58号表紙

No.58(昭和52年6月)

特集:

神戸産業のあゆみ(下)

知識集約型産業の先行

 神戸の産業は海から生まれた。明治後半から大正にかけて主力産業だったマッチも、大正後半からそれに代わるゴム産業も、製品を積み出す、あるいは原料を陸揚げする港なくして発展はなかった。港湾労働者とその家族が地場産業の底辺を支える一方、戦争ごとに活況を呈する造船所は、その下請け部品メーカーとしての機械産業を生み出した。分散した機械工場とゴム産業従事者が、やがて中小企業集団を形成するのも、自然のなりゆきである。
その間、輸入されたあらゆるものの国産化が始まり、定着した。〈ファッション都市コウベ〉の先兵をつとめる服飾関連業界にしても、紳士服に"神戸洋服"を確立したのは神戸の商人だった。婦人洋装も中国人経営の「順記」「瑞記」に始まりながら、ハイセンスをみがいて今日につないだのは神戸人だった。全国各地からやって来た人たちに土地のしがらみはない。それだけに自由に振舞え、ハイカラを喜ぶ精神がつくられた、とよくいわれる。
しかし、待別の資源、巨額の資金があるわけでない神戸で、生き抜くためにはアイデアで勝負するほかなかった。水族館、ゴルフ場、パーマネント、活動写真、地下タビ、石けん…から戦後のケミカルシューズまで、日本第一号は、いずれもアイデアの産物である。
ハイカラとは、神戸が生き抜く知恵なのだ。それを活用したのは雑種のしたたかさであって、うわついた感覚ではない。いや、生きるために感党をみがいた、というべきか。
米騒動(大正2)で焼打ちにあった鈴木商店は三井・三菱をしのぐ総合商社だった。三菱・川崎大争議(大正10)を労働運動史にとどめた造船所もある。鈴木の大番頭・金子直吉、川崎の社長・松方幸次郎、日本のマッチ王・滝川儀作もいる。しかし神戸の産業を語るとき、やはり持徴として浮かぶのは知識集約型の先行だろう。
大づかみにいえば、そのことは鉄鋼、海運から服飾、食品産業まで共通している。最新情報をつかみ、即座に商品化する柔軟性がそれだ。江戸時代からの伝統をひく灘の生一本も、酒だるから、輸入ビールのあきビンに酒をつめて売り出し、輸出用に陶器ビンを使った。戦後にはカップ型ガラス容器、竹を摸したプラスチック容器、アルミ缶…とアイデア続出。保守的といわれた酒造業界にしてこうである。
だからこそ今日、キッコーマンが紙パック入りしょう油を、パイロットが筆ペンを、専売公社が「エプソン」を、まず神戸で実験販売した。神戸で通用する商品は、全国の通用に耐える。その〈実験市場〉としての神戸は、同時に先進性をたえず求められている。
百年を越す産業の歴史を振り返るとき、そこからあぶり出される待性と課題は明確だ。それを地道に受けとめる手だてが、はたして進んでいるだろうか。いま一度、見直したいと思う。
(有井 基)

「神戸市産業歴史展」開催中
(センタープラザ15階、市立中小企業会館内)

神港倶楽部仮株券

明治二九年一一月一五日、高橋信治は日本最初の活動写真興行を神港倶楽部(花隈町)で行い、話題をにぎわした。「米国大博士エジソン氏新発明電気作用写真活動機械キネトスコープ」といわれ、現在の"映画の日"(一二月一日)は、これを記念して設けられている。

明治のホテル

明治一五年、京町筋(居留地八〇番)に建てられたオリエンタルホテルは、当時"居留地ホテル"という商号で人気を集めた。さらに明治四〇年、今のトアロードを北に突き当った北野町四丁目にトアホテルが開業。海岸のオリエンタルホテルに対して、山のホテルとして外人から親しまれた。そしてトアホテルヘ続く道ということで、いつの間にかこの南北道路はトアロードと呼ばれるようになった。

ダンロップゴ厶

イギリスの大企業ダンロップの代理店が神戸に進出したのは明治39年。42年にはダンロップ(極東)護謨として創業、ぼっ興し始めたゴ厶工業へ多くの技術をひろめ、神戸が日本のゴ厶エ業の中心となる土台づくりに大きく貢献した。今の住友ゴ厶がその後身である。

神戸製鋼所

明治末期は、わが国の重工業のぼっ興期だった。明治から大正にかけて、神戸を舞台に、世界的な規模で活躍した大商社・鈴木商店は明治38年、小林製鋼所を買収して神戸製鋼所と名付けた。そして明治44年6月、鈴木商店から分離し、株式会社として独立した。

阪東調帯(現バンドー化学)

明治三九年、榎並充造が「阪東式調帯合資会社」として設立。社名を「阪東」としたのは、木綿調帯の研究に一六年を費し、わが国最古のベルトとして特許を得た阪東直三郎の功労にこたえたものである。

三菱神戸造船所

明治三三年六月、三菱造船が進出してきた。三菱重工業の前身である。四〇年には一万二千トンの浮きドックを建造、川崎と競合する立場を占めた。

ライバル阪神・阪急

明治38年、阪神電車は三宮〜出入橋(大阪)を開通。これから15年遅れて大正9年年旧箕面有馬鉄道は阪神急行電鉄と改名、神戸〜大阪間40分と時間を短縮した。翌年、阪神も急行を登川させ、「待たずに乗れる阪神電車」「いつでも座れる阪急電車」などキャッチフレーズ合戦も盛んとなった。

神戸有馬電気鉄道(のち神戸電鉄)誕生

大心15年3月設立。それまで"陸の孤島"として六甲山系にさえぎられていた有馬が、電車の開通によっで直結された。

兵庫電気軌道(のち電陽電鉄)

日露戦争後の大不況に見舞われていた明治40年7月、兵庫電気軌道(株)が誕生。同43年3月に兵庫〜須磨間が開通し、初めて神戸から西に向かって電車が走った。そのご塩屋〜明石、明石〜姫路と路線を延長、昭和6年6月に山陽電鉄となった。

鈴木商店系統図

鈴木商店の隆盛と崩壊

鈴木商店は明治一〇年ごろ鈴木岩治郎の個人商店として出発した。一六年ごろには洋糖商としてかなり知られていたが、急伸したのは岩治郎の死後、未亡人ヨネを盛り立てた番頭金子直吉が、柳田富士松、西川文蔵らの名補佐によって運営に当ってからである。
第一次大戦当時は三井物産、三菱商事と天下を三分する世界的な大貿易商社となった。直系・傍系の会社を合わせると六〇余、資本金総額五億数千万円といえば、その規模は知れるだろう。
だが、第一次大戦後の反助でつまずき、次第に衰退した。ワンマン金子の旺盛な事業欲、支配欲が原因で、株式資本に伴う株主からの注文をきらったため、特殊銀行からの借入れ資本にたよりすぎて減資もできず、高利を払うハメになったからだ。大正七年、米騒動で栄町通りの本店は焼打ちにあい、昭和二年の金融恐慌でついに破産、一代の栄華はついえた。
しかし、商事部門は日商が継承、神戸製鋼所、石川島播磨造船所、帝人、豊年製油などいずれも鈴木商店の遺産である。その系譜、人脈をたどれば、まさに"鈴木王国"の感が深い。

クスノキの化石

大正の初め金子直吉が知人か贈られたもので、クスノキは樟脳の原科。形が手のひらを広げたようなところから、樟脳界を掌握するめでたいしるしとして座右から離さなかった。

「天下三分の計」

大正六年、金子直吉がロンドンの高畑誠一支店長(のち日商社長)にあてた手紙。鈴木商店の計画がことごとく図に当って大もうけしたことを述べたあと、「三井、三菱を圧倒するか、さもなくば彼等と並んで天下を三分するか」と快気炎をあげている。事実、最盛期の大正八年には、取扱高一六億円。三井物産にも大きく水をあけたのだが…。

船鉄交換記念の時計

大正六年、アメリカが鋼材の輸出禁止を決めたため、資源のない日本は大あわてした。金子はアメリカのローランド・モリス大使と強硬な談判のすえ、「鋼材の三分の二を船にして返す。残りの三分の一は日本のために使わせてもらう」と説き伏せて協約成立。これは、それを記念してモーリスが金子に贈った時計である。

新開地のシンボル

大正二年八月、東京帝国劇場を模した聚楽館が現在地に建てられ、「ええとこ ええとこ 聚楽館」と盛り場新開地のシンボルとなった。

元町通

デパート進出

わが国で最初に欧米風のデパートがデビューしたのは明治四〇年四月の東京・三越。神戸では四一年六月、元町四丁目に大丸呉服店がコンクリート二階建ての店を開いたのを始め、十合(そごう)呉服店、さらに大正に入って新開地の白木屋・神戸デパートが開店した。大正一四年一〇月、商店主たちが合同で六階建ての「元町デバート」を始めたが、九ヵ月で三越に身売りした。今の三越神戸支店である。昭和二年、大丸が現在の明石町へ進出、八階建ての偉容で市民のドギモを抜いた。また、昭和八年にはそごうが元町一町目から現在地へ移った。

第一回みなとの祭

昭和八年二月、みなと神戸の開港を祝って第一回みなとの祭が実施され、祭の女工戴冠式、国際大行進、懐古行列、海上ちょうちん行列などがにぎやかに繰りひろげられた。

灘神戸生協創設

大正一〇年五月、社会運動家賀川豊彦らの指導で武庫郡住吉村(現・東灘区住吉町)に灘購買組合が設立された。初代組合長は那須善治で、発足当初の組合員は三〇〇余人、従業員はわずか六人。それが今日では組合員四二万人、年間供給高一、ニ○○億円という日本一のマンモス生協になった。当時の社会情勢は、大正七年に第一次世界大戦が終結、この反動で日本の産業は大打撃を受け、不況と物価高の中で生活は苦しさを増していた。

婦人の洋装化

神戸の婦人の洋装は居留外人に始まるが、婦人子供服店の最初の経営は中国人だった。明治四〇年ごろ「瑞記」を合併した「順記」は、横浜の「雲記」と並んで特に有名だった。だが婦人の洋装化はずっと早く。二〇年前後のいわゆる鹿鳴館時代に、県令森岡昌純が吹化第一を妓吹し「町家の子女にして洋装する者また往々にして之ありし」(神戸市史)という。同じころ婦人の束髪が流行。靴をはく婦人が日立ってふえている。

ビン詰め清洒

"灘の生一本"が現在のようなビン詰めにされ、全国に送り出されるようになったのは明治後期である。それまでは大きな四斗樽で関東などへ送られていた。最初にビン詰めにしようと思いついたのが、灘五郷の本嘉納商店(現・菊宗酒造)で、ヒントは、そのころ輸人されていたビールのビンである。明治20年に輸入ビールのあきビンを利用して売り出したが、そのご酒の加熱処理の研究が進み保存がきくようになると、清酒のビン詰めは本格化した。
 また、明治の末にはアメリカへの輸出用として、日本の伝統的な陶器が容器として利用されるようになった。

国際貿易港・神戸へ

みなと神戸は、文字通どおり港とともに大きく発展してきた。めぐまれた自然条件このもと、明治元年に第3波止場(メリケン波止)が誕生、同年10月には挿くも貿易船第1号が入港し、貿易港としての第一歩を踏み出した。明治40年9月、神戸港第1期修築工事が始まり、15年の歳月をかけて第1から第4突堤までが完成、ほぼ現在のような形がととのった。それとともに日本の海の玄関としての地位はゆるぎないものとなった。

神戸市の産業の歩み(下)
明治32年(1899) ・居留地返還(神戸市に編入=7月17日)・神戸互斯(株)設立(昭20、大阪互斯に合併)・東京〜大阪問長距離電話開通
35年 ・神戸高等商業学校創立(4月1日)・鈴木商店、小野浜樟脳所を設立
36年 ・湯浅精糖所(同41年から神戸精糖と改称)設立
37年 ・日露戦争勃発(2月9日)・三井船舶部、門司から神戸へ移転
38年 ・阪神電鉄、三宮ー大阪出入橋間開通(4月2日)・鈴木商店、小林製鋼所を買収、神戸製鋼所と改称・神戸三菱造船所設立
39年 ・神戸電灯(株)、電力配給を開始(3月)・阪東調帯(現バンドー化学)設立
40年 ・兵庫電気鉄道(株)(後の山陽電鉄)設立
41年 ・イングラ厶会社設立・大丸、元町に開店・ブラジル移民第1船「笠戸丸」出港
42年 ・ダンロップ護謨(現住友ゴ厶工業)設立・市庁舎新築落成(12月18日)
43年 ・岡崎汽船設立、神戸船主のはしりとなる・神戸電気鉄道、市街電車(春日野道一兵庫駅)を走らす(大正6年に神戸市が買収、名実ともに市電となる)
44年 ・川崎造船所兵庫分工場、蒸飢機関車第1合をつくる
大正元年(1912) ・川崎造船所にガントリークレーン完成
2年 ・衆楽館オープン
3年 ・第1次世界大戦勃発(7月28日) 
4年 ・神戸製鋼所、脇浜地先埋立に着手(同9年5月竣工)
5年 ・大戦に伴う海運ブー厶起こり、船会社設相次ぐ
6年 ・神戸岡崎銀行(現太陽神戸銀行)設立
7年 ・米騒動発生(8月12日)鈴木商店焼かれる・川崎製鉄、川崎造船所の葺合工場として操業開始・第1次世界大戦終結
8年 ・三ッ星商会調帯製造所設立・川崎汽船設立
9年 ・阪急電鉄神戸線(終点・上筒井)開通(7月5日・第1回国勢調査実施(神戸市人口608,644人)
10年 ・川崎、三菱造船所で労働争議(7月7日)
12年 ・関東大震災・神戸市は生糸検査所設立・神戸港、内務省指定の重要港湾となる
15年 ・日本燐寸工業組合設立・元町通に鈴蘭灯出現・三越神戸支店開業
昭和元年(1926)
2年 ・金融恐慌起こる(2月)・鈴木商店倒産(4月)・国道電車、脇浜−西野田間開通(7月)
3年 ・神戸有馬電鉄(現神戸電鉄)湊川−有馬温泉間開通・神戸市、川崎造船所に300万円を低利融資
5年 ・神戸港の輸出貿易額全国1位(35%を超す)
6年 ・満州事変勃発(9月18日)
8年 ・第1回みなとの祭嘘行・阪神電鉄、三宮地下乗入れ
11年 ・軍事経済と結びついた重化工業の進展に伴い、市内機械金属業の従業員数が全製造業の58.9%に
12年 ・日中戦争始まる(7月7日) 
13年 ・阪神大水害発生(7月15日)
14年 ・市内染色工業の全国比重高まる(輸出入絹織物の1/4を市内で染色)
16年 ・太平洋戦争勃発(22月8日)・物資統制令公布
20年 ・終戦(8月15日)・神戸貿易協会発(12月)・神戸市人口38万人

資料提供(敬称略)

荒尾親成、神戸新聞社、菊正宗酒造、バンドー化学、住友ゴム、阪急電鉄、阪神電鉄、神戸電鉄、山陽電鉄、南蛮美術館第七回神戸まつり

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