42号表紙

No.42(昭和50年10月)

特集:

神戸の街道(上)

神戸の街道(上) 「摂津国名所旧跡細見大絵図」から
神戸のような近代的な大都市にも、昔の街道筋の面影は残っている。路傍に、寺院の境内に、古い家並の軒先に、そっとかくれるように残っている。それはいじらしくも、またたのもしい―。
 神戸に残っている古い街道筋のなごりを、心地よい秋風に吹かれながらたどってみることにしよう。参考図書・「摂津国名所旧跡細見大絵図」(天保七年・一八三六)「摂津名所図会」(寛政八年・一七九六)「播州名所巡覧図絵」(文化一年・一八〇四)「兵庫の街道」(神戸新聞社編・のじぎく文庫)
本文・田辺 眞人氏(県立芦屋高校教諭)

西国(さいごく)街道

活況を呈した西日本の幹線

 畿内と大宰府を結ぶ山陽道は、律令制のもとで整備された古代の幹線道路だった。物資や旅人が通行したこの道沿い、東神戸に並ぶ三墓の前方後円墳は人目をひき、早くから、塚にまつわる葦屋(あしのや)の宇奈比処女(うないおとめ)の悲恋の伝説が語られていた。万葉の歌人が、すでにその伝説を歌っている。平安時代になると、この道は大路(おおみち)とされ、そこに三十里(後の約五里)毎に駅(うまや)が設けられた。「延喜式」は、このあたりに葦屋(あしや)・須磨・明石・賀古(かこ)の駅名を記している。芦屋の東方で、都から内陸を横ぎってきた道は海辺に出た。打出(うちで)はこのように街道が海辺に出る所につけられた地名である。
 当時の山陽道は、そこから海辺を西に進み、菟原(うはら)郡・八田部(やたべ)郡の郡役所(それぞれ御影町郡家(ぐんけ)・長田区前原町の室内の地)近くを通って須磨に至り、鉢伏山の北を迂回して塩屋に出、また海岸を明石へと通じていた。「伊勢物語」の中で在原業平(ありわらのなりひら)が、芦屋から布引の滝見に訪れ、帰りが遅れて暗やみの中で遠くに海士(あま)の漁火(いさりび)を見たのもこの道を舞台としての物語だ。その兄、行平が流された須磨の地で月見に登ったという月見山も、また松風・村雨との出合いの舞台も、この道のちかくのことだろう。
 また武士たちもこの道を歩いていった。兵庫に陣取る平氏を打倒するため、源範頼に率いられた源氏の軍勢は寿永三年(一一八四)三月「五月の暮がたに、こ陽野(こつの)をたって、やうやう生田の森に責(せめ)ちかづく。雀の松原・御影の松・こ陽野の方を見わたせば、源氏手々(てんで)に陣をとて、遠火(とおび)をたく。ふけゆくままにながむれば、晴れたる空の星の如し。」そして一の谷合戦のさなか、敗走する大手副将軍、平重衡は「湊河・かるも河をもうちわたり、蓮の池をば馬手(めで)にみて、駒の林を弓手(ゆんで)になし、板屋ど・須磨をもうちすぎて、西をさいてぞ落ち」ていった。「平家物語」当時の風景が思いうかぶ。
 鎌倉時代になると、京と鎌倉の往来で東海道が繁栄するのに対して、山陽道は衰えた。しかし、江戸時代になると西国と京坂を結ぶ交通路として大いににぎわい、西国街道の名で親しまれた。その頃には、京から内陸部を進んできた道は西宮あたりで海辺に出、打出で二本に分岐して西進した。海辺―ほぼ国道四十三号線に沿う―を通る浜街道と、平地の中央―ほぼ国道二号線に並行して―を進む本街道だ。これらは、生田神社の前で合流して再度、一本になり、三宮神社前・元町本通り、そして楠公墓所を山手に眺めてのち湊川を渡り兵庫の街へ入った。兵庫は、平清盛の経ケ島修築以来、日宋貿易で栄えた大輪田の泊の後身として、室町時代にも対明勘合貿易の基地として繁栄したが、応仁の乱のまきぞえで焼失し一時衰えた。しかしこの頃には復旧、国内航路の拠点として賑っていた。柳原で兵庫の街を出、もとの山陽電車の線路に添って西へ。そして古く行墓(ぎょうき)の創建と伝える西代の蓮の池をすぎると、線路から別れて今の中央幹線道路に沿い、須磨寺駅南まで直進する。そこから斜め南西に進んで、あとは、国道二号線沿いに、塩屋・垂水・舞子を経て明石に至っていた。
 松並木の本街道を大名行列がゆき来し、津知(芦屋市)・御影・脇浜・兵庫湊口・西代・境川・東垂水(以上神戸市)・大蔵谷(明石市)の順に、道わきには、一里塚が築かれていた。茶屋芦屋・住吉村茶屋や生田区の二ツ茶屋などの地名は、そこに休けいの茶店があったことを示している。鉢伏山麓の街道わきには、敦盛塚とよぶ大きな石塔があり、かたわらの茶店で敦盛そばを売っていた。その西方の堺川を渡ると播州明石郡である。このあたりに遊んだ芭蕉は、「蝸牛(かたつむり)つのふり分けよ須磨 明石」と詠んだ。  いつの時代も人の世に便利な地は同じなのか、西国街道の道すじに、ほぼ並行して国道が走っている。しかし景色は変った。かつて街道ぞいの名所を唄いこんで 梅は岡本 桜は生田 松のよいのが湊川 という俚謡(りよう)があった。が、今、東灘区岡本の梅林も、生田神社参道の桜並木も、旧湊川堤(今の新開地本通り)の松林も、すでに無い。

  • 万葉のむかしから道行く人の興趣をそそった御影の処女塚
  • 本住吉神社前に立つ有馬道の道しるべ
  • 森の国道わきにある"国道地蔵尊"
  • 住吉川の東にある"花松くび地蔵"
  • 御影小学校東側の一里塚橋
  • 昔をしのばせる家(東灘区御影本町)
  • 東灘区魚崎南町3丁目の児童公園にある「左兵庫道 右大坂道」の道標。昔は街道筋にあったのが移されたらしい
  • "大坂道"への道標
  • 魚崎南町の児童公園に残る「魚崎町道路元標」
  • "住吉ステーション"ヘの道標
  • 街道筋の面影を残す家並(東灘区御影本町)
  • 生田の森にある道しるべ
  • 国道のすぐ横にあると思えない静かな敏馬神社
  • 西芳寺の"御影の松"の遺跡
  • 湊川神社前に立つ兵庫県里程元標
  • 元町五丁目の走水(はしうど)神社
  • ハ卜が群れる楠公さんの境内
  • 兵庫区の真光寺にある道標
  • 須磨浦公園にある敦盛塚
  • 国境の境(さかい)川を見て詠んだ芭蕉の句碑、「蝸午(かたつむり)角ふりわけよ須磨明石」(須磨浦公園)
  • 海に向かってそそり立つ海神社の鳥居
  • 今も昔も美しい舞子公園の松
  • 西垂水町にある遊女宝篋印塔
  • 舞子の国道ぞいにある大きな地蔵さん

多井畑(たいのはた)街道

難所・須磨浦を避けた古山陽道

 須磨浦公園のあたり、明石海峡に鉢伏山の迫った狭間(はざま)を、国鉄・国道・山陽電車がひしめきあって通っている。その西方、塩屋との間を南流する堺川(さかいがわ)は、古来、摂播両国の境川とされてきた。ところで、大化改新の詔の中に、畿内西限として赤石(あかし)の櫛渊(くしぶち)の名がある。海岸線が櫛の目状に出入する荒磯を思わせるが、それが現在のこの一帯だと考えられている。そして万葉集の「有磯越す浪をかしこみ淡路島見ずや過ぎなむここだ近きを」、つまり、淡路島を目前にしながら、高い浪を恐れてここから海沿いに行けず山間を通る、という歌もあって、古く、このあたりは山が海に迫る厳しい難所であったため、古山陽道は須磨と塩屋の間、山間を迂回していたとされるのである。
 『平家物語』は能谷直実らが「年来人も通はぬ田井の畑といふ古道を経て、一の谷の波打際へぞうち出でける」と言う。また奈良時代、神護景雲四年(七七〇)に、畿内の国境十ヵ所に疫神を祀り疫をはらったというが、この時の一ヵ所が多井畑厄除八幡宮の起源だと、その社伝はいう。そうすると、多井畑が古い街道に沿う国境近くの地ということになる。つまり、古山陽道は、須磨・多井畑・下畑・塩屋を通っていたと考えられるのである。多井畑のセキスエ(関末)という地名に注目して、ここを須磨の関の地だとする説もある。
 しかし、一の谷の戦いの時には「年来人も通はぬ古道」というから、平安時代には鉢伏南麓に砂浜が形成されて、そこに海ぞいの道が通じていたのだろう。だが、それ以後もこの山道は、戦時などに利用されている。塩屋から多井畑に行き、須磨に出るだけでなく、多井畑から横尾山の北を東へ進んで奧妙法寺に出れば、妙法寺川を下って板宿に出れるし、更に東、高取山北麓を越えて明泉寺谷に至ると谷を下って長田に出れる。またその谷から東の尾根を越えれば、夢野を経て兵庫の北方へと道は通じる。つまり、兵庫から塩屋までの山間の脇道となるのだ。この山道が高取山北麓を越す所が、『太平記』にも記される鹿松峠(かのししまつとおげ)で、今も付近に鹿松(しかまつ)の町名を残している。
 江戸の太平の世の中で、浜辺の西国街道の繁栄をよそに、この山道はすたれていった。「古は兵庫より夢野を経て山中に入り、此田井畑を歴て播州へ出づる。これを古道越といふ」と『摂津名所図会』は記している。須磨から多井畑への峠道もすたれていった。
 明治になって交通が活気を帯び始め、さびれた峠道は眠りからさめた。「多井畑街道車須磨字西の口より多井畑に至る延長三十三町余の道路なり。之多井畑地民が独力三千三百円の巨費を投じ、明治十四年十一月十一日より、同十六年十二月に渉(わた)りて」旧道の少し北に新道を建設した(『武庫郡誌』)。この新道起点の碑が、山電月見山駅南方にある。
 昭和四十年代の宅地開発とカー・ブームは、この道を大規模に変身させた。多井畑峠あたりの山地も大幅に削り取られて、そこにあったトンネルも姿を消してしまった。

  • 月見山センター街に立つ厄除八幡神社の道標
  • ひっそりと木かげに並ぶ松風・村雨の墓(多井畑)
  • 松風・村雨が鏡がわりに使ったという"鏡の井"
  • 道ばたに並ぶ石造物(下畑)
  • 樹木に覆われた多井畑厄神さん
  • 古い土地をしのばせる道(多井畑)
  • 久昌寺(垂水区下畑)の本堂裏にある宝篋印塔。南北朝のころ、一遍上人に帰依した村人百人が街道筋に建てたと伝えられる

魚屋道(ととやみち)

長い歴史を秘めた六甲越え

東六甲の登山地図には、東灘区本山町森や北畑、芦屋市三条町から裏山に登って尾根上で合流した道が、風吹岩・東お多福山の雨ヶ峠・住吉谷・七曲り・一軒茶屋・射場(いば)山腹を経て有馬まで描かれている。これは、江戸時代初期にまでさかのぼれる最古の六甲越え交通路の一つで、今、魚屋道(ととやみち)とよばれている。寛延元年(一七四八)の『摂津国名所大絵図』など古絵図に描かれ、元禄十四年(一七〇一)の『摂陽群談』は「(六甲)山頭より有馬湯山に越道(こしみち)あって六甲越と号す……兎原郡森村へ出る所也」と、この道を記している。
 江戸時代には、灘(なだ)地方から有馬への正規の道は、芦屋・西宮を通り、そこから北へ、小浜(こはま)(宝塚市)・生瀬(なまぜ)(西宮市)を経て六甲の裏を通り船坂、有馬に達する迂回路だった。だからこの山越え道は、灘と有馬を直結する最短コースとして注目された。しかしこの道の通行は、街道ぞいの宿場にとっては大きな痛手となる。このため、寛文十二年(一六七二)以来、この山道に関しては、道を利用しようとする灘や有馬の人々と、その通行を抜け荷と決めつけ道を閉鎖させようとする宿場の商人との闘いを物語るいくたの古文書が残っている。
 文化三年(一八〇六)にも、小浜・伊丹・尼崎・生瀬の商人たちは「山道を街道同様に修理し、毎日、牛・馬に績んだ荷や旅人がそこを通るので、我々宿場の者は困っている。どうか山道の通行を禁じてほしい。」と、大坂奉行所に訴え出た。約半年間、有馬および本庄九ヵ村(東灘区東部)と禁止の判決が出たが、その後もこのち、通行の論争が続いたの山道の通行はあたを絶たなかった。当時、道は「湯山間道」「六甲越」と称されている。
 明治維新ののち通行は自由になった。しかし、この道は明治二十年頃を最後にさびれてしまった。それは鉄道の駅が住吉に設けられ旅人がそこから住吉川ぞいの谷道を利用し始めるからである。
 それでも深江や青木の海産物を温泉場に運ぶには、この道は最短距離だ。そこでこの頃からは、専ら水産物の運搬路として利用されるにとになった。その時代から「魚屋道」(ととやみち)の名で親しまれるようになったのだと私は思っている。今日、登山道となったこの道筋が、住吉川上流と交又する地点に、往時のおもかげを偲ばせる石造りの本庄橋だけが静かに残っている。

  • 森の稲荷神社にある石の手水鉢。この道を利用した魚屋さんの名が並ぶ
  • 山道をふさぐような"力エル岩"
  • 静かで平坦な一本道を行く
  • 風吹岩の近くにある"山の神"
  • ずい道のように丸く掘られた山道
  • 魚屋道と住吉道の合流点近くにある住吉川の本庄橋。昔はここに茶店があり、海の幸と山の幸を交換する市が立っていたという
  • 口ックガーデンを見おろす風吹岩。いつもハイカーでにぎわっている
  • 東おたふく山を横目に本庄橋へ
  • ハイカ一が続く雨ケ峠
  • 有馬への降り口にある道標
  • ひっそりとたたずむ行者の像
  • 大きな谷をへだててかすむ湯槽谷(ゆぶねだに)山
  • 有馬へのゆるやかな坂道
  • 初秋のロックガーデン
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