46号表紙

No.46(昭和51年3月)

特集:

伝説の六甲山系(上)

伝説の六甲山系(上) 伝説を秘める六甲川の深い谷すじ

伝説を通して見直す山の自然

六甲は、神戸の母

 古代。大和から大陸への窓口であった難波まで来た人々は、海のかなたに眺められる土地―現在の神戸・芦屋・西宮あたり―を、海のムコウの里、ムコウの山、ムコウの川と呼んでいた。
 中国から漢字が伝えられて、土地の名前に漢字が当てられるようになってムコの音には、務古や武庫の字が用いられ、少し後には六甲(ムコ)の字も使われた。こうして、武庫川や務古の泊や、六甲山の地名が生まれた。
 ところが、いつしか六甲はロッコウと読まれ始めた。時が移って地名のこうした意味は忘れられ、文字のもつ意味から地名を説明する伝説がかもし出される。
 江戸時代になると、多くの書物は、六甲山というのは昔、神功皇后が三韓からの帰途この山に六つの甲を埋めたので、この名が起こった、と書くようになった。
 九三二・一メートルの最高峰を中心に、東は甲山から西は須磨の鉢伏山まで、東西約五十五キロ。六甲山地は海岸線に平行してつらなっている。この山地を削って流れる中小河川が浜辺に土砂を堆積(たいせき)してつくった平地が、われわれの生活の舞台だ。そして北からの季節風をさえぎって、港の船を守る屏風にもなっている。六甲は、神戸の母だ。

あの森、この谷に

 大昔、ふもとの人々は、六甲のいくつかの峰を神さまの降る場として信仰した。平安時代からは山伏たちが、山中に行場をひらいた。室町時代からは、ふもとの村人も六甲の山々に入り柴や草を刈った。六甲山地は、薪炭とともに大切な水源の地でもあった。
 六甲を今日のような行楽登山の地として開いたのは、異国の人々だった。開国後、来日したアーサー・H・グルームが、その意味で六甲の開祖とされる。
 美しい緑の中を走るドライブウェイやロープウェイの窓から見える森や谷には、さまざまな祖先の残した伝説がある。
 伝説は史実とはちがう。が、これらを通して山の自然をみなおしてみよう。

文・田辺眞人氏(県立芦屋高校教諭)、位原庸太氏(神戸市民俗芸能調査団員)

本号でとりあげた伝説

  1. 御影山
  2. 六甲川の蛙岩
  3. 摩耶山
  4. 弁天滝の大がに
  5. 二度の登山
  6. 千鳥の滝と長者
  7. 大きな竜の谷
  8. 砂山の洪水
  9. 鹿松峠
  10. 住蓮坂と妙号岩
  11. 塗料の山と仏教の伝来
  12. 清盛の月参り
  13. 稚児の墓
  14. 力もちの木こり
  15. 鉢伏山
  16. 神撫の山
  17. 山上のたこ
  18. 高尾のお地蔵さま
  19. 古寺山の宝物
  20. フドの森の黄金の鶏
  21. ヨモシロ滝
  22. 山姥の滝
  23. 天狗の遊び場

御影の名を全国に知らせた花崗岩の石切場。荒神山

御影山 カガミの里

 江戸時代の地図を見ると、住吉・御影の北の山を御影山とよんでいます。
 千四百年もむかし、聖徳太子のお母さまは、あつく仏教を信仰していました。難波の地―今の大阪―から、毎日、阿弥陀さまを祈って西方を拝んでいましたが、とうとう願いがかなったのか、西の方、この山のふもとに紫の雲がたなびいて、よい香が一面にただよったかと思うと、この山ごしに阿弥陀さまの姿が現われました。このことから、その山を御影山とよぶそうです。

〈メモ〉御影の裏山である御影山の名を説明する伝説。御影の地は古代、カガミの里とよばれ、鏡作部のいた地とされる。

〈参考文献〉摂陽群談

夜な夜な山道に出たという蛙岩

六甲山の蛙岩(かえるいわ) 蛙の姿で出没

 江戸時代に六甲を流れる川は、たくさんの水車をまわしていました。六甲川(都賀川の上流)の灘区水車新田も、さかんな水車のなごりの地名です。この水車新田のドライブウェイのわきに大きな石があり、蛙岩といいます。
 むかしは夜ごとに道のまん中まで出てきて、蛙の姿をして人々をおどろかせました。そこで出られぬように、鉄のさくをして封じこめ、蛙まつりと称してお祭をしたそうです。
 また、この岩の後には、おたまじゃくし形の石がいくつかあって、それは毎年少しずつ大きくなるともいいます。

〈メモ〉石の形から同様に蛙岩と呼ぶ石は、東灘区森のうら山にもある。ここのように石が成長するという信仰も、明石の黒岩神社など各地にみられる。

〈参考文献〉「武庫川六甲山附近口碑傅説集」

摩耶山 摩耶夫人の像

 千五百年ほど昔の中国の南北朝のおはなしです。
 そのころ、難産で死ぬ女性がたくさんありました。そこで梁の武帝は、女性の苦しみを見かねて仏像を彫りました 一のみ彫るごとに仏の名を三度いのりなから、お釈迦さまを生んだお母さんの摩耶夫人の像を二体作ったのです。
 そのうちの一体は梁の国の都にまつられていましたが、もう一体は、そののち弘法大師が仏教を学びに唐に渡った時、大師の手に入りました。大師は帰国ののち、その像を山の霊場に納めてまつりました。
 もともと、この山には、お釈迦さまみずから作られたという観音さまを手に入れたインドの法道仙人が、来日して霊場を開いていたといいます。弘法大師が摩耶夫人像をまつってからその寺は、摩耶山とう利天上寺とよばれるようになりました。

〈メモ〉天上寺の縁起伝説。とう利天は、死後の摩耶夫人が生まれかわっている世界。今、山中に、安産の井戸がある。

〈参考文献〉摂津志 摂陽群談

  • 火災後のとう利天上寺境内
  • ありし日のとう利天上寺
  • 摩耶山上への登山者。杉の大木が美しい

大ガ二のすみかだったという弁天滝

弁天滝の大蟹(がに) 山道の旅人を襲う

 六甲ケーブル土橋駅の上手、ドライブウェイの西に美しい滝があります。昔、この滝には大きな力二が住んでいて、夜な夜な山道を通る旅人をおそった。人々はこの滝を力二が滝とよんでいました。のちに、滝の上に祠(ほこら)を作って、この力二をつり、水の神さまとして、信仰しています。

〈メモ〉水辺の蟹はここでは弁天さまとして祀られた。旅人を襲う大蟹については、明石の和坂(カ二ガサカ)にも伝わっている。

〈参考文献〉 「武庫川六甲山付近口碑傳説集」

二度の登山 弘法大師と再度山

 兵庫あたりからみると、鍋蓋(なべぶた)山と摩耶山の間に、独特の姿をした再度(ふたたび)山がみえます。
 どうして再度という名がついたのでしょう。この山には奈良時代から観音さまをまつる霊場があったといいます。今から千二百年も昔、弘法大師が唐―今の中国―に仏教を学びに渡ろうとした時、遠い船旅の安全を祈ってこの霊場に登り、修行をしたそうです。
 唐で仏教を学んでのち、無事帰国した弘法大師は、お礼のために、またこの山に登りました。大師が二度、登られたので再度(ふたたび)山だ、と人々は言い、また、その行場を修法ガ原と称するのだそうです。

〈メモ〉再度山大竜寺の寺伝による。一説には、途中で峠を二度こえる山田地方への交通路があって再度越えと呼ぶのだという。修法ガ原も塩ガ原で、海産物の交易の場だと説かれる。なお、この山中には中世の多々部城址の遺構がある。

〈参考文献〉摂陽群談、福原会下山人「六甲史話」

  • 特異な姿をみせる再度山
  • 亀石は大竜寺奥院付近にある
  • 弘法大師の開いたという大竜寺山門

千鳥の滝と長者 お米を運んだ娘

 湊川をさかのぼると、荒田の北で川は東の天王谷川と西の石井川に分かれています。この石井川が山地に入ろうとするところに、千鳥の滝という美しい滝がありました。
むかし、石井の村にとあるお百姓がありました。ある日、そこに若い娘がやってきました。
「お客さまをしますので、お皿やお膳を十人分も貸してくれませんか」
「はて、どこの娘じゃろう。……まあ、よいわい、困っている時はお互いさまじゃて」
すると、翌日、娘は
「ほんとうにたすかりました」とお礼を言って、それを返しにまいりました。
そんなことが何度かあったあとです。
「これは、ほんのお礼のしるしです」と、大きな樽を持ってきました。そして数日間、袋をかついで少しずつお米を運んでやってきました。最後に娘は言いました。
「私のあとなど、決してつけて来られませぬように。この樽の底をこすったり、むやみに樽をのぞきこんだり、されませんように」
娘にもらった樽の米は、使っても使っても無くなりませんでした。そのうち百姓家はさかえて、里の長者になりました。娘は、三代ほどの間、あいかわらず年もとらず、時おり道具を貸りに、この家に現われました。
何代目かの長者の時です。あまりのふしぎさに、とうとう帰って行く娘の後をつけて行きました。千鳥の滝の所までくると、ぽっ、と娘は消えてしまいました。
それからは、二度と娘はやってきませんでした。樽の米もどんどんへってゆきました。それでも長者の家は、ずっと栄えつづけたということです。

〈メモ〉この地の富家の伝説。千鳥の滝は今では堰堤になって美しく水をほとばしらせている。

〈参考文献〉川辺賢武「神戸の民話」

  • 石井川。千鳥の滝ちかくまで民家が建ちならぶ
  • ダムに変った千鳥の滝。水しぶきは今も美しい

大きな竜の現われた蛇谷

大きな竜の谷 大師の船旅守る

 弘法大師が唐に渡ろうとした時、悪霊が途中の海上で大波を起こして、大師の船を今にもてんぷくさせようとしたことがありました。
しかしその時、突然、海面に大きな竜が現われて波をしずめ、船を守ってくれました。
唐の国で修行をおえて、大師が帰国しようとした時も、やはり悪霊は同じようなたくらみをしていました。でも、この時も大きな竜が現われて大師の船旅を守ってくれました。
大きな竜は、船の近くを泳いで日本に来ましたが、ちょうど神戸の沖あいまでくると、急に北方の山の方に飛び去って姿を消してしまいました。
そののち大師は、航海の無事を感謝して再度山の観音さまの霊場に登ってゆくと、この山中の谷に、さきの大きな竜が現われました。弘法大師はその霊場に寺を建て、大竜寺と名づけました。のちに、竜の現われた谷は、蛇谷とよばれるようになりました。

〈メモ〉大竜寺の寺号解説の伝説。寺の奥院一帯には、大師の彫った梵字などと伝える行場が多くある。

〈参考文献〉摂陽群談

砂山(いさごやま)の洪水 影のできない鳥居

 新幹線の新神戸駅の下で、生田川の本流に東から苧川(おがわ)が流れこんでいます。そのちょうど北側に小さな姿のよい独立丘があります。布引丸山とか、砂山とか呼ばれています。
ずっと昔、生田の神さまは、この山の上にまつられていたそうです。そのころこの山は、神さまの力で一面に青々と松の木を繁らせていました。
今から千年ほど前、ある年に何日も何日も大雨が降りました。とうとう恐ろしい山津波が起こって神の社は、今にも崩れて土砂に埋もれそうになりました。その時、一人の神主さんが、命からがら山から神さまを抱いており、水のこない安全な地に社を移してまつりました それが今の生田神社の地だということです
この洪水で神さまは怒りました。今まで恵みをかけて守り育ててやった松の木は、何と頼りにならなかったことか―。
それ以来、生田の神さまは松の木が大嫌いになりました。今でもお正月の門松を生田神社では飾りません。杉のお飾りをかざります。
雲中小学校の西北かどに一つの古い鳥居が立っています。これは、砂山に神さまがまつられていた時のなごりだといわれていますが、この鳥居を"旭の鳥居"とよんでいます。お正月、元旦の朝日がさしても、どこにも影ができないのだそうです。

〈メモ〉砂山は山容の美しい独立丘で、古代の神まつりの場と考えられる。
生田神社では、神輿唄も「いわい目出度の若杉さまよ…」と唄い、生田の森にも松は繁らないという。

〈参考文献〉西摂大観

  • 元旦の朝日があたっても影ができないという旭の鳥居
  • 新神戸駅のちかくに美くしい山容をみせる砂山
  • 昔、生田の神さまがまつられていたという砂山。そのむこうに神戸市街が広がる

鹿松(かのししまつ)峠 出没した鬼人

 高取山の北ふもとは、兵庫から多井畑にぬける山道の峠があって、鹿松峠とよんでいました。
今から千年ほど前、この峠に鬼人が出没して旅人たちをおそい、身ぐるみはいで困らせました。兵庫から塩屋へぬける旅人は、ほとほと困っておりました。
この旅人の難義を知られた一条天皇は、「何とかよい知恵はないか」と考えこまれたすえ、ひとつの名案を思いつかれました
「そうじゃ、高野の山で仏教の修行をしている英雄丸に、み仏の力で鬼人を退治させよう」
英雄丸は、藤原伊尹(これただ)の三男でしたが、名を證楽上人と改めて、はるばるこの峠にやってきました。そこにお堂を建て、日夜お経を唱えて仏さまに鬼人退散を祈りました。何日も何日もたって、とうとう鬼人は峠に出なくなりました。安全な旅が続けられるようになり、旅人は大変よろこびました。

〈メモ〉鹿松(しかまつ)町・獅子が池などは、このカノシシマツ峠の遺名。證楽上人の建てた堂が、須磨区の勝福寺のおこりだという。

〈参考文献〉須磨史蹟、すまのむかしばなし

  • 高取山北麓には自動車がゆききする。鹿松峠のあたり
  • 高取山から昔の山道にかわる道路をのぞむ。上方は獅子ガ池

住蓮(じゅうれん)坂と妙号(みょうごう)岩 安全祈願の妙号

 夢野の裏山から北の谷を眺めると、烏原水源池があります。
古くは、この地は上野とよばれていて、そこに行基が開いた観音堂があったといわれています。堂は鎌倉時代には荒廃していましたが、法然上人の弟子の住蓮という人がそれを復興し、願成寺と改めました。念仏上手な住蓮が、兵庫の町へ布教に行く時に通ったことから、烏原から石井町への山道を、住蓮坂と呼ぶようになりました。
そして、建永年間(一二〇六〜一二〇七)に住蓮が京にのぼった時、後鳥羽上皇の愛する松虫・鈴虫の二人が、彼に帰衣して尼になったので、院の怒をうけ、住蓮は近江国馬渊村で処刑されてしまいました。この斬られた首を、烏がくわえて願成寺まで運んできたそうです。それから、この地を烏原と呼んでいます。
さて、夢野から烏原谷・菊水山の西の谷川をさかのぼる山道は、兵庫と丹生山田を結ぶ交通路でした。丹生山日吉権現を信仰していた平清盛が、この道を通って福原から、月参りをしていたといいます。
神戸電鉄・菊水山駅から北へ一`bほど行きますと、線路西方にけわしい岩場があります。その大岩壁には、一字の大きさ、方四尺、字の太さが六寸もある「南無阿弥陀仏」の大妙号が刻まれています。
これは小部の極楽寺の修誉諦善というお坊さんが烏原谷を行きかう人々の安全を祈って、文久年間(一八六一〜一八六三)に彫ったものだそうです。

〈メモ〉烏原村の地は神戸市に買収され、明治三十八年には貯水池が建設され水没した。願成寺も会下山の南に移転。高さ五五b、幅四〇bの妙号岩の岩壁は今、口ッククライマーに親しまれている。

〈参考文献〉六甲史話(福原会下山人)

  • 古い交通路烏原谷を走る電車を見おろす妙号岩
  • 烏原村の願成寺から住蓮が兵庫の町へ通った住蓮坂
  • 烏原水源池。池底には、かって烏原村があり水車業などが行われていた

稚児の逃げた山みちの途中にある帝釈山頂。山田の里人はこの山上で雨乞いの火をたいたともいう

明要寺の廃絶後、山上に残った丹生神社は、かつてその寺の鎮守社だった

塗料の山と仏教の伝来 美しい丹生山田

 六甲山系と帝釈山系にはさまれた山里を、丹生山田とよんでいます。美しい姿をした丹生山にちなむ名前ですが、むかし、この山には質のよい丹(赤つち)がありました。
三韓へ出兵しようとした神功皇后は、その長い船旅のために船に塗る丹をさがしていましたが、この山の丹が防腐の役目をはたすことがわかりました。この山からたくさん丹を取って船体に塗りつけたことから、丹生山とよばれるようになったそうです。
ところで、欽明天皇三年に百済の聖明王から、わが国に仏教が伝えられたことになっています。その時、聖明王の太子の童男(どうなん)行者が長い船旅のすえ、赤石の浦にたどりついたそうです。そこに、一人の老翁が現われ、
「日本で仏に縁のある地をさがしているのなら、ここより北東の方向によい山がある」
と言って、手に持っていた独鈷(どっこ)―仏具の一つ―をぽーんと投げました。行者がそのあとを追ってやってきたのが丹生山です。すると、さきほどの老翁は突然仏さまとなって、光明を放って消えてしまいました。行者はその仏の姿を刻み、本尊としてお寺を建てました。それが丹生山明要寺だそうです。

〈メモ〉丹生の地名起源と、明要寺の縁起伝説

〈参考文献〉西摂大観

僧兵がいたという丹生山には今も山内に多くの石垣がある

清盛の月参り 丹生山明要寺

 およそ七百年むかしのことです。
 平清盛は福原におりましたが、丹生山を京都の比叡山になぞらえて日吉山王権現をまつり、ここへ月参りに来ていたといわれています。そのころ、明要寺は清盛の保護をうけ、塔を建てたり伽藍(がらん)を造ったりして、とても盛えていたといいます。寺がすたれてのち、丹生神社だけが残っても、土地の人々は今でも山王さんと呼んで信仰しています。

稚児(ちご)の墓 稚児墓山と花折山

天正七年(一五七九)、羽柴秀吉が織田信長の命で三木城を攻めた時の話です。丹生山にある明要寺は三木の別所氏に味方をして、兵庫から三木への物資の運搬の中つぎの役わりを果たしていました。それで、秀吉はある夜の風雨に乗じて、山が焼け野原になるまではげしく寺を攻めほろぼしました。
殺された者の中には、明要寺のまだ幼い稚児がふくまれていました。これを哀れんだ里人は、そのなきがらを帝釈(たいしゃく)山の東にあるけわしい山の頂きに埋めてやりました。このことから、その山は稚児墓(ちごはか)山とよばれています。
この墓のある稚児墓山の東の峰は、墓に供える花を手折ってきた所だということから、花折(はなおれ)山と呼んでいます。

〈メモ〉丹生山明要寺は清盛の保護下で栄え、僧兵がいたと伝える。中世には山城の役割りを果たし、秀吉の攻撃で滅ぼされた。

〈参考文献〉西摂大観 山田村郷土誌

  • 丹生山落城後、山づたいに逃げてきた稚児たちは斬り殺された。稚児墓山の頂
  • 落城後、稚児が逃げたという丹生の山なみ。稚児墓山から丹生山をのぞむ

高取山から望む鉄拐・旗振り・鉢伏の山なみ。

けわしい鉄拐山への登り道

力もちの木こり 鉄枴が登った山

 むかし須磨の山すそに、たいそう力の強い木こりが住んでいました。彼はいつも鉄でできた重い枴(つえ)をたずさえて山に入り、力いっぱいそれを振りまわして、一度に馬数頭分のたきぎを背負って、村に帰って来ます。人々は、この木こりを鉄枴(てっかい)とよび、彼の登る山を鉄枴山と名づけたということです。

〈メモ〉鉢伏、鉄拐の山々は、神戸の東端や播州平野からも遠望され、旗振山の名の示すように、(旗振り)通信の場だった。古代のノロシ場ではないかともいわれる。

〈参考文献〉摂陽群談

鉄の枴をふりまわす力もちがいたという鉄拐山

鉢伏山 カブトのような姿

 神功皇后は、朝鮮半島への遠征から帰国されると、軍船を武庫の水門に集結されました。全軍の兵士を集めて、遠征の報告です。人々は集まってカブトをぬぎ地に伏せて、手がら話をしました。その背後の山は、ぬぎ伏せたカブトに似た姿をしているので、鉢伏山とよばれました

〈メモ〉海上からも、鉢伏の名の示すように美しい姿か望まれる。

〈参考文献〉摂陽群談

海に迫って鉢を伏せたような山容の鉢伏山、山中から流れる川が、東から一ノ谷、ニノ谷、三ノ谷と平行する谷を形づくった。

神功皇后が撫でてできたという高取―神撫山

神撫(かんなで)の山 古い神体山

 高取山は、吉くは神撫山(かんなでやま)と呼んでいました。むかし、三韓から帰国した神功皇后が、長田の地に上陸してひと休みされました。その時すわられた皇后は、かたわらの大石を撫でられましたが、不思議なことに、石はむくむくともりあがり、みるまに高い山となりました。
人々は、神功皇后が撫でられた山というので、神撫山と名づけたそうです。

〈メモ〉古代の神奈備山―神まつりの山―がなまってカンナデ山となった。落合重信氏によると、長田神社の古い神体山ではないかとされる。

〈参考文献〉摂陽群談

山頂まで大水につかったあと、高取山の松にタコがひっかかっていたという

山上の章魚(たこ) 高取山の松

 大昔すごい洪水があり、山の頂ちかくまで水に没したことがありました。ようやく水がひいたあと、高取山の上の松の木に、大きな章魚が八本の足をからませ、とまっておりました。ふもとの人々は、息をはずませて山に登り、松の木から章魚を取って帰りました。人々は、その山を、タコ取り山とよぶようになり、後には高取山と書くようになったそうです。

〈メモ〉高取山の名から章魚取の説が出たのだろう。須磨地方の古老は、この類の話をよく伝えている。また、この山に鷹が多く住んでいて、鷹取山というのが正しいともいう。

高尾のお地蔵さま 義経の馬つなぎ松

 北区の藍那から南へ山道をたどって兵庫の町に至る鵯越え(ひよどりごえ)とよばれる交通路がありました。この山道は、高尾山を越えるあたりが最も高い峠になっていて、そこに高尾の地蔵とよぶお地蔵さまがまつられ、旅人の安金を守っていました。そのお堂の前には小さな泉があって、高尾の清水といい、旅人ののどをうるおしていました。お堂の前の古い松の大木は、源義経の馬つなぎ松と呼んでいます。
〈メモ〉丹生山田の里から兵庫へ出る山道は、源平の合戦でも名の出る鵯越えである。

〈参考文献〉摂津名所図絵

  • 高尾地蔵。鵯越の峠にあって旅人の安全を見守ってきた
  • 高尾地蔵の前の"義経馬つなぎ松"

古寺山(ふるでらやま)の宝物 九億九万の金

 神戸電鉄の六甲登山口の北に、多聞寺という寺があります。この寺から南をみると、古寺山とよぶ高い山があります。
ふもとの唐櫃村では、むかし多聞寺は、この山上にあったといい。村が衰えたら、この山に埋められている宝物を掘り出せと伝えています。
三尺三寸雪がふれば、古寺山は消えている
三つ葉おとぎの木のもとに 九億九万の金がある という古い里謡があります。

〈メモ〉六甲山多聞寺は、大化元年に法道仙人の開基と伝える。福原遷都後の新都の鬼門を守るため、平清盛からあつい保護を受けて繁栄したという。そのころは、この山上にあったが、源平の争乱の中で焼失して山麓の現在地へ移ったと伝説されてきた。
 山上の数面の平坦地から、昭和四十五年に赤松啓介氏の手で本堂・護摩壇の址が発見された。

〈参考文献〉有野村誌 北神地区多聞廃寺址調査団「多聞廃寺址概要」昭和46

  • 昔、この古寺山の頂に多聞寺が栄えていたと伝える。裏六甲ドライブウェイから
  • 多聞寺の山門ごしに見える古寺山

唐櫃石神社。この下に黄金の鶏が埋められているという

フドの森の黄金の鶏(にわとり) トテコロの神事

 唐櫃(からと)のフドの森は、今も新しい住宅地の中に、うっそうとした昔の姿をわずかにとどめています。ここには宝物が埋められているといいます。
三韓から帰られた神功皇后は、甲や弓、衣服や剣とともに、雄雌二羽の黄金の鶏を石のからびつ(唐櫃)に納めて埋められたのだというのです。のちにその上に石の祠(ほこら)がまつられました。
宝物の埋められたのは、この祠の少し北の大きな石の下だとも伝えています
この宝物は、村がよほど衰えた時でないと掘り出してはならぬ、と伝えられ、あるお百姓は、この大石に腰かけて休んだため、病気になって苦しんだそうです。
また、この鶏にちなんで、唐櫃では、子どもが二人、雄鶏と雌鶏に粉して鳴き声を出すトテコロの神事があります。今でも、年越しの夜に小学生が、村の神社で、
「トテコロー」
「クー クー」
と鳴きまねをしています。

〈メモ〉各地にみられる金鶏伝説の一つ。近在では、六甲山上の石宝殿や須磨区白川にもある。

〈参考文献〉有野村誌

住宅地の中にこんもりと残っているフドの森

タコを洗って雨乞いしたというヨモシロ谷の滝

ヨモシロ滝 雨乞いの滝

 裏六甲ドライブウェイから六甲に登ろうとすると、ゲイトのすぐ上方に、よくひらけた明るい谷があります。これがヨモシロ谷です。谷は上るにつれてけわしくなり、そこにヨモシロ滝が美しく水をほとばしらせています。
昔、上唐櫃(かみからと)の村人は、日でりのきつい夏によくここに登ってゆきました。ここの滝つぼに、章魚(たこ)をつけて洗うと、にわかに大雨か降る、と信じられていたのです。

〈メモ〉六甲山系にはこのほか、石宝殿や弁天岩など興味深い雨乞いの信仰があった。

〈参考文献〉「武庫川・六甲山附近口碑傳説集」

行場に彫られた心経岩。ひっそりとした山中の巨大な般若心経は神秘的だ

山姥(やまうば)の滝 滝の水で長生き

六甲登山口から裏六甲ドライブウェイを登ってゆくと、ニノ橋を渡って少しの所に一つの谷があります。むかし、この谷には年とった山姥(やまうば)が住んでいました。山姥はこの谷の滝の水を飲んで、大変なが生きをしたそうです。人々は、その谷をウバ谷と呼んでいます。

〈参考文献〉「武庫川・六甲山附近口碑傳説集」

多聞寺の山伏の修行場といわれる雲が岩。ここからの六甲山中の展望もすばらしい

天狗岩には、しばしば天狗が飛来したと伝える

天狗の遊び場 修験道の行場

 むかし、けわしくそびえる六甲の峰々には、よく天狗が飛びおりてきたそうです。六甲山上にある天狗岩は、そんなふうにして飛んできた天狗の遊び場だったのです。

〈メモ〉六甲山系は、古来、修験道の行場として開かれてきた。石の宝殿・行者堂・天狗岩などそのなごりである。北麓の多聞寺はその一中心で、雲が岩やそのふもとの大正六年に刻まれた心経岩のあたりは、多聞寺の行場だと伝説する。
山麓各地に、それら山伏を天狗と考えての伝説も伝えられている。

〈参考文献〉摂陽群談 有野村誌

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