113号表紙

No.113(昭和57年2月)

特集:

神戸の風俗・昭和(戦前)

遊びの中で育った子どもたち

 大正期から昭和初期にかけての子どもは、実に数多くの種類の遊びを知っていた 物には恵まれない時代であったが、遊びは豊かであった。いろんな年齢層による子どもの世界があり、文字通り遊びの中で成長した。
 たいていの家庭は、衣類や教科書は上から下の子へと受けつがれた。「またお下がりか」と言いながら、それが当然のように思っていた。物を大切にすることと、有難さを身にしみて感じながら、大きくなっていった。それだけに、時たま買ってもらったおもちゃや、インクの香りのする新刊雑誌などを手にしたときの喜びは、結構づくめの状態では、決して味わうことのできないものであった。

雨がしょぼしょぼ
降る晩に
豆狸(まめだ)が徳利(とっくり)持って
酒買いに
酒屋の前で瓶(びん)めんで
いんでおかんに叱(しか)られて
たんすの前で泣きよって……

 この頃の子どもは、夕ごしらえの時分に、みそ、とうふ、油揚げ、酒などを、容器持参で、買いにやらされたものだ。遊びの途中なので、急いで帰る途中、ころんで品物をフイにすることがよくあった。痛いのと、親に対してすまないという気持で、泣き泣き帰って、まだその上に叱られるのがつねだった。そういう子どもの姿を豆狸に託して歌ったところに、あどけないユーモアが感じられる。
「海港博覧会」ポスター

「酒は涙か、ため息か…」の不安な日々

 「酒は涙か ため息か 心のうさの捨てどころ」の流行歌が市民の間で歌われ、昭和4年製作の映画「大学は出たけれど」は、失業・就職難にあえぐインテリの嘆きを描いて大ヒットした。昭和5、6年頃にはエロ・グロ・ナンセンス時代の頂点に達し、人びとは、エロチックにただ足をふり上げる踊り子を見にレビュー小屋に通い、エプロン姿の女給の酌でのむ酒に束の間の解放感を味わった。神戸など港町からマージャンが流行しだしたのもこの頃である。
 事実、大正の末から続いた不景気は、昭和が開けてますます深刻になった。経済不安、社会不安、そして軍備強化への傾斜が急テンポで強まるなかで、人びとはいつ首切りになるかも知れない不安におびえながら、その日その日を過ごしていた。
 そんな最中、金融大恐慌の発端になったのは神戸の鈴木商店の破産だった。昭和4年4月、台湾銀行からの取引中止通告にあった鈴木商店が破産、この破綻(たん)は他の銀行をも休業に追い込み、神戸をはじめ全国で銀行の取りつけ騒ぎが起こった。
 金融恐慌のあおりは川崎造船所にも及んだ。3千300人の首切りをともなった同造船所の窮状は、鈴木商店の壊滅とともにいっそう市民を不安におののかせた。日本中に不景気風が吹きまくった。首切り、かつてない失業地獄、物価の暴落、豊作ききん、労働争議…。まさに、戦争へ駆ける政治、経済の暗黒時代の始まりである。
 昭和6年満州事変ぼっ発、翌7年上海事変、そして12年に起きた蘆溝橋事件は日華全面戦争への引き金となった。翌年、国家総動員法が公布された。
 悪い時は悪い事が重なるもので、日本がずるずると戦争にはまりこんでいった昭和13年、阪神間に大水害が起こった。7月初めから降りはじめた雨は日一日と勢いを増し、5日正午ついに総雨量491・8ミリに達し六甲山系を中心とする各地で山津波が発生、河川ははんらん、神戸の死傷者3千余人(うち死亡616人)、被災者45万人に及んだ。
 しかし、このような内憂外患のうちにあっても、昭和の初めは、まだまだ人びとの心に多少の余裕があった。昭和5年の観艦式記念海港博覧会、8年の第1回みなとの祭。なかでも、この祭の"国際大行進"で、14台の花自動車に乗り込んだ12力国の外国人たちに盛大な拍手を送った市民の姿は、まるで不安など忘れたかのように明るく、開放感にみちていた。
 交通も発達した。昭和3年、神戸有馬電鉄(現神戸電鉄)湊川〜有馬温泉間開通、5年に市バスが誕生、6年に六甲山ロープウェイ、7年には同ケーブルがそれぞれ開通し、11年になると阪神電鉄が元町地下に、阪急電鉄が三宮高架に前後して乗り入れた。
 美術館では、昭和9年に白鶴美術館が開館、13年には南蛮紅毛見術を中心とする池長美術館(現市立南蛮美術館)が開館した。また、当時流行のラジオの聴取者数は、大正14年にわずか約300だったのが昭和6年は3万5千800、同8年は5万8千800に増え、その普及ぶりは実にめざましいものがあった。
 昭和14年、神戸市の人口はついに100万人を突破した。

昭和初期に行われた学校給食

 昭和初期の深刻な不況による貧困欠食児童、栄養不良児童の増加がきっかけとなり、政府の応急対策として学校給食が行われるようになった。しかし当時は、「武士は食わねど高揚子」とか「腹は減ってもひもじうない」といった精神主義を称揚していたので、児童や父兄の側で慈善的な給食をきらう気持が強かった。このため、子どものひがみ心を起こさせないよう給食を実施する学校側は、スローガンとして「偏食矯正・栄養改善」を掲げ、給食希望者を募集して多人数に給食を実施し、公費による給食児童を目立たないようにするなどの配慮がなされた。
 当時、県下で学校給食のモデル学校といわれていた塩屋小学校を例にとると、同校の欠食児童は1、2名であったが、和田校医は、栄養改善としての給食は医師の立場から見て絶好の機会と考え、その実現にあらゆる創意と熱情を傾けた。同医師は、まず学校側とともに町の有力者を説いて町費の支出を可能にし、さらにできるだけ多くの寄付金を集めるため奔走した。
 調理は、もっぱら和田校医夫人の受け持ちで、ここでも大いに創意工夫が発揮された。たとえばハムサラダは、舞子の外人ハウスのコックを招いてマヨネーズの作り方からサラダの製法まで伝授を受けたもので、やがてこれが校下ー帯の家庭料理にも普及し、来客にはサラダを出すという慣習ができたという。また寄生虫を避けるため、下肥を使用しない学校菜園を経営し、昭和11年からは野菜のほか大豆も作ってみそを自製するようになった。こうした作業がすべて和田夫人や同家の車夫、付近の家庭婦人の奉仕によって行われたのである。
 しかし、見方を変えると、こうした富裕な地区で、さらに和田一家のような篤志家が現われなければ円滑な給食が実施されないほど、当時の給食は不完全なものであったといえるかも知れない。

水害の復興に立ち上がった市民

 昭和13年7月5日、神戸を襲った大水害は死傷者3千余人、家屋の被害は実に総戸数の7割近い13万9千余戸という空前の惨害をもたらせたが、泥土の中から敢然と復興に立ち上がった市民の活躍もまた目を見張るものがあった。市民だけでなく、近辺の各市町村からいち早く救援の手が差しのべられたことも、心暖まるうれしい思い出である。
 当時の勤労奉仕団の記録をみると、水禍のあった翌7月6日、急拠編成された大阪市連合青年団救援奉仕隊に166名、同市労働訓練所生74名が神戸にかけつけたのを始めとして、その後約3ヵ月にわたり、近府県各市町村から救援の手が差しのべられ、地元神戸の青年団や学生などの奉仕団と協力して復興のつるはしをふるい、埋没死体の発掘、水道の復旧など緊急作業のほか、幹線道路の復旧、土砂の除去、被災市民への配給・救援活動にあたった。
 市役所の手を経たこれら奉仕団の数は1千333団体、55万8千453人。これ以外に市内の町会から町会へ直接奉仕された数を加えると恐らく60〜70万人は下らないだろうと推計されている。
 神戸市が発行した「水害復興勤労奉仕記念」誌に、当時の勝田銀次郎市長は次のような序文を記している。
「昭和13年7月5日の水禍は、我々に対して一大惨害を与えると同時に無限の試練と教訓とを遺した。災禍の中に立って、水魔跳梁の現実を目にしたものは何人もまず偉大な自然の力の前に頭の下がる思いがしたことだろう。自然の力を再認識したこと、これが水禍が我々に遺した教訓の第一である。そして、復興への努力を通して我々は人間の力の如何に大きいかを再発見することができた。教訓の第二がこれである。断じて行う所、人間の力、特に酬いられることを求めない清き大衆の力が、如何に大きな事業を成し遂げることができるかを、事実をもって我々に教えてくれた…。」

日覆(ひお)い時代の想い出

 日覆いの開閉は全く店とは反対で、朝閉めて夜開く、これを毎日の日課として繰り返していた。つい荒々しく取扱うとロープが切れる、滑車がはずれる。梯子(はしご)を持ち出すやら、二階の窓から乗り出して応急修理をするやら、朝っぱらから大さわぎであった。
 それでもこれをやらねば商品が駄目になってしまう。特に呉服屋さんなどは全く神経をとがらせたものだ。一時間程でも日光の直射を受けようものなら変色して大変だった。安心して商売をしていたのは瀬戸物屋さんぐらいだった。それにしても、ヨシズ張りの日覆いから日陰がしま模様に道路に落ち、打ち水をして客を迎えた時代も、いま振り返ってみると懐かしいものである。(神戸市商店街連合会副会長 野網敏一)

写真・資料提供(順不同、敬称略)
野網敏一▽桑田寛一▽三船 清▽「神戸の遊びと遊び歌」三船 清著▽「羽ぐくむ―幼碓園教育100周年記念誌」神戸市教育委員会▽「神戸洋服百年史」神戸洋服商工業協同組合百年史刊行委員会▽「市立東須磨小学校創立100周年記念誌」同校百周年記念誌編集委員会▽「神戸市教育史」神戸市教育史刊行委員会▽「神戸市水害復興勤労奉仕記念誌」神戸市▽「観艦式記念海港博覧会誌」神戸博覧会協会▽「第貳回神戸商業祭記念写真帖」神戸商店連盟▽「市営二十年史」神戸市電気局
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