105号表紙

No.105(昭和56年6月)

特集:

住吉川

住吉川 住吉台から望む住吉川。市民生活とともに流れる川の沖あいに六甲アイランドが見える
 

"銅鐸"から六甲アイランドまで

 約二百万年前に始まった地殻変動で誕生した六甲山地は、甲山から鉢伏山までの東西約五〇キロ、大阪湾岸から数キロのところを海岸線に並行して走っている。山の南を流れる中小の河川は、衝上断層の働きで常に若返りながら、山腹に深いV字谷を刻み、谷の出口に扇状地を作り、天井川となって灘の海に注いでいる。実に神戸は、このような山と川とに育てられ、そこに生きた祖先たちの歴史も、これらの山や川とともにあった。
 東神戸を代表する住吉川を下りながら、銅鐸の時代から六甲アイランドに至るまでの、その流域に残った長い歴史のあとを訪ねてみよう。
文・県立御影高等学校教諭 田辺 眞人

石宝殿(いしのほうでん)

 六甲山最高峰の東約一キロ、見はらしのよい峰の上にある大きな石祠・石宝殿は、伝説によると神功皇后が朝鮮から持ち帰った神の石を納めた所だといい、またこの祠の側の三ツ葉ウツギの根元には皇后が黄金の鶏を埋めた。そのため、元旦の夜明けにはその鶏の鳴き声が、六甲の峰々にこだまするとも伝えている。石祠に残るかすかな刻銘から、それが慶長十八年(一六一三)に建立されたことがわかるが、六甲に数多く伝わる天狗や山伏にまつわる伝説や、昔、石宝殿から神々が四方の山に修行に出たと伝えること、今も石宝殿の祭神が白山の菊理姫と信じられていることなどを考えると、古くから、白山系の山伏たちによって開かれた行場だったのであろう。
 また、石宝殿は近世には雨乞いの場として信仰されていた。旱魃の夏、東灘の小路の村人はここまで登って一晩こもり、心経や雨乞いの呪文を唱えた。それでも降雨がなければ、祠の南の谷川で沢蟹(さわがに)を捕え、宝殿にぶつけて帰村した。隣村の田辺や唐櫃・宝塚・西宮では、お籠りしても降雨のない時、雨蛙を石祠にこすりつけ、塗りつぶして帰ると、怒った神さまがザーッと大雨を降らしたという。
 周辺の多くの河川の分水嶺上に祠が位置することからきた信叩であろうが、今日でも水不足の夏には水道関係者の中に、ここで行者に雨乞いを依頼する人があるという。

土樋割(どびわり)

 住吉川はこの石宝殿の南の谷に産ぶ声をあげる。そして黒岩谷を南流するが、ゆく手を東お多福山にはばまれて、大きく西に流れをかえる。この湾曲部の東、東お多福山の北に続く尾根の上に、土樋割という峠がある。峠の東下は芦屋川の支流・蛇谷の水源―つまり土樋割は住吉川と芦屋川の一分水嶺だ。
 文政十年(一八二七)はひどい旱魃(かんばつ)であった。流れのかれ始めた芦屋川流城の打出と芦屋の村人は、水源を調べに川をさか上り、この峠で、西の谷にはまだかなりの水量をもつ住吉川があるのを知った。そこで彼らは、住吉川の上流からこの峠に土樋(どび)(土管)を通して、水を蛇谷に引く工事を施した。
 その年六月、たまたまここに登った住吉川下流の住吉・横屋・魚崎・田中・野寄・岡本の六ヵ村の村人は、土樋を見つけ激怒してそれを打ち砕いた。以後この峠を土樋割と呼ぶようになったという。
 打出・芦屋は早速この破壊行為を大坂の奉行所に訴えた。逆に六ヵ村は、打出や芦屋の引水を不法として奉行に出訴した。
 この事件が落着したのは、ようやく秋十一月。今後、打出・芦屋は住吉川からの引水はしない。ただ今回の破壊に対しては、六ヵ村は銀五貫を賠償として支払う。元来水不足の芦屋・打出は、この銀をもとに溜池を作る、というみごとな決着であった。
 注意すると土樋割付近の下草の間に、この時の土樋の破片を見つけることができる。

  • 静かな浄らかな流れ―源流の黒岩谷静かな浄らかな流れ―源流の黒岩谷。ここまでやってくるハイカーは滅多にいない
  • 土樋割(どびわり)土樋割(どびわり)。右前方へ下ると芦屋川の支流蛇谷へ。左へ下ると住吉谷へ出る
  • 石宝殿石宝殿。この石祠にカニやカエルを塗りつぶすと大雨が降ったといういい伝えがある
  • 六甲山最高峰(二つの円形アンテナがみえる)のきびしい南ふところ六甲山最高峰(二つの円形アンテナがみえる)のきびしい南ふところ。ここが住吉川の水源だ

本庄橋

 土樋割の西から川下へ約一キロ、本庄堰堤の下の小さな広場に、本庄橋の名残りの石材がある。
 この橋は魚屋道(ととやみち)が住吉川の上流と交わる所にかけられていた石橋で、付近が本庄九ヵ村(東灘区内)の入会地だったことによる名であろう。
 魚屋道というのは、江戸初期から灘地方と有馬を結んでいた東六甲で最古の山越え道で、東灘区の森で西国街道と分れて山に登り、風吹岩・東お多福山・本庄橋・一軒茶屋・射場山腹を経て、有馬に通じていた。
 幕府が灘から有馬への正規のルートを、西宮・宝塚・蓬莱峡・船坂・有馬のコースと定めた後も、その大迂回を嫌った人々に利用され続けた。ために、街道沿いの西宮や生瀬など宿場の商人から、魚屋道は抜け荷の道と称されてしばしば大坂奉行所へ訴えられている。
 この本庄橋自体の建設年代は不明だが、文化三年(一八○六)に、灘と有馬の人々がこの道を大改修しているから、その時のものかもしれない。道が廃れてからも久しくその大きな切り石の橋は、ぽつんとこの谷間に残っていたが、昭利五〇年頃ついに崩壊してしまった。広場の石は、それを河原から堀りあげて保存したものである。

  • 本庄橋あと本庄橋あと。ここから右手の尾根(七曲り)にとりつき、六甲山最高峰の一軒茶屋に至る。百年ほど前、この橋のたもとには七兵衛茶屋という茶店があった
  • 濃い緑の中からこんこんと湧き出る住吉川源流の一つ(黒岩谷)濃い緑の中からこんこんと湧き出る住吉川源流の一つ(黒岩谷)

住吉道

 江戸時代の六甲越え(魚屋道)は、そこから川と別れて南に登り、東お多福山の西肩・雨ヶ峠を越えて本山方面に通じていた。
 ところが、明治七年に、大阪・神戸間に鉄道が開通し、その間に神崎(今の尼崎)・西宮・住吉・三宮に駅が設けられると、有馬に向う旅人は住吉駅から住吉川の谷をさか上って、本庄橋のところで旧道に合流し、そこから六甲を越えて有馬に向うようになった。明治二二年に東海道線が全通すると、いきおい住吉駅は有馬温泉の表玄関となった。明治二四年の『有馬温泉誌』には、「住吉停車場(すていしょん)まで汽車に乗り、住吉より六甲山越の路に由るを第一の便とす………中飯は時刻早くとも住吉にて為し、夕景ならば住吉に泊り翌朝発するを便とす。路は停車場より北西の方山間に向ひ渓流に沿うて進めば次第に上る。此間渓流の両岸絶壁にして奇石恠巌並び峙ち眺め面白し。七輌場・森安・三条谷とて各茶屋あり………」と記している。
 明治二三年、ここを通って有馬に遊んだ文人幸田露伴の紀行の一節にも、「二挺の駕篭(かご)を連ねて路の辺の草花を品し樹ぶりを評し合ひなどしつつ長閑に進む……めぐ(めぐ)り廻りて上るすがら前には摩耶六甲の山々の赤く禿げたるところところに小松の簇(むれ)生へるを見、……」と山越えの情景が描かれている。
 道は明治三二年の阪鶴鉄道(今の福知山線)の開通で、三田や生瀬の駅が湯治客の下車駅となった頃から衰えてしまったが、約百年前に、この辺り若々しく険しい住吉の谷道を、多くの旅人の通った日々があったのだ。今でも国鉄住吉駅の北の商店街を有馬道商店街というのは、その名残りであり、駅の近くに二基の有馬道の道標も残っている。

荒神山と石切り場

 深いV字谷となっている住吉谷の中ほどにある五助ダ厶から、西の六甲山上に至る山道を石切道(いしきりみち)という。この付近、五助山やさらに下流の荒神山には、古い石切り場があって、ここから産出された良質の花崗岩は四百年も昔から各地に売りさばかれていった。
 寛政十一年(一七九九)の『日本山海名産図会』という書物の中には「御影石 摂州武庫(むこ)・菟原(うばら)の二郡の山谷より出せり。山下の海浜御影村に石工ありて、是を器物にも製して績出す故に御影石とはいえり……石も山口の物は取盡ぬれば、今は奥深く採りて廿丁も上の住よし村より牛車を以て継で御影村へ出せり」と記されている。
 最盛期の十八世紀半ば頃には、山中に石切り場が開かれ、石屋川の土手には石工さんの仕事場が並んでいたという。御影の浜から績み出されたその石材が大層良質であったため、花崗岩一般を御影石とよぶほどに、この地の石材は知られていた。ただ産地であったためか、住吉・御影地方にはあまり古い石造美術品は残っていない。

七輌場・八輌場

 荒神山の麓あたりで川の対岸に目をやると、東の山腹にへばりついたような古めかしい細長い建物が眺められる。水車場の址である。
 六甲山系の急流は大きな水力を生み出し、住吉川でも一七世紀初めから水車が建てられている。良質の花崗岩が石臼を供給したことも大きな支えであったろうが、初めは菜種を絞って油を取るのに利用され、この地方は一八世紀末には有力な産油地になっていた。
 精米に利用された水車では、一八世紀後半からは酒米の精白が行われ、人力で搗(つ)くのの数倍という精白度の高い水車精白による米が、上質の灘の生一本醸造の縁の下の力持ちでもあった。
 一方、水車による製粉は山麓地方に素麺(そうめん)製造業を育(はぐ)くみ、天保一五年(一八四四)頃の『広益国産考』によると、「さうめんは摂州兎原郡灘にて製する物、江戸へ廻し商ふ事おびただし。……灘・三輪のごとく年中製せば産物ともなるべし。」とあって、江戸末期の盛況がうかがえる。
 住吉川の水車業は二〇世紀初頭が全盛期―流域に八十余棟の水車場が設けられ、その臼の数は一万、と記録にある。電力の普及に水車業は駆逐されてしまったが、流域に残る七輌場などの地名は、近隣の六甲川の水車新田や芦屋川の水車谷などとともに、水車の盛期をしのばせてくれる。

  • 五助ダム五助ダム。この下流東岸に、七輌場、八輌場などの水車にちなむ地名が残っている
  • 住吉川西谷、今の赤塚橋付近に弓弦羽(ゆづるは)の滝という行場があった住吉川西谷、今の赤塚橋付近に弓弦羽(ゆづるは)の滝という行場があった。多くの行者が訪れたが、そのすぐ南、赤塚山の行者堂もその名残り。写真は、住吉の吉田道可に招かれ寛政十年から三年間、ここにとどまった徳本上人像と座禅石
  • 水車場あと水車場あと。かつて住吉川にはこのような水車場が数多くあった

渦ケ森の銅鐸

 この川は二千年もの間、流域に農耕社会を育ててきた。住吉町から籾あとのついた弥生式土器が出土し、付近に当時の遺跡も数多い。弥生時代に出現する小国の首長たちが、その権威のシンボルとしたのが鐸や剣、鉾など青銅の宝具である。昭和九年、住吉川西谷の上流、渦ケ森の山中で道路工事中に銅鐸が出土した。高さ約五〇センチ、表面に四区に分けた袈裟襷紋(けさだすきもん)の描かれた銅鐸は、今はるか異郷の東京国立博物館に保管されている。
 今では団地のまん中になってしまったその出土地に、発見の経緯を刻んだ記念碑が立っている。

  • 渦ケ森銅鐸渦ケ森銅鐸。四区袈裟襷の中に四頭渦文が鋳出されている。住吉川流域を統一した弥生時代の首長の権威のシンボルだった
  • 銅鐸発掘之碑銅鐸発掘之碑。今は渦ケ森団地の中、貯水池のわきに残る

住吉川の水害

 田畑を潤おし水車をまわして人々の生活を支えたこの川も、時として荒々しい野性にもどることがあった。古く永正元年(一五〇四)に起ったと伝えられる洪水は、観音林にあったという禅寺をことごとく流失せしめたことから、「慈明寺流(じめいじなが)れ」とよばれて伝説化している。
 近く、昭和一三年の阪神大水害の惨禍は記憶に新しい。その年、七月三日から五日にかけて降った六甲を中心とした集中豪雨は、住吉川と芦屋川の水源ちかくで三日間に最高降水六〇〇ミリ以上を記録―神戸の年平均降水量が約千三百ミリだから、三日でほぼ半年分の雨が降ったわけである。けわしいV字谷にも山津波の泥水があふれかえった。東灘に住んでいた谷崎潤一郎は名作『細雪』の一節でその洪水を次のように描いている。「六甲の山奥から溢(あふ)れ出した山津波なので、真っ白な波頭を立てた奴涛が飛沫を上げながら後から後から押し寄せて来つつあって、恰(あたか)も全体が沸々(ふつふつ)と煮えくり返る湯のやうに見える。たしかに此の波の立ったところは川ではなくて海、―どす黒く濁った、土用波が寄せる時の泥海である。」と。
 住吉川本流に西谷が合流する落合(おちあい)の、マンションのそばに立つ水災記念碑には、台座の右わきに水害の最高水位の線が刻まれている。また、そこから白鶴美術館を左に見て下り、阪急の高架をくぐると、少し西方にある住吉学園の構内には、泥水の水位の高さに築かれた台座の上に、巨大な流石を利用して作られた水害記念碑がある。泥水の怒涛の音など忘れたかのように静かな一帯だけれど、この辺の住宅地の塀や石垣に使われている御影石の巨石は、その水害時の流石を利用したものだという。

  • 水災記念碑今はマンションのわきに立つ水災記念碑。この台座右面に最高水位が記されている
  • 住吉橋阪神大水害時の国道2号線・住吉橋。巨石や巨木で濁流があふれた。今、この橋には豪華な本御影石を基礎にした常夜灯がついている
  • 青銅屋根住吉川の西岸に立つ青銅屋根、和様2階建の白鶴美術館。国宝2点のほか数10点の重要文化財がある
  • 住吉川山と空と水が一体となったさわやかな住吉川(住吉橋の下から)
  • 石仏住吉・小林墓地の北にある文禄3年(1594)の石仏。御影石産地の東灘区で最古の在銘遺品
  • 道しるべ石有馬道商店街の北はずれに立つ「右モ左も有馬道」の道しるべ石。国鉄住吉駅から有馬への往時の旅のおもかげがしのばれる
  • 流石住吉の住宅街の石垣には、阪神大水害の時の流石が多く利用されている
  • 水災碑住吉学園にある水災碑。この台座の高さが、泥水の水位を示している
  • 住吉川の鉄橋を渡る阪急電車住吉川の鉄橋を渡る阪急電車
  • 楽しそうな子どもたち。住吉川は六甲南麓で最も美しい川だ楽しそうな子どもたち。住吉川は六甲南麓で最も美しい川だ
  • 楽しそうな子どもたち。住吉川は六甲南麓で最も美しい川だ
  • 住吉川流域図住吉川流域図
  • 水遊びのシーズンをひかえて川床や川沿いの遊歩道を掃除する美しい住吉川は、地元住民の清掃奉仕で生きつづける。水遊びのシーズンをひかえて川床や川沿いの遊歩道を掃除する「住吉川清流の会」の会員(5月24日)水遊びのシーズンをひかえて川床や川沿いの遊歩道を掃除する

鉄道の川底トンネル

国道二号線のすぐ上手。この盛り上った川床の下には鉄道トンネルが通っている
 阪急電車の下をくぐった川は、まもなく国鉄の上をまたいで流れていく。
 明治の初めに鉄道が計画された時、当初の路線は浜辺に計画されていた。しかし、「汽車の出す石炭(ごへら)の煙は酒を腐らす」という酒造家たちの反対にあったため、コースは山麓部に変更された。しかし、そこには何本もの河川が天井川を形成していた。仕方なくその川底にトンネルが掘られた。この難工事の指導をしたのは、「お傭(やと)い外国人技師」の卜マス・グレーやジョン・ダイヤックであった。彼らの目には住吉川が、どのように写ったであろうか。ともかく、石屋川と住吉川、芦屋川にトンネルが掘られ、大阪・神戸間に鉄道が開通したのは明治七年。この時、住吉から神戸駅まで二○分、大阪までは四七分、一日に上下それぞれ八本の列車が、この川の底を通っていった。
 百年の歳月とともに鉄道の高架化が進められ、石屋川のトンネルは姿を消してしまったが、住吉川の川底トンネルには、今日も何百本の列車が通りすぎてゆく。

清流の道

 白鶴美術館下から川口まで約二キロ半、住吉川の河川敷には長閑(のどか)な散策路が続いている。十年前、この川床の道はダンプの号音にあふれていた。六甲山腹の渦ケ森などを削り、その土砂によって魚崎や住吉の沖に第二、第三工区埋立地を築いた際、この道は車公害防止のためにダンプの専用路として作られたのである。右岸の道を登ったダンプカーは、土砂を満載して左岸を海辺に下っていった。一日に延べ二千往復。ともかく大量の土砂が運ばれ、「山、海に行く」などと表現されたものであった。昭和四九年、工事完了とともに変身して遊歩道に。今では「清流の道」という愛称で、ジョギングの若者や、散歩の犬、そして夏には水遊びをする子供たちで、この道は静かなにぎわいを見せている。

  • かつてのダンプ通路散歩、ランニング、水遊び―かつてのダンプ通路は、今は"清流の道"として、市民に親しまれている
  • 谷崎潤一郎の旧居「わが宿は菟原住吉芦屋潟、海のながめを南に見る」と谷崎潤一郎はこのあたりを愛した。川の西岸にある彼の旧居

魚崎(うおざき)

 川口―住吉川が六甲山地を削って運んだ土砂を最後に堆績させて作った砂州が魚崎で、古くは五百崎とも書かれている。
 伝説によると、朝鮮進出のために神功皇后が軍船の集結を命じたところ、全国からこの浜へ五百隻が集まった。よって五百崎(いおざき)というのだと伝え、また別の伝説では応神朝に伊豆国から朝廷に「枯野(かれの)」という名のすばらしい船が献上されてきた。しかし長い年月の末に、その船も朽ちて使えなくなった。代りの船の献上を命じたところ、この浜に全国から五百隻の船が集まってきたから五百崎だ、とも説かれている。
 ある不漁の年に、土地の漁師が豊漁を祈って五百崎(いおざき)を魚崎(いおざき)に改めたとも伝えている。この浜は白砂青松の美しいところであったが、雀の松原の松もまばらになり、船の集まる白浜も姿を消してしまった。

  • 住吉川公園魚崎一帯には今も松の木が多い。川口ちかくの住吉川公園には松の若木が立派に育っている
  • 「是ヨリ南魚崎村」の碑「是ヨリ南魚崎村」の碑(阪神魚崎駅北西3分)
  • 魚崎の鎮守・五百八幡神社魚崎の鎮守・五百八幡神社

雀(すずめ)の松原(まつばら)

 阪神電車の下をくぐると、河口も近くなる。住吉川の川口一帯には、古来、雀の松原とよばれる美しい松林があった。『源平盛衰記』の中にも近在の名勝として、布引の滝や御影の松、処女塚とともに列記されている。
 古代この辺りはササイの里と呼ばれていた。万葉仮名風に佐才(ささい)の字が当てられ、中に雀(ささい)(鳥名)の字も使われた。それがおそらく平安末までに雀(すずめ)と読まれるようになっていた。
 魚崎駅の西、阪神電車の北側にある小さな公園の中に「雀松原遺址 杖とめて千代の古塚とへよかし ここや昔のすすめ松原」などの歌碑がある。
 伝説によると、昔この松原には多勢の雀が住んでいた。そこに三年に一度、丹波(たんば)の雀の大軍が山越えに飛来して、数十日に及ぶ激しい雀合戦を展開した。多くの人々がこの戦いを観に松原に訪れたという。
 山陽道沿いのこの松林は、歴史の中では雀と違って武士たちの激しい戦いの舞台ともなっている。『平家物語』によると、寿永三年(一一八四)、一の谷の戦いに際して生田の森に向かう源範頼がここに陣取り、『太平記』は南北朝の動乱期、観応二年(一三五一)に足利尊氏配下の一部隊がここに布陣して戦に臨んだという。

  • 雀の松原の歌碑雀の松原の歌碑。阪神電車や第2阪神国道の騒音に、すずめの鳴声もとだえがち
  • 市環境局東灘事務所前西国街道の旅人に雀の松原を知らせた道しるべ(市環境局東灘事務所前)

酒蔵の町

 魚崎はまた江戸後期から、灘酒の産地として知られてきた。
 摂津では早くから伊丹・池田や西宮が銘酒の産地として知られていた。やがて、幕府の政策変化とともに大消費地江戸ヘの積み出しが盛んになると、海運の便がよく、しかも上質の酒米産地に近く、水質の良さや水車による精米などで、灘の酒づくりが急成長をとげてゆく。丹波杜氏とよばれる技術的労働者も、この酒造りの大きな支柱であった。一八世紀の半ばには、灘酒は江戸へ送られる酒の半ばを占めていたが、この灘の生一本づくりに大きな功績のあったのが、魚崎の六代目山邑太左衛門だと伝えられている。彼が西宮の宮水の効力に気づいて、それを水樽で魚崎まで運び、また六甲山系の水車で入念に精白した酒米で極上の生一本を醸造し始めたのは、天保年間(一八三〇〜四四)のことだと伝説されている。宮水の発見者は魚崎の雀部市郎右衛門だとの説もあるが、いずれにせよ魚崎が灘の生一本の一中心であったことは確かである。
 国道四三号線以南には、古い酒蔵がたくさん残っていて独特のムードを醸し出している。そして川口の島崎橋の西詰にある菊正宗酒造記念館は、万治二年(一六五九)以来三百年間に二〇万石の酒を造った本嘉納家創業以来の酒蔵で、所蔵されている百点以上の昔の酒造用具とともに国の重要文化財に指定されている。

  • 酒蔵の町・魚崎酒蔵の町・魚崎。重要文化財の山邑家住宅と酒蔵の煙突
  • 住吉川の川口にぎわう住吉川の川口。東部第二工区の倉庫群の上に六甲大橋がみえる
  • 道路わきに整然と積まれた酒の空ビン道路わきに整然と積まれた酒の空ビン。付近には酒造関連の産業が多い
    菊正宗酒造記念館菊正宗酒造記念館。もと御影にあったが、国道43号線工事でここに移転した

六甲アイランド

次第に力強さをましてきた六甲アイランドの雄姿
 江戸初期の海岸線はほぼ四三号線あたりであったが、その後ゆっくりと海辺に新しい土地が開かれていた。酒蔵はそのような土地に建てられた。
 さらに、昭和四〇年代の高度成長経済の下で、山腹に住宅地が造成され、その土砂で住吉浜町や魚崎浜町が築かれた。山は海に行き、海辺は遠くに退いた。そして今、さらに住吉川の沖合はるかに新しい大地が生まれようとしている。昭和六〇年頃完成予定のこの六甲アイランドは、ポートアイランドの一・三倍の面績の中に、産業・住宅・文化レクリェーションのゾーンをもつ海上都市になる予定である。
 新しい時代への夢はふくらみ、未来への歩みは逞ましく続くが、そのような時こそ、過去何千年も祖先たちの生活を支えてきた山や川と人間の営みをふり返ることもまた必要なのであろう。

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