83号表紙

No.83(昭和54年8月)

特集:

海岸線を行く(上)

海岸線を行く(上) 舞子海岸に立つ八角堂。その右に舞子公園の緑が続く

海岸線を行く(上)

舞子海岸に立つ八角堂。その右に舞子公園の緑が続く

よみがえる須磨海岸

 真夏の陽炎(かげろう)がうっすらと立ちのぼって、海岸線一帯はきょうも暑そうである。船は舞子浜の沖合いから東に向かった。
 海岸に、大正の初めに呉錦堂が建てた八角堂(移情閣)がこじんまりと見える。その奥に舞子公園の緑が東西にのびている。続いて、有栖川宮の別邸跡(現在の舞子ビラ)や、五色塚古墳がその端正な姿を見せた。
 舞子という美しい地名は、むかし在原行平や平清盛が、ここで女子に舞をまわせたとか、松の姿が舞子の舞うのに似ているからだとの説もあるくらい、明石海峡をへだてて淡路島をのぞむこの地は古くから景勝地として知られた。恐らくむかしは、今では想像もできないような白砂青松の広い海岸が、ここから須磨あたりにかけて続いていたのだろう。今は海岸線ぎりぎりまで家がせまり、そのおもかげはない。

白い建物、白いヨット


垂水海岸から望む団地群。その壮観さに思わず目を見張る

 垂水漁港の防波堤は、相変らず釣人でにぎわっていた。こちらが手をふると、子どもが素早く反応してくる。その奥にひろがる住宅群に目を見張りながら塩屋にくると、ここはまた、海岸に大きなマンションがにょきにょきと立っている。海から見るのと、北側の電車から通りすがりに見る印象ではかなり違う。
 白い建物を背景に、真白い帆を張ったヨットが二隻、三隻…。モーターボートにひかれた水上スキーもかっこよく通りすぎた。
 塩屋をすぎ、少し湾のようになって鉢伏山が近づくと、ますます海岸線が細くなる。きり立った山と海がとけ合ったほんのわずかなすき間に、国道二号線と国・私鉄の線路が寄りそって通っている。海岸線としてはここも好きな風景である。
 海づり公園は、近づくと予想以上に脚の部分が太く感じる。日本で初めてのこの公園は、船に乗らないで沖づりができ、管理塔があっていつでも暖かいお茶がのめ、食事もできる。しかも景色が非常にいいというので人気があるのだが、とにかく発想がユニークである。  すぐ隣りの須磨ベルトコンベアも、ユニークさではひけをとらない。何しろ十余年にわたり、ポートアイランドの土砂をほとんどここから運び出しているのだから、ほんとにご苦労さま。
 いよいよ、須磨海岸である。予想どおりすごい人出だ。国鉄須磨駅裏など、沖から見ると、細い海岸にまるで人が折り重なるようにひしめいている感じで、砂浜の熱気が波に乗ってぐいぐい伝わってくる。海に入っているのはそのうちのせいぜい二、三割程度だろうか。浜からはみ出した人が仕方なく海へ入っているように見えておかしくなる。
 急に砂浜が広くなった。人のにぎわいにもややゆとりが出てきた。赤い燈台や松林の見える、ちょうど海浜公園の前あたりである。再び左右を見比べながら、いわゆる"養浜事業"で広くなった砂浜と、そうでない砂浜が、沖から見てこうもはっきりわかるとはちょっとした驚きだりた。やっはり、海岸の生命は砂浜だな、と思う。聞くところによると、ワイキキ、マイアミビーチの砂浜も養浜でできたらしい。
 五百隻収容できる西日本一の須磨ヨットハーバーがいつの間にか過ぎた。このヨットハーバーができたために、初めてヨットを手がけるようになった人も随分いることだろう。
 淡路フェリーの須磨港を過ぎると、ここから和田岬までは、いわゆる西部第一工区から第三工区までの埋立地で、何の変哲もない防潮堤とテトラポットの海岸線が続く。高い防潮堤の奥には石油タンクや工場の煙突が立ち並び、有名な第一級燈台「神戸燈台」も、うっかりすると見過ごしてしまいかねない。

単調な防潮堤にも親しみ

 ここの埋立てには、二つの大きな目的があったそうである。一つは、戦後の荒廃した産業を復興するためで、ここに企業誘致し、神戸の地場産業を盛んにする。そしてもう一つは、和田岬、吉田町、金平町といったこのあたりはもともと地盤が低く、台風などがあるたびに浸水の被害にあっていた。和田岬を例にとると、夏場の満潮時でも道路がひたひたにつかってしまうほど。そこで、都市防災の面からもここに埋立地をつくり、高い防潮堤をつくることによって災害をなくす、ということで昭和三十五年に着工されたわけだ。
 こんなことを思い出していると、単調な防潮堤にも親しみが感じられてくる。なるほど砂浜はなくなったけれども、以前とは全然違うおだやかな町並みや、会社に通う人たちの活気を思うと、海岸線と市民生活のかかわりの大きさが、実感としてわかる気がした。

  • 海から見た端正な五色塚古墳。
  • 舞子ビラ(上)と異入館と古い日本家屋と…。
  • 五色塚古墳から明石海峡を望む
  • 舞子ビラのプール

  • 白い帆をいっぱいに張つて優雅に走るヨット(塩屋海岸)

  • 山と海かとけ合った静かな塩屋海岸
  • 垂水漁港で荷揚げされるハマチ
  • 垂水漁港。海神社の赤い鳥居と異入館(垂水警察署)の
    組み合わせがおもしろい
  • 海岸にせり出すように立つ住宅(塩屋海岸)
  • 国道2号線の車の列(国鉄塩屋駅南側)
  • どっしりと海中に根をおろしたような海づり公園の太い脚
  • 海づり公園での稚魚の放養

  • 10余年にわたりポートアイランドの埋立て土砂を
    運び出した須磨ベルトコンベア

  • 夏空にすくすくと伸びる帆柱。
    須磨ヨットハーバーは底ぬけに明るい
  • 須磨ヨットハーバー"ヨット教室"の練習風景(塩屋沖)
  • 胸おどる出港準備
  • 自然の浸食などでやせ細った須磨海岸(昭和42・7)
  • 養浜事業でかなり広くなった海岸(昭和54・4)
  • 須磨海岸の将来構想図
  • 海岸にひしめく海水浴客(国鉄須磨駅前)
  • 広々とした海浜公園前の海岸
  • 石油タンクごしに望む山合いの高倉台団地
  • 須磨港をあとに西部第一工区沖を東へ
  • 長田港。新長田駅前ビル、高取山がほばー線に並んで見える
  • 和田岬付近防潮堤の工事写真
    (昭和41年8月)

  • 和田岬付近防潮堤の工事写真
    (昭和41年7月)

  • 和田岬付近防潮堤の工事写真
    (昭和41年4月)

和田岬

 和田岬は今も昔も、神戸港の発展にとって大きな意味をもっている。
 神戸の港が、天然の良港だといわれるーつの理由は、北からの風が六甲山でさえぎられ、西からの冬の季節風がこの和田岬にさえぎられるため、いつも港内が静穏であることである。古くから兵庫の津と栄枯盛衰で張り合った大阪の堺港は、経済的基盤からいえば、商人も多く、大阪や京都に近いこともあって断然有利なはずだが、西風をまともに受けたため伸び悩んだといわれている。
 神戸港の発祥にさかのぼると、今の兵庫港の前身である大輪田(おおわだ)の泊(とまり)は、はじめ和田岬の少し東方にあり、平清盛がここに経島(突堤)を築いたり、足利義満がここで明と貿易をするなどして基礎を固め、以来ますます発展して現在に続いている。  このように、和田岬は昔からみなとの入口の重要地点であったため、元治元年(1864)、幕府は勝海舟に命じてここに砲台を築かせ、明治4年に燈台を設けた。

  • 防潮堤内の工場に立つ神戸燈台
  • 防潮堤の端に立つ和田岬燈台。
    ポートアイランドのコンテナークレーンがみるみる大きく見えてきた

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