93号表紙

No.93(昭和55年6月)

特集:

神戸の古代を探る

神戸の古代を探る 年表 「神戸の古代」年表
 

身近に感じる古代人のくらし

ナイフ形石器 (旧石器時代後期、右上・兵庫区会下山、右・垂水区金棒池出土)小刀として使用されたほか、棒の先にはめこみ槍のようなかっこうで狩猟用に使用していたと思われる
石の槍先 (旧石器時代後期、垂水区名谷出土)旧石器時代の終りごろになると、長さが10センチもあるような大きな槍先をつくるようになった。そのご環境の変化によって動物の種類も大形のものから、シカやイノシシなど小形のものが多くなり、狩猟の道具もやがて槍から弓へ移りかわっていく
 いまから一万年も前の神戸はどんな状態だったのだろうか。あるいは、二千年前の人々はどんな生活をしていたのだろうか。そんな疑問をお持ちになったことはないでしょうか。きょうは、皆さんをそうした原始・古代の神戸へ御案内いたしましょう。
 これまでに、神戸市内で発見された遣跡・遺物のうち、最も古いと推定されているのは、兵庫区の会下山公園から発見された長さ五センチばかりのナイフ形石器で、おそらく二〜三万年ぐらい前のものだろうと考えられています。
 そのころの日本は、まだ大陸と陸続きで、瀬戸内海は草原のようなところで、ナウマン象やオオツノジカのような大形の動物がわたり歩いており、気候は現在よりも寒かったようです。当時の人々は、鋭いけれども小さい打製の石器を棒の先にとりつけた槍を唯一の狩猟具として、大形動物の群れを追いかける狩人のくらしをしていたわけです。会下山と同時代と推定される石器は垂水区西舞子の大歳山、伊川谷の池上口ノ池、神出の金棒池、雌岡山南麓など市内で数十ヵ所発見されています。
 いまから一万年ぐらい前になると、槍先にとりつける石器は長さが十センチを越えるような、大形の鋭いものがつくられるようになります。石を打ち欠いて道具をつくる技術が一層発達したわけです。北区下谷上や垂水区名谷で発見された槍先がこのころのものです。
 気候が現在のように温暖になり、海水面が上昇して日本が大陸からきりはなされてしまったのは、八〜九千年前のことだといわれていますが、このころになると、狩猟の対象動物はシカやイノシシが中心になり、それをとらえるために弓矢が発明されます。また、貝類の採取もさかんになり、土器もつくりはじめられたようです。日本ではこの時代を縄文時代と呼んでいます。
 市内で最も古い縄文時代の遺跡は、須磨浦公園の西端にある境川の遺跡です。この遺跡からは押型文土器と呼ばれる山形や米粒を連続してならべたような文様をつけた土器とともに石棺や石鏃(やじり)が発見されており、瀬戸内海を見下す丘の上に当時の狩人たちの住まいがあったことが知られます。  縄文時代と呼ばれる採集・狩猟・漁撈を主要な生産活動とする時代は、いまから二千二百年ぐらい前まで続きますが、この数千年間の遺跡は市内に十カ所あまり残されているだけで、狩猟社会においては多くの人口を養うことがむずかしかったことを示しています。
 いまから二千二百年ほど前、中国・朝鮮から稲作農耕を伴う新しい文化をもった人々が北九州に上陸し、急速に稲作技術を西日本全体に伝えます。これが弥生時代のはじまりです。
 垂水区枝吉にある吉田遺跡は神戸で最古の米作りの村ですが、明石川の両岸に広がる沖積地を水田として耕していたのだろうと推定されます。
神戸で最古の縄文土器と石器
(縄文時代早期、須磨区境川出土)日本ではじめて土器がつくられるようになった時代で、同じころに弓矢も発明された。日常生活の道具として煮沸用の土器が発明されたことはいろいろな面に大きな影響を及ぼし、人間の食物の種類をひろげ、消化をよくし、体質の改善、寿命の延長にも大きな力になったと考えられる(上が土器、左が石器)
 吉田に伝えられた稲作りは、約百年間に十ヵ所あまりの村々で同じような農業をはじめ、弥生時代五百年の間に市内全体で約八十ヵ所の遺跡を残していますから、農業の開始が狩猟・漁撈の社会に比べて、いかに人口を増大させ、安定した生活を可能にしたかを如実に示しています。
 神戸の弥生時代を語るとき、わすれてはならない遺物に「銅鐸」があります。
 市内では、東灘区森北町、本山北町生駒、渦森台一丁目、垂水区舞子坂三丁目で各一個、灘区桜ヶ丘町で十四個の計十八個も発見されており、六甲山の南麓は日本一の銅鐸密集地帯であることが知られます。
 銅鐸は、つり鐘をやや扁平にしたような形のカネで、内側に舌とよばれるものをつり下げて音を出す道具です。
 銅鐸の使用法についてはまだ不明な点が多いのですが、南中国からベトナムへかけて盛んに行われる銅鼓の祭りなどを参考にして考えますと、収穫の際に打ちならされたものではないかといわれています。
 また、銅鐸には絵画の鋳出されたものがあることはよく知られているところで、持に桜ケ丘出土の四号鐸と五号鐸は、両面に各四区ずつ計八コマの絵画が存することで著名です。この絵は線がきの簡単なものながら、弥生人の生活や、彼らをとりまく動物や虫たちの姿をいきいきとえがきだしており、短篇ながら一巻の弥生絵巻ともいうべき楽しい絵画群です。
 銅鐸の祭りについて、もう一つ問題なのは、どのような範囲の人々によって祭られていたのだろうかということです。一般的にはいくつかの村々が集まって一つの銅鐸の祭りを行っていたと推定されますが、桜ヶ丘のように多量に同一地点から出土する場合は、また別の解釈が必要となってきます。
 京都大学名誉教授の小林行雄博士は、桜ヶ丘のような場合は、周辺の村々で祭られていた銅鐸が、弥生時代の終りごろ、村々がより大きな集団に統合されていく過程で、一ヵ所に集められたのではないかと推定されています。そう考えますと、灘区の桜ケ丘から垂水区の舞子坂まで約二十一キロメートルにおよぶ範囲で、これまで銅鐸が発見されていないことも、うまく解釈できるというわけです。そして銅鐸が集められた次の段階には、より強力な首長があらわれ、より強固な政治的なまとまりができあがり、古墳がつくりはじめられたと考えられるわけです。
 三世紀の日本のことを書いている中国の史書"魏志倭人伝"によりますと、「卑弥呼以って死す、大いに冢を作る、径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」と記されていますので、このころ地方の首長を葬る墓は、いわゆる"古墳"と呼ばれるような大形の盛土をもったものになりつつあることが知られます。
 神戸市内で最も大きな古墳は、垂水区にあります五色塚古墳で、全長約二百メートルの前方後円墳です。現在は築造当時に近い姿に復元され、屋外博物館として公開されていますので、皆さんにはすでにおなじみの史跡だと思います。
 五色塚古墳は、市内ばかりでなく兵庫県下でも最大の古墳ですが、全国的にみますと三十番目ぐらいにあたるだろうといわれています。
 古墳に葬られた人の名前などは全くわかりませんが、おそらく現在の垂水区と明石市を含めた旧明石郡全体を治めるような支配者がここに葬られたのだろうと推定されています。
 市内全体についてみますと、五百ヵ所ぐらいの古墳が知られていますが、須磨から東灘ヘかけての市街地では、明治以来の開発で、古墳がほとんどわからなくなってしまっているのが残念です。
 古墳時代の人々の村のあとは、これまであまり調査されたことがありませんでしたが、最近になって市内の各所でようやく調査例がふえてきました。それによりますと、一般農民は、縄文・弥生時代の人々と同じように竪穴の住居に住んでいたようです。

市教育委員会事務局博物館創設準備室
主査(学芸員)喜谷 美宣

  • 縄文土器
    (縄文時代前期、垂水区西舞子町大歳山出土)植物の繊維をよったヒモを土器の表面にころがして縄目の文様をつけたものが多いところから、縄文土器と呼ばれ、この時代を縄文時代と呼んでいる。文様は装飾用の意味と、表面の凸凹をなくし持ちやすくするという実用面の両方の効用が考えられる
  • 石匙(せきひ)
    (縄文時代前期、大歳山出土)とらえた動物の皮をはぐために使用された
  • 磨製石斧(せきふ)
    (縄文時代前期、大歳山出土)日本ではこの時代になってはじめて石をみがいて道具を作るようになった。木を切り倒したりする時にその方が効果があったからだろう
  • 弥生土器・つぼ
    (灘区伯母野山出土)農耕がはじまった影響などで弥生時代に入ると土器の形が一段と多様化した。左側の大きなツボつぼは貯蔵用として種モミや酒・水などの保存に、また台付きの小さいつぼは水さしのような用途で使用していたと思われる
  • 弥生土器
    (弥生時代中期、垂水区玉津町青谷出土)クシの歯で直線や波形の文様をつけた土器を弥生土器と呼び、この時代を弥生時代と呼んでいる。櫛描文の土器は主として近畿地方で発達した
  • 弥生土器
    (弥生時代後期、灘区伯母野山出土)後期の特徴として、つぼ、かめの他に小さいはちなどの土器がかなり出土している。共同のものでなく、個人用の食器がこのころから出はじめたことがうかがわれる。ふた付きのつぼもこの時代の特徴である
  • 弥生土器
    (弥生時代中期、垂水区平野町繁田出土)くちの所に凹線文がついており、この時代中期のものであることがわかる

市立考古館

場所 須磨離宮公園駐車場北側
(国鉄須磨駅から須磨離宮公園前下車徒歩5分、山陽電鉄月見山駅下車徒歩約10分)電話732-6300
開館 午前9時半〜午後4時
(毎週月曜日休館、土・日曜日連休の時は、月・火曜日休館)
料金 無料
展示 神戸市内で出土した国宝の銅鐸、銅戈はもちろん土器、石器など県下の出土品を年代別に展示。年1〜2回特別展(有料)を催しています
  • 磨製石斧
    (弥生時代中期、伯母野山出土)片刃のオノで、木を割る時のくさびのような役割をしたと思われる
  • 鉄斧
    (弥生時代後期、伯母野山出土)弥生時代の後期になると、かつて丘の上にあった村が再び耕地に近い所へおりてくる。そして、このころから石の道具は全くなくなり、鉄器の時代に入ったことがわかる。金属器は腐敗しやすいため残っていることが少なく、この鉄斧はそのころの貴重な遺品である
  • いいだこつぼ
    (弥生時代、伯母野山出土)穴の中に入るタコの習性は昔も今も同じだったらしい。今のタコ漁と全く同じ方法で弥生人もタコをとってたべていた
  • 弥生時代の農具
    (復製)木製のクワやスキはカシのような堅い木を使用しており、これらの農具をつくるには石のオノやノミを使った。それにしても、われわれがつい先年まで使用していたものとほとんど同じ形をした農具を2,000年も前に使っていたとはおどろきである。最初のコメづくりは恐らく大変な作業だったと想像され、村中の人が協力しあって作業にあたったものと思われる
  • 市内遺跡分布図
  • 国宝・銅戈(どうか)
    (弥生時代、灘区桜ヶ丘出土)長い柄を直角にとりつけ武器として使ったものだが、あまり刃が鋭くないので、お祭りなどの儀式用に使われたとみる人もいる。まん中にある文様の特徴などから銅鐸と同じ製作集団によってつくられたものらしい
  • 石戈(せきか)
    (弥生時代中期、玉津町青谷出土)鉄戈をまねてつくったものだが、これも武器というよりお祭りなどの儀式用に使われたものと思われる
  • 国宝・桜ケ丘5号銅鐸
    (弥生時代、灘区桜ヶ丘出土)5号銅鐸は表面に動物の絵や狩り、農耕の様式などをえがいた文様があり、当時の生活をさぐる貴重な資料。銅鐸は祭りのときに鳴らしたと思われる「かね」で、外からたたくのでなく、風鈴と同じように内側に舌がついている

銅鐸の絵にみる弥生人の生活

  • カエルとカマキリと水すまし。なぜこの3つの動物がえがかれているのか。どうやらこれらは水田にいる害虫をたべてくれる虫や動物たちで、人びとが感謝と親しみの気持をこめて書いたものらしい
  • I字形の道具をもった人と、下は魚の絵。男の人が座って魚とりをしているところらしいが、獲物がたくさんあったせいか、うれしそうな様子が体全体に出ている
  • 当時の絵をみると、男性の顔の部分は丸、女性は三角にえがかれている。そうすると、この絵は女性2人のケンカに男性が仲裁に入っているところということになる。女性のケンカの理由まではよくわからない
  • タテぎねで脱穀をしている絵。きねをついているのは女性で、この絵から推察すると、狩りや魚とりなどの仕事は男性、家での仕事は女性が主にやっていたのだろう
  • 水鳥が魚をくわえているところ。2つ目、3つ目の魚がえがかれているのは、多分、たくさんいる魚を次から次へたべている模様を書いたものらしい
  • ツルとカメに似ているが、サギとスッポンだとする説もある。鳥はここでも魚をくわえている
  • 弓を持ってシカをつかまえている人。農耕社会になっても狩りが盛んに行われていたことを示している
  • 弥生時代の竪穴住居
    (復元、弥生時代後期、大歳山遺跡公園)1辺約6.5メートル、隅がやや丸みをもった方形竪穴住居。火災にあって放棄されたらしく、柱や垂木(たるき)などの建築材が炭化して残っていた。復元住居は、柱の位置や残っていた建築材の状態を参考にして設計された。そのかや葺屋根など現在も農家に残る屋根とそっくりで、古代人の生活の知恵がうかがえる
  • 円形の竪穴住居跡
    (弥生時代中期、垂水区押部谷町養田中ノ池遺跡)
  • 復元住居の内部
    住居のなかは意外にゆったりとした感じで涼しい。4本柱でかこまれた1辺約3.5メートルの中央部と、その周囲につくられた幅約1メートルの床面の高い部分とにわかれ、発掘の際、床面の高い部分につぼ、かめ、高坏(たかつき)、はちなど約50個の弥生土器が置かれていた
  • 方形の竪穴住居跡
    (弥生時代後期、大歳山遺跡)
  • 鉄刀
    (古墳時代後期、玉津町中村出土)刃の部分はさびているが、柄(つか)の鹿の角の飾りや、柄に巻いたヒモの部分などがよく残っている
  • (左・下) 鉄鏃(てつぞく)
    (古墳時代後期、平野町堅田出土)弥生時代の石の矢じりにぐらべるとさらに大きくなり、飛ぶ距離も突きささる力も一段と強力になった。狩猟用でなく戦争用として使用されたと思われる(左・下とも)
  • 復元された五色塚古墳の円筒埴輪
    埴輪の直径四〇センチ、高さ一・二メートルで両側にヒレがついているのが五色塚古墳の特徴。五色塚古墳ではこんな埴輪が二千二百本も古墳の回りを飾っている
  • 夕日に映える五色塚古墳の埴輪
    (垂水区五色山)五色塚古墳は明石の国の大王の墓とみられ、県下最大の前方後円墳。淡路島をのぞんで、大小の舟が行きかったこの景色を葬られた大王は今なお眺めつづけていることであろう
  • 銅鏡
    (古墳時代前期、垂水区伊川谷町天王山古墳出土)鏡の裏面に鳥の文様がえがかれている八禽鏡。中国の前漢末期につくられたものらしく、日本での出土は珍しい
  • 子持ち勾玉(まがたま)
    (古墳時代中期、五色塚古墳出土)装身具でなくお祭りの時に使われたもので古墳から出るのは珍しい。滑石製で長さが、10センチ以上もある
  • 首飾り
    (古墳時代後期、鬼神山古墳出土)勾(まが)玉と切子玉、丸玉、管玉を組み合わせてつくっている。当時は男女とも首飾りをしていたらしい
  • 銅鏡
    (古墳時代後期、伊川谷町鬼神山古墳出土)
  • 須恵器つぼ
    (古墳時代後期、舞子墓園出土)クシ描の文様で飾られ、自然ゆうが流れてきれいなつやがある。この時代になると、非常に高くまで温度の上がるカマがつくられているため焼きあがりが堅い
  • 須恵器大がめ
    (古墳時代後期、平野町堅田出土)市内で発見された土器の中では最大。これも自然ゆうが流れている
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