90号表紙

No.90(昭和55年3月)

特集:

兵庫運河

兵庫運河 立ち並ぶ工場の中をゆったりとうねる兵庫運河(前方は新川橋)

兵庫運河

立ち並ぶ工場の中をゆったりとうねる兵庫運河(前方は新川橋)

  • 1本の木で5〜6トンはありそうな巨木がずらりと並ぶ運河を見ていると、
    何か歴史の重みを感じさせる
  • 運河を見おろすようにして立つ運河開削の功労者・八尾善四郎の銅像(高松橋西詰め)
  • 古い石だたみの残る大輪田橋
  • ずっしりとした巨木が運河からトラックヘ。筏師たちのたくみな手さばきで作業は意外とスピーディだ
  • 仕事にかかる前のくつろいだひととき。筏の上でのきびしい作業が待っている
  • 材木を操る"けんとび"を持つ手に力がこもる。兵庫運河の筏師は現在約八十人。戦前の最盛期に比べると約三分の一で年々減っている。ここでも後継者難が目立つ

  • 運河を渡る国鉄和田岬線(兵庫〜和田岬間)
    のディーゼル車。90年の移り変りを見つめながら、
    きょうも朝夕の通勤客を運んでいる

  • 昼間は列車の通らない和田岬線

『兵庫運河』
神戸市史資料室 陸井 敏子

道路とは対称的に静かな運河

 大輪田橋に立った。神戸大空襲の日、この橋の下で多勢の人たちが死んでいった。それにしても静かだ。とまっている。こんなはずはないと運河ベリを歩いていくと、高松橋へ出た。小船の往来もなく、大きな材木が浮かんでいた。材木町のあたりで筏の上を歩く人影があったが、動いているのはそれだけだった。
 高松橋の西詰には八尾善四郎の銅像がある。激しく自動車が行き交う。この橋はかっては跳ね橋だった。正しくはバスキュール式跳開橋。ボタン一つで動いた。昭和のはじめ市電が通ることになって、新しく付替えられた。
 まだ、この橋が運河第一橋といわれたころには木造手動式回旋橋だった。船頭が声をかけると、橋の番人が浮き桟橋を押すようにカイで押して水路を開けてくれた。その後、跳ね橋も機帆船が少なくなったのと、橋の上の交通量が増えたのとで、昭和十二年から開閉しなくなった。

  • あたたかい日ざしを浴びて、のどかにひろがる運河

  • 大輪田橋の近くに立つ清盛塚。
    平清盛が今日の兵庫の基礎をつくった功績は大きく、
    塚のそばに清盛の銅像と琵琶塚がある


のんびりと橋の下を行く筏(大輪田橋)

はじめの構想より小さかった新川運河

 神戸港は大昔から、東と南の風には弱かった。シケると船の避難場所はなく、海の難所和田岬が控えていた。難所にはどこでも、難破船を救助すると多額の金銭をとる「浦仕舞」という風習があり、数知れぬ船主を泣かせてきた。
 明治四年の暴風雨は、難破船五百八十隻、死者二十四人、行方不明者十六人を出した。この惨状を眼の当たりにして、神田兵右衛門はなんとかしなければ、神戸港の今後の発展の妨げになると考えた。兵右衛門三十一歳。明治二年から通商社頭取格。いわば神戸港の将来を左右する重要なポストにあった。運河を掘ろう―。
 かれの構想はこうだった。いまの兵庫区島上町から長田区東尻池町を経て、駒栄町に至る水路を掘り、土砂は島上町から川崎町までの海岸埋め立てに使う。この構想に同意した兵庫県は二万五千円、兵川の北風荘右衛門と伊丹の小西新右衛門が合わせて二万五千円。こうして明治七年「新川社」の手で工事がはじまった。
 ところが工事の途中で、請負っていた土建屋が倒産してしまった。どんなことがあっても工事は五万円でやってみせると豪語していた。それだけにショックは大きかった。苦しい中を神田は御影村の嘉納治郎右衛門に協力を求めて、縮小していまの新川運河を完成させた。明治九年五月のことである。

神田の初志を貫徹した八尾善四郎

 新川運河の完成から数年経ったころ、池本文太郎と八尾善四郎は、なんとかして神田兵右衛門の構想を受け継ぎ、運河工事を再開しようと思い立った。池本は西尻池一帯の大地主。八尾は駒ヶ林で魚問屋を営み、内貿易で財をなし大地主になった。この二人が自らの財産を投げうって協力者探しに東奔西走すること十年。だが資金は思うように集まらず、世間では二人のことを山師だと笑った。
 明治二十六年末、やっとのことで武井守正らを発起人にかつぎ出して、資本金三十五万円の「兵庫運河株式会社」がスタートした。が思わぬ伏兵があった。用地買収に関して地主たちは、運河ができると耕地が分断され、日々の耕作に不便であるうえ、潅概用井戸は水脈が断たれて塩水が混入するやも知れぬ。そうなれば野菜はつくれず、運河の南側は荒地と化してしまう。だからそれ相当の補償をせよという。二人にとっては、運河は神戸港の発展には必要欠くべからざるもの、それを県や市に代ってこれからやろうとしているのだという確固たる自負心があった そのため池本は、地主との直接交渉を力で押し切って、逆に地主の末正久左衛門に告訴されたりして、紛争は泥沼化した。
 明治二十九年のはじめには、神戸市長鳴滝幸恭の仲裁で紛争は解決し、工事は始められた。工事はもっぱらシャベルとモッコの人海戦術。いったん暴風雨となると、数日がかりの工程も一瞬のうちにもと通りとなってしまった。従って手早く工事を進めなければならなかった。池本の死後、工事責任者になった八尾は日当をはずんだ。一日二十銭。当時職工の日当が十銭から十五銭だったというから、近在農漁村の男たちの稼ぎとしてはいいほうだったろう。
 かくして本線約千八百メートル、支線約七百五十メートル、総水面積約十四万平方メートルのやや細身のいまの兵庫運河ができあがった。搬出した土砂で苅藻島もできた。島は苅藻川が運んできた土砂で浅瀬になったところを埋め立てたもので、南西の風波を遮えぎる防波堤となるとともに、資材の揚げおろし場所として利用された。明治三十一年春、第一次埋め立てが完了。東西約三百メートル、南北約五十メートルの細長い島となった。三十三年はじめには第二次埋め立ても終り、約二万四百平方メートルの人工島が出現し、船の避難所と貯木場にあてられた。なお、いまの苅藻運河は昭和三年からの改修工事で開さくされ、五年に完成した。

運河は神戸港発展の裏方

 明治三十二年末、兵庫運河が開通したころは市制実施十年目で、神戸市の人口は二十万人となっていた。ちょうど日清戦争後の不況が立ち直り、神戸港への入船は日に日に増加し、外国航路の大型船だけでも年間約千五百隻にものぼった。貿易額は明治二十年の七倍以上、神戸港は横浜港と並んで日本の国際貿易港となっていた。運河の両岸には造船、製糖、製粉、製材、油脂などの工場が立ち並び、青物市場の設置で紀州のみかん、淡路のたまねぎを満載した機帆船が運河へ入ってきた。運河出入りの船は一日二百隻を越えた。暴風雨のときは、二千隻におよぶ大小船舶が運河へ逃げ込んできた。
 運河は貯木場でもあった。開通と同時に材木業者が集まり、大正の頃には三十数軒を数えた。木材はマッチの軸木、船舶の内装用資材、はしけや機帆船の材料などだったが、大量注文はやはり中国大陸だった。第一次世界大戦後は米国材の輸入がはじまり、世界中の木材がここに集まるようになった。
 明治末年は兵庫運河の最盛期だった。三十五年から初代社長神田兵右衛門にかわって八尾善四郎が社長になった。八尾は高取山を買取って、海岸を埋め立てる夢を追いながら、大正七年七十四歳でこの世を去った。かれの遺言は運河を市営にすることだった。
 翌八年、市は六十万円で兵庫運河を買取った。この年にあの銅像が建てられた。戦時中の金属回収から免れ、いまもあの場所に立つのは、駒ヶ林が生んだ八尾善四郎の偉業をたたえる人たちがいたからにほかならない。

よみがえった"運河"


整然と並んだランチだまり

 戦後、高度成長の歪が出はじめたころ、運河の底にはヘドロが溜り、メタンガスが吹出していた。苅藻地域に「かるもゼンソク」の患者が出はじめたのはこのころである。長田区医師会は実態調査を、苅藻中学校は水質検査に乗り出した。住民の自覚を促すために、機関紙「かるも」が発行された。それに公害工場の摘発など、住民サイドの運動が展開された。だが、せっかく汚水工場を究きとめても、脱臭・廃液処理装置を取り付けてくれる工場はなかった。もう運河など埋めてくれ。住民サイドの運動には、やはり限界があった。
 昭和四十五年の十一月、運河を視察した宮崎市長はいった。「一時間足らずボートに乗っただけなのに、頭が痛い気がする。」
 翌年から市の対策が始まった。運河の水質調査をするいっぽう、関係工場への住民の立入検査を認め、公害防止協定を調印した。四十八年には五億円の費用で公害防止設備を完成させた。
 化学的酸素要求量(COD)が一〇PPmを越えると魚が住めないといわれながら、かっての兵庫運河は新川運河で一五・四、兵庫運河(本線)で一七・九、苅藻運河で一一・四PPmあった。それが四十九年ごろから好転し、五十四年には兵庫第二突堤で二・四、材木橋で三・七、苅藻運河で三・OPPm(いずれも酸性法)になった。今では魚が群れをなして泳いでいる。
 開通当初、運河の水で米を研いだら塩味がして美味しかった、といった古老の話は印象的だったが、いまの材木橋に立つと、ほんのりと木の香がする。

〔参考資料〕
 一、「雪」昭和三十七年五月号 神戸市消防局発行
 二、「神戸新聞」昭和四十六年一月五日より三十一日、同五月四日より二十八日連載の「兵庫運河」
 三、「ながたの歴史」長田区役所昭和五十二年発行

  • 一日の活動を終えて、ねむりに入る兵庫運河(新川橋から)
  • 台風時の高潮に備える運河の水門(大輪田水門)
  • 運河沿いにある製材工場。運河の両岸には造船、車両、精糖、製粉、製材、油脂などの工場が並んでいる
  • 運河沿いにある造船所
  • 運河のハシケから製粉工場のサイロにみるみる吸い込まれる穀物
  • 仕入れ商品の荷さばきで混雑する朝の中央卸売市場前
  • 筏やランチが行きかい活気をみせる運河(新川)
  • ひしめくように流れる車(新川橋西詰め付近)

  • 活気のある朝の出勤風景(第五橋)

ページトップへ