140号表紙

No.140(昭和59年5月)

特集:

山道の伝説

 伝説は史実とはちがう。しかし、伝説を通して山の自然を見直してみると、その伝説がいきいきと生きてくる。北区山田町の丹生山や山田の里で殺された稚子のなきがらを葬ったという稚子ケ墓山、むかしお坊さんが有馬温泉復興のとき多くの湯ぶねをつくったという湯槽谷山、弘法大師が二度お参りに通った再度山…など、実際にそこへ足を運んでみると、やはり、生まれるべくして生まれた感が強い。今回は五つのコースに分けて、そんな山道の伝説をたずねてみた。

(1)
市バス丹生神社―丹生(たんじょう)山―帝釈(たいしゃく)山―稚子(ちご)ケ墓(はか)山―原野(はらの)
11Km・約6時間(健脚向き)

地図

戦国時代の哀史を秘めた縦走路

 神戸電鉄の箕谷駅。最近は三宮から新神戸トンネル経由の箕谷行市バスを利用する人が多いが、とにかく箕谷に来てすぐ目に入るのが、山田の里の北に連なる丹生・帝釈連峰である。見るからに神秘的な気品をただよわせた美しい山々で、実際に歩くと、その良さはもっとすばらしい。
 箕谷から、箱木千年家のある衝原行の市バスで丹生神社下車。バス停横の石の鳥居をくぐって田んぼ道をたどる。まもなく道端に古い地蔵さんが、登山者を迎えるような姿で現れる。台石に「従丹生山廿五丁」とあり、ここが丹生山のいわば登山口だ。
 山上にある丹生神社は、もと明要寺のあったところで、平清盛が福原にいたとき、京都の比叡山になぞらえて、ここに日吉山王権現をまつって月参りをしたと伝えられ、古くから多くの僧兵がいて勢力をもっていた。天正七年(一五七九)、織田信長の命令で秀吉が三木城を攻めたとき、この寺が三木城の別所氏に味方をしたという理由で秀吉に焼き打ちされ、多くの兵が死んだ。不意の夜討ちにおどろいた兵たちは、尾根続きにある帝釈山の北側の谷が安全だと思い一斉に谷へなだれ込んだので、かえって多くの人がここで死んだという。また、そのとき山田庄の人びとも子供も含めて大勢殺され、帝釈山の東の山に埋められた。この山を稚子ケ墓山といい、墓に供える手向けの花を折ったのが、その東にある花折山だと伝えられている。
 丹生山へのひっそりとした山道には、寺の盛衰をかたる町石が今ものこっており、中には秀吉の夜討ち以前の古い年号を刻したものもある。山の中腹にもお地蔵さんが立っている。ここを左に折れ、表参道をどんどんのぼるとやっと道がゆるやかになり、竹林の中に古い石垣が見えてくる。ここが明要寺跡。すぐ近くの頂上にある丹生神社は、長い風雪にさらされ今にも朽ちはてそうな社殿で、歴史の哀感がしのばれてすぐには立ち去りがたい。
 この縦走路は「太陽と緑の道」で道標も随所にあり、安心して歩けるのが何よりだ。老樹の多い丹生山に比べると帝釈山は低い木が多く、道も明るい。帝釈山項をすぎるとすぐ下る一方の坂道で、やがて渓流沿いの静かな道になって国道四二八号に出る。
 国道を南下し、双坂池のほとりから左へ折れて稚子ケ墓山へののぼりにかかる。ごろごろした石の道がしばらく続き、落葉を敷きつめたやや急な道を折れ曲りながら進むと、下から見た山のボリュームの割には早い感じでピークに出る。稚子の墓は、石をこんもりと績み重ねただけのものであっ気ないが、ここから見下ろす山田の里や、真正面の海にぽっかりと浮かぶ淡路島の美しい風景が、稚子たちへの何よりの手向けなのだろう。墓をすぎると急な下り坂で、東の山腹を巻いてさらに渓谷を下ると、やがて志久峠道のひじ曲りに出、ここから原野までのどかな道が続く。

  • 写真バス停横にある丹生神社鳥居。鳥居の正面に見えてるのが丹生山
  • 写真

    丹生山の中腹から帝釈山(左)と稚子ケ墓山(右)を望む。美しい山に抱かれて山田の里がのどがに広がって見える

    写真古い町石が所々に立つ丹生山への山道
  • 写真やさしく登山者を見守るお地蔵さん。ハイカーの歩いているのが裏参道で、表参道はここから左に折れて薄暗い樹林帯の道をのぼる
  • 写真昼でも暗い樹林帯の道
  • 写真表参道にあるかわいい石の丹生山橋
  • 写真明要寺跡の石垣
  • 写真歴史の哀感がしのばれる古びた丹生神社の社殿
  • 写真稚子ケ墓山への石のごろごろ道
  • 写真

    古い石の祠(ほこら)が無雑作に立つ帝釈山頂。木のやぐらは、国土地理院の基本測量に利用する測標

    写真国道428号わきに広がる双坂池。この池のほとりから稚子ケ墓山への登山道に入る
  • 写真

    稚子ケ墓山頂上付近から帝釈、丹生山を望む

    写真稚子ケ墓山の山頂にある稚子の墓。石をただこんもりと積んだだけのものだが、ここからの眺望はすばらしい。真正面に海にぽっかりと浮かんだ淡路島が見える

地図

(2)
国鉄道場駅―千苅(せんがり)貯水池―鏑射(かぶらい)寺―太福(たいふく)寺
6Km・約3時間(一般向き)

出雲と大和の神の合流点、鏑射山

 国鉄道場駅(福知山線)東側の踏み切りを渡り、左に不動岩を見上げ、右に武庫川の流れを見ながら気持ちのよい舗装路を東へ進むと千苅貯水池に着く。高さ四二メートルの大きな堰(えん)堤の横の石段をのぼって湖面に出る。この貯水池は武庫川の上流をせきとめたもので、北区道場町から三田、宝塚市に及ぶ一大人工湖である。山間の湖面を渡ってくるそよ風に吹かれながら、静かな樹林の道をしばらく歩いて貯水池と別れ、西北への山道をたどる。武庫台ゴルフ場のトンネルなどをぬけ、雑木林の明るい細道を下ると光明寺に着く。光明寺は、これから行く鏑射寺が盛んだったころの塔頭(たっちゅう)寺院だったといわれているが、今は中に入れない。
 山門の前を行き、道標に従って左の山腹の急坂をのぼり、ゴルフ場の側面の木立の中を南進すると、三田盆地が一望に見渡せる鏑射山頂へ出る。前方下に有馬川がゆったりと流れており、川に架かる月見橋もよく見える。月見橋は、在原行平が天皇の怒りにふれて須磨の配所へ流されていたとき、ここで知り合った美しい松風・村雨姉妹を連れてはるばる塩田川(今の有馬川)まで遊びに来て、月見を楽しんだという伝えがある。行平のそのときの歌が、「岩高き塩田の川に舟うけて指登りたり月を見るかな」である。頂上から橋を見下ろしているのとは逆に、月見橋の辺りから、この鏑射山の上に懸かる月をめでているのだ。
 頂上から山腹を巻いていったん谷筋へおり、対岸の急坂をのぼるとまもなく広い舗装路に出る。この道を少しのぼると鏑射寺がある。
 この寺は、縁起によると聖徳太子の開基で、太子が悪者を退治されたときの鏑矢を寺に伝来したので、山にも寺にも鏑射の名がつけられたという。また、そのとき太子が連れて来た軍勢を遊ばせておくのはおしいと、ふもとの町を修業や学問の道場にしたところから道場の地名がついたともいわれているが、定かでない。境内の護摩堂からやや急な山道をしばらくのぼると、南面した祠(ほこら)に鏑射権現がまつってある。その後ろの雑木林のなかに、以前は壇のような盛り土が八カ所数えられ、古代に出雲の神と大和の神がここで合流し、神祭りをした壇であろうと伝えられていたが、今は形がくずれてはっきりしなくなっている。聖徳太子がこの地に来られるまだ前の古い古い伝説である。
 もとの舗装路を、再び三田盆地の眺望を楽しみながらくねくね下ると、やがて、すずめのお守りで有名な太福寺に着く。田んぼのなかの感じのよいお寺で、まもなく道場駅である。

  • 写真鏑射山頂から三田盆地を望む。写真右側をゆったりと流れているのが有馬川。川に架かっている二つ目の橋が月見橋で、むかし在原行平が須磨の配所でさびしく過ごしたころ、松風・村雨姉妹を連れてここまで遊びに来て月を見て楽しんだと伝えている
  • 写真満々と青い水をたたえた千苅の湖面を見ると、ひとりでに心がやすらぐ。道場町から三田、宝塚市に及ぶ大人工湖だ
  • 写真光明寺から鏑射山への明るい樹林の道
  • 写真鏑射権現をまつる祠
  • 写真右に武庫川、左に不動岩を見ながら千苅貯水池へ向かう
  • 写真古代に、出雲と大和の神がここに集まって神祭りをしたと伝えている石の壇。しかし今は形がくずれてはっきりしなくなっている
  • 写真聖徳太子の開基と伝えられる鏑射寺。右側が護摩堂で、左は昭和47年に建てられた三重塔

地図

(3)
六甲ケーブル下駅―アイスロード―シュラインロード―神鉄六甲登山口駅
9Km・約5時間(−般向き)

火縄をもらって歩いた山越え道

 六甲ケーブル下駅から、左手の旧ドライブウェイを行き、新六甲大橋の下をまっすぐ進んでカーブ際から右へ入り込む。小さな橋を渡り、高みのドライブウェイに出て、まもなく右手の細い山道に入って北へ進む。どちらも道標がある。やがてドライブウェイと完全に離れ谷筋に沿ってのぼるうちに、谷が大きく分かれる。右は真水谷で、まっすぐの道がアイスロード(前ガ辻道)。
 アイスロードはまだ人造氷のなかった明治のころ、冬に凍結する六甲山上の池の氷を氷室(ひむろ)に貯蔵しておき、夏にこれを、この道から神戸の市街地へ運んで売ったところからこの名がついた。こんな急登道をわざわざ選んだのは、直線コースで距離が短かったからだろう。そのかわり何の変哲もない道だ。
 この道をのぼりつめた前ガ辻は六甲越えの峠道で、ドライブウェイを渡り全但食堂の横から北の道へ入ると、ここからがシュラインロード(唐櫃道)になる。しばらく山荘の並ぶ林道が続き、やがて六甲山特有のクマザサが多くなると前方に行者堂が見えてくる。この堂があるからシュラインロードの名がついたのだが、この行者堂も、また道の所々にある祠(ほこら)も、こんな山中なのにいつもきれいな掃除のあとがある。今も熱心な信者がいるのだろう。
 唐櫃道も、昔は六甲山の南と北の人たちが足しげく往来した商いの道だった。唐櫃の人はみそや麦、御影や住吉の人は魚や酒、小間物などを牛の背につんで山越えで南へ北へと売って歩いたという。しかし、この人の往来も昼間だけで、夜はばったりと人通りは途絶えた。恐ろしい鬼神や山犬が出て通る人や牛を食い殺すといわれていたからである。どうしても夜通るときは、唐櫃の四鬼という旧家から火縄をもらって出かけた。この火縄をもっておればどんな魔ものも人に近寄らず、人々は安心して山越えができたと伝えている。四鬼家の祖先は法道仙人に仕えた行者といわれ、唐櫃道の守り神・行者堂も役(えん)の行者をまつっている。
 行者堂から道はやや急な下りとなり、昼でも暗いジグザグの杉林をすぎると裏六甲ドライブウェイに出、それを渡り、鳥居をくぐって林道をどんどん行くうちに農家が見えてくる。

  • 写真

    前ガ辻に立つ道標

    写真明るい樹林の下で憩うハイカー
  • 写真新六甲大橋の少し北のドライブウェイから山道に入るアイスロード
  • 写真六甲越えの通行の安全を祈ってまつられたという行者堂。今も信者が多い
  • 写真道端にひっそりと立つ石仏
  • 写真シュラインロードを六甲山頂へ向かう登山者。厄よけの火縄を持って、この道を夜通ったむかしの人たちの気持ちが分かるような気がする
  • 写真シュラインロードの所々に祠がある。六甲特有のクマザサが多い

地図

(4)
市バス諏訪山公園下―猩猩(しょうじょう)池―再度(ふたたび)山(大竜寺)
約4Km・1時間30分(一般向き)

お大師さんの歩いた道

 神戸の毎日登山発祥の地、再度山(四六八メートル)への道はいくつかあるが、諏訪山の西の再度谷をのぼる"大師道"が本道である。再度(ふたたび)という名は、この山の中腹にある大竜寺の寺伝によると、今から千二百年ほど昔、弘法大師が唐(今の中国)へ仏教を学びに渡る前にここへお参りし、約四年後、修業を終えて無事帰国したときも再びこの山にのぼったので、再度山の名が起こったという。
 また、再度山のことを蛇谷というのは、大師が唐へ渡るとき船を守った大蛇が、登山のときにもこの谷に現われたので、この名があるといい、大竜寺の名もそのためについたと伝えている。大師道は、お大師さん(大竜寺)の参詣道というより、お大師さん自身が歩かれた道と考えた方が趣も増してくる。
 さて、市バス諏訪山公園下でおり、児童公園の西側から谷川沿いにのぼる。しばらくは住宅街だが、やがて人家もまばらになり、気持ちのよい山道に変わる。紅葉の季節は特に美しいが、今は新緑がみずみずしい。古くから多くの人に親しまれているだけあって、道も、川を渡る橋もよく手入れされている。途中にほどよい間隔で数軒の茶店があり、それぞれに常連客がたむろして、楽しそうに時を過ごしている。
 やがて猩猩(しょうじょう)池。この池は、昔の花隈村の用水池としてつくられたもので、水不足に困っていた村民は大いに喜び、池のほとりに酒樽をすえ、猩猩の謡曲で興をそえたところからこの名がついた。文政元年(一八一八)につくられた「猩猩池の碑」が今もある。池から大竜寺の石段下まではもうわずかで、お寺の鐘の音がよく聞こえてくる。
 大竜寺の本尊は、一木作りの聖観音。その手法の様式からみて奈良朝の作とみられ、神戸では最古の仏像である。寺の周辺は椎(しい)の木の原始林で、庫裏の庭に貞徳の句碑、「秋草にあんまとらせて苔の石」がある。境内から奥の院、そこからさらに再度山頂への道も少し急だが趣深い道で、下の修法ガ原はあれほどにぎわっているのに、頂上までのぼってくる人はめったにない。
 修法ガ原は、昔この寺の坊さんたちが修法をしたところといわれ、仏教語で修法をシオということから塩ガ原と書いたりしたので、ここへ海辺の人は塩を、山の人は薪や山のものを運んで、物々交換したところなどという伝説もある。

  • 写真かわいい石仏がハイカーを迎える大師道
  • 写真「毎日登山発祥の地」善助茶屋跡。今もあずまやに署名簿が置いてあり、登山者が気の向くままに署名している
  • 写真したたるような緑の木々を見上げながら、ハイカーが次ぎ次ぎのぼってくる。この道をのぼった高みに猩猩池がある
  • 写真

    休日のハイカーでにぎわう茶屋。外人客も多い

    写真猩猩池。昔の花隈村の用水池としてつくられたもので、池のほとりに「猩猩池の碑」もある
  • 写真大竜寺の山門前の石段
  • 写真大竜寺の山門前にある「毎日登山一万回塔」。毎日登山一万回を果たした人たちの名が書かれている
  • 写真参道のガケの岩をくりぬいてまつってある石仏
  • 写真本堂への長い石段
  • 写真大竜寺奥の院への参道
  • 写真再度山の中腹にある大竜寺の本堂。本尊は聖観音で、神戸の仏像では最も古い

地図

(5)
極楽茶屋―湯槽谷(ゆぶねだに)山―灰形(はいがた)山―落葉(おちば)山―有馬温泉
5Km・約3時間(健脚向き)

行基・仁西上人をしのぶ幽玄の道

 六甲山の極楽茶屋までは思い思いのコース、交通機関で来てください。ここから有馬温泉へ下る有馬三山(湯槽谷山、灰形山、落葉山)の縦走路は、六甲山系のなかでは最も山深い男性的な山道で、起伏もはげしく、かなり歩きなれた人でないとおすすめできない。これらの山には有馬温泉にちなんだ伝説が多く、湯槽谷は、聖武天皇のころ僧行基がこの地に来て衰えていた温泉を再興したとき、湯圧や湯ぶねをつくるにはたくさんの木がいるので付近の山々を見渡したところ、見事な木の繁っている山が目についたので、その山の木を切って谷間で湯ぶねをつくった。それからこの谷を湯槽谷といい、山を湯槽谷山というようになったという。今もそんな伝説が少しもおかしくない、うっそうとした木々が繁っている。
 そしてその後、六甲に山津波が起こり、再び温泉はさびれた。能野の権現さまに夢の中で温泉の復興を命じられた僧仁西ははるばる吉野からこの地にやって来たが、湯元も埋もれ、何から手をつけていいのか分からず山の上でぼう然としていたところ、一人の老人が現れ、「わしが投げる木の葉の落ちた所が、温泉の湧き出す所じゃ」とつげて、木の葉を東の方に投げパッと姿を消した。そこで仁西上人が葉の落ちた所を掘ってみると、老人がいったとおり湯が湧き出し、温泉を復興することができた。それからこの山を落葉山と呼ぶようになったそうである。
 極楽茶屋から、紅葉谷道の方へ折れずにまっすぐ湯槽谷山へのコースに入る。ここからは休日でもたまにしかハイカーに出会わない。所々に道標もあり、道もしっかりしているので迷う心配はあまりないが、有馬の方角をよく頭に入れて、足元に気を付けながら慎重に歩くことだ。茶屋から湯槽谷峠ヘの下り、さらに湯槽谷山頂から灰形山への下りは、どこまで下るのかうんざりするほどの急降下道で、下り切った上で、こんどは頂上への急登道をあえぐことになる。そのかわり、さすがに山の深さに圧倒されるくらい静かな山道で、山歩きの醍醐味がしっとりとあじわえる。
 灰形山の頂上からの眺望もよい。前方に落葉山の頂上に建つ妙見堂が西日に輝いて見え、右下には有馬の温泉街がひろがって見える。有馬の旅館に坊のつくのが多いのは、仁西上人が薬師如来を守る十二神将にちなんで十二の坊を建てたのがはじめだと伝えている。妙見堂から温泉街へ下る参道も、コースの最後の締めくくりにふさわしい静かで感じのいい道だ。

  • 写真温槽谷道から見た極楽茶屋付近。たいていのハイカーは写真向かって左側の紅葉谷道へ入る
  • 写真湯槽谷山の中腹から湯槽谷を望む。六甲山系の中ではこの一帯が最も山深い感じがする。写真中央に六甲有馬ロープウェイのゴンドラが小さく見える
  • 写真落葉山山頂に建つ妙見堂
  • 写真

    湯槽谷山の頂上。木が深く、周囲はほとんど見えない

    写真ほっとするような明るい感じの湯槽谷峠
  • 写真灰形山頂上から前方に落葉山、右下に有馬温泉街を望む。落葉山越しに見える北神の雄大な景色がすばらしい
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