86号表紙

No.86(昭和54年11月)

特集:

南蛮紅毛美術

南蛮紅毛美術 市立南蛮美術館の「泰西王侯騎馬図」に見入る観覧者 市立南蛮美術館 葺合区熊内町1-8 電話221-3043 <あし> ・三宮から 市バス阪急六甲行き(2)系統、摩耶ケーブル(18)系統で南蛮美術館前下車 ・国鉄新神戸駅から 徒歩15分

南蛮紅毛美術

市立南蛮美術館の「泰西王侯騎馬図」に見入る観覧者 市立南蛮美術館 葺合区熊内町1-8 電話221-3043 <あし> ・三宮から 市バス阪急六甲行き(2)系統、摩耶ケーブル(18)系統で南蛮美術館前下車 ・国鉄新神戸駅から 徒歩15分

南蛮美術

世界地図及び四ケ国都市図屏風 八曲一双 重要文化財

 桃山時代には世界への関心がたかまり、舶載の地図や都市図をもとにしてこうした作品が描かれた。都市図は左からリスボン、セビリヤ、ローマ、コンスタンチノープル。

狩野内膳筆 南蛮屏風 六曲一双

 南蛮人渡来のありさまを描いた南蛮屏風は桃山時代の最もエキゾチックな風俗画である。1590年代と推定されるこの屏風は、とくに豪華ですぐれた作風を示している。


  • 狩野内膳筆 南蛮屏風(部分)
  • 観能図屏風(部分) 八曲一隻
     豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ観能の宴を催したときのありさまを描いたものといわれる。土間に南蛮人の姿が見られ、長煙管で喫煙しているのも面白い。
  • 狩野元秀筆 都の南蛮寺図扇面
     天正6年(1578)京都四条坊門に改築落成し、「昇天の聖母の会堂」と命名されたイエス会の会堂を描いたもの。

  • 聖フランシスコ・ザビエル像(部分)
     日本にはじめてキリスト教を伝えたザビエルを
    泥絵(どろえ)風に描いた作品。
    大正9年高槻の山奥から発見された。
    17世紀初期のキリシタンの遺風が濃く漂っている。

  • 西洋風俗図屏風(部分) 六曲一双
     蒲生氏郷の義妹が南部利直に入嫁の際持参したものと
    伝えられている。キリシタン画家が舶載の原本によって
    制作した洋風画。

南蛮美術と紅毛美術
笹部 一良

南蛮美術工芸品


南蛮人喫図柄鏡
 カルサンをはき、レチュギリイアと呼ばれた襟飾りをつける南蛮風俗は、日本人も身につけるほど流行した。この柄鏡には、桃山か江戸初期にかけてよく用いられた「天下一」の銘が見られる。



十字入俵型鉢
 クルスと光線文を象嵌したこの厚手の鉢は、キリシタンの洗礼盤として用いられたものといわれるが、確かなことはわからない。まことに不思議な品である。



南蛮人図金蒔絵鞍
 居木(いぎ)裏面に「慶長九七月吉日、於越州北庄、井関造之」という漆銘(うるしめい)がある。南蛮意匠のすぐれた作品。

 わが国に初めて西欧の文化が入ってきた十六世紀後半から、徳川幕府が鎖国政策をとった十七世紀初期までの僅か百年足らずの間に、ポルトガルからの影響を受けてわが国で製作された美術を南蛮美術と呼んでいる。
 そして、徳川幕府の鎖国のもとで西欧との唯一の交流のあったのは、長崎の出島を通じてのオランダであったが、そのオランダの影響を受けてわが国で製作された美術を紅毛美術と呼ぶ。したがって、時代的には南蛮美術は桃山時代が中心であり、紅毛美術はそれより約百五十年後の江戸中期から幕末にかけておこったものである。
 一五四九年、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルが布教のため初めてわが国に渡来し、鹿児鳥に上陸した。それ以来キリスト教は急速に伝播し、一六〇〇年には三十万人の信者が居たといわれるほどになった。したがって、信仰の対象である聖画像の需要が高まり、ポルトガル船による舶載品だけでは間に合わず、当時各地に設立されていたセミナリオやコレヂオなどの神学校において学んだ画法により、日本人の手で聖画像が作られ、また、その技術により舶載図書の摸写が行われた。ここにわが国最初の洋風画即ち南蛮美術の発祥をみたのである。
 また一方、一五九〇年代(秀吉の時代)には、当時ポルトガル船によってもたらされた西欧の文物に対する日本人の驚きと憧れは、南蛮趣味となって武士や商人の間に大流行することになった。南蛮屏風や鞍(くら)、鐙(あぶみ)などの武具、文箱、硯箱、鏡などの工芸品に南蛮風俗や南蛮意匠が好んで用いられた。金地濃彩で真紅の色も鮮やかな「泰西王侯騎馬図」が会津若松城の障壁画であったことからみても、異国への怖れをいだいていた豪壮華麗な桃山時代の武士の姿がしのばれるのである。しかし、異国情緒にあふれ、華やかであった南蛮美術も幕府のきびしい禁教と鎖国によって、その幕は降ろされた。
 鎖国後の日本と西欧との交流は、オランダとのみ長崎の出島を通じて行われた。オランダ船により舶載して来た本草書には、今まで日本人の見たこともないほど精巧な銅版挿図が豊富に収録されていた。一七二○年、八代将軍吉宗が禁書の令をゆるめ、キリスト教以外の図書の輸入を許したので蘭学が盛んになってくるとともに、美術の面においても洋風表現技術への理解が深まり、陰影遠近法(ものに影をつけたり、遠くのものを小さく、近くのものを大きく描いたりして、遠近感や立体感を現わす画法)を主とした紅毛美術が日本の各地で生れて来た。その第一人者が江戸の平賀源内(一七二九〜一七七九)である。
 源内は洋画法に通じ、油彩画の「西洋婦人像」を残している。源内の洋画理論に啓発され、徹底して洋風画を製作したのが司馬江漢である、源内はまた、秋田藩に洋画法を教え、小田野直武などの秋田派洋風画が勃興した。また奥州須賀川(福島県)には亜欧堂田善という洋画家がとくに銅版画をよくした。
 当時、海外貿易の唯一の港であった長崎には、舶載されてきた書画の価値を判定したり、それを図写することを職とした「唐絵目利(からえめきき)」が長崎奉行所に居たので、自然舶載画をそのままに描く手法が修得され、また、一七三一年に中国から長崎に渡来した沈南蘋の写生画法の影響もあり、ここに石崎融思、若杉五十八、川原慶賀など多くの長崎系洋風画家の輩出をみた。
 このように、日本各地におこった紅毛美術も陰影遠近法の洋風技術を吸収しながらも、新しい日本画様式を確立するまでには至らなかった。しかし、この時代に洋画法を取り入れた画家達が活躍したことは、まことに注目に値することである。
 このような南蛮・紅毛美術品をはじめ桃山時代から明治初期にいたるまでの間に、外来文化の影響を受けて生れた日本の美術を系統的に蒐集されたものが、市立南蛮美術館に所蔵する池長コレクションである。その数約四千五百点に及んでいて、他に例をみないものである。これらは日本国内はもちろん海外にも貴重な存在として高く評価されており、神戸市が誇るべきコレクションである。

(市立南蛮美術館長)

紅毛美術


  • 平賀源内筆 西洋婦人図
     平賀源内(1728〜1779)の多芸多才は有名だが、
    洋画についてもかれは先駆的指導者となり、
    秋田や江戸で洋画運動をおこした。
    この作品は源内がのこしたただ1つの油絵。

  • 万国総図人物図 二曲一隻
     万国人物図の上部「保 酉季春吉辰、於 肥州彼杵郡」とあり、おそらく正保2年(1645)に長崎で作られたものであろう。万国総図はイタリア人マテオ・リッチが1602年、北京で刊行した「坤輿万国地図」の系統をひく。

  • 石崎融思筆 ブロンホフ家族図
     出島蘭館長ブロンホフは、文化14年(1817)着任の際妻子を伴って来た。しかし、西洋婦人は日本に留ることを許されず、前任者ドーフに託して本国へ送還された。当時、紅毛婦女は珍しかったので、プロンホフ家族は長崎の画家の格好の題材となった。
  • 川原慶賀筆 長崎図

    川原慶賀筆 長崎図及びブロンホフ家族図
  • 亜欧堂田善筆 今戸瓦焼図
     奥州須賀川の亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)(1748〜1822)は、松平定信に仕えて洋風画、銅版画を制作した。かれの作品は洋風画家のなかでも最も自然に陰影遠近法を用いている。
  • 筆者不詳 長崎蘭館図巻(部分)
     出島オランダ屋敷における紅毛人の生活は日本人にとって格別珍しいものであった。食事や奏楽などの情景が面白い。

  • 谷文晁筆 ファン・ロイエン花鳥図模写
     オランダ人画家ウィレム・ファン・ロイエンの花鳥図は
    オランダ甲比丹(かぴたん)から幕府に献上され、
    さらに将軍吉宗から江戸本所五百羅漢寺に寄進された。
    本図はその模写、さすがに谷文晁で見事な大画面作品である。

長崎版画

 18世紀半ばから19世紀半ばまで制作された長崎版画は、長崎ならではの異国情趣あふれるる木版画。独特の素朴な味わいが捨て難い。



  • 阿蘭陀婦人の図 大和屋板
  • 阿蘭陀入船図 大畠豊次右衛門板

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