47号表紙

No.47(昭和51年5月)

特集:

伝説の六甲山系(下)

伝説の六甲山系(下) 赤い岩肌に水しぶきのあがる地獄谷

 前号では、山谷に伝わる伝説を訪ねながら、六甲山地の西半分をたどってみました。ここにも私たちの祖先がしるした伝説の足跡が、あちこちの山や谷に残っています。
 さあひと休みは終りました。それでは、裏六甲の山歩きを始めましょう。

文・田辺眞人氏(県立芦屋高校教諭)、位原庸太氏(神戸市民俗芸能調査団員)

本号でとりあげた伝説

  1. 灘の一ツ火
  2. 地の下の有馬の湯筋
  3. 七右衛門ーのたたり
  4. 蛙岩
  5. 血だらけの雨乞い
  6. 座頭谷
  7. コブ坂
  8. 落葉山
  9. 湯槽谷山
  10. 六甲山
  11. 塞山
  12. 功地山と杉谷
  13. 地獄谷
  14. 甲山
  15. 船坂
  16. 石宝殿の雨乞い
  17. 黄金の鶏
  18. ドビワリの水争い
  19. 金兵衛車やけ車
  20. 山犬の恩がえし

真暗な金鳥山の中腹に光る灘のーツ火。北畑の村人が交代で油を注いだ灯火は、今では電灯に代っている

灘の一ツ火 船人の目じるし

 夜、摂津本山あたりから北の山を見ると、まっ黒な山腹にひとつの灯火が見えます。これは山上の保久良神社の鳥居前にある石灯篭の明りですが、むかしから「灘の一ツ火」とよばれて暗夜の海ゆく船人たちの目じるしとされてきたそうです。
能襲(くまそ)の討伐から帰ってきた日本武尊(やまとたけるのみこと)の一行の船が、ようやく大阪湾に入ったところで、日はとっぷりと暮れ、まっくらやみの中で方向を見失ってしまいました。その時、人々が一心に祈ると、かなたの中空にポッと一つの灯火(ともしび)がみえはじめました。それをめざして漕ぎ進み、やっとのことで無事に陸地に着き、それから難波に帰ることができました。
大昔から、灯台の役割りを果してきたというこの灯明を、人々は 沖の船人たよりに思う灘の一ツ火ありがたや と謡っています。

〈メモ〉昔は井桁(いげた)に組んだかがり火で、江戸時代に石灯篭になったと伝える。現存の灯篭は、文政八年(一八二五)製。

〈参考文献〉本山村誌

芦屋の薬師寺に立つ塩通山薬師如来の碑。地下を有馬の湯筋が通っていたという

地の下の有馬の湯筋 芦屋の薬師堂

 温泉は観光地と同時に病をいやす湯治場なので、医療を司どる薬師如来の信仰がさかんでした。有馬でも温泉寺で薬師如来がまつられていますが、むかし、温泉寺のお坊さんは、毎月、山越えで芦屋の里を訪ねました。芦屋にある薬師堂に月参りをするためです。
もともと有馬温泉は、熊野権現の神の力で紀州の熊野灘に一すじの潮流がおこり、紀伊水道を通って大阪湾をよこぎり、芦屋の浦で地中にもぐって六甲の山をくぐり、地熱で温められたものが、山の裏で涌き出しているのだ、と信じられていました。この地下の潮流のま上に、芦屋の薬師堂が建てられているので、人々はこれを「湯本(ゆもと)の薬師」とよんでいました。むかしは、お堂の側の泉に塩湯(しおゆ)が涌いていたそうです。

〈メモ〉この堂のある寺・報恩寺の山号を塩通山といい、堂わきの鉱泉があることから、地熱で温められた海水と信じられていた有馬温泉と結びつけたのであろう。報恩寺は廃絶し、薬師堂のみ再興されて、芦屋神社の東方に薬師寺となっている。

〈参考文献〉兵庫名所記・摂津名所図会・摂陽群談

巨石のるいるいと重なる荒地山は、六甲の守り神のすまいだと伝える

荒地山中腹の"岩梯子"。昔、七右衛門がたおれていたのはこの近くか

七右衛門ー(ぐら)のたたり 荒地山の岩梯子

 芦屋と神戸の境にある荒地(あれち)山は、石宝殿にまつられている六甲山の山の神のすまいだといわれていました。だから六甲の山中で悪事をはたらくと、この荒地山にまよいこんで神罰をうけるのだといわれてきました。
むかし、ふもとの芦屋村に七右衛門という若者がいました。彼は、身よりはありませんでしたが、正直な働きものなので、村人に愛されて成長しました。そのうち七右衛門には、一人の兄のように慕う友人ができました。ところが、あるとき、その友は七右衛門をうらぎった後、姿を消してしまいました。ただ一人できた友にうらぎられ、絶望した七右衛門は、それからすさんだ生活を送るようになりました。仕事もしなくなり、遊びほうける七右衛門を村人もしだいにかえりみなくなりました。
ある日、六甲の山をこえる旅人が、命からがらふもとの村へ逃げおりてきました。息せき切った旅人は「山中で、追いはぎに会った」と語りました。村人は旅人のその賊(ぞく)の姿の話をきいて、
「あっ七右衛門だ」と思いました。が、いつからか、七右衛門の姿も村から消えてしまっていました。
「山中で悪事を働いたために、神かくしに会ったに違いない。きっと荒地山だ。」
いい伝えを信じて荒地山へ登った村人は、山中でもとりわけるいるいとけわしい岩場の下で、頭をくだかれて死んでいる七右衛門をみいだしました。
この時から、六甲おろしにさらされた、このすさんだ荒地山の岩場を、だれいうとなく「七右衛門ぐら」とよぶようになりました。

〈メモ〉七右衛ー付近の岩場は今では岩梯子(いわばしご)とよばれている。ー(くら)は大きな岩場のこと。

〈参考文献〉芦屋郷土誌 六甲

尾根道にでんと座った蛙岩

蛙(かえる)岩 岩にまつわる大蛇

 芦屋の三条や森から裏山に登ると尾根の上に大きな岩があります。すわったカエルの姿をしているので蛙岩とよんでいます。
五十年ほど昔。ある村人がタキギを取りにここに登り、岩にもたれて一休みしていました。ふと気がついて、びっくりしました。
「岩に大きなウワバミが、まつわりついとる。」おどろいて、山をころがりおちるようにしてこの大蛇から逃れたそうです。

〈メモ〉同様な伝説があったからか、昭和初めまでは、この岩は蛇巻岩(じゃまきいわ)とよばれている。話は、旧三条村の古老による。

血だらけの雨乞い 鱶(ふか)を切りきざむ

 芦屋から芦有道路をのぼっていくと、貯水池の上流に、弁天の滝があります。この滝のおちぐちに、上面が平らな大きな石がのっかっていて、まな板岩とか、フカ切り岩とかよばれています。また、この滝のすこし西の上手にある巨岩を、弁天岩といいます。弁天岩は水の神さまの岩と信じられていましたから、どちらも、ふもとの村人にとって大切な水神のまつりの場として信仰されてきました。
ひどい旱魃(かんばつ)で困ったとき、人々は芦屋川をここまでさかのぼっていき、水神さまに雨乞いのお祈りをします。何日お祈りしても雨が降らず、川の水がかれ始めると、村人は打出の沖から大きな鱶(ふか)を取ってきて、弁天滝まで持ってゆきます。それをまないた岩の上で、切りきざみ、血だらけになった鱶を弁天岩まで運んで岩に投げつけます。すると、神聖な岩をけがされた水神は怒って、血潮(ちしお)を洗いおとすために、にわかに大雨を降らせるのだそうです。

〈メモ〉今も弁天岩には水神を祀る小祠がある。天保五年八月に九十五日の日照のために鱶切の行われた記録がある。

〈参考文献〉芦屋郷土誌

  • 弁天滝の上に乗っているまないた岩。フカ切り岩とも呼び、雨乞いの場だった
  • 弁天岩の下につづく夫婦岩。
  • 祠(ほこら)を守るように立つ弁天岩

太多田川ぞいの街道から分れる座頭谷。この奥に座頭は迷い込んだという

座頭谷 かわいそうな座頭

 一人の目のみえない座頭が、有馬に行こうとしていました。病気を治すために、京からはるばるやってきたのです。生瀬(なまぜ)から、太多田川ぞいに湯山道をとぼとぼ歩いて行きました。
しかし、眼も不自由な上に、このあたりはとても道が荒れていて石ころがごろごろしています。船坂村まで半分ぐらいまで来た頃には日もくれかかり、山の冷気をはだに強く感じはじめました。気ばかりあせっても、道はあまりはかどりません。そのうち、どうまちがったか行けども行けども道がわからなくなりました。湯山道からはずれて、別の谷にまよいこんでいたのです。
岩や石のごろごろするこの谷で、たきぎ取りの木こりが、一人の座頭が死んでいるのを見つけたのは、その後のことでした。気の毒に思った木こりは、ねんごろに座頭をその谷にほうむってやりました。この時からその谷は、座頭谷とよばれるようになったのです。

〈メモ〉有馬への旅人がまよわぬように豊臣秀吉が建てたという「しるべ岩」の所で、太多田川の支流の座頭谷が別れている。

〈参考文献〉摂陽群談

この一帯がコブ坂だという。だらだらと長いのぼりが続く

コブ坂 目の上のコブがポロリ

 むかし、一人の病人がいて、コブ眼の病気をわずらっていました。それで、有馬温泉につかり、薬師如来にお祈りをして治そうとしましたが、まったく病はなおりません。三・七、二十一日の間の治療も功がなく、すごすごと有馬を発って帰途につきました。ところが、この坂にさしかかると、突然、うれきったくだものが木から落ちるように、目の上のじくじくしたコブはポロリととれて、地面に落ち、ゆううつな病気はすっかり治ってしまいました。それを聞いて人々は、この坂道をコブ坂とよぶようになりました。有馬温泉から瑞宝寺に通じるこの坂道は、今ではきれいに舗装されています。

〈メモ〉だらだら続くこの坂は、細く長いので昆布(こぶ)坂なのだ、ともいう。

〈参考文献〉摂陽群談

コブ坂のふもとの杖捨橋

仁西上人の温泉復興の地と伝える落葉山上にある妙見堂

灰形山から有馬の温泉郷を望む。手前左手の山が、翁が投げた木の葉が落ちたという落葉山

落葉山 老人が投げた木の葉

 九百年も昔のことです。この年は大雨がふりつづき、いたるところ六甲山は山くずれをおこし、ついに有馬の温泉場もうずもれて、おとろえてしまいました。
それから九十五年。吉野山で修行をしていた仁西(にんさい)上人は、ある夜、夢の中に熊野の権現さまがあらわれ、上人に有馬の温泉再興を命じられました。
はるばる吉野から上人はやってきましたが、湯もとも埋もれ、どうしようもありません。山の上からぼう然と有馬の谷を眺めている上人は、とほうにくれてしまいました。そのうち、突然一人のおじいさんがあらわれたと思うと、
「わしがこの手にもっている木の葉を投げたら、その落ちた所が温泉のわき出す所じゃ」とつげて、木の葉を東の方に投げ、パッと消えてしまいました。
その葉の落ちた所を掘ってみると、おじいさんのいうとおり湯がわき出し、仁西上人は温泉を再興することができました。これからその山を落葉山とか投木所とかいうようになりました。

〈メモ〉山津波のあったのは承徳年間(一〇九七〜八)のことと言い、鎌倉初期の仁西は有馬温泉の中興として敬まわれているが、多分に伝説的人物である。有馬の旅館に多く坊がつくのも、仁西が薬師如来を守る十二神将にちなんで十二の坊を建てたのがはじめだと伝える。

〈参考文献〉摂陽群談

湯槽谷ごしに望む六甲山最高峰

湯槽谷山 湯ぶねを造った谷

 大昔から知られていた有馬温泉は、山くずれや大水のたびに埋もれたり泉源がかれたりしました。奈良時代に一度、温泉はすたれていたそうですが、有馬温泉を再興しようとして、行基がこの地をおとずれました。湯屋や湯ぶねをつくるにはたくさんの木がいります。みると、南の山に、すばらしい木が繁っていました。そこで、行基はその山の木を使って、谷間で湯槽(ゆぶね)を造りました。それからこの谷を湯槽谷といい、山を湯槽谷山というようになりました。

〈メモ〉功地(くむち)山と同じような地名説話。六甲山の北側では、有馬温泉とむすびついた同様の伝説が多い。

〈参考文献〉六甲

行基が有馬温泉の湯ぶねを作ったという湯槽谷山。左にはるか六甲山最高峰が見える

六甲山最高峰頂上。大阪から見ればひときわ高いムコウの山の頂である

六甲山 六つの首を埋める

 仲哀天皇のおきさきの神功皇后は、朝鮮半島への遠征からの帰りに、九州で皇子を生まれました。ところが、仲哀天皇には先のきさきの大仲姫との間に、かご坂(かごさか)・忍態(おしくま)という二人の皇子がありました。二人は、無事に遠征軍が大和に帰ってくると、新しく生まれた母ちがいの弟に、次の天皇の位がうばわれると考え、明石海峡で待ちぶせて討とうと考えました。それを知った神功皇后の側では、機先を制して武内宿禰(すくね)をつかわして、反乱軍を討たせました。
かご坂の皇子ほか五人の主だった人物は殺され、その首は甲とともに山に埋められました。この六人の首の埋められた山を、それから六甲山とよぶようになったというのです。

〈メモ〉六甲は、もとは難波の海のムコウに当てられた字で、武庫・務古と同様、のちに口ッコウと読まれるようになり、記紀神話と結びつけられてこの伝説が生まれた。

〈参考文献〉西摂大観 六甲

数々の伝説を秘める温泉郷有馬。右手前から落葉、灰形、湯槽谷山がつらなる

塞山 温泉をめぐる紛争

 湯槽谷山のちかくの山で、天文年間(−五三二〜一五五五)に、とつぜん温泉がふきだしました。これまで有馬の人々に温泉を独占されていた三田村の人々は、これさいわいと、ここに入浴所をつくり、病人の湯治場にしようとしました。ところが、有馬温泉の人々は、これをみつけて怒り、この新しい温泉の地を柵(さく)で囲んでしまいました。そして領主に訴え出ました。領主も、有馬側の言い分を認めてくれました。しかも、しばらくしてここからは湯が湧かなくなりましたから自然に紛争もやみました。ただ柵をして通行を防ぎ塞(とざ)した所にソコ(塞)山という地名だけが残りました。

〈メモ〉ソコは地名学的には、険悪な所を指すのでけわしい荒れ山につけられた地名か。

〈参考文献〉摂陽群談

温泉郷をとりまく湯槽谷、灰形、落葉、功地などの山々に、祖先はさまざまの伝説を残した

稲荷神社の裏の愛宕山一帯に杉ケという古い地名がある

功地(くむち)山と杉谷 美しい杉の良材

日本で最古の有馬温泉には、長い歴史の中で多くの人々が訪れました。
大化三年(六四七)十月のことです。孝徳天皇が有馬に来られました。どこかに宮殿をつくるのに充分な木材はないかとさがしまわったところ、美しい杉の木がゆたかに繁った山がありました。そこで、その木々を伐採して、りっぱな宮殿を建てることができました。それで、すばらしい木材を出して役に立った山の功績は大きい、というので、人々は、この山を功地山とよぶようになりました。
また、この功地山のわきの谷は、多くの杉の良材が切り出されたことから、杉谷というそうです。

〈メモ〉功地谷の地名説話は、『摂津国風土記』逸文に見える古い伝説。

〈参考文献〉風土記 摂陽群談

鳥地獄。噴出される炭酸ガスのために苦しむ虫や鳥を見た人々は、地獄だと考えた

地獄谷 虫地獄と鳥地獄

 むかし、有馬温泉の山手の谷あいには、温泉の影響で毒水がわき出していました。そこにある池の水をのむと、鳥も、けものも、虫も、くるしみもがいで死んでいきました。それからこの地を地獄谷と呼ぶようになりました。
また、一説には、ここで罪人が、ひどく責め苦しめられ、そのうめき声が谷間にひびきわたり、さながら地獄のようであったからだともいいます。

〈メモ〉虫地獄、鳥地獄は今も道ばたにその姿をとどめているが、近年の開発で風景は大きくそこなわれている。

〈参考文献〉摂陽群談

虫地獄

甲山は、行基が昆陽池を掘った時に出た土が捨てられて積ったのだという

甲山 昆陽池と行基

 奈良時代のことです。民衆の苦しみを仏教のおしえで救おうと、行基(ぎょうき)という僧侶が、各地を歩いてまわりました。各地で川に橋をかけ、水不足の土地には人々を指導して溜(ため)池を築きました。
行基が伊丹の昆陽寺を開いて、そこで人々を導いている時、その土地は水が無くて困っていました。このために作られたのが昆陽池(こやいけ)です。
また、この池を築く時に、掘った土を捨てる場所にこまり、池の西方の山すそに土を投げ捨てていましたが、池ができあがってみると、捨てられた土は、大きな山になってしまいました。これが甲山で、このため甲山は別名を、御池山とよばれるのだそうです。

〈メモ〉昆陽池の近くに昆陽寺がある。昆陽池は行基が伊丹地方で築いた五つの池の一つ。

〈参考文献〉摂陽群談 伊丹史話

湯ぶねを作ったところからフナ坂という地名がでたと伝えられる。船坂の集落の遠望

船坂 有馬温泉の再建

 有馬の東に坂の多い船坂村があります。吉野山の仁西上人が、温泉を再建されたときに、ここで湯ぶねを造ったので湯ぶねのフネをとって、フナ坂というようになったそうです。

〈メモ〉杉谷・湯槽谷などと同様の伝説。船坂を通る道は生瀬から有馬への、湯山道である。

〈参考文献〉摂陽群談

街道ぞいに古い趣を残す船坂の坂道

昔の人が雨乞い祈願をした石宝殿

石宝殿の雨乞い 蟹に怒って大雨

 六甲山麓は大河もなく水はけの良い土地なので、しばしば旱魃(かんばつ)に見舞われて、人々は水不足に苦しみました。池にも川にも水がかれはじめ、作物が弱々しくうなだれると、人々はよく六甲山上の石宝殿に雨乞いに登りました。
「ひどい日照りでカラカラになると、みんなは石宝殿に登るんじゃ。ほいで雨乞いの呪文(じゅもん)と心経とを唱えながら、一晩そこへこもるんや。そいでも夜が明けても雨が降らんかったら、南の谷におりて、そこで蟹(かに)をつかまえる。そうして蟹を石宝殿にぬすくりつけて、村へ帰るんじゃ。ほしたら、宝殿の神さんが怒りよって、ザーッと大雨を降らしよったもんじゃ。」

〈メモ〉東灘区本山町の旧小路村の古老の話による。同様の信仰が、六甲をとりまく唐櫃・船坂・宝塚・西宮にもあり、蟹や蛙を用いて雨乞いを祈った。

〈参考文献〉武庫川六甲山口碑伝説集。田辺「六甲山石宝殿について」(『芦の芽』24)

黄金の鶏 元日に鳴く鶏

 六甲山の最高峰から、東に二十分ほど歩くと、一つの独立峰の頂(いただき)に、石宝殿とよばれる祠(ほこら)があります。
大昔、三韓から帰国した神功皇后が、ここに韓から持ち帰った神さまの石を納めた、という言い伝えがあります。
また、この石の祠のそばの三ッ葉ウツギの根もとに、神功皇后は黄金の鶏を埋めたとも伝えます。それで、毎年の正月、元日の夜あけになると、その鶏の鳴き声が、六甲の山々に高らかにひびきわたるのだそうです。

〈メモ〉神功皇后と結びついた金鶏伝説。この地は古くから六甲の山伏の修行場だった。現存する石祠の扉には慶長十八年(一六一三)の刻銘がある。

〈参考文献〉武庫川六甲山口碑伝説集

住吉谷からドビ割りの峠へ登るハイカ一。水争いの場も今は静かな登山道になっている

芦屋の水車谷あたり、深いV字谷の一画に水車場あとの平地が残っている

ドビワリの水争い 住吉川と芦屋川

 東お多福山登山口で芦有バスをおり、西方の蛇谷を谷川にそって二十分も登ると、ひとつの峠にさしかかります。そこは六甲山頂方面・東お多福山頂・住吉谷・蛇谷からの道が十字に出会う所で、ドビワリとよばれています。峠の東は芦屋川の支流のひとつの蛇谷、西には住吉川が流れています。
百五十年ほど昔のことです。ひどい日照りが続き、芦屋川の水は日毎にかれてゆきました。この川で田をうるおしている芦屋村や打出村では、水不足で非常に苦しみました。そのうち、やせ細った芦屋川の水源を調ベに川上に登った人々はシノキ山(東お多福山)の裏の峠で、ひからびた芦屋川とちがって西の谷の住吉川が、まだかなり豊かに流れているのを知りました。
そこで、ねこもり谷の方から流れおちてくる住吉川の水を、上流からドビ(土管)を通して蛇谷の方に流し取ろうと考え、汗を流し強い陽ざしの下で工事をしました。
こちらは、住吉川の水をお百姓しごとに使っている住吉・横屋・魚崎・田中・野寄・岡本といった村々(東灘区内)です。急に川の水が減り、日照は続く一方。作物もしおれ始めます。ついに川をさかのぼって水源をたしかめに行きました。すると、シノキ山の裏の峠で、土管がかけられ、水が芦屋川の方ヘと流し取られているではありませんか。その知らせを受けた村々の若者は、
「何というけしからぬことを。皆で行ってドビをこわしてしまおう。」
血気にはやって峠に登り、こなごなに土樋(とひ)を打ちくだいて帰ってきました。
それから、この峠をみんなは、ドビワリ(土樋割り)とよぶようになりました。

〈メモ〉記録によると、この水争いは文政十年(一八二七)六月に起った。大坂の奉行所に持込まれ論争のすえ、一、芦屋・打出村は今後住吉川の水は流し取らぬ事。二、但し今回の破壊行為に対しては住吉など六ヵ村は銀五貫を支払う事。三、芦屋の方はそれを元にして水不足に備える溜池を築く事。で、十一月に話し合いがついた。

〈参考文献〉田辺「ドビワリの水争い」(『歴史と神戸』65)

芦屋川にかかっていた水車を利用した石垣。山芦屋町

金兵衛車やけ車 悲恋の炎に燃えた水車

 六甲山地の急斜面を流れる河川を利用して、江戸時代から人々は水車産業を育ててきました。農閑期の水を使う水車場には寒い丹波の国から、冬になると働き手がやってきました。
水車の中には、京の御所や幕府に献上する酒の原料となった酒米をつく、格式たかい水車もありましたが、そんな水車の搗(つ)き手に選ばれることは、丹波からくる働き手にとっては大きな名誉とされました。しかし、そのような搗き手になると様々の制約もありました。
これはある年、丹波から、芦屋川の金兵衛車という格式高い水車の搗き手に選ばれた若者の話です。
彼には、丹波に美しい恋人がいました。しかし、水車で働く間は、別れねばなりません。旅立ちの日がやってきて、丹波から山越えに芦屋川に来た若者は、由緒ある、芦屋の金兵衛車という水車に入りました。その水車のろうそう(水車場の頭)は、金兵衛車の高い格式や、彼の役目の大切なことを教え、常に身を清めて働き、米すベてをつきおわるまで、決して水車から出たり、他人としゃべったりしてはならないことを申し渡しました。若者はけんめいに働きました。
一方、娘の方では、ある日、お嫁入りの話がもちあがりました。義理があってその話は断わることもできません。思いあぐねた娘は、山をこえ、はるばる芦屋川の谷に若者を訪ねてやってきました。しかし、やっと金兵衛車をみつけた娘の前に、ろうそうが立ちはだかりました。
「大事のお役目をつとめる若者に、言葉をかけることは許されぬ。それより、お前は、丹波に帰り恩ある人に、義理を果して、嫁に行くことじゃ。」と、どうしても若者に会わせてくれません。
いったん姿を消した娘は、やがて山から榊(さかき)を二枝もって現われました。眼はつりあがり髪をふり乱して、娘は、ぐるぐる、ぐるぐると水車のまわりを走りめぐりました。そのうち彼女の体は、ふしぎな炎(ほのお)を出しはじめ、まもなく全身が焔(ほのお)となって天に昇ってしまいました。
その夜ふけのことです。金兵衛車全体が、奇妙な光につつまれて、水車も臼も、ろうそうも若者も、ついには一つ火の車となって夜空に昇ってしまったそうです。その時から里人は 金兵衛車やけ車 と謡うようになったのです。

〈メモ〉芦屋川の水車谷、住吉川の四輌場・五輌場・七輌場、六甲山の水車新田などは、水車業の名残りの地名。すでに水車はすたれ今では住吉川の焼が原に二輌が働いているだけ。失火で水車場を失った責任を免れるために考え出された伝説かもしれない。

〈参考文献〉芦屋郷土誌 兵庫の民話

山犬の恩がえし トトヤ道の魚屋

 むかし、深江あたりの魚屋さんは、毎朝はやく採れた魚を、山越えに有馬へ売りに行っていました。今もその通った道すじ―森から裏山に登り、金鳥山の東を通って風吹岩・雨が峠・本庄橋、そして六甲山最高峰の東で峠を越えて有馬へ下る山道―をトトヤミチ(魚屋道)とよんでいます。
ある若い魚屋さんのことです。生きもの好きな人で、有馬から帰る道すがら、山中の腹ペコな山犬のために、ときどきあまった魚の売り物を、
「そーれ、おいしい魚やぞー、山犬よ、狼よ。」と投げすててやっていました。
たまたま帰りが遅くなったある日のことです。
「これは困った、日も暮れてきたぞ。無事に帰れるかしら。」
日もとっぷりくれた山道を一人でトコトコと帰ってゆきました。どこらあたりまで来たでしょう。急に目の前に大きな山犬が現われました。
「あっ、狼だ」と、立ちすくんだ魚屋さんの着物を、しきりに山犬はひっぱります。しかたなく、ひっぱられる方向にぐんぐんついてゆきました。山犬が若者をやぶかげの岩のうしろにつれこんだ時です。ガサガサ、と物音がして山道を大勢の狼が通りすぎてゆきました。
「おお、そうか。いつもの魚のお礼に、狼からわしの身をすくってくれたのか。」
それからも若者は、魚があまれば山中の腹ペコな山犬のために魚を投げすててやったそうです。

〈メモ〉江戸時代に灘地方と有馬を結んだ湯山間道は、鉄道開通後は住吉道にとって代られさびれていったが、もっぱら海産物の運搬路として利用され、トトヤ道の名でよばれた。話は東灘区本山町の旧中野村の古老による。

〈参考文献〉東灘の史跡と木かげ

もっと詳しく知ろうという人のために

書名 編著者 発行年
摂陽群談 岡田けい志 元禄14年
兵庫名所記 植田下省 宝永7年
摂 津 志 並河誠所 享保19年
摂津名所図会 秋里籬島 寛政8年
播州名所巡覧図絵 秦 石田 享和3年
西摂大観 仲 彦三郎 明治44年
山田村郷土誌 福原潜次郎 大正9年
武庫郡誌 武庫郡教育会 大正10年
須磨史蹟 須磨尋常小学校 昭和4年
六甲 竹中靖一 昭和8年
武庫川六甲山附近口碑傳説集 辰井 隆 昭和16年
有野村誌 同編纂委員会 昭和23年
本山村誌 同編纂委員会 昭和28年
兵庫の民話 宮崎修二朗、徳山静子 昭和35年
芦屋郷土誌 細川久吉 昭和38年
伊丹史話 伊丹市史編纂室 昭和47年
すまのむかしばなし 田辺、間島、真野 昭和50年
ページトップへ