111号表紙

No.111(昭和56年12月)

特集:

神戸の風俗・明治

市民生活にとけ込んでいった舶来文化

 神戸は、港から生まれた。何もかもが一からの出発であった。西国街道わきの一寒村だった所に、開港と同時にどっと舶来の文化が到来したのだから、当時の人びとの戸惑いとおどろきの表情が容易に察しられる。
 たとえは、ちょんまげを切ることも、県令神田孝平は兵庫・神戸の主だった人物にしばしば断髪をすすめたが、切るものは少なかった。明治5年に学制がしかれてからも、教師は相変らず羽織・ハカマ姿でなかなか洋服に変えようとしない。やむなく県が訓令をもって教員に制服制帽の"職服"を着用させることにしたのは、明治も半ばを過ぎた28年のことである。
 それでも、明治15年に刊行された「豪商神兵湊の魁」をみると、外来文化の流入に次第に押し流されていく当時の町の様子がよくわかる。これによると、元町通りに"印度産加琲(コーヒー)放香堂""市田写真館""西洋イステイブル家具製造所"などが店開きをし、三宮には"西洋小間物売捌(さばき)所""各国洋品類西洋金物類"の店が建ち、レストランとして"西洋料理洋酒同菓子外国亭"や、牛肉を食べさせる"関門月下亭"が大勢の人びとでにぎわっている。
 神戸の日本人が初めて洋家具を作ったのも、人々がコーヒーや牛肉を飲食するようになったのも、すべて外国人たちが使用しているものや、その食生活を見よう見真似で習ったものだが、ハイカラ商売が先行した形で、さまざまの舶来文化が市民生活の中へ徐々にとけ込んでいった。

明治の当初から見られる都市づくりの知恵

 神戸の都市計画の原点といわれる外国人居留地は、その後の町づくりはもちろん、当時の人々の生活にいろいろな面で影響を与えた。
 居留地は旧生田川(現在の市役所前フラワーロード)以西、鯉川筋まで、北は現在の花時計から大丸に至る道路と定め、この地域を一ニ六区画に分けて競売し、商館はじめホテル、銀行、領事館など各種の建物が建てられた。また、地域の南北道路に沿って下水道が設けられ、ガス灯が立ち、公園や海岸通りに遊歩道を設けるなど、西欧的な発想による町づくりがなされた。それまでの自然発生的な町並みを見なれた日本人は、この衛生的で整然とした街区にまず目を見はった。
 ここで注目されるのは、居留地の売却にあたって一坪二両のうち一両二分を工事雑費、また二分を居留地積金として道路溝・下水溝普請、常夜灯などの費用に当てている点である。しかも、入札価格以上に売れた場合も差額の半分を積金として残した。このような街区として良好な環境・サービスを維持するための積立金制度は、当時、「貿易五厘金」といわれる輸出入品の価額の五%徴収金(関税とは別)が、市内の道路、学校、病院などの建設費に当てられたことなどにもみられる。
 いわば都市づくりの知恵が、明治の当初からこのように活用されている点が興味深い。

「家に不学の人 ナカラシメン」

 明治以前の兵庫津やその周辺農村は、商工業者や農民の居住した所で、教育機関としては寺小屋が普及していた。しかし、兵庫開港に続いて政府管轄地となったことから、急激な改革変化が次々とこの地を見舞い、教育面でも他の地方には見られない近代化への激しい胎動を見せた。
 その一つは、人心の動揺や世相の不安を防ぐために設けられた市民警備の町兵隊が、無学で粗暴な者が多く、また日ごとに外国人との交渉が多くなるにつれ、外国人に少しでも遅れをとらないようにと、兵庫の豪商・名主らが青少年教育を行うため明親館を設立したことである。
 さらには、外国人との交渉が増加したことから明治元年、県が神戸村に神戸洋学伝習所(洋学校)を開設、同三年にはアメリカ帰りの関戸由義によって、自由主義的小学校として関山小学校が神戸に開設されている。続いて同五年、明親館と洋学校が合併して兵庫学校と改称したほか、神戸病院内に神戸医学校の発端ともいえる医学伝習の施設が置かれた。
 これらの学校は、政府が教学振興の方針を打ち出したとはいえ、まだその実施案を具体化しない前に地元の官民によって自発的に設立されたもので、神戸の開化性を早くも示したものといえるだろう。
 そして明治五年「邑(むら)二不学ノ戸ナク、家二不学の人ナカラシメン」という構想雄大な学制が発布され、全国画一的な小学校の創設が始まった。

大阪、横浜より遅れた 神戸の築港工事

 開港後の明治3年頃には、神戸には約二○○人の欧米人がいて二五六の商社を構えていた。当時、全国には約二、六〇〇人の外人が居留し、主として横浜を本拠として、二〇〇の店舗をもって貿易に従事していたといわれるので、神戸の地位もおのずと察せられる。神戸の外国人はその後急速に増加し、明治11年には一、○○○人の大台を越え、貿易額でも、30年代には横浜とその勢力を2分するほどになった。非常な躍進ぶりである。
 しかし、その頃の神戸港は海岸地先きのところどころにまだ白い砂浜が残り、松の疎林があちこちに点在していた。神戸港が国際港として、近代的設備を整え始めたのは明治も末の40年以降のことである、官民あげての熱意により、ようやく神戸港築港予算が国会を通過、着工されたのは明治40年だから、初代神戸港長の英国人J・マーシャルの神戸港築港計画案が世に出てから24年、神戸市会の決議から8年の歳月が流れていることになる。
 ちなみに、大阪港の築港計画案は明治30年国会を通過、同年10月に起工された。横浜築港も明治27年に行われ、同年すでに横浜棧橋が竣工している。これら両市に比べると、神戸はまだ経済基盤も弱く資力にとぼしかったことが遅れをとった原因だが、しかしこの遅れが逆に、港を生命線として、神戸と港とは切り離すことができないという強い感情を市民の間に根付かせたことは否定できない。

写真・資料提供(順不同、敬称略)
神戸新聞社、大阪・印刷文化財保存会、神戸深江会館生活文化史料室、青木つる、深山健二、岩下満寿子、RICHARD・K・REIFF、荒尾親成、「写真集むかしの神戸」神戸新聞社、「神戸市教育百年」神戸市立学校教育研究会編、「神戸開港百年」読売新聞神戸支局編、「明治大正図誌4」築摩書房、「川崎造船40年史」、「神戸栄光教会七十年史」、「神戸ゴルフ倶楽部七〇年史」
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