49号表紙

No.49(昭和51年7月)

特集:

こうべのあけぼの(下)

極東のモデル居留地

東遊園地にある大噴水。同遊園地は噴水と彫刻と緑いっぱいの都心の公園に生まれ変った

 居留地の維持管理については、さきに締結した居留地約定に規定されている。そこで、各国領事が会同して居留地会議を組織し、その決議執行機関として居留地行事局を設け、行事選挙手続きを定めて三人の行事を選出した。その時期は明らかでないが、恐らく第一次競売(慶応四年七月)の前後であったと思われる。選任された行事は、K・R・マッケンジー(英グラバー商会 居留地区画十一番)J・S・ブランデンボルグ(米スミス・べー力―商会 三番)ポール・ハイネマン(独アスピナル・コーンズ商会 一番)の三名であった。
(行司とも書く)は領事団の監督下にある居留民の自治機関であり、その下に「取締」を置いて警察権を掌握した。また居留民団が消防隊を編制したが、これも行事の指揮下においた。
このように、居留地行事は居留地諸施設の維持管理、積立金の保管などに任ずるだけでなく、警察・消防をも合わせもったので、安政の条約で定めた「領事裁判権」と共に、居留地におけるわが国の主権は大きく制約を受けた。条約上では日本の役人(知事)が協議に参加することになっていても、それは単なる形式に過ぎず、居留地は日本の行政権が及ばない一小都市国家のような存在となったのである。
しかし、行事は道路・みぞ・公園などの公共施設の維持管理について積極的に努力した。たとえば、建物を建てるにも市街の美観を第一義とし、電灯線を敷設した際も電柱を許さず地下配線にした。今の京町はその名ごりをとどめていてほとんど電柱が見当らない。
後年、条約改正後の居留地返還式でフランス領事フォサリュウが、「三十年前に日本は外人に居留地を渡した。その場所は松林と砂地で全く価値のないところだった。今日、私たちは同じ場所を立派な建物と、商品でいっぱいの倉庫を持つ美しい街としてお返しする」と誇らしげにあいさつしたのも、極東のモデル居留地といわれるまでに育て上げた行事たちの業績の証明に外ならない。

緑にかこまれた東遊園地の彫刻「エーゲ海に捧ぐ」

神戸のメインストリート、フラワーロ−ド

居留地警備の関門があった生田神社鳥居前。今は車の往来が激しい

東遊園地ぞいのフラワーロード

加納町三丁目交差点にある旧生田川址

加納町3丁目交差点の横断歩道橋から三宮をのぞむ

川ぞいのグリーンが美しい現在の生田川

居留地の警備を強化

 外国人保護は政府に課せられた国際的義務であった。それは、神戸事件のような不祥事件は二度と起こさないと、東久世卿らが外国に誓約したときに始まる。当時、神戸の周囲には幕府が設けた柵(さく)門十四ヵ所と、のちに貿易荷改めのための民間人で設置された柵門三力所があった。このうち福原遊廓前(今の東川崎町一丁目付近)、二ツ茶屋村市場町(宇治川の東岸、今の三越神戸支店付近)と生田神社鳥居前の三ヵ所には薩摩・長州二藩の兵を配置して警備を固めた。
慶応四年三月(この年九月八日に明治と改元)、兵庫裁判所は神戸村・走水村・二ツ茶屋村の三村に対し、政府役人と警衛兵士の外は何人も止宿することを禁じ、生田神社鳥居前関門は居留地入口にあたるので帯刀者の通行を厳禁した。
明治二年四月、和歌山藩がこれと交代、さらに八月には岸和田藩兵が増援のため神戸に来た。岸和田藩兵は初め北野村に駐屯し、翌三年三月以降は居留地東南隅の元海軍操練所の構内に移り、居留地警護に専任、四年十一月に任を解かれて去った。
神戸関係以外では、明治二年一月に世情鎮静にともない各所の関門は無用となり、すべて撤去されたが、神戸関係の関門だけは居留地警備の必要から残されていた。四月以降になって関門通行の制限が解かれたが、帯刀者は兵庫県庁の印を押した鑑札を携帯しなければ門内に入ることは許されなかった。その鑑札は縦二寸五分(約六・四センチ)横二寸(約六センチ)ぐらいの木札で、表に兵庫県庁の四文印を烙印(らくいん)し、裏に「一人」と墨書していた。それで外来者が神戸市内や居留地を見物しようとするときは、神戸の住民に鑑札を借りたという。
四年一月ごろ、地方では廃刀令など政府の施策に不満を抱く旧武士階級の不穏な動きがあり、兵庫県は居留地警備の強化を兵部省に具申した。そこで再び和歌山藩兵二個小隊が神戸に派遣され、関門や見張所の警備についた。同年七月、それまで昼夜とも門を閉じていたのを廃止し、牛馬車の出入りを許したが、荷改め(検査)のことでいろいろ不都合があったので再び門を閉じ、午後四時以降の貿易荷物の通行を禁止した。居留地の警備が解かれたのは同年十月で、関門番所もことごとく取払われたので、神戸の市街はようやく自由に通行できるようになった。

多かったいざこざ

居留地の警備と関連して、外国人の遊歩(旅行)についても保護警備の都合で制限されていた。日米通商条約第七条には、「日本開港の場所に於て、亜米利加人遊歩の規程左の如し」とあり、兵庫に関しては、「京都を距る事十里の地へは、亜米利加人立入らざる筈に付き、其方角を除き各方へ十里、且つ兵庫に来る船々の乗組員は、猪名川より海湾迄の川筋を越ゆべからず」と規定した。他国との条約も同様である。
それで明治二年一月、兵庫県は外国人遊歩規定を公布した。外国人が往来できる区域は、東は摂津国川辺郡小戸村・曽根村・平井村・中島村、西は播磨国印南郡曽根村・阿弥陀村、南は海、北は摂津国川辺郡大原野村、丹波国多紀郡川原村・上宿村・八上下村・谷村・犬飼村、多可郡田高村・明楽寺村・横尾村を結ぶ区域内であった。
この規定に対し各国領事は「十里は直径であって道程ではない」と主張してやまなかったので、明治七年三月、兵庫県は外務省に善処方を申し入れたが、すでに条約改正を企図していた外務省は、従来の慣習により適宜取扱うように、と回答してきた。そこで県も外国側の直径説を認め、東は京都をへだたる十里以西に改め、西・北については多可、川西、印南三郡と多紀郡にわたる区域内を指示し、同年十二月、遊歩規程図を作成して各国領事に配布した。
また、外国人が神戸の外に出て宿泊したり、商売をすることは政府の許可を必要としていたが、この規制を破る者が少なくなかった。明治二年十月、兵庫県が英国領事に対しこの件について照会したところ、領事は「外国人居住のために開いた場所から定められた境界内の通行については妨げられないはずである。イギリス国民のどのような行為にも日本官吏は妨害してはならない」という趣旨の回答をしてきた。
これについて県は外務省に伺を立てたが、外務省は「十里以内はすべて開港場というわけでないから、その条理をよく説明するように」と指示した。そこで、規程内は遊歩を許すが商売は神戸以外では禁じることを再確認したが、その後もなお外国側とのいざこざが絶えなかった。条約の文章が具体性を欠いていたのにも一因はあろうが、外国側にも本国の勢成を笠(かさ)に着て横車を押す態度があったことも否めない。

権利主張の強い外人

 このほか、土地をめぐる紛争も日本人と外国人の間でしばしば起こったようである。その一例として、英国領事館の敷地問題がある。
英国領事館は開港と同時に設けられたが、まだ居留地造成工事に竣工していなかったので海軍操練所の建物を借りて仮領事館としていた。この貸借については格別の協定がなかったので、明治元年十一月、県は土地建物の貸付料を毎年洋銀九百六十枚と定め、居留地以外の政府直轄地であるところから地券は交付しなかった。
ところが、三年足らずして政府はここを鉄道用地にすることにし返還を要求したが、英国側は、期限満了後であっても当方が必要とすれば継続使用の権利があると主張し、政府もやむを得ず貸付を継続することにした。その間、土地の一部を民部省鉄道寮が使用していたが、英国は契約を盾に取って逆に明け渡しを求め、そのうえ、ここに領事館を新築したいから建物を取こわしてほしいと要求した。結局、県が取こわすことにしたが、土地の境界でまたもめ一向にらちがあかない。
そのうち英国側もこの地に建築するのをあきらめたのか、領事館は居留地九番に新築されることになった。空家になりた操練所の建物は払い下げられて奥平野村へ運ばれ、明治八年開港した奥平野村・夢野村・石井村共立小学校の校舎になった。今の湊山小学校はその後身である。
また、開港当初に英国人キルビーが生田川の東倒で土地を借り、屠牛場として使用したが、地代を全く払わないので地主が随分泣かされた例もある。外国人に権利主張が強く、それに弱い当時の日本人から見れば、私欲飽くなき強情者と映ったことだろう。

生田川の付替え工事

 居留地の整備が進むにつれ、どうしても生田川の付替工事を急がねばならなくなった。当時の生田川は、布引の滝から現在の中央市民病院、加納町三丁目、市庁舎前を流れ、税関のところで海へ注いでいた。平常ば水も少なく静かな川だが、いったん雨が降ると鉄砲水になり、たちまち堤防を崩して西側の居留地や東側の外人墓地を水びたしにした。
この堤防改修問題は早くからやかましくいわれていた。「神戸居留地覚書」にも生田川の堤防の保護は日本政府の責任と明記され、その工事は続けられていた。しかし、十数万両を投じてもなお万全を期すことは難しいとのことだったので、政府は付替えることに決め、明治四年三月着工した。これが今の生田川である。
この工事で二千坪余の田畑がつぶされ、そのかわり旧川原敷と堤防が整地されて五万九千余坪の土地が生まれた。このうち中道以北は競売され、神戸上組の加納宗七と和歌山県人有本明が同額であったため、二人の共有になった。こうして新しく市街地になったのが今の加納町、琴緒町などである。現在の市庁舎は旧生田川の西堤防の上に建てられていることになり、市庁舎前の旧生田川を埋め立てた道路はいま「フラワーロード」と呼ばれている。

典拠のない居留地の町名

 明治五年ごろになると、居留地内の道路その他もようやく整備され、整然と区画された宅地にぞくぞくと洋館が建ち並んだ。それで東西の通りに、南から海岸通・前町・仲町・北町・裏通。そして南北八条の筋に、東から東町・伊藤町・江戸町・京町・浪花町・播磨町・明石町・西町と名づけた。これらの名称は伊藤俊輔と英人技師ハートが協議した時につけられたのであろう。慶応四年に作られた「伊藤俊輔英人ハート立会分見絵図」に片仮名で記入されているし、明治三年に改めてハートが製図した「神戸外国人居留地地図」にもローマ字で記入されている。
南北八条の町名には何の典拠もない。東にあるから東町、西にあるから西町であり、江戸・京・大阪(浪花)の名や播磨・明石など語呂のよい地名をそのまま用いたのに過ぎない。伊藤町は居留地開設の責任者であった伊藤俊輔が自分の姓をつけたもので、他の人が伊藤の功績を讃えて命名したわけではない。

近代的公園の始まり

外人スポーツクラブのテニスコートと並んで、一般市民向けに開設された磯上公園球技場がある

生田区明石町のビル街。この南西に「外国人公園一前町公園」があった

KR&AC(神戸在住外人スポーツクラブ)の磯上テニスコート。元東遊園地にあったのがここに移された

美しい緑がせまるようなトア・ロード

都心の繁華街からゆるやかな勾配で山手へ通じるトア・ロード

 外国人はスポーツ好きである。何人かが集まればすぐスポーツの話題になるが、実際にするとなるとその場所がなかった。明治二年十月、米国人ポール・フランクは自ら各国人総代と称し、東町に隣接する旧生田川堤防敷四千百五十坪余の借用を願い出、県は一ヵ年地代坪当り二分(五十銭)で許可をした。
ところが十二月に入って、英国副領事ジェームス・エンスリーが県に対し抗議書を送ってきた。「フランクは外国人を代表する者ではない。当該地はすでに各国人遊園地として使用することを日本政府は容認しているはず。個人に貸与するのは大坂兵庫約定書第八条に違反するので、早急に返還させるべきだ」という趣旨であった。
兵庫県はこの抗議に大いに驚き、地券返納方を交渉したがフランクは一向に承知しない。彼は当時、米国領事代理であった。三年二月、外務省と米国公使の折衝によって返納が決まったが、それでもフランクは従わず、四年三月、県は外務省の命を受けて一万両をフランクに支払い、同地を取戻した。そのころには既にクリケッ卜や競馬が行われていた。
そして年が明けると、外国人の中で当該地の四隅に「外国人居留遊園」の標柱を立て、整地工事を始めた者がいた。県が居留地行事局に照会し、その不法を責めたが要領を得ない。再び外務省と米国公使の交渉にエスカレートし、責任者を処分することになったが、同時に、改めて公園地として貸与することを約束し、六年一月に実施した。名称は「内外人遊園地」とし、開設費用の一半は神戸に負担させ、営繕費用は居留外国人の負担にするかわり無償貸与するというのが大蔵省の方針であった。これに対し県令神田孝平(たかひら)は強く異議を唱えた。「神戸には生田神社、諏訪山、布引のほか天然の良い公園がある。しかも人情、風俗を異にする外国人と遊楽を共にしようとする者はまれである。神戸の人民に費用を負担させて内外人共有の遊園を開設する必要がどこにある。たって作るなら政府が支出するがよろしかろう」

神戸からスポーツ普及

 この抗議で神戸は費用の負担を免かれた。しかしその後も、外国側は「兵庫居留地集議院支配遊園地」などと称え、日本側は「内外人民偕楽遊園」とするなどの食い違いがあり、外人への貸借についても紛議が絶えなかったが、明治八年八月十九日、東京で外務卿寺島宗則と関係各国との間に条約が結ばれてから「内外人公園」と称した。
ここで、ラグビー、サッカー、ホッケー、テニス、野球、クリケット、陸上競技などのスポーツが外人によって盛んに行われ、やがて日本人にも普及していった。神戸における近代式公園、運動場の始まりであり、近代スポーツの発祥地でもある。
この公園は明治三十二年七月十七日、居留地と共に日本側に返還され、同時に兵庫県知事から神戸市長に引継がれて名称も「加納町遊園地」に変更された。そして、今の「東遊園地」に改称されたのは大正十一年九月である。
また、東遊園地以外にも、海岸通に「海岸遊園」と、居留地西端に「外国人公園」というのがあった。海岸遊園は明治三年の「神戸外国人居留地地図」に、PROMENADEと記されているが、海岸通と海岸の間の道路敷二千二百坪の中に区画をして、芝生や松の木などを植えて開設された。遊園地としての設備はないから、文字通りの遊歩道であったようだ。この場所で婦人達が着飾って散歩したり、夏の夜には軍楽隊が演奏をするなど、外国人にとっては野外の社交場でもあった。今では自動車の往来が激しい浜手幹線の一部になっており、昔の面影はない。
外国人公園は、前述の「神戸外国人居留地地図」には、PUBLIC GARDENとある。ここはもと神戸村の墓地であったが、明治三年春、イギリス、オランダ両国領事が伊藤知事の在任中にこの地所を借りたとして整地工事を始めた。県が同知事に照会したところ、そのような事実はないとの返事。そのご返せ、返さぬの押問答の末、四年九月に県が折れて貸すことになった。
公園は北は三十二、三十三、三十四番に接し、東は明石町、南は前町、西は鯉川に面した。返還後は「前町公園」と改称されたが、のち逓信省に移されて三宮郵便局ができ、そのご最近まで神戸中央電報局や生田消防署がここにあった。

山の手に外人住宅街

 ところで、居留地の造成がまだ完成しないころ、政府は外国側の要望により居留地外の居住を許した。その区域は宇治川以東、つまり神戸・二ッ茶屋・走水・生田宮・中宮・城ヶ口・北野・花隈・宇治野の九ヵ村であった。政府としては居留地が完成するまでの暫定的処置のつもりであったが、雑居地に居住する者が以外に多く、居留地百二十六区を全部売り切った後もこれらを収容することが出来なかった。
雑居を禁止すれば居留地拡張の要求が出るかもしれないので、うやむやのうちに雑居禁止問題は消滅した。雑居地居住者のうち民間人と契約した者は実数をつかむことが出来ないが、明治七年の兵庫県の調査によると、政府の永代、無期限、および有期限貸の総計は三万七余坪にのぼっている。永代貸はおおむね山手に多く、これらの番号は契約順に「山一番」「山二番」というふうにつけられた。明治二年二月、英人ガワーが花隈村で地所二千四十九坪を借りたのが最初である。
無期限貸は実質的には永代貸と同じで、これには「雑居地何番」と番号をつけた。有期限貸には五年、十年、二十年などがあるが、いずれも満期後引続き借用する権利を保留しているので、実際には無期限のようなものだ。これらはおおむね海岸に近いところで、住宅よりも事務所・店舗の類の方が多かった。
いずれにしろ、神戸の山手(今の北野町・山本通界隈)に異国情緒ゆたかな外人住宅街が生まれたのはこの雑居地制度によるもので、神戸港を一望に見渡すことのできる高台を彼らがえらんだのは至極当然といえる。

治外法権の居留地内

 居留地行事局(三十八番、今の大丸神戸店の東南隅)の中に警察署が設けられたのは明治七年四月である。しかしそれまでにも行事局が警察業務を行っていたことは、兵庫県の「ポリス職務規則」(三年十二月十二日制定)に、「外国人居留地の儀は、居留地行事並に彼方『ポリス』等も相備え有之、取締之規則も別段相立居候儀に付、居留地は当方に於て巡邏に不及」とあるのを見ても分かる。居留地約定第八条の「居留地取締」というのがそれで、のちに行事局長または工部局長ともいい、行事局が設置されたとき、C・H・コブデンが初の行事局長に採用された。
 この職務は警察業務だけでなく、行事会議の書記、居留地積立金の保管、道路・下水道などの維持管理、公園の管理、常夜灯の点灯、日本政府の出先機関との交渉など任務の範囲は広かった。
 コブデンは間もなく辞職、アベル・ガワー(のち英国領事)が後任となるがこれも辞職、五年にヘルマン・トロチック(スウェーデン人)が雇われ、居留地返還までその職にあった。
 警察署発足当時はトロチックが警部、部下に清国人の巡査が二名(のち六名)いた。十四年ごろには外人巡査二名、日本人警部一名、同巡査八名に増員されている。日本人巡査は、一般警察官(二等巡査)の中から優秀な者が選抜され、棍棒、呼子笛などを持って居留地内をパトロールした。居留地警察には十数名を収容できる留置場も設けられていた。
 居留地内は治外法権の建前から、日本側の警察官は犯人の追跡や逮捕のため居留地内に立ち入ることは出来なかった。前述の「ポリス職務規則」に、「通行の節喧嘩口論犯科の者見掛候か、又は雑居地にて見掛け、居留地へ逃込候等は、其時々逮捕掛へ申し立て候はば同掛に於て取扱可申事」とあるように、犯罪者が居留地へ逃げ込むと日本側の警察官は上司の逮捕掛に申申告した日本側は県知事名で犯罪人の引渡しを交渉するのだから手間がかかる。その間に逃げられることもある。また、商館の住込み使用人が居留地外で逮捕された場合もいちいち通知しなければならなかった。
 居留地警察署は明治三十二年十月十七日に兵庫県に引継がれ、神戸警察署明石町派出所となり留置場も引続き使用された。

消防隊長シムの功績

東遊園地南端にある旧居留地消防隊長A・C・シムの碑

 居留地行事局は消防組織も掌握していた。行事局はまず消防隊を設け、ポンプなど消火器具一式をそろえ、隊長を居留民の中から選んだ。消防隊長の下に組長二名、これも外人で、その下に沖仲仕五十名を消防夫として、雇い入れた。消防夫は二組編成、平常は消防器具置場に起居し、県からも毎年若干の手当て(二円)と印半天が支給された。
居留地が日本側に返還される直前の明治三十二年七月五日、消防隊長アレキサンダー・キャメロン・シムはポンプ二台その他消防機具一切を神戸市に寄付した。神戸市では居留地返還後も旧居留地のために消防組一組を設け、消防小頭四人、消防夫百名を配備し、シムにはそれ以後も現場において警察官と共に消防組を指揮する権限を与えた。シムは居留地消防隊の開設以来の隊長を勤めた功績をたたえられ、終生兵庫県消防団の名誉顧問に推された。
消防器具類が神戸市に寄付されたのは、条約改正が実施されると消防隊が廃止されるかもしれないと心配したためで、神戸市が引続き管理し、消防に使用することを条件としていた。
シムの記念碑は、東遊園地の南端に建てられている。彼は居留地の娯楽、運動施設の拡充に努力しただけでなく、慈善事業にも貢献した。本業は十八番館で医薬・化粧品などの輸入業を経営し、かたわら清料飲料水の製造阪売も行った。本邦初の「ラムネ」である。明治三十二年十一月二十八日、チフスで死んだ。六十歳だった。

石油ランプからガス灯へ

エキゾチック神戸のシンボルともいえる異人館(山本通三、シュエケ、門兆鴻氏邸)

"夾竹桃"の咲く白い異人館(生田区北野町三、小林秀雄氏邸)

 神戸のガス事業は居留地に始まる。明治五年五月、テキシトル商会、モリアン商会などが資本金三万ドルでガス会社「ブラウン商会」を設立し、県に出願した。県はこれを許可し、自ら三株出資することを決めたが、大蔵省は県の独断を難詰し、ガス会社をいったん許可すれば将来日本人の手に移すのは容易でないから、設立は許可しないと通告した。そこで外人側は日本人との共同事業に切替え、資本金を六万ドルにふやして小野浜外人墓地に隣接する土地約千坪の貸与を願い出たところ、神田県令は中央に伺うことなく許可した。
このことで外務省からは厳しく責めてきたが、神田県令は処置の不当でないことを固執したので外務省もやむなく黙認した。しかし大蔵省の態度がまだ決まらないうちに、外国側は注文した機械類がロンドンから到着したから早く土地を貸せと迫る。そのようないざこざがあった後、明治七年十一月、内務省は居留地内に限ってガスを供給れることを条件に許可を下した。ブラウン商会は組織を変更して「兵庫瓦斯株式会社」となり、居留地内にガスを供給した。これから居留地の常夜灯(石油ランプ)はガス灯にかわった。
リヒアルト・K・ライフ氏の「神戸元居留地生活の思い出」の中に、ガス灯の点灯風景が次のように描かれている。
夕刻になると、瓦斯灯屋が軽量の梯子を左肩に、鉄のパイプの先端の周囲に通風孔をあけたところから炎と黒鉛を棚引かせた舶来タイマツを右手に持って、街の瓦斯灯に近寄り、左手で軽く灯柱のトップの横桁を引っかけ、捻子をあけて瓦斯灯の底の一部を棒の先で突き上げて中の火口に点灯するのであるが、その動作の身軽で早いことは、子供の眼にも驚異であった。
ロンドン製のこのガス灯は、居留地内に九十四基設置された。今、その二基は相楽園内の旧ハッサム邸前に、一基は大丸北側の歩道に、一基は愛知県の明治村に保存されている。次に神戸でガス事業を始めたのは、明治三十一年六月設立の「神戸瓦斯株式会社」で、「兵庫瓦斯」は同三十九年九月「神戸瓦斯」に吸収された。今の大阪瓦斯株式会社は神戸瓦斯の後身である。居留地内にガス灯がつくようになると、居留地の西側を流れている鯉川がいっそう目ざわりになり、明治七年、居留民らは県に覆いをしてほしいと申請した。川といっても溝より広いといった程度の川で、ところどころに橋がかかっていた。県と内務省で検討した結果、工費千ドルは政府負担、千五百ドルは地元負担と決まったので同年十月、外国人技師の設計で工事が始まり、翌八年一月完成した。大丸の西側の鯉川筋がそれである。

居留地の日本返還

閑静な山の手の住宅街

山手の坂道を上ると、異人館の屋根越しに神戸の中心街が一望できる

相楽園にある旧ハッサム邸。昭和三十六年に取壊される寸前を市が保存したもので、前庭に居留地時代に使用されたガス灯二基がある

北野町の高台から望む神戸の中心街

 幕府の諸条約で、改正条項を最初に規定したのは日米通商条約で、その第十三条に「今より凡そ百七十一ケ月後、双方政府の存意を以て、…談判を尽し補い、或は改る事を得べし」とある。それが一八七二年(明治五年)七月に当る。
明治四年十月、政府は右大臣岩倉具視を持命全権大使に任命し、参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文・外務少輔山口尚芳を副使とし、随員とも一行百八名で欧米各国へ文物制度視察のため出張させた。
この時、政府から各国へ通告した文書に、「貴国卜取結タル条約改定ノ期限近キニ在ルヲ以テ、右使臣派出ノ便に由リ、併テ我政府ノ目的期望スル旨ヲ貴国政府二陳述シテ其考案ヲ乞ントス」(大日本外交文書第四巻)とあるが、これは改正交渉よりもむしろ改正の下準備であった。
当時、条約が不平等であるとした諸点は、(1)領事裁判権があるため外国人に対して国法が及びにくい。(2)このため、帝国議会の立法権が多少なりとも制約を受ける。(3)関税を自ら定めることが出来ない。(4)輸人貨物に対して課する従価率は僅かに五%である。(5)輸出貨物は外国の税関では最恵国の貨物より高率の税を課せられている。(6)外国船舶は噸税・灯台税等を免除され、沿岸貿易の特権を受けている。(7)外国人は一切の国税を免除されている。などである。

反対の強かった英国

 岩倉以後の歴代の外務卿(大臣)はこの不平等を解消するために交渉したが、ある時は外国の反対があり、またある時は国内世論の反撃を受けた。外務卿井上馨は交渉を急ぐあまり極端な欧化政策をとり、世にいう「鹿鳴館時代」を現出して国民のひんしゅくを買った。その上、諸外国とほぼ合意に達した改正案が事前にもれたため引責辞職(二十年七月)し、政府は民権派、国粋派の両方から激しい攻撃を受けた。
それまでの改正交渉は外国の意を迎えるため、外国人を裁判官に任用するなど妥協的でありたが、明治二十五年八月、外務大臣に就いた陸奥宗光はそれでは官民共に満足しないと判断して純然たる対等改正の立場で交渉にのぞんだ。
当時の貿易は英国との関係が最も大きく、したがって条約改正による英国の損失は莫大になるため、その反対態度は最も強硬であったが、陸奥外相は明治二十六年七月から交渉に入り、翌二十七年七月十六日、新条約の調印に漕ぎつけた。発効は批准後五年、それまでに各種法典を整備する、治外法権の廃止、ただし永代借地権は存続、外国人に内地を開放する、関税率を引上げるーなどが条約の主な規定である。引続き各国との間で改正交渉が行われ、政府は民法・商法の起草を急いだ。
新条約の実施は、英米など十三ヵ国が明治三十二年七月十七日、仏墺二国が八月四日である。
安政の仮条約に基いて居留地が設けられた都市は江戸(東京)・大阪・箱館(函館)・神奈川(横浜)・新潟・兵庫(神戸)・長崎の二市五港であった。政府はこれらを管内に持つ道府県に対し、居留地受け渡しについて各国領事と協議するよう指示した。

市制実施十周年の神戸

 新条約が実施される明治三十二年は、神戸市ではちょうど市制実施十周年に当った。市長は鳴瀧幸恭、上水道創設者として令名が高い。市庁舎は相生町一丁長にあった。居留地は国に引継がれ、直ちに市に移管されるので準備は周到でなければならない。また、居留民の中には条約改正に反対する者もあったので、受人れには万全の措置を講ずる必要がある。
それで三十一年四月九日、市会の承認を得て「条約実施準備委員」十二名を市会議員の中から選び、吏員十一名をその事務専任にあてた。三十二年三月には兵庫県との連合協議会を開き、受入れについて細部にわたり協議した。
その内容は、(1)居留地消防隊の組織を変更してこれを存続させる、(2)外国人の諸官庁への願届は日本文を用いさせる、(3)県・市に外事係を置き、居留地に市の出張所を設ける、(4)神戸港に消防ポンプ船を配備する、(5)公園・墓地管理について、などが主な事項であった。
居留地警察は兵庫県警察部神戸警察署に引継がれるので、七月九日県下の署長を招集し、池上警察部長が「司法警察官の外国人に対する執務心得」三十六ヵ条を説明し、第一線に立つ警察官の態度如何で事件が大きくも小さくもなるから、外国人との応待には厳正な態度を持するよう訓示した。警察制度が確立してから外国人を扱うのは始めてで、それだけに司法当局も細心の考慮を払ったのである。
七月十日付の神戸又新日報に次のような記事が出ている。「かの捕縄(ほじょお)にて被告を縛し白昼街路を連れ回るは未だ罪の定まらざる被告人に恥辱を与ふるものなれば、万不得止の外は手錠を用いざる事とし、且被告人の護送はすべて馬車を以てする事とし、…また外人は格子柵の拘置監を嫌ふの風あるにより、外人の被告は窓制の拘置監たる行司局の拘置監に収容する事とせり」

全市で祝った授受式

 かくて七月十七日、居留地授受式が挙げられた、この日、居留地会議(行事局)から引継がれたものは公園三ヵ所、墓地二ヵ所、消防器具一式、ガス灯九四基、防火井二一ヵ所、そのほか(1)居留地会議が兵庫瓦斯会社と今後三ヵ年契約したガス灯点火の件、(2)居留地巡査及び雇人に合計七百五十六円余支給する件、(3)居留地行事局長の任期を三十二年末日とする件、C九月末日契約満期となる居留地雇医二名に対し、給料一名につき六十二円余を支払うこと、D居留地の掃除を一ヵ月百二十八円で、同撒水を一ヵ月二百六十円で七月末日まで契約したこと、などの懸案事項であった。
祝賀式は、授受式当日午後二時から神戸市参事会主催で行われた。会場は小野浜桟橋に横着けされた「近江丸」(二千四百トン)で、各官庁の長官、警察署長、市会議員、学校長、県高等官、銀行頭取などの日本人と各国領事、外国商人ら三百余名が招待された。
近江丸は第四師団軍楽隊の演奏開始と共に桟僑を離れて須磨沖に向い、港内の小舟からは花火が打上げられた。船中では立食パーティがあり、余興に独楽(こま)回し、水芸、獅子舞、手品、皿回しが演じられ、輪投げ大会に人気が集中した。
来会者の服装は洋服七分、和服三分で、日本人はほとんどがフロックコートにシルクハッ卜を着用していたので熱さに耐えず、汗まみれになったという。外国人は麦ワラ帽に背広の軽装が大部分で、日本人の服装を見て、日本では船遊びでも礼装をするのかと不思議がった。
近江丸は塩屋沖で反転して大阪天保山沖に向った。そこで大阪での居留地授受式に出席した各国領事や一木内務参与官らを迎えるためであったが、夕方になって雷鳴をともなう激しい雨が降りはじめて、風波も高くなってきたので、船は神戸に向った。午後六時四十分ごろ小野浜桟橋に到着、軍楽隊は各国歌と「君が代」を吹奏し、内外人は萬歳を三唱して解散した。雨脚はますます激しかった。
この日、市内国を掲げ、提灯をつり、幔幕(まんまく)をめぐらして慶祝の意を表し、官庁、銀行、会社などは休業、在港船舶は満船飾をほどこした。また学校は休校して七月一日に発布された「条約実施ノ詔勅」の奉読式が行われた。
こうして念願の新条約は実施されたが、永代借地権の解消については外国例の強い反対にあってやむなく存続した。後に神戸から永代借地権撤廃運動がおこり、これが完全に消滅したのは昭和十七年四月一日のことである。=本文は、歴史と神戸(神戸史学会編)第十四巻第五号特集・神戸外国人居留地略史(土居晴夫)から。そのほか、神戸の史跡(神戸市教育委員会編)など参照。

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