99号表紙

No.99(昭和55年12月)

特集:

続 神戸のスポーツ事始め

続・神戸のスポーツ事始め
神戸徒歩会の会員直木重一郎が大正期から実地踏査のうえ作成した「六甲・摩耶・再度山路図」の部分。3色刷りの当時としては実に精細な地図で昭和9年8月1日発行し会員に配布した。登山会を結成して最初に山歩きをはじめたわれわれの先人たちは、まず自分たちの力で山道を整備し、植林をし、そして地図を作るなどして登山の普及に精力を傾けた。今日における市民登山のルーツをそこに見る思いがする。直木は生前「裏六甲の村々の古老を一人ひとりたずねては道や滝の名前を聞き出し、地図に書き込んでいきました。そのため日の暮れてしまうことが多く、神戸電鉄がまだなかった頃でしたのでランタンの明かりを頼りに、再び六甲越えで夜道を一人帰ってきたものです」と、苦労のほどを語っていた。

登 山

神戸居留の外国人が背山登山をはじめたのは、A・H・グルームのひらいた六甲山のゴルフコースが11月になると閉鎖されたため、冬期の楽しみを山野に求めたのがそもそものきっかけだが、彼らは自分たちの歩く山道の整備にも力を注いだ。そのころ、背山を散歩した日本人はH・E・ドーントやJ・ワレーたちがわざわざ人夫を雇って道を修理しているのをみて大いに感動し、塚本永堯ら5人が発起人となり明治43年に神戸徒歩会の前身"神戸草鞋会"が生まれた。このようないきさつから、徒歩会の活動も背山路の開発、修理には非常に熱心だった。大正13年には日本人会員155名にまじって、外人の賛助会員が56名もおり、しかも彼らは日本人の会費約1円50銭の5倍もの賛助会費を出していたのが特筆される。この会費の多くの部分が山道の整備にあてられた

神戸徒歩会会員S・パワーズ、直木重一郎、田中与市の三人は大正十四年十一月二十九日、須磨浦公園の敦盛塚から宝塚まで山路約十三里の六甲山脈大縦走を完走、このニュースは同年十二月八日付、大阪朝日新聞神戸附録に掲載され、続いて翌年四月の徒歩会機関誌"ペデスツリヤン"でも直木が詳細を報告している。六甲山脈大縦走(今でいう六甲全山縦走)が世に発表されたのは恐らくこれが最初だろう。直木らが大縦走を計画したのは、当時は非常に不景気で登山界にも沈滞気分がただよっていたため、これに刺激を与える意味からで、当日はランタンの点火も容易にできなかったほどの強風の吹く寒い日だったが、一行は十四時間二十分(うち休息及び食事時間二時間十二分)かけて夜九時すぎ宝塚に到着した。

  • 六甲山脈大縦走の詳細を掲載したペデスツリヤン六甲山脈大縦走の詳細を掲載したペデスツリヤン。 (大正15年4月)
  • コース及び通過時間コース及び通過時間(※は食事場所)
  • 昭和初期の六甲山のテント村昭和初期の六甲山のテント村。六甲山におけるキャンプは大正12年7月に六甲山キャンピング倶楽部が"六甲山キャンプ村"を開設し、朝日新聞が後援して始まった
  • 六甲山頂にあったA・H・グルームの「六甲開祖之碑」とハイカー(昭和初期、絵ハガキより)六甲山頂にあったA・H・グルームの「六甲開祖之碑」とハイカー(昭和初期、絵ハガキより)
  • 六甲山上の池でスケートを楽しむ人たち(同)六甲山上の池でスケートを楽しむ人たち(同)
  • 六甲山頂下の一軒茶屋で休息をとる登山者(大正期)六甲山頂下の一軒茶屋で休息をとる登山者(大正期)

マラソン

わが国最初の"マラソン大競走"が明治41年3月21日、神戸の湊川埋立地から新淀川西成大橋間の19マイル56チェーン(約31km)で、大阪毎日新聞の主催によって行われた。408名の申込み者は、まず体格検査によって120名にしぼられたうえ、されに鳴尾競馬場で予選が行われ20名がえらばれた。この中には神戸の書生井上輝二もいた

  • 明治三十二年、京都帝大運動会の啓発旗競走に勝った師範学校の選手陸上競技のうち長距離競走は、兵庫県書記官武田千代三郎が明治三十二年ごろから兵庫県尋常師範学校の体育講義や運動実技の指導をはじめ、毎日全校生を走らせて体を鍛え、その中から特に優秀なものを選び特別の練習を行った。(写真は明治三十二年、京都帝大運動会の啓発旗競走に勝った師範学校の選手)
  • 明治31年から5連勝した啓発旗を奉迎する師範学校生徒明治31年から5連勝した啓発旗を奉迎する師範学校生徒(明治35年)
  • 県立神戸二中の第1回校内駆け足競走におけるスタート風景(明治44年、舞子公園)県立神戸二中の第1回校内駆け足競走におけるスタート風景(明治44年、舞子公園)
  • 大会当日は午前11時30分、神戸市長水上浩躬が短剣で選手の前に張られた紅白のテープを切ってスタートした大会当日は午前11時30分、神戸市長水上浩躬が短剣で選手の前に張られた紅白のテープを切ってスタートした。スタート直後の選手と沿道の観衆
  • 武田千代三郎と著書武田千代三郎と著書
  • 将旗第三回運動会以来、長距離競走の勝者に渡された神戸一中の"将旗"
  • 予選通過を喜ぶ選手(記念絵ハガキより)予選通過を喜ぶ選手(記念絵ハガキより)

外国人から神戸の人々に― 定着した各種のスポーツ
神戸商科大学教授棚田 真輔

 神戸にスポーツが持ち込まれた頃の日本は、欧米の文物制度を摂取しながら近代国家の確立へと進んでいた時であった。この文明開化期に神戸に居留した外国人たちは、時間や経済に比較的恵まれた日本人の好奇心が、日常茶飯事に実施する彼らのスポーツや社交的な娯楽に向けられていることを知り、積極的に仲間にさそった。当然のことながら、これらの初期の活動においては形式的な模倣に過ぎなかったが、すでにこのものまねの時期に心ある外国人が、ことごとく日本人のただならぬ素質を見ぬいて、あれこれ助成し指導している事に驚かされる。
 こうして当時、神戸市民自身が気付かなかった非凡な資質は、そのうち六甲山に、平野に、そして海にと次のように華々しく展開させていったのである。

六甲山でのスポーツ

 外国人の背山登山の習慣が神戸のインテリ層を刺激して「神戸草鞋会」の創立をみるが、交通機関が山麓近くまで開設されると、健康と仏閣名勝の巡拝思想の欲求を満たす活動とあいまって六甲山に親しむ市民が多くなり、山中の茶屋を根拠地とした早朝登山の団体が誕生する。
 大正十年頃から市民の早朝登山は空前の隆盛期を迎え、再度山・摩耶山・高取山と背山のほとんどが道場となり、各山筋の休憩所の茶屋に署名簿を設け組織的な活動が進んだ。同十二年一月に河西善兵衛の提唱で「神戸愛山協会」が結成され、"愛山時報"を発行し講習会を開いて背山愛護につとめるなどした。その時名称のはっきりした団体が60余りもあった。神戸新聞社主催による"神戸アルプス縦断競走"が開かれたのもこの頃である。
 一方、神戸徒歩会は大正四年に"六甲山のスキー遊び"を催し、スキーを山項の茶屋に常備し会員の使用に供するなどしていたが、同八年に春日英三が吉田義治や景山寅造らと「六甲スキー倶楽部」そして同十五年にはKWSの高川秀夫が幹事で「神戸スキー倶楽部」を結成させる。同十二年藤木九三、北儀一郎、菊楽圭太郎、水野祥太郎などが入会し、平面的から垂直にいどむ登攀や積雪期に挑戦する登山がこの会を風靡して同十三年に藤木九三が、甲陽中学校の教諭で日本山岳会員の榎谷徹蔵の協力を得て「ロック・クライミングクラブ」(RCC)を誕生させた。
 神戸ゴルフ倶楽部(KCC)は外国人の専有時代から日本人が漸次ゴルフを始めるようになり、大正七年には井上信が日本選手権を獲得、同十二年頃になると大阪の青年実業家の「サ−スデー倶楽部」、長老組の「バンカー倶楽部」、壮年実業家の「甲子倶楽部」のメンバーが、外国人の夫人や子供達を招待して内外人との親善に努めるほどになっていた。そして会長のW・ラッシーが昭和十六年に辞任し今村幸男に代って運営が日本人の手に移され、その後、戦時下のきびしい時代、戦後の米軍による接収、更に未曽有のゴルフブームなど幾多の試練を経たが、日本最古のゴルフ場として伝統と格式が大切に守られている。

平野でのスポーツ

 神戸の学校における身体運動といえば体操一点張りで、まだ剣道も柔道も実施されていなかった時、最初に登場したものは運動会であった。明治十二年に湊川小学校が体操会を実施したのが最初のようであるが、これは指導力のある訓導が軽体操を指導したものであった。同二十一年になると兵庫・湊・神戸や須磨第二学区などで連合運動会が開れ、来賓や参観者の競技種目を含めて開催されるようになって、地域と関連を深めていく。
 創立の遅れた中学・高女・専門学校などは、開校とほぼ同時に奉祝や創立記念として、最初から強健な身体を養い、健全な精神を育養し、社会的性格の発達を強調しながら、大いに集団的遊戯を採用して完全な行事として実施される。このようにして運動会は教育の充実や体育奨励の気運に加え、スポーツの普及発展にも大きな貢献を示すことになる。
 明治二十二年に英語教師のランバスによって教えられて以来盛んになり、県商生の靴に口を開けて始められたフットボールは、最初はすべて野球部に席をおいていたが独立して活動するのは大正初期で、玉井幸助と神谷怡之吉の御影師範、窪田公平の二中、岩田久吉とC・B・Kアーガルの一中、菊地七郎のひきいる関学と、次々と部が創設され、KRACに挑戦したり、神戸港に外国の軍艦や商社の船が入ると東遊園地で一戦を交えたりして、御影師範・一中・関学が全日本にその勇姿を現わすのである。
 また御影師範は神戸の学校の野球に大きな影響を与えた。即ち神戸クリケットクラブ戦がきっかけで学友の注目となり、附属の小学校にまでチームが編成される。この附属生が中学や商業へ進学して益々普及させていった。それらに外国人教師の指導を受けた関学が加わり、責任試合と称した対抗戦が頻繁となったが、芝生で整備された東遊園地はそのメッ力的存在だった。各学校の野球大会もここで行われた。その球児が東都に出て早慶戦や海外遠征を体験し、休暇になると勇姿を東遊園地に見せ、その活動が関東に対する関西という意識を高め、彼らを主力とする「神戸野球倶楽部」が誕生して、神戸特有の野球が育っていったのである。
 明治三十二年に県書記官の武田千代三郎が師範生に"あぶら抜き訓練法"という超近代的なトレーニングを指導し、京大の陸上大運動会の啓発旗競走に連勝させたことから、この練習法が全国津々浦々にまで普及する。また、師範は運動会に児童の招待競走を行い勝者に堂々・正々旗を与えて奨励したが、大正二年神戸新聞は児童アスレチック大会を、高商が同七年全岡中学校陸上競技優勝大会、二中が同九年尋常小学校優勝競技大会と次々に競技会が開催されるようになる。この大会から三木義雄(竜野中・慶応)や木村一夫(荒田小・関学・早大)のオリンピック代表選手が育ったのである。
 明治三十年代に和製の軟式庭球熱が師範や高商に高まり、大正期に入ると中学・高女にまで普及していく。特に高商が明治三十九年から一橋と定期戦を始めると、やがて商社や銀行員の有志が「布引倶楽部」を結成し、早朝テニスを始め社会人にも侵透していく。
 一方、神戸YMCAの宮田守衛主事が明治四十四年に帰朝し、神戸にバスケットボールが紹介された。大正二年YMCA体育館落成式記念試合には、第一銀行・二中・スタンダード石油とYMCAのチームが対戦している。またバレーボールを大正四年に高商に紹介し、同校は日本選手権を獲得して極東選手競技大会にも度々出場するまでに成長したのである。

海におけるスポーツ

 海におけるスポーツの華は漕艇であろう。関学・師範(明治二十六年)、県商(二十九年)、一中(三十一年)、高商(三十六年)と学校にいちはやく採用され、校内端艇競漕会が敏馬の浜に黒山の人だかりを築かせて、出身地別の友団対抗レース、学年別対抗レース。教員との対抗レースに熱中させ、夜は元町に繰り出させ大いに青春の気勢をあげさせた。この勇壮さに海事思想の普及や、その必要性を痛感した社会人による漕艇熱も隆盛を見て、銀行関係や港湾関係、それにマッチ工場などのクルーが十九にも達し、神戸の海岸の至るところで開かれる端艇競漕に出漕し、社員や家族が芸者を招き、三味線と太鼓でのドンチャン騒ぎの応援合戦が行われていた。
 一中は明治二十九年、生田川の東海岸で水泳訓練を始めた。同四十四年には河宮庫六教諭の指導で第一回校内水泳大会を深江にあった京大の水泳場で開き、そこの師範をしていた藤井正太郎や京大水泳部の指導で神伝流・水府流の横泳ぎを習い、これが水泳部発足のはしりとなった。二中は同四十五年にこの藤井正太郎と小越知軌を招き、和田岬から刈藻の間に水練所を設けた。
 明治三十六年、神矢粛一校長が西灘村の岩屋で40日間にわたり「私立神戸教育会附属水泳場」を開設しているが、その後各区の私立教育会がその事業として水泳場を開設していった。女子児童がこれに参加したのは40年頃からで、水泳着を定め、大きな麦わら帽子をかぶってもっぱら日本泳法を習った。
 以上見たように、スポーツはたちまち神戸の人々に吸収され、消化されて、活動の中に定着していったのである。

テニス
神戸におけるテニスは、明治中期に外国人によって「神戸ローンテニスクラブ」が結成され、KRACのコートで活動を始めたのがきっかけ。やがて神戸高商、御影師範でも軟式の庭球部が組織され、神戸高商は明治39年から東京高商と定期戦を始めた

野 球
  • 東遊園地で行われた第一神港商業と関西学院の兵庫県中等学校野球大会の優勝戦東遊園地で行われた第一神港商業と関西学院の兵庫県中等学校野球大会の優勝戦
サッカー
サッカーは神戸居留地のKRACで早くから行っていたものの、神戸の学校では比較的遅く大正になってから組織化された。神戸一中・神戸二中ともに大正2年から始められた。しかしグラウンドが狭いため一中メンバーは近くのKRACに行き練習をした。そしてKRACが横浜外人チームと対戦しているのを見て、サッカーの何たるかを次第に知ったという

漕 艇
神戸居留外国人たちによるボートレースは明治期から敏馬海岸で盛んに行われたが、明治26年に関西学院が和歌山から旧艇をゆずりうけて端艇をこぎはじめ、ついで明治28年に県立神戸商業が2艇を購入して活動を始めた

水 泳
明治十四年にKRACが最初の端艇の艇庫を小野浜に建てた頃、神戸にいた外国人たちは盛んに海岸で海水浴をし、艀(はしけ)の上から飛込んで楽しんでいた。そして明治二十六年神戸小学校の男子に体操の時間を利用してはじめて水泳訓練が実施されるようになった。その後神矢粛一(神戸小学校長)の尽力により、同三十六年七月に私立の神戸市教育会付属水泳場が敏馬海岸に開設され、以後毎年開かれた。第五回の明治四十年からは女子部も開設された。
  • 海水浴客でにぎわう須磨境浜海水浴場(大正期)海水浴客でにぎわう須磨境浜海水浴場(大正期)
運動会
明治19年頃から全国的に開催されていった運動会は、最初は小学校の隣接広場・神社の境内などで普通体操や遊戯を実施していた。当時外国人居留地にあった公園は神戸の小学校にとっては、運動会の開催に格好の場所であった
  • 県立第一高女の運動会風景(大正初期) 県立高等女学校では男子校よりやや遅れて明治35、6年ごろから学校行事として運動会が行われるようになり、行進遊戯(ダンス)や編物競争、それにバスケットボールやローンテニスの遊戯などが行われた。生徒のレクリエーションと学校内での教育を父兄や地域社会へ紹介することが中心になっていた。写真は県立第一高女の運動会風景(大正初期)
  • 学校以外の官庁や民間会社、企業内学校でも運動会が盛んに行われるようになった 神戸郵便局傭人慰労運動会での長距離競走(明治四十二年四月)。学校以外の官庁や民間会社、企業内学校でも運動会が盛んに行われるようになった
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