128号表紙

No.128(昭和58年5月)

特集:

絵に見る神戸

「神戸百景」と川西英

写真
トーア・ロード
 神戸の多くの家庭の玄関や居間に、複製の色紙(しきし)したてで、川西英の港の風景が飾られているのを今もよく目にする。六甲山の山並みの緑に映えるポートタワーの赤、街なみの幾何学的な構成の面白さ、海や空の晴れやかな青さ。そこには明治維新前後に版行された横浜絵にも通じる、外界へひらけた港町のもっているエキゾティックでのびやかな空気がある。人々が、川西版画を海あかりのする神戸のイメージのひとつの精華として、今も愛し続けているゆえんがそこにある。
 港めぐりの船上から、北野町への坂道で、私は、時として、川西英がとらえた構図や視覚で、風景を見ていることに気づいて驚かされる。雑多な色彩が、響きあう色面の構成に整理され、深みのある黒のアクセントにひきしめられて行く川西英の風景版画と重ねて、実風景を見ているのに気づいて驚かされるのである。それは、東海道というと、歌川広重の情趣的な浮世絵版画を思いうかべる事情にやや似ている。
 1933年から36年にかけて版行された最初の「神戸百景」は、より広く市民に親しまれている戦後の「神戸百景(1962年刊)」に先行するものであり、川西の風景版画のモティーフの原形を集めたものとも考えることができる意義深い作品群である。
 川西英のこのシリーズへの傾注は、なみなみならず、彼自身「ひと口に百景というが、なみたいていのことではなかった。」と述懐している。これは、川西英自身の神戸への思い入れと、執心の傾注が生み出したシリーズということもできよう。まだ、百景中の一点一点が、長く神戸に住んでいる市民にとっては、昭和のはじめ頃の風景をしのぶよすがともなるものであろう。
 ただ、川西英の版画を複製で鑑賞しても、なかなかその味わいは感じとり難いのである。「神戸百景」を手に取って見る時、色面や黒地が、やわらかくにじんで、特有の効果を画面にかもし出していることに気づかされる。川西は、通常、多色木版では必須のものとされるドウサ(膠(にかわ)とミョウバンの混合液、にじみを防ぐ)をひかずに、湿気を与えた紙にじっくりと摺(す)りこむのである。糊などを混入して粘性を出した絵具を和紙にのせるような木版の技法ではなく、くり返し、紙質に浸透させるように摺る方法がとられる。それは手間のかかる根気のいる作業であるが、それだからこそ商業的な版画の有する浅薄さとは異なる、いかにも「自刻自摺」という独自の佳品が生み出されており、うす墨のほのかな「にじみ」が、画面にぬくもりとも感じられる生命感を与えているといっていい。そういう摺りの視点から川西版画の特質を鑑賞することも興味深いことである。
 川西英は、自分の「身のまわりのもの」にこの上ない愛情を注いで摺りあげた版画家であった。その作品には、どうしてもある種の地域性が感じとられはするが、その風土の匂(にお)いが川西版画の版画の魅力でもあるわけである。
 神戸市民が、街角で、ふと目にとどめる郷国の風景を、川西英は独自のスタイルで創りあげた。それはマティスやブラック、ミロなどに影響を受けながら完成されたものであり、その業績は、評価してしすぎるということはないと思われる。
(神戸市立博物館学芸員 岡 泰直)

川西英版画「神戸百景」

(一九三三〜三六)より 神戸市立博物館蔵

「神戸百景」は、みなと祭りが設定された年を記念して、昭和9年から昭和11年にかけて制作された版画シリーズ。神戸が、海からやってくる文明、文化の最初の上陸地であった頃の、風光の美の造形と言えよう。

  • 写真中突堤
  • 写真阪神地下鉄のりば
  • 写真三宮神社
  • 写真鉢伏山頂
  • 写真造船職工出勤
  • 写真露地の酒場入口

「川西英版画展」

会期 昭和58年6月2日(木)〜7月3日(日)(但し、月曜は休み)
場所 神戸市立博物館2階ギャラリー

  • 写真元居留地
  • 写真南京街
  • 写真タイム・ボール
  • 写真花隈
  • 写真布引雄滝

彩雲の詩情―別車博資

 神戸の明るさは、他所(よそ)から神戸へ来る人のよく口にするところである。六甲山を背景に、南へ大阪湾に向かって開ける神戸の位置、また風化した花崗岩のつくる白っぽい土が、瀬戸内気候特有の日照時間の多い太陽をするどく照り返す風土、そして何よりも明治以降、横浜と並ぶ欧米への窓口であったことが、この神戸に心理的な眩(まぶ)しさを加えたことは間違いない。そういった神戸の空気をとらえようとした画家の内の一人に別車博資がいる。彼は明治33(1900)年兵庫に生まれ、神戸工業高等専修学校を卒業、日本水彩画会会員になるとともに、兵庫県立第一神戸工業高校の教諭となる。そこで生徒に美術を教える一方、自分も大阪の信濃橋洋画研究所に通い、画業の研鑚を積んだ。この洋画研究所は大正13年、鍋井克之、小出樽重等が創設したところで、昭和6年に中之島へ移るが、関西における洋画の系譜を考える際に、この研究所の果たした役割を無視して考えることは出来ない。
 別車はここで国枝金三を通じて石井柏亭の知遇を得、以後柏亭の影響を大きく受けながら作品を一水会に出品することになる。
 初期のフォルムの重視とフォーヴィスや、表現主義にもつながるような動きの鋭さは、対象への愛着とカラフルな色彩へと変わってゆく。彼は絵の道具をリュックにいれ、気にいった風景を求めて、日本各地はもとより、渡欧もしたが、やはり作品数は神戸を描いたものが一番多い。彼は須磨の潮見台に居を定めたが、そこから一望のもとに見渡せる、大阪湾や淡路島の景色、とりわけ夕景を最も好んだものと思われる。
 彼の作品の真骨頂は小品に見出せよう。「須磨彩雲」(1965)「彩雲兵庫運河」(1965頃)「兵庫運河」(1973)などは、いずれも一気呵成に描きあげられたものであろうが、どれも大きく空間を空にとり、昼や冬の夕まぐれの雰囲気をよくとらえている。また晩年の「神戸港」(1974)等には淡々とした色の使いかた、水墨のような筆の使い方に俳味すら感じさせる。
 水彩画は、それだけではなかなか認められ難いジャンルではあるが、何より神戸の空気を愛し、水彩画という媒体を一途に通して、神戸を題材とする佳作を別車博資が数多く残してくれたことは、何よりも神戸市民にとって喜ばしいことである。
(神戸市立博物館学芸員 越智裕二郎)
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