98号表紙

No.98(昭和55年11月)

特集:

神戸のスポーツ事始め

居留外国人による神戸のスポーツ事始め
現在のKRAC(葺合区八幡通2)の正面玄関。KRAC(神戸レガッタ・アンド・アスレティック倶楽部)は明治3年、香港から神戸にやって来たA・C・シムが「スポーツ活動と社会活動を含めたようなクラブが必要だ」と居留外国人たちに呼びかけて同年9月創設。彼らはスポーツ活動の場を異人山(現在の東遊園地)に、海に、さらに六甲山にと神戸全域に広げ、関西・関東にまでその活動の輪を進めていった

日本における先駆的存在
棚田 真輔(神戸商科大学教授)

明治8年、内外人遊園が現在の東遊園地にできたとき、そこに移転されたKRACの体育館明治8年、内外人遊園が現在の東遊園地にできたとき、そこに移転されたKRACの体育館
KRACのレガッタチーム(明治6年) KRACのレガッタチーム(明治6年)
 日本のスポーツは、明治維新の文明開化の影響をまともに受け、まず欧米スポーツの摂取を原点として出発し、これに在来の武術や遊戯を隔合させて展開されていく。兵庫開港によって出現した神戸居留地でのスポーツは、当時の日本人にとってはすべて未知の身体的な活動であり遊戯であって、真新しい体験と好奇心や知識欲の対象となって次第に吸収されて、いわば文明開化の一例になったと考えられる。
 この神戸居留外国人によるスポーツ活動の起源を年代順にたどってみると、KRACの創設以前の活動・KRACの活動・ウエストンと背山遊歩の活動・そしてグルームらによるゴルフの四つの大きな系譜を見ることができる。これらは各々単独に発生し活動したものでなく、年代的にも相互に関連して流動的に変化しながらスポーツの意図や組織を確立し、日本における先覚的存在となり比較的早い時期に日本人に伝播されていくのであった。

居留外国人の娯楽

 兵庫県知事の伊藤博文が、各国領事に居留地の地図面一帖を送り、その竣工を通告したのは一八六八年(慶応四)六月で、第一次競売によって三・三uを二十五銭で売った土地の造成工事がその後放置されたことから、神戸特有の雑居市街地ができた。この居留地造成までの臨時措置のために、神戸の人々は居留外国人たちの娯楽と直接に触れあうことになる。「KRAC百年史」に「人々の楽しみといえば小馬に乗ることや丘の小鳥とたわむれたり。六甲山麓で狩をしたり散歩など……」とあるように、神戸に在住する外国人たちは、最初は母国で体験したレクリエーションのうち主として個人的な活動によって余暇を過ごしたようである。そのうち居留地8番地のドイツ人商店で輸出商票のデザインを制作していた長谷川小信がかいた「西洋人馬駆之図」にみられるような競馬が、トラックを走る洋式の競馬会として、兵庫・大阪レースクラブ(HORC)の管理する馬場で開かれた。
 日本最初の洋式競馬場である根岸競馬場は幕府の金で一八六六(慶応二)年六月横浜で完成し、この年横浜レースクラブ(YRC)が結成した。これと相前後して神戸によくにたクラブと競馬場ができ活動を開始しているのである。日本では上級武士か祭礼行事でなければ経験しない乗馬を、外国商人が娯楽に、実用に日常茶飯事に使用していることへの好奇心は、競馬を日本人のものとして摂取してしまい、招魂社(靖国神社)や上野不忍池畔で明治天皇を招いたりして開かれて人々の間に流布された。ただ、神戸ではこの兵庫・大阪レース場は永久性がなく、KRACの内外人遊園地(のちの東遊園地)ができるとなくなっている。しかし、関東での人気も影響してか明治四十年鳴尾に本格的な近代競馬場が新設され、秋には第一回大競馬が開かれ関西競馬界のメッカとなる。これらの競馬は単に馬が競走するのみで、もっぱら金を賭ける事に止まって、乗馬愛好者のクラブなどの組織の発生を見ずに、典型的な日本式スポーツの摂取に終ってしまう。
 次に兵庫のクリケットクラブ(HCC)の結成がある。HCCの最初の試合は明治二年十月にHMSの間で行われ、一二一対二八で大勝したがこのメンバーに六甲山開祖のグルームや兵庫ニュース社のワルシュ・ビュースらがいた。HCCの試合相手は主として神戸に入港するイギリス系の軍艦や商船のチームであった。ところが練習場に不自由をきたして一時消滅したものが、明治七年に再び神戸クリケットクラブ(KCC)となって復活しこれがKRACの中に包括されて存続した。神戸や横浜の居留外国人に古くから実施され、関心の高かったクリケットは、野球・蹴球・ラグビーと共に日本人好みの集団的球技でいつでも伝播される機会を持ちながら、どうしたことか交流の痕跡はほとんどみられない。しかし、野球・蹴球などはすべてクリケットクラブ対日本の生徒・学生チームで対戦がなされるのである。

明治13年にレクリエーショングラウンドで行われたアスレティックスポーツのプログラム明治13年にレクリエーショングラウンドで行われたアスレティックスポーツのプログラム

KRACの結成

 明治三年にA・C・シムの創設によって神戸レガッタ・アンド・アスレチック倶楽部(KRAC)が結成された。シムの業績で最も特筆すべきことは、イギリスのパブリックスクールで発生したアスレティシズムの性格の強い競技的スポーツを中心に、社会活動を含めた外国人共同体として広く一般居留民の参加を促進させたことがあげられる。また、居留民の衛生状態をスポーツやレクリエーションによって改良するという名目で、グラウンド設置の要求を外務省を通じ日本政府にして、明治七年に通常"一八七五年協定"と言われる覚書を取り交わし、内外人遊園(当時の人は異人山と呼んだ)を完成させ、そこにクラブハウスやメリケン波止場にボートハウスを建設し、多様なプログラムを展開するなどして、神戸における外国人共同体の最も大きな組織に発展させたのである。ここでのスポーツを"The Hiogo News"紙によってみると「ピストルやライフル銃競技会・フェンシング選手権・輪投げ大会・体育的訓練、さらに居留地路上での自転車レース、長距離徒歩大会・長距離競走・公道や野原あるいは小丘での宝さがし…」の行事があったというし、明治三十四年に三番目の艇庫を敏馬に建築するが、ここでもボートやヨットのほかに水泳・水球・ローンボウルス・テニスなどのスポーツ活動が常に彼らの娯楽的習慣の形で実施され継続されていった。これらのうちインターポートマッチとして実施された横浜・長崎・上海の対港競技と、日本の生徒や学生との交流試合は、日本のスポーツ界に大きな影響を与えその発展に大きく貢献したのである。

KRACのフットボール・チーム。フォワード4名、ハーフ4名、フルバック2名、ゴールキーパー1名という編成だった(明治21年) KRACのフットボール・チーム。フォワード4名、ハーフ4名、フルバック2名、ゴールキーパー1名という編成だった(明治21年)
明治28年に牧師のS・スワンがKRACに寄贈した 明治28年に牧師のS・スワンがKRACに寄贈した"スワンカップ"。このカップは個人種目のチャレンジカップとしてはわが国最初のものである
  

日本最初のゴルフ場

 若かったKRACの会員が三十年も経過すると体力も衰えて激しい競技スポーツに参加できない事を知ったグルームは、静かな自然の中でしかも仲間と楽しめるゴルフの必要性を感じ、いち早く低廉な六甲山頂の土地を確保し明治三十四年に四ホールのゴルフ場を作った。
 これは文字通り日本最初のゴルフ場で三十六年五月に九ホールの開場式を服部知事や坪野市長を招いて行い、四十年には十八ホールに拡張して横浜対神戸のインターポート試合と、日本アマチュア選手権を実施した。グルームの神戸ゴルフクラブ(KGC)は冬の四カ月間閉鎖される不便を補うためロビンソンは三十七年に横屋ゴルフアソシエーションを創設した。
神戸におけるゴルフの伝来と発達という観点から見るとKGCの存在は、受容者の日本人にゴルフの条件がマッチしていたことを実証している。KGCが日本のゴルフの先覚的立場にあって、そこでの体験は即リーダーの資格と実力を他に認識させるというメリットがある。昭和期に入ってもこの意味が薄れることなく、日本人の会員に継続され維持されているのである。

ウォーキングコンテスト(三宮〜宝塚間)の徒歩競争で上位に入賞した選手(明治27年ごろ)ウォーキングコンテスト(三宮〜宝塚間)の徒歩競争で上位に入賞した選手(明治27年ごろ)

日本近代登山の黎明

 財力と体力に恵まれ、比較的時間のとれる外国人によって競技スポーツが華々しく展開していた明治二十一年に、ケンブリッジ大学を卒業したばかりのウォルター・ウエストンが神戸に来て、能福寺の近くに住みセントアンドレス教会の教師となった。そして夏に限って日本アルプスの連山を精力的に開路登山し、明治二十七年にイギリスの著名な山岳会機関誌の「アルパイン・ジャーナル」にこれらの記録を発表すると共に、明治三十九年にはロンドンの書店から「日本アルプス登山と探検」を出版した。ウエストンはヒル製の簡単なピッケルとロープを持って、山友達と共に浦口文治を通訳に雇い、日本人の巡礼団が"六根清浄御山快晴"や"南無阿弥陀仏"を反復し祈念するのを聞きながら、田舎の宿屋に泊って先駆的なスポーツ登山を続け、日本アルプスの壮麗な山岳美を出版物によってはじめて内外に紹介したのであるが、これら日本の近代登山の黎明は、神戸を出発点として活動したものであった。

 明治三十年頃になると、神戸に居留する外国人が毎朝布引の茶店あたりまで登山をすることを習慣とするようになった。ポルトガルの海軍中佐モラエスもマカオ港務庁次長の肩書で神戸に来て、布引登山を始め、そこで茶店の美人姉妹のお福に恋をしたという。この布引登山は、ウエストンの影響も考えられなくはないが、最初の動機は、母国で体験したハイキングや狩猟が習慣となっていた財豊かなインテリー層によって始められたようで、彼らの生活圏の近距離に好条件の山があったことが重要な要素となっている。これが健康増進や生活を楽しもうとする人々に影響し、いわゆる神戸居留外国人の背山登山団体が発足する。

 明治四十三年ドーントは塚本永堯を会長とする神戸草鞋会(のちにKWSとなる)に入会し、六甲を足場とし全国の山々へと活動の足を伸ばした。彼は健康増進と仏閣名勝巡拝が日本の庶民層に普及し、KWSがいわゆる六甲山中の茶屋を根拠地として活動を始めたとき、高峻岳への登攀と積雪登山の踏破を実践し、大正四年より年二回「INAKA」を十八巻まで発行する。この開拓と研鑚がKWSの尖鋭的な若い会員に作用し、大正十三年にロック・クライミング・クラブ(RCC)が誕生した。こうして京阪神の山の猛者達が一団となって六甲をゲレンデとし、技を練り、やがて日本の高山岳ヘアタックするキッカケとなった。

 また外来の冬期スポーツが信州や北海道で勃興しはじめたこともあって、KWSの会員が関西で最も早くスキーとスケートを六甲山で実施し、明治後期から大正期にかけていわゆる神戸背山登山団体が六甲山中いたるところの茶屋を根拠地として発足するなどしている。

KRACの創設者A・C・シムの記念碑 KRACの創設者A・C・シムの記念碑。明治34年、KRACのクラブハウスのあった東遊園地に神戸はじめ横浜、長崎の友人たちの善意によって建てられた
明治期に神戸の野球が盛んになる舞台となった東遊園地。 明治期に神戸の野球が盛んになる舞台となった東遊園地。キャッチャーのうしろに審判の姿が見えないのは、当時はピッチャーのうしろに立って審判していた。
  • 明治41年12月、日本に初めて米プロ球団「リーチ・オール・アメリカンズ」が来日、東遊園地で「神戸野球倶楽部」と対戦した。明治41年12月、日本に初めて米プロ球団「リーチ・オール・アメリカンズ」が来日、東遊園地で「神戸野球倶楽部」と対戦した。写真右はリーチ・オール・アメリカンズと対戦した神戸倶楽部のナイン。神戸倶楽部のメンバーには、神戸出身の野球の先輩泉谷・松田(早稲田)、佐々木・神吉・高浜(慶応)の各選手が参加していた。
  • 当日の試合風景下は当日の試合風景。写真の上に押しているスタンプは対戦の記念スタンプ
  • リーチ・オール・アメリカンズのメンバーリーチ・オール・アメリカンズのメンバー
  • 東遊園地に続いて大倉山公園でも次第に野球が盛んになっていった東遊園地に続いて大倉山公園でも次第に野球が盛んになっていった
  • 野球の試合を見る婦人野球の試合を見る婦人。日よけのため、みんなつばの広い大きな帽子をかぶっている
  • 東遊園地の観覧席東遊園地の観覧席。東遊園地のグラウンドは最初から土のままでなく芝で整備されていた
  • 明治41年のKRAC対YCAC(横浜カントリー・アスレチック・クラブ)のサッカーインターポートマッチ(東遊園地で)明治41年のKRAC対YCAC(横浜カントリー・アスレチック・クラブ)のサッカーインターポートマッチ(東遊園地で)
  • 明治期のKRACのクリケット選手。前列右端は、のちにKRACのグランドキーパーになった少年時代の山本由太郎明治期のKRACのクリケット選手。前列右端は、のちにKRACのグランドキーパーになった少年時代の山本由太郎
  • 左の建物はKRACのクラブハウスと新しい体育館。その前のレクリエーショングラウンド(東遊園地)ではクリケットの試合が行われている。右の建物は神戸倶楽部左の建物はKRACのクラブハウスと新しい体育館。その前のレクリエーショングラウンド(東遊園地)ではクリケットの試合が行われている。右の建物は神戸倶楽部
  • KRACのホッケーKRACのホッケー
  • KRACのプレジデントKRACのプレジデント。写真右から第20代G・H・ワイマーク(1913〜1917)、第17代F・J・バーデンス(1902〜)。第18代C・H・ライトフット(1903〜1911、第19代H・E・グリーン(1912)
  • KRACの歴代会長名を記念するプレートKRACの歴代会長名を記念するプレート
  • 東遊園地のラグビー東遊園地のラグビー
KRACのグラウンドキーパー山本由太郎KRACのグラウンドキーパー山本由太郎。彼は父が植木職人で、子どものころから父に連れられてKRACに出入りしていた。グランドキーパーになってからも"ちいちゃい"という愛称で外国人にかわいがられ、選手が足りない時はかり出されて野球やサッカーなどの試合にしばしば出場していた
000000 明治36年5月24日、神戸ゴルフ倶楽部開所式当日の風景。式には兵庫県知事服部一三、神戸市長坪野平太郎も出席、服部知事が日本で最初の処女ドライブを打った
  • 毎日鋸(のこぎり)を手に六甲山を切り開いたグルーム(右)と、友人のハートショーン(明治33年ごろ)毎日鋸(のこぎり)を手に六甲山を切り開いたグルーム(右)と、友人のハートショーン(明治33年ごろ)
  • グルームの別荘庭で仲間とショットの練習をする外国婦人(明治36年)グルームの別荘庭で仲間とショットの練習をする外国婦人(明治36年)。当時会員が六甲山でゴルフをするときは、神戸から人力車で五毛天神まで行き、そこから駕籠(かご)に乗り替え、杣谷を登って行ったという
  • A・H・グルームが愛用したボール袋(大正10年)A・H・グルームが愛用したボール袋(大正10年)
  • 明治36年、神戸ゴルフ倶楽部の開場式で使われた始球式のボール明治36年、神戸ゴルフ倶楽部の開場式で使われた始球式のボール
  • グルームのバッティング(明治40年ごろ)グルームのバッティング(明治40年ごろ)
  • 神戸ゴルフ倶楽部のマーク
    神戸ゴルフ倶楽部のマーク
  • 18番グリーンとクラブハウス 18番グリーンとクラブハウス。このゴルフ場のグリーンはすべて土でかためたサンドグリーンだった(明治37年)
  • 18ホールのオープンを祝う会員(明治40年)18ホールのオープンを祝う会員(明治40年)
  • クラブハウス前で憩うゴルファー(明治37年)クラブハウス前で憩うゴルファー(明治37年)
  • 16番ホールをスタートする外国人ゴルファー(明治37年)16番ホールをスタートする外国人ゴルファー(明治37年)
  • 明治39年のキャディ競枝でグルーム家手製の弁当をもらったキャディ明治39年のキャディ競枝でグルーム家手製の弁当をもらったキャディ。キャディ競枝は、毎年寒気と積雪のためコースを閉じるシーズン最後の前日に開かれ、慰労のためグルーム家は菓子や弁当を配った
  • 神戸ゴルフ倶楽部の初代会長トニークラフト神戸ゴルフ倶楽部の初代会長トニークラフト
  • グルームが寄贈したKGCチャレンジカップ(明治36年)グルームが寄贈したKGCチャレンジカップ(明治36年)
  • 毎年1回キャディだけでゴルフの腕を競った毎年1回キャディだけでゴルフの腕を競った"キャディ競枝"で、3年連続優勝した明治39年ごろの横田留吉。"球ひろい"と呼ばれていたキャディは青木、住吉、篠原、唐櫃といった近辺の村の少年たちが多く、一日のキャディ代は30銭だった。当時、神戸では米一升が12銭で職人の日当は米3升と決まっていた。少年たちは、大人の職人に近い日当を得るためにけわしい山路を草鞋ばきで麓から通っていた
  • 明治39年ごろのキャディ明治39年ごろのキャディ。この中には、のちにわが国最初のプロになった福井覚治(左から2人目)がいる。キャディたちは、暇さえあれば木の枝や棒きれでゴルフのまねごとをしたり、昼食事に客の用具を借りてコースをまわるなどゴルフに親しんだ

六甲の背山登山をはじめた外国入

六甲山の開発と相前後して、運動好きな外国人は朝の運動として布引や再度山の山並みを毎朝散歩してからオフィスに出勤するようになった

  • H・E・ドーントを中心とする外国人たちの親しんだ六甲山は当時ははげ山だったが、植林をして今日の姿になったH・E・ドーントを中心とする外国人たちの親しんだ六甲山は当時ははげ山だったが、植林をして今日の姿になった
  • 駕籠に乗って登る人も多かった駕籠に乗って登る人も多かった
  • ドーントは大正4年から9年間六甲山のゴルフと、登山に関する実践記録を書きとめた『INAKA』を毎年2回の全18巻を発行したドーントは大正4年から9年間六甲山のゴルフと、登山に関する実践記録を書きとめた『INAKA』を毎年2回の全18巻を発行した。ドーントの提唱はやがて神戸徒歩会の会員に伝わり、藤木九三のRCC(ロック・クライミング・クラブ)が誕生する
  • 再度山・善助茶屋に置かれていた神戸徒歩会のサイン帳再度山・善助茶屋に置かれていた神戸徒歩会のサイン帳。一番古い署名は大正元年9月1日から始まっている。このころから市民の背山登山熱は急速に高まっていった
  • 日ガサをさして六甲山をハイキングする女学生ら日ガサをさして六甲山をハイキングする女学生ら
  • 夫人とロッククライミングするW・ウェストン夫人とロッククライミングするW・ウェストン
  • カスケード・バレー(杣谷)での1本杖スキー(大正4年)カスケード・バレー(杣谷)での1本杖スキー(大正4年)
  • 六甲登山の父と子(大正8年)六甲登山の父と子(大正8年)
  • 登山中のH・E・ドーント(中央)(大正8年)登山中のH・E・ドーント(中央)(大正8年)
  • 六甲山三国ケ池でのスケート(大正9年)六甲山三国ケ池でのスケート(大正9年)
写真・資料提供、協力
棚田真輔、紫雲真昊、神戸ゴルフ倶楽部、神戸登山研修所、市立南蛮美術館、KRAC、神戸新聞出版センター

参考図書
 神戸スポーツ草創史(棚田真輔)、スポーツ人風土記兵庫県(同上)、兵庫県体育・スポーツ百年のあゆみ(同上)、兵庫県体育スポーツのあゆみ(兵庫県教育委員会)、神戸ゴルフ倶楽部七〇年史(神戸ゴルフ倶楽部)、神戸ゴルフ倶楽部史(同上)、INAKA Vol.T,VII.IX.X.XI.XII.XIII.XIV.XVI.(H・E・ドーント)、THE JAPNESE ALPS(W・ウエストン)K・R・A・C 一○○年史(H・S・ウィリアムス)、兵庫の絵はがき(のじぎく文庫)
禁無断転載
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