辺には酒蔵がいらかを競って建てられた。

昔ながらのたたずまいを残す街角も

 昭和五十七年には、魚崎郷内の酒蔵をたずねて歩く「酒蔵の道」が整備され、石畳状に舗装された道路や街路樹として植えられた松の緑が、酒蔵の黒塀に映えて落ち着いた景観を醸し出している。また、灘の酒蔵散策コースには菊正宗、白鶴、沢の鶴などの酒造記念館や資料館がある。いずれも古くから使用された酒蔵をそのまま保存し、昔の酒造用具や酒器などが収蔵されており、興味深い。
 このほか、コース中には、西国と畿内をむすぶ交通路として昔にぎわった西国街道の浜街道の町並みが、一ヵ所ほぼ昔のままに残っている。御影本町六〜八丁目の国道四三号のすぐ北の筋で、中には二百年も前に建てられた家もあるという。江戸時代、打出で分岐した西国街道の本街道は今の国道二号近くを走っていて、大名行列などが通った。一方、浜街道はその浜辺(ほぼ国道四三号沿い)を通り、幕末ごろには庶民の交通路としてにぎわっていた。国道四三号に面した御影本町二丁目の北西角には、今も当時の道標が立っている。
 時の流れから忘れられたように、昔ながらのたたずまいを残す街角、古い社寺や道標、酒づくりの歴史を伝える資料館、それらをゆっくり見ながら、ほのかに酒の香ただよう酒蔵の小道をたどっていると、何ともいえない安らいだ雰囲気にひたることができる。

〔参考図書・『神戸の史跡』(神戸市教育委員会編)、『東灘歴史散歩』(田辺眞人著、東灘区役所発行)〕

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