139号表紙

No.139(昭和59年4月)

特集:

源平合戦八百年

平清盛像。神戸を愛し、経ヶ島を造り、今日の神戸港の基礎をつくった清盛であったが、その死後は、さしも権勢を誇った平家も衰亡の一途をたどっていく(六波羅密寺(京都)蔵、重要文化財)

平家物語と神戸
―源平合戦八百年の昔を偲ぶ―

神戸市教育委員会事務局指導第一課
指導主事尾田 尚武

 「祇園精舎(ぎおんしゃうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎゃうむじゃう)の響あり。娑羅双樹(しゃらさうじゅ)の花の色、盛者必衰(じゃうしゃひっすゐ)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵(ちり)に同じ。……」
 わずか六か月の短かい期間ではあったが、神戸福原の地に都を遷(うつ)し、大輪田泊(おおわだのとまり)の修築を手がけ、経ヶ島を造り、日宋貿易に目を向けて今の神戸港の基礎を築きあげた入道相国平清盛の死後、さしも権勢を誇った平氏は衰亡の一途をたどっていく。生田の森、一の谷に繰り広げられた源平合戦の模様を、平家物語の中にたどってみよう。
 平家はこぞの冬の比(ころ)より、讃岐国八島(さぬきのくにやしま)の磯(いそ)を出でて、
摂津国難波潟(つのくになにはがた)へおしわたり、福原(ふくはら)の旧里(きうり)に居住(きょじゅう)して、
西は一(いち)の谷(たに)を城郭(じょうくわく)にかまへ、東は生田森(いくたのもり)を大手の木戸(きど)口(ぐち)
とぞさだめける。
其内(そのうち)福原、兵庫(ひゃうご)、板宿(いたやど)、須磨(すま)にこもる勢、
これは山陽道(せんやうだう)八ヶ国、南海道(なんかいどう)六ヶ国、
都合十四ヶ国をうちしたがへて召さるるところの軍兵(ぐんぴょう)なり。
十万余騎とぞきこえし。
(巻第九 樋口被討罰)

風雲急を告ぐ一の谷

 都落ちをした平氏は途中で福原に立ち寄った後、海に出るが、やがて勢力を盛り返して再度福原に入り、一の谷に城郭を構え、意気天を衝くばかりである。
 「平家は去年の冬の頃から、讃岐国八島(屋島)の海岸を離れて摂津国難波潟(大阪南部の海岸)に渡り、福原の旧都に居住して、西は一の谷を城郭として構え、東は生田の森を正面の木戸口と定めた。この間にある福原、兵庫、板宿、須磨に籠る軍勢は山陽道八か国、南海道六か国、合わせて十四か国を討ち従えて集められたところの軍兵である。十万余騎ということである。」
 まさに雲霞(うんか)の如(ごと)き大軍が、万全の備えをもって守ろうとしているのである。春風にひるがえる平氏の赤旗は、あたかも火炎が燃え上がるようだったとある。

  • 写真源頼朝像。新時代を担う武家の棟梁として、冷厳な決断力をもった政治家らしい容貌が生き生きと描かれている。当時第一級の宮廷画家であった藤原隆信朝臣が12世紀後半に描いたと伝えられている(神護寺蔵、国宝)
  • 写真後白河法皇像。法皇は、源頼朝による鎌倉幕府の成立という日本の歴史の大きな変革期に、京都の公家を代表して、旧勢力の温存に権謀術数の限りを尽くした(神護寺(京都)蔵)
  • 写真平家追討に向かう源範頼の軍勢(赤間神宮(下関)蔵、源平合戦図屏風から)
 武蔵国住人別府小太郎(べっぷのこたらう)とて、生年十八歳になる小冠(せうくわん)すすみ出でて申しけるは、「父で候ひし義重法師(よししげほっし)がをしへ候ひしは、『敵(かたき)にもおそはれよ、山ごえの狩をもせよ、深山(しんざん)にまよひたらん時は、老馬(らうば)に手綱(たづな)をうちかけて、さきにおッたててゆけ、かならず道へいづるぞ』とこそをしへ候ひしか」。御曹司、「やさしうも申したる物かな。雪は野原(のばら)をうづめども、老いたる馬ぞ道を知るといふためしあり」とて、白葦毛(しらあしげ)なる老馬(らうば)に鏡(かがみ)鞍(くら)おき、白轡(しろぐつわ)はげ、手綱(たづな)むすンでうちかけ、さきにおッたてて、いまだ知らむ深山(しんざん)へこそいり給へ。
(中略)
 「これより平家の城郭(じゃうくわく)一谷(いちのたに)へおとさんと思ふはいかに」。「ゆめゆめ叶(かな)ひ候まじ。卅丈の谷、十五丈の岩さきなンど申す所は、人のかよふべき様(やう)候はず、まして御馬なンどは思ひもより候はず。其上(そのうえ)城(じゃう)のうちにはおとしあなをもほり、ひしをも植ゑて待ち参らせ候らん」と申す。「さてさ様(やう)の所は鹿はかよふか」 「鹿はかよひ候、世間(せけん)だにもあたたかになり候へば、草のふかいにふさうどて、播磨(はりま)の鹿は丹波へこえ、世間だにさむうなり候へば、雪のあさりにはまんとて、丹波の鹿は播磨の印南野(いなみの)へかよひ候」と申す。御曹司、「さては馬場(ばば)ごさんなれ。鹿のかよはう所を馬のかよはぬやうやある、やがてなんぢ案内者仕(つかまつ)れ」とぞ宣ひける。
(巻第九 老馬)

老馬先導―鵯越へ

 一の谷に陣どる平家の背後をつこうとする義経は、三千余騎を引き連れて丹波路から鵯越に出ようとした。しかし、山中での道がわからずに困っていたときのことである。
 「武蔵国の住人別府小太郎(べっぷのこたろう)といって十八歳になる少年が進み出て申すには『父でありました義重法師が教えましたのは―敵に襲われたにせよ、山越えの狩りをしたときにせよ、深山に迷ったときは老馬に手綱をかけて追い立てて行け。必ず道に出るぞ―ということでした。』御曹司(義経)は『立派なことを申したものだなあ。雪が野原を埋めても、老いた馬は道を知っているという例がある』といって、白(しら)葦毛(あしげ)の老いた馬に鏡鞍を置き、白ぐつわをかませ、それに手綱を結んで掛け、先に追い立ててまだ知らない山奥へとお入りになる。」  こうして山路を進んでいるうちに日が暮れたので皆馬を降り、陣を備えているところへ弁慶が一人の老翁を連れてやって来た。聞けばこの山の猟師だという。
 「義経『これから平家の城郭一の谷へ馬で降りようと思うがどうか』。老翁『決してできますまい。三十丈の谷、十五丈の岩さきなどと申します所は、人の通れるところではありません。まして御馬などとは思いもよりません。その上、城の内部では落し穴も掘り、菱(ひし)(両またの鉄に長い柄をつけたもの)も植えてお待ち申しているでしょう』と申す。義経『それで、そのような所は鹿が通るのか』。老翁『鹿は通ります。世の中が暖かくなりますと、草が深く生えた所に臥(ふ)そうとして、播磨の鹿は丹波に向かって越え、寒くなりますと雪の浅い所で餌を食べようとして、丹波の鹿は播磨の印南野へ通います』と申す。義経『それではそこは馬場だな。鹿の通る所を馬が通れぬことがあろうか。すぐにお前が案内をせよ』とおっしゃった。」
 この老翁に代わってその息子が案内をすることとなり、一同は鵯越へと進んで行く。この息子こそ、後の鷲尾三郎義久である。

  • 写真「源平合戦図屏風」生田の森合戦部分
  • 写真

    平知盛像。知盛は清盛の四男で、生田の森の総大将。義経の鵯越の奇略にあい壊滅、息子の武蔵守知章や郎党に助けられ、やっと苅藻沖に停泊中の軍船に逃げのびたが、知章らは戦死した。この知盛も、壇の浦合戦で平家一門の最後を見とどけ海中に没した(赤間神宮蔵)

 「かたきをまへにおきながら、矢一(ひと)つだにも射ずしてまちゐたるが、あまりに心もとなう覚ゆるに、高直(たかなお)はまづ城(じゃう)の内へまぎれ入ッて、一矢(ひとや)射んと思ふなり。されば千万(せんまん)が一つもいきてかへらん事ありがたし。わ殿(との)はのこりとどまッて、後(のち)の証人にたて」といひければ、河原次郎涙をはらはらとながいて、「口惜しい事をも宣ふ物かな。ただ兄弟二人(ににん)ある者が、あにをうたせておととが一人のこりとどまッたらば、幾程(いくほど)の栄花(えいぐわ)をかたもつべき。所々(ところどころ)でうたれんよりも、一所(ひとところ)でこそいかにもならめ」とて、下人(げにん)どもよび寄せ、最後の有様妻子(さいし)のもとへいひつかはし、馬にも乗らずげげをはき、弓杖(ゆんづゑ)をついて、生田森(いくたのもり)の逆茂木(さかもぎ)をのぼりこえ、城(じゃう)のうちへぞ入ッたりける。
(中略)
 河原太郎が鎧のむないたうしろへつッと射ぬかれて、弓杖にすがりすくむところを、おととの次郎はしり寄ッて是を肩にひッかけ、逆茂木(さかもぎ)をのぼりこえんとしけるが、真名辺が二の矢に鎧の草摺(くさずり)のはづれを射させて、同じ枕(まくら)にふしにけり。
(巻第九 二度之懸)

合戦にみる兄弟愛
−河原(かわら)兄弟の死−

 平知盛を総大将に、西国の精兵を集めて生田の森に陣どり、逆茂木を設けて守りを固める平家に対して源氏勢五万余騎も攻めることができない。この源氏の軍勢の中に、河原太郎・次郎という兄弟がいた。
 「太郎『敵を前にして矢一本射ずに待っているのが余りにもじれったく思えるので、私は敵の城内に紛れ入って矢を一本射てみようと思う。だから千万に一つも生きて帰ることは難しい。お前はここに残って後日、恩賞を受けるときの証人になれ』と言うと、次郎は涙をはらはらと流して『残念なことをおっしゃるものだ。たった二人の兄弟であるのに、兄を討たせて弟が一人残りとどまったならば、どれだけの栄華を保つことができましょう。別々の所で討たれるよりも、同じ所で最期を遂げましよう』と言って、下人どもを呼び寄せ、最後の様子を妻子のもとへ言ってやらせ、馬にも乗らず藁草履をはき、弓を杖にして生田森の逆茂木を登り越え、城の内に入った」
 敵陣に入り込んだ兄弟は名乗りをあげるが、平家方はたった二人で来たのを知ってしばらくは相手にしなかった。しかし、問もなく応戦を開始する。
 「河原太郎が鎧の胸板を背中までつっと射抜かれて弓を杖にして立ちすくむところを、弟の次郎が走り寄ってこれを肩にかつぎ、逆茂木を登り越えようとしたが、真名辺の二の矢で鎧の草摺(くさずり)の隙間を射られて兄といっしょに倒れ伏した。」
 この兄弟の勇敢な働きをきっかけにして、源氏の五万余騎は鬨(とき)の声をあげ平家の軍に攻めかかった。

  • 写真生田の森大手で、河原太郎・次郎先駆けを試みる。が、太郎射抜かれ、これを助けようとした次郎も、射抜かれ、ともに首をとられる(源平合戦図屏風から)
  • 写真生田の森の戦いで壮烈な最後をとげた河原兄弟を祭っている河原霊社(中央区三宮町2、三宮神社内)
  • 写真最初の合戦の場となった生田の森(生田神社境内)
  • 写真梶原景時ら500余騎で平家の陣内に攻めこむが、わずか50騎ばかりに。長男景季の苦境を救わんと、再び敵陣へ攻め入る(源平合戦図屏風から)
  • 写真生田の森で梶原親子らが奮闘をしていたころ、義経の一隊3千余騎、一の谷後方鵯越から平家の本陣を奇襲する。3千余騎のトキの声、山にこだまして10万余騎に聞こえ、これに驚いた鹿、城郭一の谷へ落ちる。平家の内に、鹿を射殺すものもあった(源平合戦図屏風から)
  • 写真鵯越墓園の中の高台に、今も"義経駒つなぎの松"と伝える松の切り株が残っている。このあたりから南へ向かってのながめはすばらしい
  • 写真梶原親子の奮闘をたたえる"魁(さきがけ)石"(中央区下山手通4、栄光教会前)
  • 写真梶原景季が、美しく咲いた梅の枝をエビラにさして戦ったと伝える"エビラの梅"(生田神社境内)
 御曹司城郭(じゃうくわく)はるかに見わたいておはしけるが、「馬どもおといてみむ」とて、鞍置馬(くらおきうま)を追ひおとす。或は足をうち折ッて、ころんでおつ。或は相違(さうゐ)なくおちてゆくもあり。鞍置馬三疋(びき)、越中前司が屋形(やかた)のうへにおちついて、身ぶるひしてぞ立ッたりける。御曹司是を見て、「馬どもはぬしぬしが心得ておとさうには損ずまじいぞ。くはおとせ。義経を手本(てほん)にせよ」とて、まづ卅騎ばかり、まッさきかけておとされけり。
(巻第九 坂落)

鵯越の坂落とし
―人のしわざとは見えず、鬼神の所為とぞ見えたりける―

 義経は、十万余の平家の軍勢を相手に回して正面からでは勝てるとも思われなかった。敵の不意をつくしかない。彼は手勢三千余騎を引き連れ、山路を抜けて鵯越へと出て来た。  「御曹司は城郭を遥かに見渡していられたが『馬を何頭か降りさせてみよう』と言って鞍を置いた馬を追い降りさせた。あるものは足を折って転がって降りた。またあるものは無事に降りた。鞍を置いた馬三頭が越中前司の屋形の上手(かみて)に降りつき、身ぶるいをして立ち上った 御曹司はこれを見て『馬どもはそれぞれ乗り手が注意して降りさせる場合には径我(けが)をしない。そら降りろ。義経を手本にせよ』と、まず三十騎ばかりでその先頭をきって坂を下られた。」  こうして坂を駆け下った三千余騎は一度に鬨(とき)の声をあげたので、その声は山びことなり、十万余騎にも聞こえたという。不意をつかれた兵士たちは船に逃れたが、その多くは船と共に沈んだり、斬られたりした。

  • 写真武芸にも歌道にも秀でた平家の一の谷西門の大将、平忠度の腕を埋めたと伝える腕塚堂(長田区駒ヶ林4)
  • 写真鵯越から駆けおりた熊谷次郎直実、その子小次郎直家と平山季重、一の谷先陣を争う。西の木戸前で大音声。平家の悪七兵衛宗清など20余騎、木戸を開いて向かい撃つが、手きびしくやられ木戸内にのがれる(源平合戦図屏風から)
 熊野(くまの)そだち大力(だいぢから)のはやわざにておはしければ、やがて刀をぬき、六野太を馬の上で二刀(ふたかたな)、おちつく所で一(ひと)刀(かたな)、三刀(みかたな)までぞつかれける。二刀は鎧の上(うへ)なればとほらず、一刀は内甲へつき入れられたれども、うす手(で)なれば死なざりけるを、とッておさへて頸(くび)をかかんとし給ふところに、六野太が童(わらは)おくればせに馳せ来(きた)ッて、打刀(うちがたな)をぬき、薩摩守の右のかひなを、ひぢのもとよりふつときりおとす。
(中略)
 よい大将軍うッたりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、箙(えびら)にむすび付けられたる文をといてみれば、「旅宿花」(りょしゅくのはな)といふ題にて、一首の歌をぞよまれたる。
 「ゆきくれて木(こ)のしたかげをやどとせば花やこよひの主(あるじ)ならまし 忠度」
と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知りてンげれ。
(巻第九 忠度最期)

平家の公達(きんだち)あわれ
―忠度(ただのり)の最期―

一の谷の西の手の大将であった薩摩守忠度(清盛の末弟)は、義経の"坂落とし"の急襲にあって敗北、兵百騎ほどに守られて逃げて行くところを岡部の六野太忠純(ただずみ)に見とがめられて一騎打ちとなる。
 「熊野育ちの大力で早わざに優れていられたので、すぐに刀を抜き、六野太を馬の上で二度、馬から落ちたところで一度、計三度まで刀でお突きになった。二度は鎧の上なので通らず、一度は甲の内側に突き入れられたけれども、軽傷のため死ななかったのを取り押さえて首を斬ろうとなさるところに、六野太の童が急いで駆けて来て打ち刀を抜き、薩摩守の右腕を肘のつけ根からふっつと切り落とす。」
 今はこれまでとあきらめた忠度は念仏を唱え、いさぎよく斬られる。
 「立派な大将を討ったと思ったが、名前がわからなかったので箙(えびら)に結びつけてあった文を解いてみると、"旅宿花"(りょしゅくのはな)という題で一首の歌が詠んであった。
 =ゆきくれて……(旅の途中で日が暮れて桜の木の下陰に宿るならば、桜の花が今夜の主(あるじ)となってもてなしてくれるのであろうか) 忠度=と書いてあったので、薩摩守とわかったのであった。」
 忠度の討死を知った人たちは敵も味方も揃って、武芸にも歌道にも秀でた大将の死を惜しんだのであった。

 北の方とかうの返事にもおよび給はず、ひきかづいてぞふし給ふ。一定(いちぢゃう)たれぬと聞き給へども、もしひが事にてもやあるらん、いきてかへらるる事(こと)もやと、二三日はあからさまに出でたる人をまつ心地(ここち)しておはしけるが、四五日も過ぎしかば、もしやのたのみもよわりはてて、いとど心ぼそうぞなられける。
(中略)
 しづかに身々(みみ)となって後、少き者をもそだて、なき人の形身にも見ばやとは思へども、をさなき者を見んたびごとには、昔の人のみ恋しくて、思ひの数は勝るとも、慰む事はよもあらじ。
(巻第九 小宰相身投)

戦い、無情!!
―小宰相(こざいしょう)、身投げ―

 平通盛(みちもり)(清盛の甥)には小宰相の局(つぼね)という相愛の妻がいた。一の谷の合戦を平氏に利あらずとみた通盛は、妻が身籠(みご)もったことを知りながら、死を覚悟する。そして、自分が戦場に散ったときは、その様を小宰相に知らせることを家来に命じ、湊川の川下で戦死する。小宰相に悲報がもたらされる
 「北の方(小宰相)はなんの返事もなさらず、衣をひっかぶってうつ伏される。確かに討たれたとお聞きになっても、もしかしたら間違いででもあろうか、生きて帰られることもあろうかと、二、三日はちょっと外出した人を待つ気分でいらっしゃったが、四、五日も過ぎたので、ひょっとしたら……という期待もすっかり弱って、たいそう心細くなられた」
 夫、通盛の死後一週間にわたって悲嘆にくれた小宰相は次のように思うのであった
 「静かに身二つとなって後に、幼い子を育てて、亡き人の形見として見たいとは思うけれども、幼い子を見ればその度に、昔の人ばかりが恋しく思われて、悲しい思いがつもることはあっても、慰められることは決してあるまい。」と。
 傍の女房がほんのわずかにまどろんだすきを見て、小宰相はひそかに念仏を唱え、海の底へ夫を追って沈んでいった。願成寺(がんじょうじ)には今もこの二人の墓が並んでいる。

  • 写真一の谷の西の手の大将平忠度は、岡部六野太と組み合っているところを、六野太の童に右腕を斬られて討ち死にした(源平合戦図屏風から)
  • 写真腕塚堂の近くの幹線道路に立つ「右須磨明石 左忠度石碑」の道標
  • 写真平忠度の胴塚(長田区野田町)
  • 写真今も仲むつまじく並ぶ平通盛(右)と、その夫人小宰相の局の墓(兵庫区松本通2、願成寺)
  • 写真清盛の甥(おい)経俊(敦盛の兄)は、経ヶ島築堤の守りについていたが、一の谷の合戦で源氏方に討たれて死んだ。経俊塚は今も小児守護神として信仰を集めている(兵庫区西出町、稲荷神社内)
  • 写真

    平家一門の納経といわれる「紙本墨書妙法蓮華経」(太山寺蔵、重要文化財)。平安時代後期には、皇族、貴族を中心に写経が流行し、さまざまな意匠を凝らした装飾経がつくられた

    写真

    妙法蓮華経は、軸端(じくばな)にも華麗な装飾が施されている

    写真平知章、通盛、源氏の猪俣小平六、木村源吾の碑を集めた「源平勇士の碑」。弱冠16歳で父知盛の身がわりとなった知章の悲しい死は多くの人々の同情をさそった(長田区五番町)。なお、知章の墓は長田区明泉寺町1、大日寺にある
  • 写真太山寺蔵妙法蓮華経三十二巻のうちの、第二十六陀羅尼品の見返しに描かれた普賢十羅刹女
 汀(みぎは)にはたすけ舟(ぶね)いくらもありけれども、うしろより敵(かたき)はおッかけたり、のがるべきひまもなかりければ、湊河(みなとがは)、刈藻河(かるもがは)をもうちわたり、蓮(はす)の池(いけ)をば馬手(めて)に見て、駒(こま)の林(はやし)を弓手(ゆんで)になし、板宿(いたやど)、須磨(すま)をもうち過ぎて、西をさいてど落ち給ふ。
(中略)
 三位中将馬の三頭(さうづ)を篦深(のぶか)に射させて、よわるところに、後藤兵衛盛長、我馬召されなんずとや思ひけん、鞭(むち)をあげてぞ落ち行きける。三位中将これを見て、「いかに盛長、年(とし)ごろ日来(ひごろ)さはちぎらざりしものを。我をすてていづくへぞゆくぞ」と宣へども、空(そら)聞かずして、鎧(よろひ)につけたる赤印(あかじるし)かなぐりすて、ただにげにこそにげたりけれ。
(巻第九 重衡生捕)

平家の公達あわれ
―重衡(しげひら)生捕り―

 平重衡(清盛の五男)は生田の森の副大将として奮戦したが、その兵は皆逃げ失せて、乳母の子、後藤兵衛盛長と主従二騎で落ちのびて行く。
「海辺には助け船がたくさんあったけれども、後方から敵は追いかけて来るし、逃げられるだけのすきもなかったので、湊川・刈藻川を渡り、蓮池を右に見て、駒ヶ林を左側にして、板宿・須磨をも通り過ぎて、西をさしてお逃げになる。」
 そのとき梶原源太景季の射た遠矢が重衡の乗った馬に当たる。
 「三位中将の馬が三頭(そうず)(背の尻の方の高くなった所)を深く射られて弱ったので、後藤兵衛盛長は自分の馬が取り上げられると思ったのか、鞭を振って逃げて行った。三位中将はこれを見て『どうした盛長、長い間そんなふうには約束しなかったのに。私を捨ててどこへ行くのだ』とおっしゃるけれども、盛長はわざと聞こえないふりをして、鎧につけた平家の赤い印をかなぐり捨て、ただ一目散に逃げて行った。」
 置き去りにされた重衡は、鎧をぬぎ捨て腹を切ろうとしたところへ庄の四郎高家が追いつき、捕虜となってしまう。後に重衡は、泉木津(こづ)で首を斬られ、奈良坂でさらし首にされる。

  • 写真生田の森の副将軍平重衡、西へ落ち行く途中、家来に見捨てられ腹を切ろうとしたところを梶原景季らに生け捕りにされる(源平合戦図屏風から)
  • 写真平重衡とらわれの跡(須磨区須磨寺町)
  • 写真

    平師盛の墓と伝えられる塚(垂水区奥畑、石水寺内)写真平家の大将ら、機をみて一の谷からのがれるが、山の手の侍大将平盛俊、源氏の猪俣小平六に討ちとられる(源氏合戦図屏風から)。盛俊の塚は長田区明泉寺橋東にある

  • 写真清盛の孫・師盛、転覆した小舟から熊手で引きあげられて討たれる(源平合戦図屏風から)
 熊谷、「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵(かたき)にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と扇をあげてまねきければ、招かれてとッてかへす。汀にうちあがらんとするところに、おしならべてむずとくんでどうどおち、とッておさへて頸(くび)をかかんと甲をおしあふのけてみければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧(うすげしゃう)して、かね黒(ぐろ)なり。
(中略)
 「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかるうき目をばみるべき。なさけなうもうち奉るものかな」とかきくどき、袖をかほにおしあててさめざめとぞ泣きゐたる。
(巻第九 敦盛最期)

平家の公達あわれ
−敦盛最期−

 合戦に敗れて助け船に乗ろうとする平家の公達を探している能谷次郎直実の前に、一目でそれとわかる武者一騎、沖にいる船を目がけて海に馬を乗り入れていた
 「熊谷『そこにいられるのは大将軍とお見受けします。卑怯(ひきょう)にも敵に後ろをお見せになるものですな。お戻りなさい』と扇をあげて招くと、招かれて引き返す。波打ち際にあがろうとするところで馬を並べてむずと組んでどうと落ち、取り押えて首を斬ろうと甲を押しあげてみると、年十六、七ほどで薄化粧をし、歯を黒く染めている。」
 わが子の小次郎と同年配の若武者をなんとか助けたいと思いながらも、泣く泣く討ちとった直実の慨歎を次のように描写する
 「『ああ、弓矢を取る身ほど残念なものはない。武芸の家に生まれなければ、どうしてこのようなつらい目に会うことがあろう 情けなくもお討ち申したものだなあ』と恨みごとを言い、袖を顔に押し当ててさめざめと泣いていた。」
 敦盛は、祖父忠盛が鳥羽院から賜わった笛を最後まで錦の袋に入れて携えていた。

  • 写真平家の若武者敦盛の供養塔。高さ三・三bもある大きな五輪塔で、塔の四方に梵字が刻んである(須磨浦公園内)
  • 写真須磨浦公園にある「源平史蹟戦の浜」の碑
  • 写真清盛の没後約百年の弘安九年(一二八六)に、清盛の霊を弔うため北条貞時が建立したといわれる清盛塚。その隣に、琵琶塚と清盛の銅像がある(兵庫区南逆瀬川町二)
  • 写真平敦盛、沖の舟を追って馬を泳がせていたところ、熊谷直実に呼ばれ、引き返して討たれる。敦盛は、鳥羽天皇から祖父忠盛に賜った笛を最後まで、錦の袋に入れ携えていた(源平合戦図屏風から)
 
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