48号表紙

No.48(昭和51年6月)

特集:

こうべのあけぼの(上)

こうべのあけぼの(上) ―開港と外国人居留地― 旧外国人居留地碑
 

神戸の原点
『外国人居留地』

 居留地は、今の神戸の"原点"だといわれる。維新前夜の動乱のさなか、西国街道ぞいのー寒村にすぎなかった神戸村に港がひらけ、ここに紅毛の外国人が居留地を構えることになって、神戸の歴史は大きく変った。いわゆる内外貿易の拠点として、新しい発展の第一歩を踏み出したのである。
 当然のことながら、当時の人びとは、彼らのもたらした西欧の文物にいちいち目を見はった。居留地の道路は、最初にできた時から人道(歩道)と車馬道に分けられ、ガス灯はもちろん下水道も完備していた。また、彼らが遊園地ではじめたラグビー、サッカー、テニス、野球、クリケットなど、日本人がはじめて目にするスポーツは、やがて神戸から日本中に普及していった。そして整然とした居留地のまち並みや彼らが建てた異人館は、いつしかわれわれの先人の心にとけ込み、渾(こん)然として、今日の明るい神戸の風ぼうを形成しているのである。=本文は、歴史と神戸第14巻第5号「神戸外国人居留地略史」(土居晴夫)から

追いつめられた幕府

 神戸に居留地が設けられたそもそもの発端は、安政五年六月十九日(一八五八年七月二十九日)江戸において、幕府の亜米利加応接係井上信濃守、同岩瀬肥後守とアメリカ合衆国公使タウンゼント・ハリスとの間に調印された「日米修好通商条約」であった。その条約の第三条で、長崎・神奈川・新潟と共に兵庫を開港することを約し、その時期は太陽暦の一八六三年一日一日と定められた。同時にこの条約は関港場においてアメリカ人が居留することを約束している。
幕府は引き続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を締結し、さらにポルトガル、プロシヤと調印した。開港・居留地の収り決めは米国の場合と同様である。
しかし、これら一連の条約は容易に勅許を得られなかったので「安政の仮条約」と呼ばれた。関港候補地のうち特に兵庫は畿内にあり、京都に近いことから孝明天皇やその周辺に強い拒絶反応があった。
幕府は、条約に対して勅許を得ることは難しく、世情不穏の折から、このまま条約で取り決めた期日通りに開港することは至難と判断した。そこで勧定奉行竹内下野守、外国奉行松平石見守らにヨーロッパ出張を命じ、関港延期について交渉させることにし、一行は文久元年(一八六二年)十二月、神奈川から船でロンドン・パリに向け出発した。
一行は初め江戸・大阪の開市、新潟・兵庫の関港は無期延期を主張し、ついで十年延期を交渉したが、結局五年延期で承認をとりつけた。その条件として後日関税引き下げを押しつけられる。当時の日本の役人は関税に対する知識がとぼしく、関港延期の承認をとりつけることで頭がいっぱいだった。関税引き下げは、実際に貿易が関始されるとわが国にとってきわめて不利になり、これを引き継いだ明治政府にとって厄介な問題となった。

開港当時のプロムナード・パークをしのばせる「みなと公園」と海岸通のビル

外交官僚が強硬意見書

慶応二年(一八六七年)になっても兵庫開港はまだ凍結されたままだった。幕府の威令はますます裏弱し、第二次長州征伐では幕府の出兵命令に従わない大名も出る。しかも将軍家茂死去(七月二十日、享年二十一)にともない徳川宗家を相続した慶喜は、将軍宣下はおろか、前将軍の死をもひたかくしにせねばならないほど政局は幕府に不利であった。十二月二十五日、孝明天皇崩御(御年三十六)この天皇は外国人を忌みきらい、そのために兵庫関港だけはどうしても認められなかったのである。睦仁親王が践祚、後に明治天皇と呼ばれる。
このような難局に際し外国と直接交渉の任にあたる外国奉行らは、外国との約束を守って開港するのか否かという重大問題について、少しも方針を示されないのにあせりを感じ始めた。そこで彼らは意を決して上層部に対して意見書を提出した。慶応三年二月でありた。
「今年十二月には約束通り関港しなけれはならないのに、私共に対し何の御沙汰もないのはどういうことだろう。開港問題はきわめて重大であるが。いったん世界中の国々と約束した以上は、国民の信頼を得て和戦いずれをとるとも万国法にもとるようなことがあってはならない。弱小国といわれている国々でも大国と対等に付き合っているのは、この万国公法を守っているからである。諸事多端の折ではあるが、外国の信用を失わないよう、国の恥とならないよう、とくと考えていただきたい」
以上がその要旨であって、これに連署したのは塚原但馬守ら五名の外交官僚であった。
三月に入ると、イギリス公使パークスが外交団を代表し、開港期限が切迫しているので準備の都合もあるから早く相談しよう、と矢のような催促である。さきのロンドン覚書で、一八六八年一月一日に関港する、その六ヵ月前に日本国内に布告する、などを約していたからである。
しかし朝廷の関港拒否の態度は変らず、幕府の立場は非常に難しかった。朝廷の意向を尊重するか、それとも外国奉行らの主張通り条約を守るか、慶喜を中心として幕府主脳はいずれとも決断しかねたが、ことここに至り、ついに後者を選んだ。

開港予定地を変更

 四月十三日、老中板倉伊賀守らは英・米・仏三ヵ国公使を大阪に招き、兵庫開港・大阪開市について約定をとりかわした。「兵庫大坂規定書」がそれで、外国側はこれを「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」と称した。
この取り決めによって、居留地の範囲は鯉川と生田川の間にある神戸村の畑地ということに決まった。幕府は当初、兵庫開港は文字通り兵庫津を対象とし、外国人居留地は市街地を避けて和田岬から妙法寺川尻に至る臨海地約七万平方メートルをあて、その沖合に防波堤を築いて内側を開港場にするという計画であったようだ。それが後に東の神戸村へ予定地が移ったのは、兵庫は歴史が古いだけに保守的な色彩が濃く、排外思想が高まっている時機に兵庫の住民を刺激するのは得策でないと判断したからだろう。
それに反し居留地に選定された当時の神戸村は大部分が畑地・墓地・荒地で、建物はわずかだったため、土地の買収費と地ならしの工事費、それにわずかの建物補償費だけで足りるとの判断が幕府側にあったと思われる。
いよいよ兵庫開港は、重大な政治問題になった。幕府は勅許を得ないまま開港期日を約束し、外国人のための居留地についても細部にわたる事務折衝を終えた。この上は強引にでも勅許を得る外に道はなかった。ここにおいて朝廷でも諸大名に開港の可否に関する意見を徴するが、多くは態度を明らかにせず、ただ十分に相談して朝廷が安心できる措置を講ずべきだと述べるだけだった。
五月二十三日、徳川慶喜の強い要請により朝議が開かれた。会議は午後から始まったが一向にまとまらず、夜半、堂上が総参内して徹宵紛議し、二十四日夜になってようやく結論が出た。
御沙汰書には次のように書かれている。「兵庫開港の事元来容易ならず、先帝(孝明帝)止め置かせられ候へども、大樹(将軍)も余儀無く時勢言上し、諸藩建言の趣意も有之、当節上京の四藩(薩摩・宇和島・土佐・越前)も同様申上候間、誠に止むを得させられず御差し許しに相成候事」。兵庫開港に関しては幕府の圧勝となった。

歴史の重みを感じさせる東京銀行神戸支店ビル(京町筋)

官民一体で開港祝う

開港の勅許を得た以上、急速に準備にかからねばならない。まず外国奉行の上に外国総奉行を置き、平山図書頭を任命、外国奉行柴田日向守を大坂町奉行に命じて開港準備事務を専管させた。そして、いったん廃止していた兵庫奉行所を復活し、柴田を大坂奉行のまま兵庫奉行を兼務させた。
柴田は小禄の直参(徒目付(かちめつけ))の出だが、さきに開港延期交渉のため竹内下野守らが欧州へ派遣されたとき随行したのが外務畑での振り出しで、親仏派のベテラン外交官に成長していた。開港期日を目前にした十一月二十一日付の柴田の書面によれば、工事は七分どおり終ったとあるが、実際は開港場関係で期日までに出来たのは運上所、波止場、倉庫三棟だけである。
運上所とは税関のことで、さきに網屋吉兵衛が建設し、神戸村の所有に移っていた船燿場のある場所に建てられた。和洋折衷の大きな建物で、当時としては珍しいガラスが豊富に使われた。村人たちはこれを「ビードロの家」と呼んだ。波止場は運上所の前と鯉川尻に設けられた。
このほか付帯工事として居留地周辺に十数ヵ所の関門が設けられ、別に柴田の上申によって西国街道の付け替えがあった。新街道は住吉から分岐し、篠原から六甲山系に入り、小部・藍那・白川・布施畑を経て明石大蔵谷に至る八里十四町の道程。この道は後年「徳川道」と呼ばれたが、利用に不便なため早々に廃道同然になった。
やがて十二月七日(太陽暦の一月一日)、ロンドン覚書で約束した兵庫開港の日である。この日、兵庫奉行柴田日向守は幕府を代表し新装成った運上所において外国公使団らと開港式を挙げた。
沖合に停泊していた六隻のイギリス艦隊と四隻のアメリカ艦隊は、マストに日本国旗を掲げ、正午になると一斉に二十一発の祝砲を打ち上げた。また、神戸港にある内外の汽船は汽笛を鳴らし、運上所における式典は和気あいあいのうちに進行した。村人たちもこの盛儀を見ようと運上所周囲に集まり、折からの陽光がガラス戸に反射してきらきら輝くのを見て驚嘆の声を放った。
神戸村など近隣からはそろいの緋ちりめんの法被を着て繰り出し、居留地の地盛り工事の車を引いて行列した。また遠く兵庫津や近村からは当時流行の"エエジャナイカ、エエジヤナイカ"の踊りの群衆が押しかけ、陽気にさわいだ。
神戸港はこのように官民一体の祝福を受け、まばゆいばかりの晴れやかな夜明けを迎えたのである。

  • 車の行きかう現在の海岸通
  • 明治二〜三年ごろの神戸村船入場と居留地(坂本勝比古氏蔵)
  • オフィス街の中心・京町筋

大丸前の歩道にある旧外国入居留地碑と当時、街灯として使用されたイギリス製のガス灯。このすぐ東の通りで神戸事件が起きた

王政復古と神戸事件

 ところが、開港後わずか二日で朝廷は王政復古令を発し、慶喜の将軍職辞任と官位の辞退、領地の返還を奏請させた。慶喜は二条城から退いて大阪城に入り、ひたすら恭順の意を表したが、あくまでも徳川氏を武力で討とうとはかる薩摩の計略に乗せられ、鳥羽伏見戦争となる。幕府はこの戦争でもろくも敗退し大阪に逃げ帰るが、六日には慶喜が軍艦で脱出し、勝利に乗じた薩長は朝廷に請うて慶喜追討の号令を発布させた。
大阪の大混乱で各国公使は難を避けて神戸に移動したが、奉行柴田日向守は、もはや外国使臣の身分保証はできないと通告し、みずからはイギリス船を雇って神戸を脱出しようとした。その上、運上所や倉庫の焼き払いを命じたが、公使らは奉行にそれらの建物の引き渡しを申し入れ、奉行は即座にそれを承認したので、建物は外国公使団の管理に置かれた。一月九日から十日にかけては大阪城が炎上し、その煙は遠く神戸からもよく見えた。
幕府役入の逃亡で神戸は無政府状態に落ち入り、居留地は各国軍隊により守備される。当時、譜代である尼崎松平氏の向背がはっきりしないので、朝廷は長州・備前の二藩に西宮警備を命じた。備前藩兵は先発・中軍・本隊の編成で一月一日から海陸両路で出発した。中軍のうち兵四五〇人と大砲隊は家老日置帯力の指揮のもとに、一月十ー日午後二時ごろ元町通から三宮神社前にさしかかった。ここは西国街道で居留地の北界線にあたる。

神戸で最初の外交交渉

 「その行列は、欧川の軍隊のように密集した隊形ではなかった」(ブラック「ヤング・ジヤパン」)のにも一囚はあるが、米国人一人、日本入従者を伴った英国公使護衛隊員二人、仏国水兵二人が相次いでこの行列を横切ろうとし、備前藩兵の制出を受けた。このとき若干のトラブルがあり、外国人側に負傷者が出た。これが世にいう神戸事件である。
たまたま、居留地内を通行中であったパークス(イギリス公使)が直ちに停泊中の軍艦に信号を送ったため、多数の陸戦隊が大砲・小銃をもって上陸し、備前兵と戦いを交えたすえ、東西の関門を押えて神戸を占領した。そして、兵庫港にいた諸大名の船六隻を捕えて神戸沖へ抑留した。神戸の人びとの驚きとあわてかたは大変なもので、外交上の困難な問題になると思われた。
朝廷では事件収拾と同時に、王政復古を外国に宣言する絶好のチャンスと判断し、軍事参諜東久世通禧(みちとみ)、参与岩下佐次右衛門、徴士伊藤俊輔、同中島作太郎らを兵庫へつかわした。一月十五日正午から東久世らは運上所において六ヵ国の公使に、まずててて政の国書を手渡し、天皇政府が幕府に代り政権をとったことを通告してから、事件について折衝したが、外国側から責任者を処刑するよう迫られた。
結局、無条件で外国側の主張を認めることになり、備前藩へ伝えられた。備前藩主池田茂政は、やむなく責任者として日置帯刀の家末滝正信を選んで、維新早々の外交問題を円満におさめて、国家のために死につくようさとし、恩賞として正信の知行を倍額にして子息に与えることにした。
二月九日、兵庫永福寺において正信は外国代表者立会いの面前で切腹し、この事件は終った。新政府になってからの最初の外交折衝が神戸で行われたわけである。外国側は天皇政府の誠意を信頼し、日本の内戦には厳正中立の態度を表明した。

  • 重厚とモダーンな明るさがミックスしたビル街
  • みなとの移り変りをみながら時をきざむ神戸税関本庁舎の時計(東遊圃地から)
  • 明治のにおいを残す京橋。橋のすぐそばに勝海舟の海軍操練所跡の碑がある

外国観光船を迎えるクィーン・コウベのお嬢さん

自然に囲まれた外入墓地

居留地を中心に発展

小野浜に外国人墓地

 ところで、外国人の居住者がふえるにつれて居留地とともに、その死者を埋葬する墓地の設備も必要であった。開港についての「兵庫大坂規定書」では外国側は居留地背後の山手をその場所として要望していたが、居留地の工事すらまだ完成していないときに、どうしても墓地を必要とすることが起きた。
十ニ月七日の晴れの開港式に海上で参加するため、英米の軍艦がぞくぞく集結しつつあったとき、両国の軍艦に死者が出たのである。一人は英国艦隊旗艦ロドネイ号の大尉アーチボルト・ヘンリー・ターナーが心臓病で。もう一人は米艦ハートフォード号の下士官チャールス・ペイジが肺結核で死んだ。遺体の埋葬を急がねばならないので、外国側は柴田日向守らと交渉し、生田川口の東岸小野浜を墓地と決めた。
ついで開港後の十ニ月十七日、米国艦隊の海軍少将ベルが乗ったハートフォード号の艦載艇が、大阪港に人ろうとして浅瀬に乗り上げて転覆し、乗員の大部分が溺死するという事件が起きた。三日後にベル少将、レイド中尉ほか十三名の遺体は星条旗でおおわれて新しい墓地に埋葬された。ベル少将は米国艦隊の同令官で、すでに定年が過ぎて予備役に編入されたが後任者がまだ着任していなかった。
ベルの葬儀から八日後、英国領事マイバーが葬られた。彼は居留地がまだ完成していないので、通訳官ロバートソンと共に居留民のために日本人家屋を借り受けるため精力的に働いていたが、腹膜炎を病んで死んだのである。
年が明けてニ月十八日、仏国海軍の将兵十一名が埋葬される。彼らは測量艦デュプレー号の乗組員で、三日前の十五日、堺港で土佐藩兵とトラブルを起こして殺された。これも彼我の言語、風俗、習慣の相違が招いた事件であった。
このように開港の前後三ヵ月の間に多くの外国人が小野浜に埋葬されたが、ここは決して良い場所ではなかった。海岸にあまりにも近く、吹きさらしで湿った砂地だった。
明治ニ年十月、兵庫県はこのあたり一帯二千ニ百六坪を正式に永代借地の外国人共同墓地に指定し、居留地行事局に管理をまかせた。居留地返還後は神戸市が管理したが、そのころはすでに墓地は飽和状態であったから、市は新たに春日野に外人墓地を造り、小野浜墓地には埋葬を許さないことにした。しかしどうしても先祖のかたわらに葬りたいと希望する者に限り使用料を徴収して許可した。生田川が付け替えられるまではちょっとした雨でもすぐにあふれ、墓地が洗われて遺体がさらされたり、キツネが墓をあばくことも再々であっだ。遺族にとっても頭の痛い問題であったろう。
昭和二十九年五月、兵庫区(現北区)山田町下谷上字中一里山に開かれた外人墓地の前身である。

新しいみなとのシンボルでもあるポートタワー(中突堤)

初代知事に伊藤博文

 一方、発足してまもない新政府は目まぐるしく行政の制度を改正した。政府は神戸事件を契機にして外国側に天皇親政を通告したが、東久世以下の参与、徴士を引き続き兵庫にとどめ兵庫・神戸の行政、治安を掌握させた。この役所を「兵庫鎮台」といい、切戸町の兵庫勤番所を仮庁舎として発足したが、二月二日の改正によって「兵庫裁判所」と名が変り、五月二十三日にまた「兵庫県」と改められた。そして伊藤俊輔(のち博文)が初代知事に任命された。
翌四年二月五日、伊藤の名で運上所の業務開始を各国領事に通知し、外国船改役(あらため)、輸出入荷物改役などの役入が密貿易に目を光らせる一方、貨物に対して関税の賦課徴収に従事した。また、西ノ町海岸(今の中突堤)にも運上所を開き、波止場ニヵ所を設けてここ以外での貨物の陸揚げ、船積みを禁止、八月に鯉川尻と宇治川尻に仮波止場を設けて運上済(通関済)貨物の揚げおろしの便に供した。鯉川尻の波止場は、その北手の今の日本郵船神戸支店の場所にアメリカ領事館があったので、メリケン波止場と呼ばれた。
(なお、運上所は兵庫県発足後も県の外務掛の下に置かれたが、明治五年五月大蔵省の管轄に入り、同年十一月「神戸税関」となった。)

多かった土地貸借の紛争

 このように、関港場に関する業務が次第に軌道に乗ったのに反し、居留地工事は維新の変動の際に中止されたまま、その後も放置されていた。ことに整地が行き届いていなかったので、開港前後に来神した外国人は建物を建てることが出来ず、やむを得ず付近の民家に仮寓した。
三月三日、英仏蘭三ヵ国公使は京都を訪ね、居留地工事未完のため多大の迷惑を受けていることを訴えた。そこで政府は、外国人が居留地以外で一定の制限のもとに居住することを許可した。この旨を三月七日付、伊藤俊輔名儀で各国領事に通知している。
「今日以後、当地に於て日本人より外国人へ相対にて地面或は家屋を貸し、或は其家屋を買請け候上は所持、自普請を致し候儀勝手次第たるべく、右境界は東生田川、西は宇治川、北は山辺、南は海岸を限り候事にて…右の境界内の地面或は家屋を貸渡し候示談致し候者有之候はば、双方国吏へ届出で調印を受け、猶居留地留帳へ書き留め後日の証拠に致し申すべく候。尤、外国人より町内入用の出費且つ日本政府へ納むべき地税は、日本人同様差出し申すべく候」
この覚書に明記された外国人居住地を「雑居地」と呼ぶ。現在の生田区の区域の大半を占める。
雑居地内の土地貸借に際しては、地主と借地入が直接契約を結ぶのと、政府が貸し付ける場合の両様があった。政府が貸し付けるのは問題がないが、個人間の場合は貸す側に契約についての知識がほとんどなく、地代や貸借期限などで紛争の起こることが多かった。そこで兵庫県では「外国入地家貸与規則」を制定し、契約の方法・更改・賃料支払、賃貸期限などを規制した。賃貸期限は五ヵ年とし、期限を延長するときは知事の許可を必要としたが、規則が出される前にすでに相当数の契約済があった。
これらの中には貸し主の無智につけこんで普通の賃貸借が永代借地にすりかわっていたのもあり、そのためずっと後になっても所有者は大変困った。
また、外国人の雑居地居住が始まって新たな問題が起きた。それは、開港以後日ましに活気を帯びてきた労働力の需要がふえたため、他郷から仕事を求めて来る者が多くなったことである。そして中には夜中酔っぱらって外人宅に入り込んだり、白昼路上で大声をあげて外人をののしったり、外人宅の使用人として住み込んで金目の物を盗み出すなど、外人から軽悔されたり、あるいは恐れられるなどの事件が続発した。
そこで、旧大阪町奉行所の与力や同心を神戸に呼び寄せ、市中取締りの任につけた。それでもなお人手が足りないので、運上所の船改め役人まで狩り出して市中取締りを兼務させた。これは兵庫県下における警察制度の濫觴である。

  • 「百二十四番」の区画番号とともに、旧居留地の面影を残す兼松江商ビル
  • エキゾチックさがただよう船会社の入口
  • 神戸外国人居留地区画図(1870年)

ようやく工事再開

 外国側の強硬な催促によって、中断していた居留地工事もようやく再開された。鯉川尻から東の海岸約三五〇メートルの護岸、居留地内の整地、外周のみぞ約一〇〇〇メートルの整備などが主な工事の内容だった。居留地の区画は、幕府時代に英国人測量技師C・ブロックらによって設計されたが、新政府になってさらに英国人技師J・W・ハートが設計し、伊藤俊輔と協議して成案となった。同年六月二十六日、居留地の整地工事が完了すると、さっそく一二六区に分割され、南北八条、東西五条の道路で区分されて、整然とした街づくりが行われた。今の東町、伊藤町、江戸町、京町、浪花町、播磨町、明石町、西町、海岸通がそれである。道路は人道(歩道)と車馬道に分けられ、人道は赤レンガで舗装された。下水道も完備していた。昭和四十七年五月三日付の朝日新聞によれば、海岸通の神戸合同庁舎建設現場地下一メートルでレンガ造りの下水管が発見されたとある。下水管は、くさび形のレンガをしっくいでほぼ同形に並べて作られていた。この道路や下水管はハートによって設計されたもので、現在の京町筋の道幅は二七メートルであるが、居留地造成当時でも約二〇メートルもあった。神戸における都市計画の原型はこの居留地に始まるといっても過言ではない。

  • 近代的なビル街に残る木造の異入館(ノザワ(株))
  • 栄町通にある赤レンガ造りの建物(大林組神戸支店)

居留地の競売始まる

 七月十九日、伊藤俊輔は各国領事に居留地地図を送り、あわせて、生田川決潰個所の修理は三ヵ月後に出来る、居留地中央の大通りと左右のみぞにかける石橋は一月中に完成、三ヵ所の荷揚場も早々に竣工すると通知した。そして居留地の区画割りが確定したので、全域の宅地造成工事の完了をまたず、竣工したところから競売が開始された。
第一回競売は七月二十四日、まず三十六区について行われた。これは後の海岸通のほぼ全域と西町、明石町、播磨町、浪花町。京町のそれぞれ一部が含まれている。競売は明治六年二月七日を最後として合計四回行われた。各回の競売区数、面積、金額などは左表の通りである。

 また、国籍別に各国の落札人員と区数の集計は左表の通りである。(両表とも「神戸市史本篇各説」による)

 合計百二十六区のうち居留地事務局分を除き、英国人が六十四区を占め、残りをドイツほか四ヵ国で分けあった形になるが、これは当時の外国勢力がそのまま現われたもので、現在の国際事情と比較してみると興味深い。
こうして居留地内の道路や排水溝が整備されるにつれ、整然と区画された宅地には次々と洋館が建ち並んでいった。
そして、居留地は内外貿易の拠点となり経済の中心となったので、西国街道ぞいの一寒村にすぎなかった神戸村付近は急速に発展した。しかし一方では、明治三十二年七月に不平等条約の改正によって日本に返還されるまで、居留地は外国人による自治制が敷かれ、警察権、裁判権も外国人に掌握され、日本の主権はほとんど無にひとしかったといえる。
次号では、居留地のその後の変遷と日本返還までについてふれてみたい。

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