107号表紙

No.107(昭和56年8月)

特集:

神戸の石造美術

神戸の石造美術 近江寺の修動大帥像 近江寺は山号を近江山といい、開基は法道仙人と伝える古い寺である。寺の入口にあたる高い石段の下で錫杖(しゃくじょう)を持ったお大師さんか気高く、やさしく、人々を迎えてくれる。(垂水区押部谷町近江)

ただよう歴史の香り

 神戸といえば、エキゾチックでハイカラなイメージがすっかり定着していますが、市内に点在する石造遺品ひとつを見ても、鎌倉時代からのものが一通りそろっていて、大きな自然の岩石に仏像を彫刻した、いわゆる摩崖仏(まがいぶつ)まで現存しています。そのどれもが長い風雪を経て、先人たちのつつましい生活ぶりを今日に伝える歴史的遺品です。
 石造遺品は、石を材料にして作られた鳥居、灯籠、石仏、石塔などをさしますが、このうち石塔だけでも、三重、五重から清盛塚のように十三重もあるものもあります。また、形の異なる五つの石を積み重ねた五輪塔、板碑、宝塔、あるいは形式の複雑な宝篋印塔(ほうきょういんとう)など各時代にわたるものがあり、ことに近世の墓碑にいたっては数え切れないほどの種類があります。
 なかには、彫刻されているものが優れた美的表現を示していて、単に石造遺品というより、石造美術といっても決してはずかしくないものもかなりあります。そのうえ、これらの古い石造遺品は、必ずといっていいほど周囲の環境と実によく合っています。人の気配すらない境内の片隅や、田んぼのあぜ道などにぽつねんと立つ石仏を見つけると、何となくほっとしたような、すがすがしい気分になります。
 行く先々で「ここも神戸なんだなぁ」という思いを強くしました。

参考図書
「神戸の石造美術」(川辺賢武著、神戸市教育委員会)・「遊女塚宝篋印塔」(同上)・「神戸の史跡」(神戸市教育委員会編)・「神戸の石仏」(矢野明弘著)
  • 長田神社の石灯籠長田神社の石灯籠
     神戸市内の銘のある石造物のなかでは最も古い。元は境内の本殿の西にあったが、現在は本殿わきの塀のうちにあって、無断では入れない。円柱の竿の中央の節の上下に銘があり、これまで何入かの著名な研究家が調査した結果、弘安9年の造立が定説となっている。灯籠の総高197cm。(長田区長田町3丁目長田神社、鎌倉時代弘安9年、1286)
  • 遊女塚宝篋印塔遊女塚宝篋印塔
     宝篋印塔は、下から順に基礎、塔身、笠、相輪と積みあげて形成された平面方形の塔である。中には個入の墓標として造立されたものもあるが、ほとんどは広い意味での供養塔、つまり村や土地の安穏平和を願い、悪魔、災難、悪病を追い払い、あるいは往来の安全を祈り供養して造立されたとみられる。
     したがって安置する場所は、村境や峠の上、交通の要路などを選んだもので、この遊女塚も元は海神社の西、神明国道の北手の丘にあったが、明治21年山陽鉄道敷設のさい、線路に当たるので現在の墓地内へ移された。総高4.30mの堂々たる巨容は関西でも類例がない。また基礎側面の四方にある銘文から建武4年の造立が明らかで、塔の貴重さを加えている。県指定重要文化財。なお、この塔にはいろいろと遊女についての伝説があるが、確かなよりどころはない。 (垂水区西垂水町共同墓地内、南北朝時代建武4年、1337)
  • 清盛塚の十三重塔清盛塚の十三重塔
     元は現在地より西南11mにあったが、大正12年に市電がつくとき、その路線にあたるので移転問題が起こり論議が紛糾したが、もし地下から清盛の遺骨でも出れば移転を中止することにし調査した結果、地下から何も出なかったので、墳墓でないことを確認して移転した。今日の神戸港の基礎を築いた清盛に対する崇敬の念は、この地域の人たちに限らず市民の間に根強い。塔の総高8・5m、南面の基礎部の両脇に右「弘安九」、左「二月 日」の銘がある。十三重塔と並んで琵琶塚と清盛の銅像が建てられている。(兵庫区南逆瀬川1丁目、鎌倉時代弘安9年、1286)
  • 久遠寺の題目碑久遠寺の題目碑
     復蓮弁のある基礎上に、塔身をすえ、上に笠を置き、頂上に一石からなる請花・宝珠がのせてある。基礎とも総高一二五cm。
    塔身の正面に達者な草書の題目が彫つてある。題目は「南無妙法蓮華経」の華の半分から下部を欠き、裏面の銘も下部がないので、この碑の下部が折れていることがわかる。しかし、基礎部の蓮弁、格狭間の彫刻や手法からみて、製作は室町期と推定されている。神戸の題目碑でやや古いのは、これ一つであろう。(兵庫区三川口町一丁目、久遠寺、室町時代)
  • 地蔵立像地蔵立像
     わが国の石仏彫刻はだいたい奈良時代に始まり、平安朝に入って非常に進歩を示し、そして鎌倉期に石彫技術の頂点に達して各種のものに優秀作をのこしている。この地蔵立像のような丸彫りの、いわゆる一尊一石式のものもこの頃から出来はじめたが、その遺例はわが国では2、3を数えるに過ぎない。しかも、その時代の丸彫りで銘のある地蔵としては唯一のもので、石造美術のうえからは貴重な存在である。蓮座から円光の頂上までの総高は1.5m、円形の二重連座の下段の周囲に刻銘がある。(須磨区大手町8丁目有馬家墓所、南北朝時代暦応4年、1341)
  • 極楽寺の五重塔極楽寺の五重塔
     この塔は花崗岩製、総高1.9mの小型ながら異色の塔で、形式のうえから鎌倉時代の作とみられる。3層目の軸部と2層目の屋根との間に横長の穴をつくり、なにかをさし入れるようになっている。初重軸部に銘があるが、「……癸 八月廿日 願主沙弥真 」の文字がかろうじてわかるだけで、磨滅のため完全に読めないのは惜しい。(北区八多町附物(つくも)極楽寺、鎌倉時代)
  • 供養塔と地蔵堂有馬家墓所にある供養塔と地蔵堂。今は訪れる人はほとんどいない
  • 丹生山参道の町石丹生山参道の町石
     この町石は、丹生山(標高514m)の上にあった明要寺(今の丹生神社)の参道に建てられたもので、山上の境内を一丁の起点として、ふもとへ順次廿四丁まで、山路の参道の左右に建てられている。花崗岩の一石作り、形状は頭部を五輪として、地輪部は長脚の方柱とした卒塔婆形で、寸法は大小ふそろいで高さ158〜234cm、幅と奥行は20〜23cm。そのうち形の完全なもの、またはやや完全なもの15基で、他は上部や下部に欠損があり完形でない。(北区山田町坂本、南北朝時代永徳3年、1383)
  • 徳光院の地蔵板碑徳光院の地蔵板碑
     境内の小さな地蔵堂に納められている。花崗岩製、高さ六四cm、幅二一cm、頭部は三角形で二条の額があり、その下の船形の彫りくぼみに、阿弥陀の座像が浮き彫りにしている地蔵堂内には他に板碑、五輪卒塔婆など数体あり、いずれも無銘であるが、ともに室町期のものと推定されている。(中央区布引山二丁目、徳光院、室町時代)
  • 地蔵石仏地蔵石仏
     近江寺の本堂前に安置されている丸彫りの地蔵石仏3体。薄い緑色のコケが全身を覆い表情はそれぞれ異なっている。(垂水区押部谷町近江)
  • 清盛と慈心の五輪塔清盛と慈心の五輪塔
     有馬の清涼院(温泉寺)の本殿前に、堂々たる五輪塔がある。左が平清盛の塔といわれ、総高267cm。右は慈心坊尊恵の塔といわれて総高232cm。どちらも花崗岩製、完形で見事である。創建は南北朝とみられているが、鎌倉末期とみる専門家もいる。慈心は平安朝後期の天台宗の僧で、かつて摂津の清澄寺にいた頃、この清涼院で法華経を講説したことがあるのでその縁によるものらしいが、清盛との関係についてはよくわからない。(北区有馬町清涼院、南北朝時代)
  • 不動明王彫刻碑不動明王彫刻碑
     花崗岩質の不整形な自然石の正面中央に、高さ一七九cmの船形に彫りくぼみをつくり、そのなかに火炎を背にした不動明王の立像が浮彫りに現してある。立像の足もとから頭部頂上までの高さ六七cm、左手のヒジを曲げて、先に環のついた綱を持ち、右手は剣をとって肩に当て、顔面は総体に比しやや大きいが、相容は奇偉でいかめしい。船形の彫りくぼみの向かって右の外側の下に銘がある。なお、自然石の高さは二七〇cm、幅二四二cm、厚さ六一cm。(須磨区潮見台町5丁目潮音寺、南北朝時代暦応4年、一三四一)
  • 藍那の七本卒塔婆藍那の七本卒塔婆
     神戸電鉄三木線の藍那(あいな)駅前の、道路の北の山のふもとを少しならした土地に、一カ所に並んで立てられている。大きさは大小ふそろいで、高さ一五ニ〜ーニ三cm、幅一八〜二六cm角。四方の梵字のあるもの二、ないもの五。卒塔婆が七本も一カ所にまとめてあることは以前から疑問とされているが、今だによくわからない。(北区山田町藍那、南北町時代)
  • 専念寺の長脚板碑安養寺の六地蔵
    安養寺は大倉山の麓、市立中央図書館の南にあって、この地域もその領内であった尼崎城主青山大膳亮幸利の遺命によって建てられた。幸利は自領内に楠公の墓所のあることを知り、その塚上に五輪塔を建て、梅と松の2樹を植えて墓標としたことで有名。水戸光圀の建碑より約20年も前である。六地蔵は同寺の墓地にあったが、今は本堂の南に安置されている。(中央区楠町7丁目)
  • 専念寺の長脚板碑木津の摩崖仏
     摩崖仏は、自然の岩面に彫刻した仏像のことである。神戸電鉄三木線の木津駅西約300mの細い道に、高さ5.45m余の絶壁になった礫岩が、長さ100mにわたって露出している所がある。この岩面の上方に、高さ32cm、幅221cmほどの長方形に彫りくぼめたなかに、中央に阿弥陀如来の座像と、その左右に3体ずつ計6体の地蔵菩薩立像が浮彫りしてある。仏像の左側に銘がある。ここにこんな彫刻をしたのは摂津・播磨の国境に近く、さびしい道であるところから往来の安全を祈るためであろう。(垂水区押部谷町木津、室町時代文正2年、1467)
  • 専念寺の長脚板碑専念寺の長脚板碑
     墓地内に長い板碑が三基、入口の方に向かって立っているので、すぐ目につく。板碑は、五輪塔の簡略化されたもので、石材の板のような形状から一般に板碑と呼ばれている。−番長いのは高さ二一二cm、幅二四cm。厚さ九〜一二cm。三角形の頭部には一条の額があり、すぐその下に座像の仏像を浮き彫りしている。その下の長い空間には何の彫刻もなく、仏像を見上げるだけである。(北区有野町唐櫃、専念寺、室町時代)
  • 摩耶山の町石摩耶山の町石
     この町石は、もと摩耶山天上寺への旧参道の登り口に建てられていたもの。昭和40年に見つけたときには、民家の塀そとに倒れていた。現在は摩耶ケ−ブル駅前に建てて保存されている。花崗岩の長脚一石五輪塔形で総高193cm、23cm角、長脚の地輪部に刻銘がある。丹生山の町石より64年後のもので市内では2番目に古い町石である。(灘区箕岡通4丁目摩耶ケーブル前、室町時代文安4年、1447)
  • 木津の摩崖仏摩崖仏のある礫岩の絶壁。この上部のやや滑らかなところに横に長く仏像が彫刻されている
  • 成道寺の五輪塔成道寺の五輪塔
     境内の鐘楼のそばの植込みの中にある。花崗岩製で総高一八三cm。この地方の五輪塔では大型で、損傷もなく、よく整った形をしている。交通の要路として古くから文化の流入に恵まれ、古跡や重要な文化財を数多く伝えている山田の里にありながら、この五輪塔には何のいい伝えもない。(北区山田町原野 成道寺、室町時代)
  • 谷寺囗の一石五輪塔谷寺囗の一石五輪塔
     宝篋印塔二基とともに、八坂神社への参道左手の田んぼの中にある。掃除もされ、美しい草花も飾られて付近の人々から大事にされていることがわかる。五輪塔は花崗岩製で総高一○六p、反花座の上にあり、四方の梵字はない。谷寺というのは、元この谷に安養寺という寺があったからの名で、その寺にあった長禄四年(一四六〇)の釣鐘は須磨寺へいっている。(北区山田町原野谷寺口、室町時代)
  • しばり地蔵しばり地蔵
     花崗岩に彫刻されたこの石地蔵は、光背の高さ一○六cm、尊像だけの高さ九八cm。特徴のあるのは頭の後ろにある円光で、ただの円でなく円内は二重弁の蓮華文様が見事に刻み出されている。総体に巧みな優れた作で、製作年代は室町を下らないと推定されている。土地の人には「しばり地蔵」または「西向き地蔵」として知られ、願掛けをするときナワでぐるぐる巻きにしばり、願がかなうとこれを解く風習がある。(垂水区平野町慶明、室町時代)
  • 多聞天立像多聞天立像
     白鶴美術館の西隣に、徳本上人の遺品・遺墨が多く保存されている上人山徳本寺がある。徳本上人は寛政10年(1798)、住吉の吉田道可に招かれ、赤塚山に庵を結んで3年間、滝で修行しながら村人の教化に努めた。寺の本堂前の大きな木の根っこの上に安置された伽藍の守護神多聞天は、鎧(よろい)をつけた武人姿をして、手に宝塔、槍を持ち、足下に邪鬼を踏みつけている。(東灘区住吉山手6丁目、徳本寺)
  • 石造羅漢石造羅漢
     自由闊達(かったつ)、なかなかユーモラスな羅漢さんである。羅漢は釈迦の弟子・阿羅漢の略語で、完全に悟りを開き功徳のそなわった、最高の仏教修行者のことである。(兵庫区荒田町三丁目、永昌寺)
  • 迷い子のしるべ建て石迷い子のしるべ建て石
     湊八幡神社は、元西国街道筋の兵庫の町への東入口にあり、徳川時代には番所も置かれていた。警察活動が行きとどかなかった時代、迷い子さがしの方法として考えられ、神社の塀の外に建っていたのがこの"建て石"である。昭和20年の戦災で損傷してしまったが、わが国で現存している建て石は数少なく、当時の風俗を知るうえでおもしろい資料である。写真右は修復された古い建て石、左は新しくつくられた同一の建て石。(兵庫区湊町1丁目、湊八幡神社)
  • 仏足石仏足石
     仏足石は、釈尊が入滅した後のインド仏教では仏像が造られず、塔、宝座、法輪などによって仏がそこにある標識としたが、その1つとして造られるようになったものである。妙法寺の本堂前にある仏足石は摩耶山天上寺にあるのと同形式、同系統のものである。(須磨区妙法寺字毘沙門山、妙法寺)
  • 薬師の森の三重塔薬師の森の三重塔
     場所が大変わかりにくい。神戸電鉄五社駅から北の八多町の東西へ通じる道路へ出る手前、南北の自動車道の西側に竹や松、揚梅などのあるこんもりした丘がある。この丘の上にまだ新しい薬師如来がまつられていて、その東に花崗岩製の小型の三重塔が建っている。相輪ともで総高130cm。初重の軸部四方に梵字があるが、はっきり読めない。(北区八多町附物、室町時代)
  • 石峯寺の石仏石峯寺の石仏
     三重塔や薬師堂(ともに重要文化財)で有名な石峯寺は、境内や本堂の裏山に入ると、深い木立ちの中や岩肌に、四国八十八ヵ所霊場の札所石仏がたくさんまつられている。大きな木の根の部分を少しくりぬいてまつっているのもあり、庶民信仰の深さがうかがえる。このほか寺の墓地には、暦応4年(1341)の五輪塔や慶長15年(1610)の板碑などの石造物もある。(北区淡河町神影)
  • 平通盛夫婦の五輪塔平通盛夫婦の五輪塔
     願成寺の墓地に五輪塔が並んでいる。写真右の大きいのは、一の谷の源平合戦で戦死した平通盛(みちもり)の塔といい、左は妻の小宰相の局(つぼね)の塔といわれている。通盛塔は基壇を含めると総高167cm、小宰相の塔は144cmあり、どちらも四方の梵字がある。(兵庫区松本通2丁目、願成寺、室町時代)
  • 十善寺の道標十善寺の道標
     十善寺は山号を一王山といい、天嘉5年(1057)の創建だが、その後、再三兵火で堂宇は失われた。現在の寺観は、宝歴11年(1761)呑海和尚の再建によるといわれている。市バス外大前停留所から石屋川にそって北へ歩くと、道端に十善寺への道標がいくつかある。しかし周囲はすっかり家が建ち並び、この道しるべもつい見すごされがちである。(灘区一王山町)
  • 杉尾神社の灯籠杉尾神社の灯籠
     境内左手の小高い所に建てられている。六角形で山田町原野の八坂神社の灯籠と同じく、小型ではあるが、室町期のものとしてはよく整っている。両方とも、この地域ではすぐれた灯籠である。(北区山田町西小部杉尾神社、室町時代)
  • 柿の木地蔵柿の木地蔵
     白鶴美術館から少し南へ下がった道端に高さ約8Ocm、舟形、円光背のある地蔵立像がある。北の山から切り出した石材や、水車小屋へ米を運ぶ車が行き来した有馬道のわきに、往来の安全を祈って建てられたものだろう。そばに大きな柿の木があるので、柿の木地蔵と呼ばれている。地蔵立像は再建されて新しいが、台座は建立時のもので、下段には「嘉永六年(1853)丑正月廿二日」の刻銘がある。(東灘区住吉山手3丁目)
  • 梅仙寺の墓碑梅仙寺の墓碑
     墓碑の自然石の高さは97cm、幅57cm。中央をアーチ形に彫りくぼめ、中に2体の円光のある地蔵立像を浮き彫りにしている。アーチ形の左に「天正五年二月日」とある。おそらく男女の墓碑であろう。この墓碑はもと六甲水車新田の共同墓地にあったのが、昭和13年の大水害でこの付近まで流されてきたのを、梅仙寺へまつったのである。(灘区八幡通2丁目梅仙寺、桃山時代天正5年、1577)
  • 太山寺の不動摩崖仏太山寺の不動摩崖仏
     すばらしい原生林が繁茂する太山寺裏山、白川から明石へ通じる旧道にそって流れる伊川の高い岩肌に、火炎を背に、右手に宝剣を持つ等身大の不動明王が浮き彫りにされている。樹木に覆われて日があたらないため、昼でも薄暗いところだが、深い川底へおりてそばへ寄って見ると、その力強さがよくわかる。(垂水区伊川谷町前開)
花崗岩の岩壁に不動摩崖仏のある伊川(中央やや下の岩壁) 花崗岩の岩壁に不動摩崖仏のある伊川(中央やや下の岩壁)
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