112号表紙

No.112(昭和57年1月)

特集:

神戸の風俗・大正

大正期の動乱の風をまともに受けた神戸

 「料理屋で夕イを焼かせるのに、これで焼けと百円札の束をほうり投げた人があるそうだ」「栄町を歩くとゲタの歯に金貨がザクザクはさまるというウワサもある」。大正初期、こんな景気のよい話は尾ヒレに尾ヒレがつくありさまで、またたくまに町にひろがった。大正3年(1914)第一次世界大戦が始まったとき、日本は不況のドン底にあえいでいた。そのうちに連合国からの軍需品や日用品の注文がふえはじめ、東南アジアの国々が日本製品を買うようになって、輸出高はものすごい勢いで上昇した。大正4年から7年にかけて、その額は戦前の10倍、日本経済は空前の好況を迎えた。そのかわり物価もまた、たった4年で2倍近くになった。
 おかげで"にわか成金"が続出、神戸・鈴木商店の金子直吉が全国の成り金物語の筆頭に挙げられたほか、船成り金では内田信也、勝田銀次郎(のち神戸市長)、山下亀三郎らが特に有名だった。
 しかし、夢物語はやはり夢にしかすぎなかった。物価、とくに米の値段がうなぎのぼりに上がったのが大正7年。1月に1升23銭だったのが7月には46銭3厘になり、民衆は生活に苦しんだ。同年8月12日、全国にひろがった米騒動は神戸に飛び火した。何千人の群衆は鈴木商店の前に黒山をつくり、火が放たれた。「米をよこせ!」の怒号のなかで、群衆はさらに米屋、高利貸しを襲い、この鎮圧に軍隊も出動した。騒動は14日まで続いた。そして、恐慌は労働者を刺激し、9年には大倉山で初のメーデー大会が開かれた。
 翌10年、川崎・三菱の両造船所を中心に起こった大争議は激烈をきわめた。争議の波は神戸製鋼所、台湾精糖、ダンロップをはじめ小さなマッチ工場にも及び、神戸の工場労働者のほとんど、約5万人をかり立てた。45日間の争議は労働側の敗北に終ったが、これを機に、新しい勢力としての労働者階級が社会にクローズアップされたのである。
 大正12年(1923)9月1日、関東地方に起こった大地震は、神戸にもいろいろな影響を及ぼした。鉄道不通のため救援の物資輸送は海路に頼ることになり、神戸がその輸送基地になったほか、東京、横浜の商人たちは新しい活動の場を求めて、どっと神戸になだれこんだ。同時に、神戸の業者も焼野原の東京に販路を求めて上京した。
 このように、大正期の動乱の風をまともに受け、大ゆれにゆれた神戸であったが、市内の様相はその間にも少しずつ変容した。その中の最大のイベントは、10年に開かれた開港50年と市制30周年を祝う記念行事である。市内の至る所で市民の仮装行列や踊りがねり歩き、町には花電車が走り、イルミネーションが輝き、まさにドンチャン騒ぎのお祭り風景であった。13年には湊川公園の音楽堂、神戸海洋気象台が完成、14年には摩耶ケーブルも動き出した。東京に放送局ができ、ラジオ放送が始まったのも14年のことである。

開港50年に熱狂した市民

 神戸開港50年を祝う祝賀行事は、大正10年(1921)3月20日から3日間行われ、第一次世界大戦の好景気を反映して神戸市内は湧きに湧いた。大正10年は、実際には開港53年目にあたるのだが、市制実施30年と水道布設、電気市営、須磨併合の5つを合わせて盛んな記念祝賀行事を行うことにした関係でこの年がえらばれた。
 まず祝賀式典は、20日午前11時から大倉山の式場に神戸及び近県の知名士1600人が参集して行われた。桜井神戸市長の式辞に続いて床次内務大臣、高橋大蔵大臣、有吉兵庫県知事、英国総領事らがそれぞれ祝辞を述べ、池上大阪市長の発声で余興に移り、模擬店も開かれた。
 一方、この日の来るのを待ちこがれていた市民は老いも若きも祝賀気分にひたり、各町ごとに趣向をこらして装飾、また市内の著名な建物は夜になるとイルミネーションをつけたので、至る所で電光がさん然と輝き、お祭り気分をいっそう盛り上げた。町の装飾だけでなく、熱狂した市民の仮装行列や芸妓たちの手踊りが繁華街はもちろん路地裏までねり歩き、文字どおり全市あげてのお祭り騒ぎだったという。

「外出着は洋服、家庭では和服」が次第に浸透

 大正期に入ると、神戸一の繁華街・新開地や元町通りを歩く人々の風俗も目に見えて変ってきた。第一次世界大戦がもたらした未曽有の好況のなかで「外出着は洋服、家庭では和服」の二重生活が浸透しはじめた。大戦後の大不況でこの勢いはにぶったものの、関東大震災を契機として実用的、活動的で安価な洋服を求める声は次第に大きくなっていった。一般に"ツルシ"と呼ばれた吊り既製服が人気をよび、月賦が庶民の生活に根をおろして盛んに利用され始めたのもこの頃である。
 大正15年、大阪心斎橋の通行人のうち和服46%、洋服54%(日本風俗史=今 和次郎)という記録がある。神戸も大同小異だったろう。
 大正14年から輸入され、流行した三つ揃いセビロは、"ロンドン新型"といわれ、肩幅は広め、裾まわりは狭く、衿の返しはやや長め、ウエストはしぼって丈は短かった。生地は主に淡藍色の無地またはタテ縞のスコッチやウーステッドだった。また一般の背広は、黒の上衣に縞のズボン、または濃茶に同色の縞ズボンなどが当時の新しい流行で、生地はヘヤクロースやサージが敬遠されだし、ウーステッド、絹セルが主流になった。
 当時の"紳士"たちは、夏服でもチョッキをきちんとつけるのがみだしなみとされた。冬はこれにソフト帽をかぶり、編み上げ靴にステッキというものものしい姿が町を行き交った。夏はもっぱらカンカン帽を愛用した。
 短靴に「スパッツ」をはく、"商館ボーイ"も神戸では珍しくなかった。スパッツとは、くるぶしのまわりの足カバー。これをボタンでとめるとおしゃれ用のイナセなスタイルになり、このボタンをはめる道具と靴べラを組合わせで売る店も出現した。

幼稚園からはじまった"ままごと遊び"

 大正期の幼児たちが大いに楽しんだ"ままごと遊び"は、当時の幼稚園における保育が次第に一般に普及したものといえる。大正期、神戸市内に増設された幼稚園は市立2園、私立16園で、明治期からの古いのを合わせると全部で市立5園、私立24園になった。しかも、この期には主として幼稚園の少なかった葺合・林田・須磨地区に新設されたので市内に万べんなく普及したことになる。
 そしてそれ以上に変ったのは、保育の内容だった。従前の幼稚園では保母中心の保育で、幼児の・要求・幼児の興味・個人差・疲労などについての考慮が少なく、いわば一斉保育、時間割の保育であった。
 しかし大正の初年、神戸市で開かれた京阪神三市連合保育会の総会で、東京女子高等師範の倉橋惣三教授が「保育は幼児の生活を墓礎として、幼児の自発活動を重んじ、具体的、相互的に遊びの中に自然的に進められるべきである」という新保育論を公表したことが、保育の考え方や方法を変える大きなきっかけになった。
 その後、幼碓園で行われるようになった"ままごと遊び"は、おとなの生活を模倣する遊びで、庭の掃除、人形の着物の着せ替え、せんたく遊び、お客様ごっこなど、園児は好んでこの遊びを楽しんだ。また、お店屋ごっこ、銀行ごっこ、郵便局ごっこなど、社会遊びも楽しんだ。
 また、男の幼児がこの上なく喜んだ木工では、幼稚園の段階ですでに用具として幼児用のこぎり、かなづち、くぎぬき、くぎ、きり、木片などを使用していたという。要するに、幼稚園教育の重要性が一般に認識されるようになり、公・私立とも多く増設されたことと、新しい保育法の研究が盛んに行われたことがこの時代の特色であった。

神戸の貿易史に新しいページを加えた関東大震災

 大正12年9月1日正午、突如として起きた関東大震災は、これが神戸の貿易史の中に全く新しいページを加える大事件になるとは、当初は誰にも予測できないことであった。
 この日、神戸で見る太陽は赤くよどみ、市民たちは不吉な予感にとらわれた。やがて異変の第一報が届いたが、いまと異なって通信機関が完全ではないから、詳細な報道は容易に得られなかったと伝えられている。
 被災地城は関東一円にわたり、特に東京、神奈川の被害が大きく、横浜港はほとんど全滅の状態となった。日本の貿易にとって、中でも神戸にとっても由々しい一大事件である。
 当時の神戸の騒ぎは、いろいろの記録に残されているが、とにかくはっきりしているのは、交通機能がマヒしているのだから、残された唯一の手段は海路によらなければならない。さしあたり食糧その他生活必要物資の補紿を急がねばならないというので、神戸商工会議所が民間側の主体となり、兵庫県、神戸市と協力して篤志家の出捐(えん)を募集、いち早く臨時に仕立てた救援船を横浜に向けて出港させた。その後も市民の同情はますます高まり、出捐金は予定額を大きく上回り、ナベ、カマの類にまで及ぶ救援物資は市や商工会議所に殺到したという。
 それにしても、横浜港の機能がそう簡単に復旧されるにわけはなく、従来横浜を本拠としていた商社のうち、本社を神戸に移すもの、神戸にある支店を拡張するものが相次ぎ、身軽な商人たちは単身新しい天地を神戸に求めるものも多数に上った。中でも横浜を本拠に、日本の輸出貿易、ことに絹織物輸出に隠然たる勢力を持っていたインド人は、揺れる大地に底知れぬ恐怖を感じ、大挙して神戸に移住して来た。
 こうして神戸の生糸・絹織物輸出市場は、はからずも関東大震災によって確立の転機を与えられ、さらに海陸物産輸出市場も、横浜にとってかわって神戸に定着したのである。

写真・資料提供(順不同、敬称略)
野網敏一▽高嶋平介▽高下富蔵▽志井保治▽「写真集むかしの神戸」神戸新聞社▽「神戸市教育百年」神戸市立学校教育研究会編▽「神戸貿易協会史」社団法人神戸貿易協会▽「神戸市教育史」神戸市教育史刊行委員会▽「神戸瓦斯四十年史」神戸瓦斯kk▽「神戸洋服百年史」神戸洋服商工業協同組合百年史刊行委員会▽日本燐寸工業会
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