132号表紙

No.132(昭和58年9月)

特集:

幕末の神戸

開港、そして維新の変動期

神戸市立赤塚山高校教諭 成田謙吉
  • 写真日本一の大船持と称された俵屋孫三郎家寄進の諏訪神社(諏訪山)の鳥居。明和5年元旦の日付がある
  • 写真県立水産会館にある南浜惣会所跡碑(兵庫区中之島)
  • 写真兵庫津の岡方惣会所跡に建つ岡方会館(兵庫区本町、旧小物屋町)

砲門は11ヵ所 和田岬砲台

 和田の岬は、昔からみなとの入口の重要地点であったため、岬の突端に船見番所をおいて監視にあたっていた。幕末になって築かれた砲台は、中央に石堡塔という丸い砲台があり、直径12・12メートル、高さ10・60メートル、砲門は11ヵ所となっていた。設計図によると、石堡塔を中心にして5稜の星形砲台槨があって、これは古老の話では、芦の根の土つきを高さ2メートルに築いたものであったという。これにも砲をすえることになっていた。
 周囲は花崗岩で瀬戸内海から運び、内部の木組は諏訪山、布引、北野あたりから大木を切り出して用いたが、結局は砲をすえることなしに終っている。現在では5稜形の周囲は除かれ、石堡塔だけがのこって史跡に指定されている。ただし三菱重工の構内にあって、自由に見学ができない。この砲の完成は元治元年(1864)9月である。

  • 写真和田岬砲台の外観(三菱重工構内)
  • 写真砲台の内部にある井戸
  • 写真砲門の内部
  • 写真砲門についている内とびら
  • 写真弾薬庫
  • 写真焼失した摩耶天上寺跡から大阪湾を望む。将軍徳川家茂が摂海防備で神戸に上陸した文久3年(1863)、勅使の姉小路公知も一足早く摩耶山に登り、大阪湾を視察した。公知は、このとき勝海舟や坂本竜馬と会談してから攘夷の考えが変わる
  • 写真舞子海岸にある舞子砲台跡碑。文久2年(1862)幕府は明石藩に命じてこの砲台を築かせたが、未完成のままに終った。川崎浜砲台は明治24年焼失
  • 写真海蔵寺(灘区国玉通3丁目)。幕末の摂海防備のとき、毛利藩が須磨から武庫川までの警備にあたることになり、文久3年(1863)、隣りの国魂神社とともに海蔵寺(当時は神宮寺)も陣屋の一つとなった。兵約1200人が付近の民家に分宿し、時々、洋式で楽隊入りの調練をしていた
  • 写真旧商工会議所前庭にある海軍操練所跡の錨記念碑

勝海舟の「神戸海軍塾」

 勝海舟は海軍操練所の建設にともない、生田の森に近いところに屋敷を建て、ここで勝の士風を慕って入門してきた書生数十名に海軍術を教授したので、屋敷を「神戸海軍塾」とも呼んだ。これら少壮血気の若人たちは袖をまくりあげ、朴歯の下駄履きに長剣を横たえ、市中をかっ歩したり、三宮神社付近の小亭で会飲しては議論をたたかわせた。ときには兵庫方面まで押し出し、騒がしすぎるので、町方から勝のもとに抗議が申し込まれたこともあるという。
 なお、勝は操練所に「海軍営」の碑を建てていたが、勝が幕府の疑いをうけ操練所が閉鎖されたあとは、勝の知遇をうけていた生島氏が幕府の目からかくすようにこの碑を引き取り、別荘に保存していた。碑は大正4年、神戸市が寄贈をうけて諏訪山金星台に移し、現在も同所にある。

  • 写真「海軍営」の碑文
  • 写真

    諏訪山金星台から神戸のまちを見おろす「海軍営」の碑>

    写真海軍操練所の瓦
  • 写真坂本竜馬。幕末の勤王家・土佐藩士。海軍航海術を勝海舟に学び、海軍操練所の海軍塾頭になった

生田の馬場あと

写真

現在の生田神社鳥居前

 居留地ができるまでの生田神社の前から南の浜辺までは、神社の馬場先で、その両側には桜を植え、そのあいだに石灯篭を配し、開花のころには老若がここで花見を楽しんだ桜の名所であった。俗謡にも「梅は岡本、桜は生田、松のよいのは湊川」「ババじゃババじゃといわんすけれど、生田のババには花が咲く」とうたわれた。
 馬場先の浜辺は生田の磯で、石の鳥居が建ち、高灯篭があって灯台の役目をしていた。その全面は「御前(みまえ)の浜」といって、この沖を通る船は、この前で帆をさげて、生田の宮に敬意を表して過ぎる風習があったという。
 慶応3年(1867)幕府が居留地を設けるとき、馬場先の南半分を取りのけたが、北半分ものちには除かれて、付近の田園であったところも、今みるような繁華街になった。

"ビードロの家"で開港式

 神戸の開港式が行われたのは神戸の東部海岸、今の第三港湾建設局(中央区海岸通)付近にあった運上所で、これは開港にそなえて、兵庫奉行柴田日向守が幕府の命で突貫工事で建てたものである。神戸で初めての洋館で窓にガラスがはめられていたのが珍しく、ビードロの家ができたといって、遠近の見物人でにぎわったという。神戸事件のあと勅使が来て、王政復古の国書を外国代表に交付し、事件の交渉をしたのもここであった。明治5年5月神戸税関となった。
 一方、開港にともない多数の外国人が神戸へ入り込んで来るので、面倒が起るかも知れないと心配した幕府は、山中の大迂回道「徳川道」をつくったが、皮肉にもこの道を利用したのは神戸事件の当日、問題を起こした備前藩士の一隊で、彼らは西国街道からのがれて生田川をのぼり、布引からこの徳川道を通って住吉へ出ている。

  • 写真摩耶山の裏側へ入って行く徳川道
  • 写真三越神戸支店の建物に埋めこまれている西関門跡の碑。幕府は慶応3年(1867)に外国人居留地を設定したとき密貿易を防ぐ目的で周囲に10いくつもの関門を設けたが、そのうち東関門(生田筋と西国街道の交差地点)と西関門は最も重要視されていた
  • 写真阪急六甲駅南方にある「右 住吉西宮、左 有馬三田」の道標。西国街道の石屋川から杣谷へ、このあたりを徳川道が通っていたものとみられる

"神戸事件"発生

 兵庫開港の直後に起きた"神戸事件"は維新早々の外交問題に発展、神戸の人びとの驚きとあわてかたは大変なものだった。
 外国人水兵が備前藩士によって負傷させられたことから、神戸沖に停泊中の軍艦から多数の陸戦隊が大砲・小銃をもって神戸に上陸、備前兵と戦いを交えたすえ神戸の町を"占領"した。そして兵庫港にいた諸大名の船6隻を捕え、神戸沖へ抑留した。
 朝廷では東久世通禧(みちとみ)を正使として兵庫へつかわし、6ヵ国の外国公使らと折衝に当たらせたが、責任者を処刑するよう強く迫まられたため、やむなく無条件で承認することになり、備前藩へ伝えられた。備前藩主池田茂政は責任者として滝善三郎正信を選び、この事件を円満に納めて、国家のために死につくようさとし、恩賞として正信の知行を倍額にして子息に与えることにした。  正信は、外国代表者立会いの面前でりっぱに切腹し、事件を解決した。

  • 写真

    滝善三郎の墓碑(能福寺)

    写真
    神戸事件発生地の碑(三宮神社)
  • 写真三宮神社境内にすえられている大砲。神戸事件とは直接関係はないが、そのころのものとみられる

神戸と伊藤博文

 伊藤俊輔(のち博文)と神戸とは開港時代から縁故が深く、数々の事跡をのこしている。
 神戸事件が突発し、外国兵が神戸を占領して人心不安であった慶応4年1月14日、俊輔は新政府の東久世通禧とともに兵庫に来て、切戸町にあった幕府の大阪町奉行所の勤番所に仮事務所をおき、新政に着手した。
 当時は、すでに幕吏は去って無政府状態で、すべての制度・施設・事務は、いちからはじめるので大変な困難であった。間もなく兵庫県庁の前身である兵庫鎮台がおかれ、2月には兵庫裁判所と改め、俊輔は外国事務局判事となった。さらに同年5月、兵庫裁判所は兵庫県庁と改称されて、俊輔は初代の知事となった。俊輔はその前後橋本藤左衛門の別荘の橋本花壇を仮住居として、役所へ通勤していた。花隈にもとあった吟松亭がそれで、明治2年7月神戸を去るまで風流な生活を続けていた。

  • 写真最初の兵庫県庁の地碑(中央卸売市場)
  • 写真伊藤博文。初代兵庫県知事、総理大臣
  • 写真大倉山公園にのこっている伊藤博文像の台石。銅像は戦時中に供出された

旧外国人居留地の功罪

 今の市役所前フラワーロードから西、花時計北側と大丸前を結ぶ道路から南、そして鯉川筋から東にかけての一帯は明治元年から同32年まで外国人居留地であった。
 居留地は126に区画され、外国人による自治制が敷かれ、警察権・裁判権も外国人に掌握されて、日本の主権はほとんど無きにひとしかった。しかし一方、居留地内は内外貿易の拠点となり、経済の中心であったので、西国街道沿いののどかな村に過ぎなかった神戸村付近は短時日のうちに発展した。近代神戸はこの居留地に始まるといっても過言ではない。
 明治政府は当初から、居留地を設けることをとりきめた不平等条約の改正に努力した結果、32年7月、居留地は日本に返還された。
 今の旧居留地は近代的なビジネス街で、当時をしのぶものはほとんど消滅したが、浪花町15番地に残る木造の異人館(現・(株)ノザワ)が往時の面影を残している。

  • 写真神戸市立博物館が再現した明治30年ごろの居留地の模型。縮尺200分の1、建物数は約350棟、設計図は坂本勝比古氏による
  • 写真大丸神戸店前にある旧外国人居留地碑
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