66号表紙

No.66(昭和53年3月)

特集:

神戸の建物(上)

神戸の建物 ―明治・大正― 旧三菱銀行神戸支店の入口上部

神戸の建物 ―明治・大正―

旧三菱銀行神戸支店の入口上部

時代の先端をゆく神戸文化を形成

市立図書館分室(旧関西学院チャペル)(灘区王子町3、明治37年建設)

市立図書館分室(旧関西学院チャペル)(灘区王子町3、明治37年建設)


 洋の東西を問わず、いろいろな国や地方の都市を訪れて真先に目に付くのは、その町の建物のたたずまいである。そしてその町の思い出につながるものは、建築とそれを取巻く環境や人々の生きる姿がみられる雰囲気である。
 このように建築は、それぞれの町の空間のなかに定着し、その町に住む人々と一体となって町の性格を代表し、住む人や訪れる人々の心と網膜に拭い難い思い出を刻みつけるものなのである。
 建物が物語るもう一つの重要な意味は、建築はそれぞれの時代の文化をもっとも端的に表現しているということである。古代から現代に至るまで、建築は常にそれぞれの時代の政治、宗教、経済、社会などを総合した人間の英知の反映として建てられ、そこに時代に生きた人々の喜びと悲しみが込められているのである。したがってこのような建築の集合体としての都市は、都市と建築とのかかわりあいが、いかに重要なものであるかを、改めて感じさせるものである。言い換えるならば、都市や建築はその時代の文化のバロメーターといえるのである。
 神戸の町は古い歴史をもつが、今から110年まえの慶応3年(1868年)に世界の国々に港を開き、丁度この時、わが国は長い封建制度の時代を終って、維新政府による近代国家の誕生となった。神戸の町はわが国近代の幕明けと共に生まれ育ったといえるのである。
 今日のように航空路の発達がない時代に、数少ない外国への門戸であった神戸の町の賑いは、そのまま舶来文化の到来と受容を意味し、経済的な繁栄とともに、時代の先端をゆく独特の神戸文化を形成した。
 ここに紹介される多くの明治、大正、昭和戦前の建物は、わが国の近代建築群を構成するものであるが、同時にこの時代の歴史の証人として、この町の変転の歩みを無言のなかに語りかけているのである。
神戸市教育委員会 坂本 勝比古

洋風建築の移植


県立神戸高校記念講堂
(灘区城の下通1、明治33年)

 日本の近代建築は、幕末から明治初期にかけてもたらされた欧米の建築様式や技術の習得をもってその始まりとし、明治、大正、昭和戦前を経て、戦後の現代建築につながるのである。
 ここでは、兵庫開港から第二次世界大戦の開始(一九三九年)ごろまでの七十余年間を取り扱う。この間、日本の近代化は目覚ましいものがあり、建築もその例にもれず、幕末のころ、欧米の建築技術がもたらされたとき、煉瓦を焼く術さえ知らないといわれながら、急速な進歩を遂げて今日みられるような繁栄を築いている。神戸の近代建築は、国内的には関西のみでなく西日本最大の港湾都市として、また国際的にはヨーロッパや東南アジア大陸へのつながりをもつ地の利を得て、極めて質の高い多様な建築の展開がみられた。

 一般的に日本の近代建築導入期における主要な流れを、建築を設計した建築家サイドからみると、つぎの三つの流れがある。
 一、外国人建築家の活躍
 これは政府の御雇技術者として官庁に属していた者と、外国人居留地の建築に従事した民間の立場の者とがあった。
 二、日本人大工棟梁の活躍
 主として在野にあって、洋風建築を外人建築家の指導や独学で学び、和洋混合の独特な擬洋風建築を生み出した。
 三、日本人建築家の活躍
 もっとも遅れて登場するが、正規の建築教育を受け、やがてわが国近代建築の主流を形成していく。

 建築をみるうえでもう一つの大切な視点は、意匠やデザインという言葉で代表される建築の様式、かたち、各部と全体の比例関係、量感や色彩、材質感などがあり、さらに建築の空間を構成している構造や技術、技法などを感受することが望ましい。少し専門的になるが、その時代の建築思潮や設計者の作風を知ることも大切である。

  • ノザワ本社
    (生田区浪花町、明治14年)
  • 旧三菱銀行神戸支店
    (生田区相生町1、明治33年)
  • 西本願寺派兵庫別院
    (生田区山本通四、明治八年)

建物の洋風化を奨励

 兵庫の開港は安政五年(一八五八年)の条約で決定されながら、京都、大阪に近い地の利を得た重要性から延期を重ね、ようやく開港を迎えた。
 外国人居留地は、市役所前の旧生田川から西、旧西国街道を北辺とし、大丸の西側鯉川筋をメリケン波止場に達する一帯であった。
 この地域は英人土木技師J・W・ハートの手になる都市計画によって、西欧的な発想になる都市計画がなされた。海岸通、京町筋など東西の街路が整備され、下水道、瓦斯灯が配され、一二六区画に分けられた地所には、当時もっとも進んだ建築様式と技術をもった異人館が、外国人建築家の手によって建てられた。現存する浪花町一五番の株式会社ノザワ本社社屋の建物は、一部改造されているとはいえ初期居留地外国商館の面影をよく留めている。この建物は一見して目立たないが、壁を木骨煉瓦造とし、小屋組を洋式真束組、二階南面のベランダ、玄関ホールの意匠など外人建築家の関与が濃厚で、また明治二十年代以降山手北野町方面に発展する異人館の祖形を示す意味をもっている。
 殖産興業を旗印とした明治政府は、明治三年工部省を設け、産業の振興、海陸交通施設の整備に努めた。明治七年新橋、桜本町間についで神戸、大阪間の鉄道が開通し、同五年和田岬に工部省灯台寮の手になる木造灯台が点灯し、これは同十七年鉄骨造となり、現在須磨海岸に移設保存されている。
 文明開化の風潮は、建物の洋風化を奨励し県庁は布達を出して西洋造りをすすめた。この洋風化は官公庁や小学校にいち早く表われるが、日本の伝統的な寺院建築であるはずの西本願寺派の兵庫別院が、ギリシャ神殿の様式を模した和洋折衷の擬洋風建築で、明治八年という早い時期に建てられた。これは、キリスト教の上陸に対抗しようとした浄土真宗の積極的な布教の姿勢を示したものであり、大工棟梁の洋風摂取の意気込みが伺われる。

  • 旧神戸市庁舎・現県警交通部
    (生田区橘通1、明治42年)
  • 神戸地方裁判所
    (生田区橘通2、明治37年)
  • 重要文化財 旧小寺家廐舎
    (生田区中山手通5相楽園内、明治末期)
  • 山下新日本汽船神戸支店
    (生田区京町、明治38年頃)
  • 石川(株)ビル旧東京倉庫兵庫出張所)
    (兵庫区島上町、明治39年)
  • 兼松江商
    (生田区伊藤町、明治末期)

ハンセルの来神と異人館

 開港以来二十年を経過して居留地の外商たちの基盤がようやく安定してきた時期、明治二十一年英人建築家A・N・ハンセルが来日した。彼は以来神戸に居を構え、大正八年まで三十年余りこの地に住み、居留地内や山手の北野町、山本通に多くの商館や外人住宅を設計した。彼の作風は現存する山下新日本汽船社屋(旧ジャーテン・マセソン商会)の赤煉瓦の壁面が示すように、当時英国で盛んだった中世ゴシック讃美の思想を受けて、ゴシック風のモチーフを生かした建物を多く建てた。初期の居留地建築は、ノザワの建物が示すように、外壁を塗壁仕上げとし石造にみせたが、ハンセルは赤煉瓦のもつ美しさを生かした化粧煉瓦積を好んで用いた。山手に遺る彼の自邸(旧ハンセル邸)の屋根にみられる多面形の化粧煉瓦積煙突は、その表現の一つである。
 外国人居留地は、文化史的には神戸文化の発展に少なからず功献したが、政治、経済のうえでは不平等条約の産物としてその解消が強く叫ばれ、明治三十二年ようやく廃止された。しかし外国商館の勢力はその後も引続き維持された。
 異人館は北野町、山本通地区に多く散在して残存しているが、他に須磨一の谷、塩屋の海浜にもその遺構がみられる。北野、山本地区の異人館は年代も古く、質の高いものが多い。相楽園に移築された旧ハッサム住宅(重文、明治三十五年)、王子公園の隣接地に移築された旧ハンター住宅(重文、明治四十年)も以前は北野町にあったものである。昨秋重文に指定された風見鶏の旧卜−マス邸は、明治四十二年の建築で、設計者はドイツ人建築家G・de・ラランデであった。
 北野界わいの主な異人館として、他にディスレフセン邸(現門兆鴻邸、明治二十八年)、旧シャープ邸(現小林秀雄邸、明治三十六年)、旧ゲンセン邸(現神戸留日華僑総会、明治四十二年)、旧ビショッフ邸(現東天閣、明治二十七年)などがあり、いずれも木造二階建下見板張りオイルペンキ塗りで、ベランダ、ベイ・ウインドー、軒蛇腹、煙突などを有して、色彩感があり、神戸の異国情緒をゆたかにあらわしている。

  • 重要文化財 旧ハッサム住宅
    (生田区中山手通五相楽園内、明治三五年)
  • 旧ハッサム住宅の側面
  • 重要文化財 旧ハンター住宅
    (灘区王子町三、明治四〇年)
  • 旧ハンター住宅の玄関部分
  • 重要文化財 旧トーマス邸
    (生田区北野町三、明治四二年)

日本人建築家の誕生

 工部大学校(現東京大学)の造家学科を卒えた日本人建築家たちは、明治十二年をはじめとするが、最初は極く少人数であったため、神戸にまでその作品が現われるようになるには、同二十年代の後半を待たなければならなかった。
 神戸で彼等の作品の早い例は、旧三菱銀行神戸支店(三越百貨店の向い)であった。この建物は、工部大学校造家学科第一回卒業生曽祢達蔵の設計になり、煉瓦及び石を用いた堂々たるルネッサンス調の建物で、設計者の人柄がにじみ出た穏建な作風であるが、洗練されたプロポーション、品格のある意匠が、高い精度の施工とあいまって、格調の高い容姿をみせている。
 旧兵庫県庁舎(明治三十五年)は、明治初年に文部省の留学生としてフランスに渡り、パリの中央工業技術専門学校で学び帰国した山口半六の設計になるもので、彼は惜しくもこの建物の完成を待たず同三十三年死去するが、戦災に遭ったとはいえ、フランス・ルネッサンス調の典雅な外壁を遺している。山口半六の跡を継いだのが秋吉金徳で、この建物を仕上げたあと、神戸駅の近くにある旧神戸市役所(明治四十三年)の設計を行なった。
 湊川神社の東隣りにある神戸地方裁判所(明治三十七年)の建物は、県庁舎と違って赤煉瓦化粧積みの外壁をみせるが、これは明治十九年に国会議事堂をはじめ政府の中央官庁集中計画で設けられた臨時建築局の技師として渡独し、ベルリンでドイツの建築様式、技術を学んだ工学部大学校出身の建築家河合浩蔵の設計になるものである。この建物も戦災にあっているため、屋根の形状がかなり改変されているが、旧市役所や県庁舎と並んで明治時代の官庁建築の特徴をよく備えている。なお相楽園内にある旧小寺家廐舎(重文 明治四十年代)の建物は、河合浩蔵の手になるものである。
 このほか、市内に残る明治洋風建築として兵庫の島上町に石川商店ビル(旧東京倉庫兵庫出張所、明治三十九年)がある。これは前記曽祢達蔵が三菱技師時代に設計したものであった。栄町通りに面した大林組神戸支店(旧第一銀行神戸支店、明治四十一年)の建物は戦災を受け屋根の形状が変っているが、明治建築界の大御所であった辰野金吾の設計になり、彼が好んだ赤煉瓦と白い御影石を巧みに組み合わせたピクチャレスク風の扱いがみられる。下山手八丁目にあるカトリック教会天主堂(明治四十三年)は正面にロマネスク風ファサードをもつ建物であったが、近年の増築により外観を損じている。しかし内部は三廊式バジリカ形式の構成で旧規をよく残している。教会堂建築の一つ王子公園の一隅にある市立図書館王子分館(旧関西学院礼拝堂、明治三十七年)の建築は、当初プロテスタント系のチャペルとして、高い尖塔をもつ建物であったが、戦災のため焼損し、現在は壁面の大きなゴシック風尖頭アーチをもつ窓が赤煉瓦積の壁面と共に僅かに旧観を残している。

  • 垂水警察署(旧四元邸)
    (垂水区宮本町1、大正5年)
  • ステンドグラスの美しい署内
  • 第一勧銀神戸支店
    (生田区栄町通3、大正5年)
  • 舞子ホテル(旧日下部邸)(垂水区舞子台二、大正年間)
  • 兵庫県教育研究所(旧関西学院中学部)
    (灘区王子町4、大正7年)
  • 移情閣(旧呉錦堂別邸)
    (垂水区東舞子町、大正7年)
  • 朝日ビル(旧橋本汽船ビル)
    (生田区海岸通二、大正六年)
  • 大阪商船三井船舶神戸支店(右)(生田区海岸通、大正11年)と海岸ビル(旧三井物産神戸支店)
    (同、大正8年)
  • 重量感のある静かなオフィス街
    (大阪商船三井船舶神戸支店横)
  • 日本郵船神戸支店
    (生田区海岸通一、大正七年)

旧居留地に日系商社進出


海岸ビルの入口上部

 明治二十年代は文部省が学校教育の普及にともない、学校建築設備の整備に力をそそいだ時期でもあった。同二十四年尋常中学校設備規則制定が出て、これが一つの規準となった。この規準を受けた当時の木造学校校舎で現存するものは稀であるが、旧県立神戸一中(現神戸高校)の記念構堂がそれで、明治三十三年の建築になり、木造平家建で校庭の一部に移築保存されている。
 明治三十年代になると鉄筋コンクリート造建築の試作として、和田岬の臨港地区に東京倉庫の綿花倉庫が建てられた。これは土木工学者であった白石直治の設計になる二階建のかなり大規模な建物で、明治三十九年の完成になり、わが国R・C造建築の先駆をゆくものであった。建物は戦災に遭い現存していないが、この構造の建築が大正、昭和以降近代建築構造の主流となるだけに、当時の神戸港の重要性や、最新の構造技術が投入された実績を伺うことができる。  旧居留地の海岸通は、バンドとも呼ばれ、海からみた景観を重んじて、そこに建つ建物について、とくに意を用いることとなっていた。この海岸通の建築の移り変りは、そのまま神戸の近代建築の歴史を語りかけるものである。この海岸通はメリケン波止場の根元のところが居留地一番で、ここから東へ十二番までの地所が、もっとも高い価格で落札された。
 戦前この海岸通には、西から二番香港上海銀行 (明治三十五年)、三、四番に旧三井物産神戸支店 (現海岸ビル、大正七年)、五番に大阪商船神戸支店(大正十一年)、六番オリエンタルホテル(現存せず、明治四十年)八番、神港ビル(昭和十四年)九番チャータード銀行(昭和六年)など、それぞれ高い水準の建物が建って、整った景観をつくってきた。とくに大正時代第一次大戦の勃発により日系商社が居留地内海岸通の一等地を手に入れ日本人建築家の手になる質の高い高層オフィス・ビルを建てるようになったのは、きわめて象徴的なことであった。

  • 少年鑑別所(旧神戸証券取引所)
    (兵庫区下祇園町、大正10年)
  • 日産汽船ビル
    (生田区栄町通2、大正9年)
  • 海岸ビル(右)(大正8年)と全日本海員組合ビル
    (生田区海岸通3、大正14年)

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