67号表紙

No.67(昭和53年4月)

特集:

神戸の建物(下)

神戸の建物 ―大正・昭和― 室谷邸(須磨区離宮前町、昭和10年建設)

神戸の建物 ―大正・昭和―

室谷邸(須磨区離宮前町、昭和10年建設)

オフィス・ビルの高層化すすむ


第一勧銀神戸支店の花崗岩の円柱
(生田区栄町3、大正5年)

 前号で述べたように明治時代の洋風建築は、煉瓦や石材を用い、木造であっても十九世紀に欧米で流行した折衷主義的様式建築の流れをくむもので、現代の建築が失なってしまったロマンティシズムをゆたかに感じさせるものがある。
 明治の日本は欧米の先進諸国に追い付くため、近代国家としての基礎を築くべく、国をあげて富国強兵、産業振興の道を突走った。
 神戸は開港間もない明治十年西南の役で兵站の補給基地となり、同二十七・八年の日清戦争、同三十七・八年の日露戦争と戦争が起るごとに重要な基地として利用され、そのたびに発展を遂げた。また貿易の額でも、明治二十七年には輸入において横浜をしのぎ、やがて日本第一の貿易港としての地位を高めた。
 そして大正三年突如として勃発した第一次世界大戦は、神戸にとってかつて味ったことのない繁栄をもたらすこととなった。この時日本は連合国側について参戦し、ドイツに対し宣戦を布告した。この大戦は開港以来隠然たる勢力を温存してきた外国系商社に重大な打撃を与えることとなり、とくにドイツ系商社はこの戦争を契機にその勢力を喪失するに至った。これに取って変わり旧居留地内に進出したのが日本の商社、船会社などであった。
 大正時代は、明治と違って、国家権力によるしゃにむの発展策はとられず、大正デモクラシーといわれるように、民衆のなかに自由と理想を求める気風が芽生えるようになった。神戸では大戦の好景気が船成金を生み巨万の富をもたらした。一方、その反動で、戦後の恐慌が米騒動や、川崎・三菱の大争議を引起すという流動の時代であった。大正七年、神戸は開港五十周年を迎え、盛んなお祭りが行なわれた。人口の都市集中で湊川新開地が新しい歓楽街となり、前身の聚楽館が大正二年に完成し、演劇やロシヤ・バレエ、世界的な音楽家が登場して、神戸文化の発展に主要な役割りを果たした。
 建築の分野では、明治の三十年代後半に試みられた鉄筋コンクリート造(R・C造)の理論的解明がすすみ、大正時代の事務所建築に採用されるようになった。さきに述べたように都市における人口の急増は、資本主義がもつ土地の高度利用の観点からオフィス・ビルの高層化を必要とし、R・C造が練瓦造に代って積極的に用いられるようになった。居留地三十一番地に建った明治海運ビル(大正十年)は竹中工務店の設計・施工で、最初十二階建という、わが国高層オフィス・ビルの先駆をいく計画をもっていた。
 この頃欧州大戦の好況を受けて、メリケン波止場の根元のところに、日本郵船神戸支店(大正七年、曽祢・中条事務所設計)、居留地三、四番に海岸ビル(三井物産神戸支店、大正七年)が河合浩蔵の設計ででき、大阪商船三井船舶ビル(大正十一年)が、五番に渡辺節事務所の設計でできている。この建物は海岸通りに面して建ち、オフィス・ビル設計の名手といわれた渡辺節の傑作の一つである。
 これらの建物は様式主義建築の流れをくみながら、新しい構造、材料、技術に合わせてつくられたもので、この頃東京では、アメリカのオフィス・ビル工法の先例を生かして作られた丸ビル(大正十二年)が、貸事務所建築の合理的なゆき方として注目を集めていた。

ユニークな栄町通


富士銀行神戸支店
(生田区栄町通一、大正一五年)

 大正期のオフィス街は、旧居留地内のみにとどまらず、栄町通や海岸通の西側にまで拡大された。したがってこの通りには、明治、大正、昭和にまたがる大小のオフィス・ビルが連続していて、見事な近代建築群を形成している。西側から前述の旧三菱銀行神戸支店(現ファミリア)、旧第一銀行神戸支店(現大林組神戸支店)に続き旧横浜火災海上保険(現毎日新聞ビル・大正十四年、河合浩蔵)がセセッション風の意匠を入れ、この向いの旧明治火災保険(現同和第二ビル、大正六年、横河工務所)は、戦災に会っているが、赤煉瓦の壁体をみせている。栄町三丁目の山側にある杉原産業ビル(旧湯浅商店、大正初年ごろ)は、小品ながらルネッサンス調の趣きがある。これに続いて、石造アイオニックの巨大なオーダーを連ねる旧三井銀行神戸支店(現第一勧銀、大正五年)の建物がある。これは、銀行建築の設計にかけては第一人者であった建築家長野宇平治の作品で、北木産花崗岩でできた一本もの円柱は見事である。
 長野宇平治は明治二十六年東京帝国大学工科大学造家学科を出た有数の建築家で、ルネッサンス調を得意としていた。この建物はローマン・クラシック調を採用し、その堂々たる構成は完成当時、神戸の英字新聞ジャパン・クロニクルにも紹介された。これは、開港以来外人建築家の勢力が強かった神戸に、日本人建築家の目覚しい成長があったことを示したものであった。なお、この建物の筋向いに、戦後A・B・C映画館として市民に親しまれていた旧横浜正金銀行神戸支店(のち山下汽船、安田信託銀行、大正八年)の建物があり、やはり長野宇平治の設計になるイタリア・ルネッサンス調の優れた意匠の建築であったが、今春惜しくも取こわされた。
 さらに少し東側、栄町通二丁目旧村井銀行神戸支店(現中国銀行、大正九年)の建物は、六階建の建物の二階までを基壇とし、これに三階分のアイオニック・スタイルの大オーダーをのせる構成でまとめられている。これはアメリカで建築を学んだといわれる吉武長一の設計になるもので、細部意匠の確かさと、全体のプロポーション(均衡)のよさは見事である。
 この向いにある華僑信用金庫ビル(旧日本海上保険神戸支店、大正九年)は、様式建築のベテランであった宗兵蔵の設計、同じく栄町通二丁目の安田火災海上(東京火災保険、昭和七年)は渡辺仁の設計と、当時日本で活躍していた第一級の建築家たちの作品が並んで、この通りは独特の都市景観を形成している。これらの建物は、とくに大正期神戸が経済的にもっとも豊かであった時代に、巨額の費用をつぎ込んで建てられたもので、意匠や施工の質も高く、神戸にとって貴重な歴史的遺産といえるものである。

  • 日産ビル
    (生田区栄町通2、大正9年)
  • 住友銀行神戸支店
    (生田区栄町通一、昭和九年)
  • 杉原産業ビル
    (生田区栄町通三、大正初年)
  • 同和第ニビル
    (生田区栄町通四、大正六年)
  • 華僑信用金庫ビル
    (生田区栄町通2、大正9年)
  • 毎日新聞ビル
    (生田区栄町通4、大正14年)
  • 安田火災海上保険神戸支店
    (生田区栄町通二、昭和七年)
  • 神戸税関
    (生田区加納町6、昭和2年)
  • 神戸生糸検査所
    (葺合区小野浜町、昭和2年)
  • 神戸松竹座
    (兵庫区福原町、昭和5年)
  • 旧神戸商工会議所
    (生田区海岸通1、昭和4年)

    クレセントビル
    (生田区京町、大正末期)

町の表情をゆたかに


神戸ユニオンチャーチ
(葺合区生田町4、昭和3年)

 キリスト教の教会堂も、高い尖塔をもつものが多く、神戸の町の表情をゆたかに色彩る重要な建物の一つである。神戸のキリスト教の始まりは、開港直後の明治三年、居留地三十七番(今の大丸の南)に最初のカトリック教会堂が、フランス人ムニクー神父の手によって建てられた。ついで明治五年、同四十八番(大丸の東側、現在三菱銀行神戸支店)に、プロテスタント系アメリカンボードが、神戸ユニオン・チャーチを設立している。西宮に移転した神戸女学院は、明治八年、神戸ホームの名で創立された。
 このように開港場であった神戸は、キリスト教の宣教にとっても格好の場所であった。
 居留地にあったカトリック教会は、その後二つに分かれ下山手カトリック教会天主堂(明治四十三年)、中山手カトリック教会(大正十二年)に発展し、前者はロマネスク風、後者はゴシック風の外観をみせている。プロテスタント関係では、旧県庁舎の北側にある栄光教会は、明治十九年、さきの居留地四十七番で南美以美神戸教会として創始され、大正十三年現在の会堂が献堂された。設計は曽称・中条建築事務所で、ゴシックのモチーフを取り入れた堂々たる煉瓦造の会堂としてできている。神戸教会は当初アメリカの組合教会に属し、以来教勢の発展につとめ昭和七年、現在の会堂を建て献堂式を行った。会堂は鉄筋コンクリート造で、ゴシックの意匠をとり、明るい色調の外壁と鐘塔が印象的な建物である。他に葺合区生田町にあるユニオン・チャーチ(昭和三年)は、アメリカ人建築家であったヴォーリスの作品で、ゴシック調の洗練された意匠でまとめられている。下山手通にある本願寺神戸別院(昭和四年)はモダン寺ともいわれ、インド仏教建築の様式や和風も取り入れた特異な外観をもっている。このほかユニークな教会として神戸回教寺院もある。

  • 神戸教会
    (生田区下山手通六、昭和六年)
  • 神戸回教寺院
    (生田区中山手通2、昭和10年)
  • 神戸栄光教会
    (生田区下山手通4、大正12年)

新しい建築創造の動き

 しかし、いままで述べてきた建物は、さきにふれたように明治以来の折衷主義、様式主義建築の流れにのるものであり、このような建物は、大正時代の建築界の動きのなかで、新たな批判を受けることになった。これは大正九年、当時東京大学の建築学科に学んだ少壮の建築家たちが、様式主義建築を批判し、「分離派建築会」を組織してつぎの宣言を行った。
 "我々は起つ。過去建築圏より分離し、総(すべ)ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために……"という有名な"分離派宣言"がそれであった。この宣言は形骸(がい)化した明治以来の形式的な建築に対し、建築創造への若々しい情熱を注ぎ込んだ若き建築家たちの意気込みが感じとれる内容を有していた。
 このような動きは、さきに十九世紀の終りに近く、ウィーンでオットー・ワーグナーらが主張したセセッション(分離の意)運動の感化を受け、また大正七年、悲惨な敗戦のなかに終った第一次大戦後のドイツで起った表現主義の影響を受けたといえるが、自由と理想と情感を求めた大正ロマンチシズムの中に咲いた理想の花であった。
 この分離派の作品で現存するものは少ないが、神戸中央電話局兵庫分局(大正十二年)の建物は、そのメンバーの一人であった山田守の作品とみられ、柱頭飾りのない、深いエッジをもった円柱や軒回りの渦巻紋の装飾は新しい表現を指向した意図がよくうかがえる。神戸税関の東向いに建つ神戸生糸検査所(昭和二年、神戸市営繕課設計)の建物も、ゴシックのモチーフを使いながら表現派の傾向がうかがえる。

  • 朝日会館(旧神戸取引所)
    (生田区播磨町、昭和9年)
  • 御影公会堂
    (東灘区御影石町、昭和8年)
  • 頌栄幼稚園
    (生田区中山手通6、昭和6年建設)
  • 兵庫電話局
    (兵庫区入江通3、大正12年)
  • 神戸大学兼松記念館
    (灘区六甲台町、昭和9年)
  • 市立南蛮美術館
    (葺合区熊内町1、昭和13年)
  • カナディアン・アカデミースクール
    (灘区長峰台、昭和8年)

質の高い多彩な建築群

 第一次世界大戦後の欧州では、ドイツでグロピウスがバウハウスを主宰し、フランスではコルビジュエがドミノ理論を発表するなど、機能主義、合理主義を唱えた建築が登場し、"鉄とガラスとコンクリート"を使った国際様式といわれる装飾を払い落した機能主義的建築が流行するようになった。わが国の建築界もこの傾向を敏感に受けとめ、機能主義建築が盛んになり、それは神戸市立の小学校建築などに現われた。
 神戸市の小学校建築は大正九年に雲中小学校などが全国にさきがけて、鉄筋コンクリートで建てられるなど、R・C造化が早くから進むが、昭和になって神戸市営繕課の優秀な建築技術者たちが、積極的に鉄筋コンクリートの架構理論を生かし、大きな開口部のある窓、壁から持出された片持梁の床、フラッ卜(平らな)な屋根や壁面という斬新なデザインで各地に学校建築を建てた。
 千歳小学校(昭和十二年)、川池小学校(昭和十年)などがその代表例である。
 機能主義とは全く対称的な、非合理的な造形のなかに建築創造の可能性を追求した表現主義の流れをくむものとして、御影公会堂(昭和八年、清水栄二設計)、アムステルダム派の影響がうかがえる鐘紡の武藤記念館(昭和十年、竹中工務店設計)などがあり、一方これらとは全く逆に当時の風潮を反映して、日本の伝統様式を重んじ、鉄筋コンクリートの建築に和風の屋根をのせるといった国粋主義的な建築も現われるようになった。
 旧商工会議所(昭和四年)は、旧制神戸高工の校長であった古宇田実の設計で、和風のモチーフを壁面に多く使ったユニークな建物であり、新開地の松竹座(昭和五年)は、劇場建築として「舞」を舞う舞姫や翁の彫像を付けるなど、芸術性の高い建物である。なお日本の伝統様式を受け継いだ建物として白鶴美術館(昭和九年、竹中工務店設計)がある。
 このほか、今回はふれなかったが、阪神間のうち夙川、芦屋につづく六甲山麓の山手、岡本、住吉、御影、北野、須磨、塩屋などに明治、大正から昭和戦前期に建てられた数多くの近代住宅があり、これらは日本の住宅近代化のなかで、もっとも水準の高い内容を有するものとして注目される。
 神戸の町は、このように六甲山のみどりと青く深い大阪湾に臨む恵まれた地形を利用し、わが国近代の発展のなかで、つねにその先端を切り、きわめて質の高い、多彩な建築の展開がみられた。

神戸市教育委員会 坂本 勝比古


  • 白鶴美術館
    (東灘区住吉町落合、昭和九年)
  • 川池小学校
    (兵庫区上沢通一、昭和一〇年)
  • 第五管区海上保安本部、神戸水上署
    (生田区海岸通一、大正一二年)
  • 三星堂
    (生田区山本通2、大正15年)
  • 武藤山治記念館
    (兵庫区吉田町1、昭和10年)

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