87号表紙

No.87(昭和54年12月)

特集:

交通のあゆみ(上)

交通のあゆみ ー上ー 大阪〜神戸間鉄道開業当時の時刻表と運賃表(部分)

交通のあゆみ

ー上ー 大阪〜神戸間鉄道開業当時の時刻表と運賃表(部分)

鉄道の建設はじまる

 明治2年11月、鉄道の建設がようやく決定し、政府は時の大蔵大輔大隈重信、大蔵少輔伊藤博文らを建設事務に担当させた。そして全国幹線計画がたてられ、第一段階として、東京〜横浜間および大阪〜神戸間の着工が決定した。
 明治3年4月に京浜間の起工、同年の7月に阪神間の測量が開始され、11月起工の運びとなった。阪神間の測量は、イギリス人5人の技師によって行われた。
 ちょうどこの頃、人力車が大阪〜神戸の間に走り始めて、神戸市内では人々が珍しがって抽選のうえ乗ったといわれる。車賃は、三ノ宮〜長田神社間で通常銀2分であったことも面白い記録である。
 そのご阪神間の鉄道工事は順調にはかどり、明治5年10月からレールが敷かれ、6年3月に試運転列車が走った。


大阪〜神戸間国鉄開通(明治7年5月)

 明治7年5月11日、大阪〜神戸間の鉄道は開業した。三ノ宮〜神戸間は複線、他は単線だった。これは先に開業した東京〜横浜間(明治5年)に次ぐものであり、開業に際しては。汽車を見ようと集まった見物人で大変な騒ぎだった。(大阪〜京都間の開業は明治9年9月)
 当初の停車場は、大阪、西ノ宮、三ノ宮、神戸の4駅で、6月1日に住吉、神崎(現在の尼崎駅)の2駅が誕生した。車両はいずれもイギリス製で、客車4両編成の列車はイギリス人の手で運転されたという。所要時間は66分、1日18往復であった。また運賃は上等1円、中等70銭、下等40銭(下等運貨が高いので間もなく30銭に改正)であった。開業までに要した費用は、245万2370円79銭3厘、洋銀58万7026ドル13セント、その他5万2500円と記されている。
 その頃、神戸停車場が大ステーションと呼ばれたのに対し、三ノ宮停車場は小ステーションと呼ばれ、別名赤レンガのステーションとして有名だった。位置は、現在の駅より約800メートル西寄りで、ちょうど今の元町駅のところに設置された。
 開業当時の駅周辺は、家屋約900戸、住民約3700人で半農半漁の人が多く、また、造り酒屋、船大工を職とした人が多かったという。現在とは比較にならない、さびしい田畑の地であった。また、歴史的にも名高い生田神社を始め、三宮神社(一宮から八宮神社まである)があり、三ノ宮という駅名もこの三宮神社から名付けられたといわれている。

国鉄神戸駅東の相生橋上から東方を撮った汽車と沿線風景(明治中期)



神戸〜京都間鉄道開業式の錦絵(3代目広重画、明治10年2月)



民鉄線の起こり

 兵庫県下における民営電気鉄道は、明治38年4月の阪神電気鉄道(現阪神電鉄)大阪出入橋〜神戸三宮間が最初で、同年関東における京浜電鉄の品川〜横浜間開通とともにわが国における都市間電気鉄道の最初である。明治42年1月には竜野電鉄の網干駅前〜竜野町間の開通があり、同43年3月には、兵庫電軌(現山陽電鉄)の兵庫〜須磨間および箕面有馬電軌(現阪急電鉄)の梅田〜宝塚間と石橋〜箕面間、同年4月には神戸電気鉄道(現神戸市交通局)の春日野道〜兵庫間が開通した。
 大正9年7月には阪神急行電鉄(箕面有馬電軌が大正7年2月4日改称)が十三〜神戸上筒井間および塚口〜伊丹間を開業、また、昭和2年7月には阪神国道電軌(のちの阪神電鉄国道線)の西野田〜東神戸間が開通した。さらに昭和9年7月からは国鉄が吹田〜須磨間に電車運転を開始した。
 明石〜姫路間にも、明治時代から電鉄敷設計画があったが実現せず、大正12年8月にいたり神戸姫路電鉄(現山陽電鉄)が明石〜姫路間を開業した。
 昭和3年には、神戸と泉郷有馬を結ぶ神戸有馬電鉄(現神戸電鉄)が神戸湊川〜有馬温泉間を11月に、唐櫃〜三田間を12月に開業した。その後、子会社が三木線を開業したが、戦後、神戸電鉄と改称するとともに、子会社を吸収して、昭和27年4月、営業区間を粟生まで延長した。


阪神電鉄開通(明治38年4月)

 明治38年4月12日一。この日、早朝からさく裂する花火と沿線の歓呼の中を、電車はどれもこれも車体一面に豪華な飾りを着けて、阪神電車は大阪出入橋〜神戸三宮間32kmを結ぶ歴史的なスタートを切った。当日の乗客が予想をはるかに上回る3万人に及んだのをはじめ連日増発運転が行われるなど、さい先の良い滑り出しだった。
 当日の試乗記にも、「……滑るが如き電車の初乗り、煤煙は飛ばず、窓は大きく、明るく、80人乗りのボギー式、見渡す限り早や菜の花真っ盛りの黄金世界…」と、春たけなわの沿線風景が描かれている。また、当時の電車運転手の懐古談によれば、電車が止まるごとに物見高い大衆が運転台に群がり、なかなか発車できなかったという。
 電車は、朝5時から夜10時まで12分おきに運転し、大阪〜神戸間の所要時間は90分、運賃は1区5銭で、全線は4区で20銭だった。また、出入橋が仮駅舎であったほかは、どこもホームはなく、青天井の下でステップを踏んで乗り降りした。


交通のあゆみ

明治

3. 11  大阪〜神戸間鉄道工事開始
7. 5. 11 大阪〜神戸問鉄道開通
10. 2. 5 神戸〜京都間鉄道開通式
21. 11. 1 山陽鉄道(現国鉄山陽本線)兵庫〜明石間開
〈11.3 神戸市内に電灯点灯〉
22. 7. 1 東海道本線新橋〜神戸間全通
9. 1  山陽鉄道神戸〜兵庫間開通、東海道本線に接続
〈4.1 神戸視実施〉
〈27. 8 . 1 日清戦争はじまる〉
29. 9. 1 新橋〜神戸間急行列車運転開始
く37. 2 .10日露戦争はじまる〉
38. 4. 12 阪神電鉄大阪出入橋〜三宮間開通
39. 12. 1 山陽鉄道国有となる
43. 3. 15 兵庫電気軌道(現山陽電鉄)兵庫〜須磨間開通
4. 5  神戸電気鉄道(のちの神戸電気)春日野道〜兵庫間開業
7. 11  兵庫電軌須磨〜一ノ谷間開業
11. 1  阪神電鉄三宮〜滝道間開業

大正

5. 7. 17 兵庫電軌兵庫〜明石間開通
8. 1  民営の神戸電気を神戸市が買収、電気局(現交通局)を創設して軌道事業をはじめる。運賃は全線7区で1区2銭(他に通行税1銭)
く7 .8 .11神戸市内でも米騒動)
8. 4. 15 市電熊内線開通(熊内1〜上筒井)
9. 7. 16 阪神急行電鉄(現阪急電鉄)大阪〜神戸(上筒井)間開通
〈5.2 日本最初のメーデー東京で開かれる〉
10. 8. 25 市電山手線開通(加納町3〜大倉山)
〈6.1川崎・三菱造船所ストライキ〉
〈10.15湊川トンネ・レ完成〉
11. 4. 10 市電上沢線開通(大倉山〜長田)
7. 12  市電湊川線開通(湊川公園〜新開地)
12. 3  市電楠公東門線開通(大倉山〜楠公前)
12. 8. 19 神戸姫路電気鉄道(現山陽電鉄)明石〜姫路間開通
〈9.1 関東大震災〉
13. 7. 20 市電尻池線開通(長田〜築島)
〈3.4 神戸タワー開業〉
14. 1. 6 摩耶ケーブル運転開始
〈15. 2 . 1 市内電話自動化〉

昭和

2. 7. 1 阪神国道電軌(野田〜脇浜)開通
3. 11. 19 市電和田・高松線開通
11. 28  神戸有馬電鉄(現神戸電鉄)湊川〜有馬温泉問開通
〈2.20第1回普通選挙実施〉
5. 9. 16 市営バス誕生
10. 1  国鉄東京〜神戸間に超特急「つばめ号」運転開始
〈10.26神戸沖で大観艦式〉
6. 10. 10 国鉄の市内高架工事第1期工事完成
11. 26  六甲ロープウェイ開通
〈9.1 神戸市区制を実施(難・葺合・神戸・湊東・湊・湊西・林田・須磨の8区)〉
〈9.18満州事変勃発〉
7. 3. 10 六甲ケーブル開通
8. 1. 1 市電臨港線開通(滝道〜税関前)
4. 1  市電の車体をみどり色に統一
6. 17  阪神電鉄岩屋〜三宮間地下線開通
〈11.7 第1回みなとの祭〉
9. 9. 20 国鉄、明石まで電車運転を延長
11. 3. 18 阪神電鉄神戸終点を元町まで地下線延長
4. 1  阪急電鉄西灘〜三宮間高架開通
10. 11  市営観光バス事業はじまる
12. 1. 28 市電須磨線開通(尻池2〜須磨浦5)
4. 1  市電板宿線開通(大橋9〜板宿)
10. 10  国鉄神戸〜大阪間の複々線開通

市西部に電車走る(明治43年3月)

 兵庫電気軌道(現山陽電鉄)の第1期線兵庫〜須磨間の営業開始の日がやってきた(明治43年3月15日)。開業前口および開業日の状況について当時の新聞は次のように伝えている。
 兵庫電軌の第1期線兵庫・須磨間は愈々今15日から開業し、初めて市の西部に電車の運転を見る事となった。開業の当日は特に午前9時から運転を開始するのであるが、明日以後は毎日午前6時から午後11時まで運転し、兵庫、須麻の起終点を5分間隔を保ちて発車する。其れで兵庫から須磨に到着するのは16分間の予定である。

・試乗優待券 兵庫電軌会社は本月中適宜試乗用として1回限り優待乗車券1万枚を重な官民に寄贈した。
・運転手、車掌は阪神電鉄に委託して養成したもので、運転手20名、車掌は17名である。

 このように、神戸から以西の初めての電車ということで大きな期待が寄せられた。兵庫〜須磨間は兵庫、長田、西代、板宿、大手、月見山、須磨寺、須磨の8駅であった。運賃は兵庫〜西代間、西代〜須磨間をそれぞれ1区とし、全線2区制の区間運賃で、普通運賃は1区3銭、2区5銭(通行税1銭を含む)であった。
 同年6月28日開催された定期株主総会における開業後初の営業報告は、次のように記されている。
「営業開始より期末5月31日に至る78日間の営業収入は、総計2万1737円22銭にして1日平均278円68銭に当り、成績佳良ならざるも、営業第1期に属し諸般の設備整はざると、右期間晴天僅かに34日に過ぎざりし為にて、今後は着々経営施設を急ぎ且つ経費節減のため、5月より当分社長以下重役一同無報酬とし、社運の刷新を計ることに決定せり」。


市営交通のはじまり(大正6年8月)

 神戸市営交通事業のはじまりは、大正6年8月1日、市が神戸電気株式会社の事業の一切を買収し、電気局を創設した時に始まる。それまでの市内路面電車は、もっぱら同社によって電灯電力供給事業とともに経営されていた。正式に譲渡証書の交換が行われた1日の模様を当時の新聞は次のように報じている。
稲妻の中に「神」の字の銘打った城が明け渡された。昨日まで『神戸電気株式会社』という真鍮ながら金ピカの看板が掲げられてあったのが、今日は新しい分厚な木札に墨痕淋漓(ぼっこんりんり)として『神戸市電気局』と記され所謂その電気局の正面入口に頑張っている。電気市営の第一日である。事実既に斯くの如く、電気会社が電気局と改名され、朝からの市内には市営記念の花電車が運転され、普通電車も国旗の角を振立てて景気づいていたが、まだ形式上の譲渡証書の交換が済んでいない。その証書の交換が午前10時から電気局内で行われた……。
 それから楼上の広間へ従業員一同を集めて会社としては別れの挨拶、市としては市営の挨拶がある……鹿島市長が出て今日から諸君は市の吏員となった訳である。我々の同僚で、我々はこの新しい同僚を迎えたことを喜ぶとお世辞を振撤き、然しながら世間には電気事業が市営になれば、電車や電灯の従業員が所謂お役人風を吹かしはすまいかと懸念している向がある。勿論これは杞憂に過ぎまいが充分お互に注意されたいと、ともすれば豪えら)がりたがるにわか役人に頂門の一針を打ち込み、チェンバーレンがマンチェスターの市長となった時『市長は市民のサーバントである』といった。市長が市民の下僕である許りでなく、市吏員はことごとく市民のサーバントであるから、諸君もその積りで…と巧いことをいって退く。……


阪急電鉄神戸線開通(大正9年7月)

 阪急電鉄の生命線ともいえる神戸線(梅田〜上筒井)が開通した当初は、大阪〜神戸間は60分もかかっていたが、開通後わずか5日(大正9年7月21日)で50分になり、その後大正11年8月に45分、そして12月には40分に短縮された。これは、それまでのトロリーポール方式にかえてパンタグラフが取り付けられたためで、日本の私鉄でパンタグラフが採用されたのは、このときが最初だった。
 その後、昭和11年4月1日に神戸市のビジネスセンター三宮まで路線が延長されたが、実は、同社が神戸市内延長線の敷設特許を申請したのは大正8年で、開通まで17年もかかったことになる。その間、いちばん難航したのは、高架反対運動に対する、説得だった。高架線の完成で、大阪〜神戸間は持急25分運転を行った。
 梅田〜神戸間の普通片道運賃は、大正9年の開通時で40銭、昭和11年神戸市内高架線完成で三宮まで延長され50銭になった。


峡谷をぬって有馬線開通(昭和3年11月)

 神戸有馬電気鉄道(現神戸電鉄)が最初に敷設した湊川〜有馬温泉間の有馬線は峡谷を縫い、ことに湊川〜鈴蘭台閣では700数十年前、源義経の逆落しで有名な六甲山系の鵯越を横断しなければならない。そのうえ、線路は海抜357メートルの有馬起点から200メートルないし350メートルの高い山間部を走り、湊川まで出るには1000分の35以上のこう配が57.7%もある。測量も因難をきわめ、複雑な衝上火山岩層の露出した急傾斜の山腹をきり開き、また多くの隧道工事もあり、昼夜兼行の建設工事は至難そのものだった。
 工事進行中には1200余名の労働者との間で賃金争議が起こったり、市内乗入線の湊川隧道にも問題が生じるなど、作業のむつかしさと相まっていろいろ苦難を重ねた。湊川駅は駅およびその付近延長400メートルは地下、オープンカット式工法でラーメン構造とした。建設費は850万円で、資本金をはるかに越え、起工後1年7ヵ月で完成した。
 開通後は神戸から有馬温泉まで50分で行けるということで、開通後1ヵ月で迎えた正月には乗客が押し寄せ、電車の窓から乗り込むほどの混雑ぶりだった。また当初、乗客が3人から5人ぐらいの時もあって、乗客へのサービスは至れり尽せりで、車掌は乗客の荷物を網だなから降ろしたり、座席に座っている乗客のくつやげたをそろえるという細かいことまで気を配った。
 しかし線路にはバラスが薄かったため、車内の振動が激しく、釣り皮が左右に揺れ両側のたなに当たってカガタガタと騒がしい音をたてていたという。


市営バス登場(昭和5年9月)

 市営バス第1号は昭和5年9月16日、@系統として須磨駅前から灘桜口の間を往復し"青バス"として好評を博した。当初は12人乗りシボレーが23両、その後同じアメリカ製の16人乗りホワイト15両、ダッジ15両が増車されたが、1日平均の乗客は8500人程度だった。しかし、この頃から自動車がめっきり増加して軌道敷を走りまくり、市電のスピードはだんだんと下り坂に向かっていった。
 市バスのサービス向上のため、物腰のやわらかな女子車掌を採用したのは昭和10年3月で、モダンな制服・制帽ではれやかに市民の前にデビューした。


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