119号表紙

No.119(昭和57年8月)

特集:

こうべの池

こうべの池 名谷団地の真ん中にある落合池。今や市内で一番多くの人が通勤の行き帰りなどにこの池を見ていることだろう

池と神戸の歴史から
県立御影高校教諭 神戸史学会委員 田辺 眞人 

洞川教育キャンプ場のある洞川池。近くに市立教育植物園がある

再度公園の修法が原池

はじめに

 瀬戸内地方は、溜(た)め池の多いところです。
夏、南からの季節風は、紀伊山脈や四国山脈に当たって上昇し、冷えると空気中にたくわえきれなくなった水蒸気をおとして雨を降らせ、山を越えて瀬戸内海に来た時はカラカラです。一方、冬の北風は、中国山地を越える際に同じように水分を、雪として降らせるため、但馬や丹波で多くの雪が降っても、瀬戸内地方は晴れています。
こうして年中雨が少ない瀬戸内式気候は、塩田などには適していても、農民にとって水の不足は深刻でした。そのため永い歴史の中で、たくさんの溜め池が築かれてきたわけです。
とくに台地状の播州平野は溜め池地帯の典型です。また六甲山地の南麓は、海から山頂までに8キロメートルほどの距離で1キロメートル近く登る(六甲山最高峰は海抜九三一メートル)という急斜面。ひと雨ふると鉄砲水が出、あとは流れがやせ細るので、水を手に入れようという祖先の願いは切実でした。

神戸一古い池の名 加須加多池(兵庫区)

記録の上で最も古い池の名は、加須加多池といいます。天平一九年(七四七)の法隆寺の「資財帳」の中に、寺領の宇奈吾岳(うなごだけ)のことが書いてあり、その四方の境界として、北の伊米野(いめの)(夢野)・東の弥奈刀(みなと)(湊)川・西の凡河内寺山(房王寺一帯か)と並んで南限加須加多池(かすかだいけ)と記されています。
宇奈吾岳は今の会下山とされますが、明治半ばの実測地図を見ると、市立神港高校の正門前を南へ下ると、旧市電筋との交差点あたりに四角い池が書いてあり、律令時代の土地制度・条里制の地割りに当てはまっています。古代にさかのぼりうる池で、これが加須加多池だと思われます。江戸時代にはこの池は、皿池とよばれており、今、その名は派出所や薬局の名に残っています。

行基が築いた(?)蓮の池(長田区)

山陽電車西代駅を北におりると、蓮池小学校があります。この学校も、東隣の県立スポーツ会館や市民グラウンドも、ともに昔ここにあった大きな蓮池を埋めて作られた施設です。『平家物語』によると、生田ノ森の副将軍・平重衡(しげひら)が西に向って馬上で敗走する段に「湊川・苅藻川をも打ち渡り、蓮ノ池を馬手(めで)(右手)に見て、駒ノ林を弓手(ゆんで)(左手)に見て、板宿・須磨をも打ち過ぎて、西をさしてぞ落ちたまふ」とあり、この池が平安末期に存在していたことがわかります。
さて、伝説によると、この池は行基が築いたものといいます。奈良時代、高取山のふもとの農民が水不足に悩んでいるのを知った僧行基は、「ここに溜め池を造って、人々を救ってあげよう」と、この池の工事を始めました。そして立派な池ができたとき、彼は一株の蓮(はす)を池に投げこみ、
「極楽浄土にあるという池のように、美しい蓮が咲きみだれるように」
と、祈りました。やがて、池には毎年美しい蓮華が咲くようになり、周囲の村々は豊かになりました。 人々は、その池の名を蓮池(はすいけ)、池の近くの村を池田村(今も町名に残っています)とよびました、池の名前は、小学校の名で残っているのです。

文政元年(1818)に作られた猩猩池の碑

村上尚善と猩猩池

 摂津の国、八部郡福原荘四か村の池は、みな土地が高く水が乏しいので、日照りの年はいつも村民は苦労した。花隈村長の村上尚善はこれを心配して寛政2年(1790)村民を集めて相談し、貯水池を作ることにした。しかし意見が一致せず、数度の請願にも役所の許可が得られなかった。正しい道筋を好み、慈愛深く、公共に役立つ志の強かったニツ茶屋村長の橋本邦直は、文化12年(1815)村民の意見をまとめ、代官の許可を得て6月に着工した。翌年8月。水 深約24m、南北約117m、東西約68mの池が完成した。尚善の建議以来26年がたっていた。  村人たちは池の完成を喜び、酒樽を用意して、池のほとりに代官を迎え、猩猩の謡曲で宴に興をそえた。このため代官は、この池を猩猩池と名付け、荒井公鹿に命じて事業をたたえる碑を作らせた。

再度谷の猩猩池

中世、城の塀がわり・深田池(東灘区)

 さて、阪急御影駅を北へ3分、都会の中の湖水のような深田池(ふかだいけ)があります。深田という名は泥の深い田、もともとフケダから来たと思われます。フケとは沼と考えていいでしょう。昔はこの池の南西に浅田池、また少し東の弓弦羽(ゆずるは)神社の北方に村田池という池があり、一帯が湿地帯だったことがわかります。池のすぐ北の坂道は古くから九重(くえ)ケ坂といいますが、クエ(崩(く)え)というのは崖(がけ)のこと。つまり赤塚山から南にのびた台地のはしのガケについた坂道で、このガケの南麓にフケ(湿地)がひろがっていたわけです。
ところでこの西方、阪急御影駅の南西に「城ノ前(しろのまえ)」という地名があり。「大手筋」という名の道も残っています。滝ケ鼻(たきケはな)(竹ノ花とも記され、中世の土豪の館のわきにあって、目かくし兼弓矢の原料となる竹やぶのあったあとの地名)もあります。江戸時代の『摂津志』という書物が、十四世紀半ばの観応年間に平野一族が拠点とした御影城のことを書いていますが、今のべたような地名から、その城は御影北小学校あたりにあったと思われます。地形からみると、城は西を石屋川やその支流の新田川を堀とし、東は先はどのべた崖と湿地に守られていたのでしょう。
深田池は、農業用水の溜め池であった前に、南北朝の動乱期には城の堀の役目をしていた歴史もあったのです。

村人の池の管理・川池(兵庫区)

 中世の動乱期に朝廷や荘園領主の支配力が弱まると、農民たちは戦争から生活を守り、村の結束を強めていきました。村内の掟(おきて)を作り、共同作業で川や池の土手をつくり、鎮守の神のお祭りをしました。こうした自治的な村々は、農業用水の管理も行い、何日にはどこの水門をあけて誰の田に水を送るなどの取り決めを作っています。古くからの神戸の溜め池も、こうして運用されるようになりますが、旧湊川の土手の西にあった川池(かわいけ)は、この頃つくられたと考えられています。
この池は古い湊川の流路の一部が残って、池となったもので、付近の田畑のかんがい用に使われていました。明治四十五年に埋め立てられて。その跡の南に川池小学校、北半分に市立第一高等女学校(今の湊川中学)ができました。

新田開発と谷の奥の溜め池(北区・垂水区・西区など)

涼しそうなムードがただよう市立森林植物園の長谷池

六甲山上の三国池。すぐ近くに自然の巨岩・三国岩がある

大池。池のはるか下手に花山団地が見える

柏尾谷池

さざ波の立つ鰻ノ手池

 江戸時代になると、幕府や藩は収入の基盤を米としました。収入増加をはかるには米の収穫をふやさねばなりません。そのため台地や海辺に新田開発をすすめ、農業技術の改良を奨励しました。その結果、江戸時代の初め約百年ほどの間に、日本の田畑の面積は従来の約二倍ちかくにひろがりました。当然、山を削って、今まで水のこなかった土地にも水をひかねばなりません。だんだん山中の谷の奥にダムのような土手を作って溜め池を築くことになりました。神戸の背山の谷奥の池は、ほぼそのころから造られはじめた池なのです。
神戸電鉄沿線の大池などは、武庫川の支流有野川と、加古川の支流山田川との分水嶺の峠ちかくに苦心して作られた溜め池ですし、再度山の南方にある猩猩池(しょうじょういけ)については、江戸末期に苦心して工事した時のようすを記念した石碑が残っています。
農業と生活を守るために懸命に池が築かれたのです。人々は村一番の池に「大池」、浅くて底の平らなものに「皿池(さらいけ)」、深い池には「すりばち池」、苦心して造っても水もれのひどい池には竹のカゴになぞらえて「篭池(かごいけ)」などの名をつけ、二つならんだ溜め池には「夫婦池(みょうといけ)」とか「双子池(ふたごいけ)」とか名づけました。
水争いのあと、奉行所などでも、一方の村人から賠償金を出させ、他方の村人に、それを資金として溜め池を作ることを勧めたりしています。
西神地区の台地に、新しい田畑開拓を奨めたのが明石藩です。松平信之という藩主は、ことに開発に熱心だったようですが、農民たちは池を作り、さらに伊川谷の堀割工事を行ったりして、農地を増やしていきました。それでも米作りのむずかしかった岩岡町などでは、明石藩はタバコの栽培をさせました。
やがて、明治の初めになって、山田疎水や淡河疎水ができると、その疏水の水を貯えるために、また新しい池が築かれました。

明治の新しい池の利用 氷つくりと上水の池六甲山上の池と布引・鳥原
(灘区・中央区・兵庫区)

 近代になると、神戸には新しい目的の池が築かれはじめます。居留地の外国人の需要にこたえるため、六甲山上の池で氷を作って町に運び、売り出そうとしたのです。明治の末まで、山上の製氷がつづきますが、冬、三国池(みくにいけ)などに張った氷をうまく保存しておいて、春から夏の夜あけ前に少しずつ運びおろすのです。今の山上の前が辻から新六甲大橋付近まで下る山道をアイス・ロードと呼んでいますが、氷の運搬に人々が往き来したことから、この名がついたものです。
もう一つの新しい池が、上水用の大きな貯水池です。明治になって神戸が国際港都として発展しだすと、市街地は密集し、外国船の入港は流行病をこの町に持ちこみました。ことに、明治32年のベストの流行で、神戸市民は清潔な上水の必要を痛感しました。こうして、明治の後期に、布引や鳥原の巨大な貯水池が完成し、コーベウォーターは遠く海外にまでその名が知られることになるのです。

遊園地になった池もさびれて・堂谷池など(須磨区)

 さらに都市化が進むと、田畑は少なくなって溜め池は不要になりました。逆に公的な施設ー学校やグラウンドが必要となりますが、その建設には広い敷地が必要です。新たに広い土地を手に入れる最もいいちかみちは、池を埋め立てることでした。学校や公園の多くがこうしてできました。近代的な町づくりに、池は新しい貢献をしたといえるでしょう。
また、かわった利用のしかたとして、明治末から大正期、まだ市街地に残っていた池を売り出そうとした遊楽地の企てもありました。須磨の大池(堂谷池)は、周囲にたくさんの桜を植え、動物園までできました。板宿の西、大手の清水池(しみずいけ)では一帯に梅林を育て、花の頃には客を集めて赤もうせんの上にお茶子さんが麦めしトロロを出して食べさせる清友園(せいゆうえん)などという名所が造られていました。湊川の川池も、明治30年頃の写真では、池の周囲に掛茶屋・料理屋が並び、池にはボートが浮べてあります。
昭和の初めまではこうして市街地の中に残っていた池が、大きく姿を変えられ消滅していくきっかけになったのは、昭和13年の阪神大水害でした。三日間で前年一年間の半分ちかい雨が降った六甲山系の川は荒れ狂い、池はあふれました。不用な池は危険だということになったのです。

おわりに

 神戸の池の歴史は、ここで生きた祖先の農民の歴史だといえます。田や畑は無くなっても、池の水面のさざ波を見て心やすらぐ人は多いでしょう。けわしい峠を越えたとき、さっとひらける広い水面。ほこりっぽい街なかの小さな池水。北区淡河の大杣池も東灘の深田池も、とても個性的なやさしい顔をもっています。これからの神戸の町づくりには、残された池の活用が、一つのポイントになるでしょう。
このような池を、われわれの貴重な財産として生かすためには、みんなの努力が必要です。
団地の中の池のある公園で、休日に柵(さく)や立て札を無視して池畦にすわり、釣りをしている人たちがあります。見ている小さな子供たちが、大人のいないときに柵を越えて水遊びをしています。子供がはまる事故がおこると、ともかく池など埋めておけば安全だ――というような悲しい結果にならないように、少しでも自然の残る美しい街に、みんなで努力したいものです。

池から池"水色の道"

 緑の深い山の中で、青い水を満々とたたえた池を見ると、体じゅうが洗われたような気持ちがする。そんな池から池へ、いわば"水色の道"ともいえるコースが自然歩道"太陽と緑の道"の大池〜中山大杣池(一般向・10km)である。神戸電鉄大池駅下車、まず大池を見て大池聖天宮への道に入る。天下辻をへて鰻ノ手池。さらに黒甲越から屏風谷上流をまたいで天保池、そして中山ノ大杣池へ。ここからいま来た林道を少し戻り、北方(左手)の木に巻いてあるテープをよく見て山道に入ると、ため池の間を通り過ぎた先に野瀬ノ大杣池がある。(くわしくは神戸市発行・太陽と緑の道地図参照)

池と伝説
野瀬ノ大杣(おおそま)池と赤牛

 淡河の野瀬から南の山に登ると、山の中に大杣池がある。この池のおかげで、ふもとの野瀬や神田はゆたかな村であった。
しかし、大雨が降りつづいて、いったん山に水が出ると、しばしば池の土手が切れて人々は大きな被害をうけた。田畑はごっそり洗いけずられ、住む家も水につかり、数年の間はひどい幕らしがつづくのである。
池の堤が切れないようにする方法はないものだろうか。村人たちは何度も集まって相談した。
「一つだけ方法はある。じゃが、そんなむごいことはできぬ」
村の老人は、その方法を知っていた。切れた堤の底に赤牛を生きうめにして土をかけ、土手を築きなおせば、二度と土手はくずれることがない、といい伝えられてきたのだ。
そのいい伝えはなかなか実行されなかった。
ある大水のあと、たびたびの災害にうちひしがれていた人々は、ついに赤牛をいけにえにする決心をした。
くじ引きで生き埋めにされることになった牛は、きれいに洗われ、飾りたてられて、最後においしいえさを与えられた。
牛は、かい主や村人にひかれて大杣池まで登った。くずれた個所に太いクイが打ちこまれ、赤牛は、しっかりとそのクイにゆわえつけられた。
牛は「モーウ、モーウ」と鳴くだけだった。背なかまで土に埋まった赤牛は、最後に首を高くあげて、力いっぱい「モーウ」と叫んだ。
土手は再建された。けれども、人々の耳の奥には、最後の牛の叫び声が長く残ってひびいていた。

池と伝説
鹿(か)ノ子の泉

 鹿ノ子池のすぐ近くの谷すそに鹿の子温泉がある。いつのことか、この谷を親子の鹿が楽しそうに歩いていた。
突然、林の奥から大きな能があらわれ、鹿におそいかかった。逃げおくれた子鹿の足に熊はかみついた。驚いた母鹿は必死で熊にむかっていった。子鹿の足をはなした熊は、するどい爪をもった太い前足を母鹿めがけてふりおろした。その時、ドーンと林の方から猟銃の音がして、熊は傷ついた母子をのこして山の方へ逃げて行った。
血をドクドクと流しながら子鹿を連れて谷をおりた母鹿は、小さな泉のところまでくると子鹿にいった。
「この清水で何度も足の傷を洗うのよ。そうすればけがは、まもなく…」
ここまでいって、母鹿の息は絶えた。村人が、母親の死がいのそばで鳴いている子鹿を見つけたのは、それからまもなくのことであった子鹿はときどき泉のところに行って足を水にひたしては、母親のところにもどって鳴いていた。
かわいそうにと、村人は、死んだ鹿を心をこめて埋めてやった。それからも子鹿は、ときどき泉のところへ来ては足をひたしていたが、いつしかあらわれなくなった。 村人は
「やっと傷がなおったのだろう。でも、どうして、この泉に足をつけていたのだろう」
とふしぎに思い、その水を調べてみた。すると、その泉の水が、けがや病気にとてもよくきくことがわかった。それ以後、里の人々は、この水をくんではふろをわかし、その湯にはいるようになったという。

池と伝説
雄岡(おっこ)・雌岡(めっこ)と金棒(かなぼう)池

ずっと、むかしのことである 神出の里に男神と女神がいて、あるとき二人で山をりつくって、高さくらべをすることになった。
中心に心棒となる金の棒をつき立て、それに土を盛って山を築くのである。せっせ、せっせと神々は土を盛った。やがて、円スイ形の姿のよい山が二つできはじめた。そのときである。
「ポキッ」
という大きな物音がして、男神のつくっていた山の心棒がまん中から折れてしまったのだ。
「これで、私の勝ちですね」
女神のほうは自分のつきたてた心棒の上まで土を盛った。こうしてできたので、東西にならぶ雄岡山と雌岡山では、女神のつくった雌岡山のほうが、山は高く大きいのである。
高さくらべの途中で、ポキリと折れた男神の金棒は、ごろごろところがって二つの山の間に落ちていった。ドスンと落ちたその跡には、後に水がたまって、細長い池ができた。人々はこの池を金棒池とよぶようになった。

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