41号表紙

No.41(昭和50年9月)

特集:

神戸文化の夜明け

神戸文化の夜明け 須磨寺境内にある子規の句碑
登場人物
正岡子規(俳人)
池長 孟(南蛮美術収集家)
村上華岳(日本画家)
賀川豊彦(社会運動家)
小泉八雲(文学者・新聞記者)
ジョセフ・ヒコ(新聞の父)
川上音二郎(演劇家)

写真・資料協力(順不同)
「神戸に来た史上の人々」(荒尾親成著)
「神戸史話」(落合重信・有井基著)
「夜明けの人びと」(朝日新聞神戸支局編)
「郷土百人の先覚者」(兵庫県教育委員会編)
「雪」(神戸市防火協会連絡協議会編)
「ミナト神戸」(朝日新聞神戸支局編)
「近畿百年」(朝日新聞大阪本社社会部編)
「兵庫県人物事典」(のじぎく文庫編)

子規の自画像

鉢伏山の中腹にある子規と高浜虚子の句碑

子規が病をいやした須磨浦

須磨で再生の日々を送った
正岡(まさおか)子規(しき)

 明治の俳聖といわれている正岡子規が、神戸に深いつながりを持った記録が二つある。
 その一つは、明治二十五年十一月、子規が二十五歳のとき、東京の神田にあった日本新聞社に入社することを決め、故郷の松山から母と妹を東京へ呼び迎えるため神戸へ来たことがある。神戸には子規の松山中学時代の同級生で、在学時代よく回覧雑誌などを二人で出した仲よしの竹村錬郷が居たので、十一月十四日に神戸に来て竹村邸に落ちつき、母、妹とともに神戸名所をゆっくり見物して回った。布引の滝、生田神社、湊川神社、須磨へと秋日和(びより)の一日をゆっくり神戸散策に費し、

 親にあうて一日秋を忘れけり

 と、彼の日記に記されている。親孝行であった子規の人柄がよく出ていてゆかしい。
 今一つは、それから三年後に、子規が日本新聞社の従軍記者として大陸に渡り、その帰りの船内で血をはき、やっとの思いで神戸港へはこばれてくる。直ちにたんかで下山手通八丁目にあった神戸病院(県立病院の前身)に入院した。明治二十八年五月二十三日の夕方だった。子規は七月二十三日までの丸二ヵ月をこの神戸病院の二階二等室で過ごした。

 ほととぎす山手通りと覚えたり

 入院後四、五日して高浜虚子(当時二十一歳)が京都から、さらには母堂も東京から駈けつけ、子規の看護に当った。ちょうどそのころ神戸はイチゴの出盛りで、毎朝のように虚子が諏功山付近の畑でイチゴを買って病める子規を喜ばせた。

 盛り上げて病うれしき苺(いちご)かな

 やがて七月二十三日には同病院を退院し、須磨の保養院へ転地する。新しいヘルメッ卜を買って虚子につきそわれ、須磨へ移って行った時の子規の印象を、虚子は「再生の喜びに満ちていた」と回想している。

 うれしさに 涼しさに須磨の恋しさに

 子規はこれほど待ちこがれた須磨で、約一ヵ月過ごした。保養院は、現在の須磨浦療病院とは別のもので、その東の松林の中に下宿兼保養所といった建物が点在していた。回復期にあった子規はヘルメットをかぶり、ステッキをついて近所をよく散歩した。何よりも子規をよろこばせたのは、須磨の風物と絶景であったらしく、須磨を詠んだ佳句が数多く残されている。

 暁(あかつき)や 白帆過ぎゆく蚊帳(かや)の外
 ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと
 涼しさや須磨の夕波横うねり
 涼しさを足に砕けて須磨の波

 療養の成果があり、八月二十日退院、広島を経て郷里松山へ帰り、松山中学の教師をしていた夏目漱石(そうせき)の家に移り住んだ。今須磨には、須磨寺の墳内と、鉢伏山の中腹の二ヵ所に子規の句碑が建っている。
 なお、子規が須磨で残した中に、こんなざれ歌もある。

 夏の日のあつもり塚に涼みゐて
 病気なおさねば去なじと思う

 夏の日のあつさと敦盛(あつもり)、病気なおさねばは、熊谷直実(くまがいなおざね)を詠みこんでいるのである。
 また高浜虚子は昭和三十年五月、子規の句碑を見るために須磨を訪れた。そのむかし子規が神戸病院に入院したのも五月で、よく諏訪山のイチゴを食べたことを思い出したのだろう。こんな句を詠んでいる。

 その頃も苺のころよ苺食ぶ

「西洋ニ武人図」(市立南蛮美術館蔵)

「師父二童子之図」(市立南蛮美術館蔵)

平賀源内筆「西洋婦人図」(市立南蛮美術館蔵)

南蛮美術の収集に生涯をかけた
池長(いけなが) 孟(はじめ)

 親譲りの身代をなげうって南蛮美術を集めた池長 孟は、これをそっくり神戸市に委譲したあと、昭和三十年に「南蛮美術総目録」を書いた序文の中で、次のように述懐している。
 「蒐集(しゅうしゅう)は創作であるとは、私のかねての主張である。だからそこには主題の選び方、系統のたてかたなど、コレクターの人材に待たなければならぬ多くのものがあるのだ。…金と暇さえあれば、そんな蒐集ぐらい誰にでもできる。というのもおかしげな考え方である。
 私より金や暇を沢山持った人物は天下にウヨウヨしている。しかし彼等はセイゼイぜいたくな邸宅を構え、二号、三号をおき、高級車を乗りまわすくらいが関の山ではないか。―」
 そして孟は「今は南蛮美術の価値が全然分からない人も、将来は必ず歓喜してもらえる時がやってくる。また、父を始め、自分と同じ郷土愛の血に燃える祖先の霊も、さだめし地下で私の挙を喜んでくれているに違いない」とも書いている。孟らしい、自信と風刺に富んだ文章である。
 孟は明治二十四年十一月二十四日、兵庫区の井上家に生まれたが、親類の池長通の長男として養子入籍した。池長家は旧兵庫の素封家で大地主。養父の通は明治ニ十九年から同三十一年にかけ三期も神戸市会議長をつとめ、また神戸の教育界にも名を馳せた人である。
 孟は兵庫小学校から神戸一中、三高、京大法科と進んだ。当時、彼は養父をなくし、若いのに巨万の富をついで恵まれた墳遇にあった。しかし生活は非常に質素で、安下宿に起居し少しもぜいたくはしなかった。
 孟が京大在学中、植物学の権威、牧野富太郎博士がかねて不遇であったうえに書店などからの巨額の借金に苦しみ、ついに長年にわたって収集した貴重な植物標本を外国人の手に渡さなければならなくなった。これを知った孟は牧野博士の借金を払い、標本が海外へ散逸するのを防ぎ、そのうえ会下(えげ)山に植物研究所を開設して博士を引き取り、安心して植物標本の整理にいそしむことができるようにした。
 孟が美術品の収集をはじめたのは昭和にはいってからである。それより前、彼は大正十一年から翌年にかけて欧米を巡遊したが、これが、およそ芸術と名のつくものなら何でも好んだ彼の目をいっそう大きく開かせた。またヨーロッパの、美術館にくらべ、日本の文化施設が貧弱であったことも美術品収集の動機の一つになったといわれる。欧米巡遊から帰国したその年に彼は育英商業の二代目校長を引き受けている。
 美術品の収集をはじめた彼の心を最もとらえたのは、南蛮(なんばん)美術であった。日本人がはじめてふれた西洋文化に驚きの日をもって描いたかずかずの文化遺産がまだ美術史家に顧みられず、空白のまま放置されていた。彼はその収集に使命を感じ、惜しげもなく金を投じた。
 しかし、その収集に対する態度は実にきびしかった。彼の購入方法は、その時の相場より多少高価に買う。珍品を持ちこんだら踊りあがって喜び、その商人と料亭で祝盃をあげた。そして著名な美術書に明記された品を買い集めてくるようさらに命じた。このため何百人という商人が雪深い山村にもわけ入ったのである。持主が陥落するまで交渉をかさねさせ、値も上げていった。
 こうして手に入れた品物は、表具一つにしても決して職人にまかせたりせず、つきっきりで指図した。そして系統的研究と分類をきちょうめんに行なった。単なる趣味ではなく、芸術品保存と、組織的研究という使命感で収集にあたったのである。
 やがて戦争が激しくなるにつれ、国民はぜいたくが禁じられ、国防献金が叫ばれた。そんなある日、彼は「国防献金をするのも国のためなら、おれが南蛮美術に献金するのも同じく国のためだ。国のために、またこんな立派なものを手に入れてきたぞ!」と、南蛮びょうぶの前で得意然として杯を重ねた。
 昭和十五年、私財を投じて待望の近代美術館を葺合区熊内の高台に建て、それまでに収集した南蛮美術四千数百点を収めた。やがて戦争も末期になり、B29による神戸大空襲の際、美術館にも数個の焼い弾が落ちたが、幸いことなきを得た。
 そしてやっと戦争は終った。しかし、これでホッとしたのもつかの間で、こんどは美術品に財産税がかけられ、そのうえ固定資産税、再評価税と、矢のような税金の督促だった。さすがの彼も身をふるわせて憤慨したが、私財のほとんどを南蛮美術の収集と美術館の建設につぎこんでしまった彼に、どうなるものでもない。
 彼を理解する地元の文化人らが池長美術館の存続について政財界を説いてまわり、結局、昭和二十六年に彼は生涯をかけた収集品を熱愛する郷土にとどめるため、有利な売却法があったのもことわって神戸市に譲り渡したのである。

現在の市立南蛮美術館の内部

自室での池長孟

華岳の代表作「日高河清姫図」(東京国立近代美術館蔵)

自室での村上華岳

仏画に生きた日本画の巨匠
村上(むらかみ) 華岳(かがく)

 日本画の巨匠、村上華岳は、大正年間から昭和にわたって関西画壇の代表的存在として画名を馳せたが、その神秘的な芸術は今なお多くの人々を魅了している。
 華岳は明治二十一年、大阪の医師武田誠三の長男として生まれ、その後縁続きの村上五郎兵衛の養子となった。村上家は神戸花隈村で代々庄屋をしていた家柄である。神戸尋常高等小学校から京都市立美術工芸学校に入学、さらに京都市絵画専門学校(現美術大学)に進み、その在学中、竹内栖鳳(せいほう)の門にはいって日本画を学んだ華岳は、二十九歳のとき神戸YMCAでインドの哲人タゴールに会ってから、にわかにインドの芸術風土に強く心をひかれるようになった。
 ちょうどその年の第十回文展(大正五年)に出品した「阿弥陀三尊」は、華岳の仏画の基礎となるものであり、同時にこれが特選となって、日本画家としての彼の存在ははっきりと決定づけられた。
 しかしその翌年、第十一回文展に出品した「白頭翁」が落選となったため、官僚的な文展のあり方に反旗をひるがえした華岳らは、「国画創作協会」を結成する。同志は中井宗太郎、入江波光(はこう)、土田麦遷(ばくぜん)など、いずれも絵専第一回卒業の俊秀ぞろいであった。
 これによっていよいよ大正七年から九年にかけての、いわゆる"国展時代"が始まるわけだが、この三回の国展に出品した華岳の作品は、「聖者の死」「日高川清姫」「裸婦」と力作ばかりで、ここに参加して積極的に活動した三年間こそ、ある意味では華岳芸術が社会に向かって大きく花を開いた貴重な一時期といえる。
 大正十年、持病のぜん息の発作がおこってから華岳の画境は、さらに変化した。そして六甲の山の美しさに強くひかれるようになり、京都を去って芦屋へ隠せいした。そのころから彼は仏画と共に、好んで六甲の山々を描くようになった。
 彼は気分がよいと毎日のように山へ足をはこび、木の葉を積んではそこに腰をおろし、雲の流れや松風の音に耳を傾けた。彼はそんな静けさの中にこそ、ほんとうの動と力があると考えた。
 そんな彼にとって、もはや展覧会はわずらわしい行事にしかすぎなかった。世評が耳にはいるのもうるさいし、成功すればなおうるさい。そんな気持が、みずから創設した「国画創作協会」を脱退する原因となり、やがて画壇のいっさいから手を切って花隈の家にとじこもってしまった。昭和二年、華岳四十歳の時である。この旧居は今の神戸税務署の裏であるが、戦災で焼けて今はそのおもかげもない。
 このころを境に、彼の内生活はますます強いものになり、仏へのあこがれは、いっそう激しいものになっていった。彼にとって、絵と仏は一体であり、絵は芸術であると同時に信仰への道程であった。彼は妻と何か小さな衝突でもあると、それがひっかかって、仏のまゆ毛を一本引くにも思うような線が出ない。仕方なく階下におりて妻にわびてから紙に向かうと、こんどは気にいった線でまゆ毛が描けるのだった。
 このように、ぎりぎりの高さにまで自分を追いつめていった村上華岳は、昭和十四年十一月十一日、神戸の町を見おろす花隈の自宅で、静かに五十一歳の人生を閉じた。
 華岳と親交のあった志賀直哉(しがなおや)(作家)は、彼の業積を次のように評価している。
「華岳の絵は現代の画家、昔の画家をふくめて、何人(びと)もいまだそこまで手をつけていないと思われるほど、感覚的に深くつきつめたものだ。絵の世界は広く、その究極に達する道はたくさんあるが、そのなかの狭い一つの急坂を、異常の努力でついに登りついた稀世のすぐれた画家である」

賀川豊彦

自筆の文章

賀川記念館

社会悪とたたかった先駆者
賀川(かがわ) 豊彦(とよひこ)

 昭和三十八年に葺合区吾妻通五丁目に建てられた賀川記念館では、幼児からお年寄りまでを対象にした各種の"隣保事業"が今も盛んだ。学校がひけたあとの学童保育、若い人向けには手芸、絵画、社交ダンスといったケイコごと、昼間働いている人のための夜の"困りごと相談"もなかなか人気がある。
 また"友愛幼児園"もこの中にあり、百五十人近い子どもたちの明るい声が朝からにぎやかである。平和で活気にみちたこんな記念館をあの賀川豊彦がひと目見たら、どんなに喜ぶことだろう―。
 賀川は明治二十一年七月十日、神戸市兵庫区島上町の賀川回漕店で生まれた。幼いころ父母に死にわかれ、五つのとき徳島県板野郡堀江の本家に引きられたが、この本家も破産してしまい、彼は病苦と貧苦に打ちひしがれる。そんな賀川をキリスト教に導き、あたたかい保護者となったのは宣教師マヤス博士夫妻であった。
 明治四十二年の暮れも押しせまったある日、荷車にふとんと、こうり一つだけを積んだ見すぼらしい学生が、葺合の新生田川地区にひっ越してきた。この家は五畳敷で、せまいものであった。長い間あき家だったので近所では幽霊が出るとうわさしていた。この青年が当時、神戸神学校の学生であった賀川で、彼は徳島中学在学中から肺を病み、その後も健康ははかばかしくなかった。
「どうせ二、三年のうちに死ぬのだから、それまでありったけの勇気をもって、最善の生活をしよう」と決心し、ここに住むことにしたのである。
 当時はケンカ、ばくち、酔っぱらいなどは日常茶飯事で、矛盾と苦悩と悪がうずを巻いていた。彼は皮膚病やトラホームに感染しながら無抵抗主義を実践し、貧しい人たちへの献身的な奉仕に明け暮れた。やがて彼を慕う青年たちが「イエス団」をつくって賀川を助けた。そのメンバーの一人、福音印刷会社の工員であった芝はる子と賀川は大正二年結婚した。
 こうして五年がたち、ようやく健康を回復した賀川は結婚の翌年、アメリカのプリンストン大学へ入学のため渡米した。そして大正六年五月、再び神戸に帰って来た。欧州大戦の好景気で、神戸は日本一の成金都市になっていたが、一方では劣悪な労働条件で病気やケガをしてどん底に落ちた労働者がみちていた。妻はる子は賀川のつくった診療所の巡回看護婦として、トラホー厶の患者を見つけては点眼してまわっているうち彼女自身も感染し、ついに一眼は失明状態になった。
 大正七年八月、富山県におこった米騒動は神戸にも波及し、暴徒となった群集は米屋や酒屋を襲い、全盛を誇った鈴木商店も放火された。彼はこの無暴な騒動をみて、正しい方法にる無産階級の解放運動に熱中するようになる。まもなく賀川の自伝小説「死線を越えて」が刊行された。これはたちまちベストセラーになり、彼はスラム街の聖者、労働運動の英雄として、日本はもとより世界にその名を知られるようになった。
 欧州大戦後の経済不況から労働者の生活不安はますます増大し、やがておこった川崎、三菱の大争議でも彼は無抵抗主義の指導者として大ストライキの先頭に立った。しかし結果は、賀川以下百三十数人の幹部が根こそぎ警察に検挙され、労働者側の惨敗となって終った。この争議で、彼の説くキリスト教的道義や人情が、資本家や官憲の圧力のまえに無力であったことを、多くの労働者は体験したのである。これを境として、労働界では彼のとなえる無抵抗主義ではこれからの労働運動の発展は望めないとする考えが支配するようになった。
 しかし彼はその後も、キリスト教社会運動の立場からキリスト教の布教と社会運動、農民運動、あるいは生活協同組合の事業を推進、大正九年に彼の指導で誕生した神戸消費組合は、今日の灘神戸生活協同組合として発展している。
 やがて大正十二年九月、関東大震災の直後に一家をあげて東京に移り、活動の本拠も東京に移った。
 昭和三十五年四月二十三日、東京都世田谷区の自宅で死去した。七十一歳であった。

小泉八雲

妻・節子

八雲が愛用したキセル(松江市小泉八雲記念館蔵)

神戸で新聞記者をした
小泉(こいずみ) 八雲(やぐも)

 ラフカディオ・ハーンは明治二十七年十月、英字新聞「神戸クロニクル」の記者(論説担当)として神戸に移り住んだ。生田区下山手通四丁目に住み、のち中山手通七丁目に転居、翌々年の二十九年八月、東京大学英文科講師として東京へ転出するまで、妻節子とともに神戸での生活を楽しんだ。しかもその間、二十九年二月には帰化して日本人となり、姓を小泉八雲(やぐも)と改めているので、彼と神戸のつながりはかなり深い。
 ハーンが熊本の第五高等学校の職をすてて神戸に来たのは、九州の荒っぽい気風が、しっとりとした出雲の人びとを愛した彼の心に日本人への不信感を与えたからだった。しかし彼が日本らしい情緒を求めてやって来た神戸も、外来文化の影響の強かった開港地だけに、かならずしも満足を与えなかったらしい。
 熊本の前に英語講師をしていた松江中学の上司に、彼は「古い日本のおもかげは見られない。みにくい欧州文明の模ほうのみ。外人は尊大、日本人は卑屈…」と書き送っている。日本人を愛したハーンのいらいらする感情がよく出ている。
 そんな心の安まらない彼にとって、月給百円。一日一本、好きなことを書いてもらえばいいという条件で書きまくったクロニクルの論説が、ハーンの心の支えであったことは間違いない。彼はよく町に出て、そこで見た印象をそのまま記事にした。一方では、横浜の新聞のキリスト教崇拝への反論、日清の紛争、アメリカの人種差別等々―縦横に書いた論説はクロニクルの伝統となった。日露戦争当時、大蔵大臣渡辺国武がその強い自己主張に感心したというエピソードも残っている。
 ハーンは父がイギリスの軍医、母がギリシア人だが、二十歳のとき単身アメリカヘ渡った。ハーンを日本へ結びつけたのは、後に長く兵庫県知事を勤めた服部一三との出会いが大きな要因となっている。アメリカ流浪のあと、ニューオリンズの新聞「タイムズ・デモクラッ卜」の文学部編集長をしていたときだった。明治十七年十月、万国工業博覧会に派遺事務官として出ていた服部との偶然の出会いが、その後の彼の一生を大きく変えた。
 日本の風俗、歴史、土俗、民話などに深い知識を示し、しかも服部の暖かい人柄に彼は強くひかれた。
 二十三年、ハーンがアメリカの書店の特派員として日本に着き、待遇問題で辞職したとき、最初に頼って行ったのも服部だった。当時、文部省普通学務局長をしていた服部は、ハーンの文学への学識をかって松江中学の英語講師をあっせんした。そして松江での生活、小泉節子との結婚が「ハーン」から「八雲」への運命を決定したのだった。服部はハーンが神戸を去った四年後に知事として赴任、在任十六年の記録をつくった。
 神戸での帰化手続きもスムースにいったわけではない。能本で生まれた長男一雄の国籍のこと、あるいは深く愛した妻節子の将来を考え"士族小泉八雲"の名前を強く望んでいたハーンであったが、手続きの繁雑さ以上に、神戸駐在のイギリス領事の面前で日本への忠誠を誓わせ、その宣誓を領事に受取らせるという知事の命令は、日本を愛すると同時に父の国イギリスを愛したハーンには耐えがたいものであった。
 母国の領事の前で、母国への別れを誓う矛盾にハーンは悩んだ。結局、手続きも終り、帝国大学の講師への就職も決まったが、神戸を去ったあとも彼の心はなかなか晴れなかった。

八雲が書いた「安珍清姫」の絵と文(市立南蛮美術館蔵)

八雲が長男一雄に英語を教える時に使った自筆の教材(松江市小泉八雲記念館蔵)

ジョセフ・ヒコ

日本で最初の新聞「海外新聞」

日本で最初の新聞を発刊
ジョセフ・ヒコ

 兵庫県加古郡阿閇(あえ)村(現播磨町)の農家に生まれた彦太郎は、十三歳のとき船で江戸見物に出かけ、帰途遠州灘で暴風雨にあい十六人の乗組員と五十余日も漂流、アメリカ商船に救われた。それは日本の歴史が新しい発展をみせかけていた幕末の嘉永三年(一八五〇)十月のことである。このことが少年彦太郎の一生を大きく変えてしまった。
 いったんサンフランシスコに連れて行かれたあと、仲間はつぎつぎに帰国したが、彦太郎は同市の税関長サンダースにかわいがられ、ワシントンではピアース大統領に引き合わされた。大統領のすすめもあって彼はミッションスクールで聖書や英語などを学び、さらにカトリックの洗礼をうけてジョセフ・ヒコを名のるようになった。
 滞米九年。ついに帰国の機会が来た。サンフランシスコ―香港間の航路測量船に便乗、ハワイを経て香港まで来たヒコは、ちょうど駐日大使として日本に赴任する途上にあったハリスに出会い、アメリカ領事館の書記生として採用され、なつかしい祖国日本の土を踏んだ。漂流民としてではなく、アメリカ人ジョセフ・ヒコ、領事館通訳として、ヒコの幕末外交史における活躍はここから始まる。
 だが名声があがるにつれ、ヒコの身辺もあやうくなった。当時の日本は、安政の大獄をきっかけに尊王攘夷(じょうい)の運動が盛んになり、浪士たちは外国人の排斥をはじめた。日本人からアメリカ人への帰化第一号として米国市民権をもっていたヒコも、危険を感じるようになったので文久三年(一八六三年)、南北戦争さ中のアメリカへ"里帰り"をしてほとぼりをさました。
 この渡米でリンカーン大統領とも会見、民主主義政治の潮流に目ざめたヒコは日本へ帰ってくるとその翌年、わが国最初の新聞「海外新聞」を発刊した。木版刷りで、横浜港から富士山を望んだ光景の表紙をつけたこの新聞は、その後約二年間にわたり貴重な海外二ュースをわが国に紹介した。海外の事情がほとんど入らなかった時代であり、また今と違って定期的に購読する人も非常に少なかっただけに、彼の払った犠牲とその貢献度は大きい。
 彼は、そんな新しい知識をもとにイギリス商館と鍋島家との高島炭坑の共同経営をあっせんしたり、国立銀行条例の編さんや、大阪造幣(ぞうへい)局の創設に尽力するなど、その活躍はめざましいものがあった。
 ヒコは明治八年、神戸に移り住んだ。今の生田区中山手通六丁目に和洋折衷(せっちゅう)の家を建て兵庫の豪商北風正造からの依頼もあって茶の輸出事業に参画したが、一年足らずで事業は失敗した。そのご森岡兵庫県令のすすめで新式精米所を始めたが、これも失敗。アメリカ帰りの新知識を持ったヒコも、ついに事業家にはなり得なかった。
 ヒコが住んでいた今の神戸液済会病院玄関西側に「本邦民間新聞創始者ジョセフ・ヒコ氏住址の碑」がある。また"兵庫の大仏"で知られる能福寺の門わきにある伝教大師教化の霊場という英文碑は、ヒコの手によるという。
 明治二十一年、ヒコは神戸から東京へ移り、三十三年十二月十二日、心臓マヒで他界した。六十二歳だった。

能福寺にある英文碑。"兵庫の大仏"を見物する外人が多かったため、ヒコが書いたといわれる

能福寺にあった"兵庫の大仏"

川上音二郎

妻・貞奴

オッペケペで時代を風刺
川上(かわかみ) 音二郎(おとじろう)

米価騰貴の今日に
細民困窮見返らず
芸者幇間(たいこ)に金をまき
内には米を倉に積み
同胞兄弟見殺しか
オッペケペ、オッペケペッポペッポッポ

 金びょうぶを背に、うしろはち巻、陣羽織、日の丸の肩を開いて歌う音二郎に満員の客席からどっと拍手が起った。明治ニ十四年十一月、彼が神戸でオッペケペをやるのはこれが初めてだった。
 オッぺケぺは芝居と芝居の間に行われた。石田一松ののんき節みたいなもので、高まる自由民権の流れに乗って社会の矛盾を痛烈についた。そのねらいは鋭く、奇抜だった。これが米の高騰に悩み、恐慌におびえた人びとの心をとらえ、一時は松井須磨子の力チューシャ以上にもてはやされた。
 当時は音二郎のように、血気さかんな多くの青年が民権運動に共鳴し、熱をあげていた。かれらは壮士と呼ばれた。だが、過激な演説をすると、すぐに役獄される。音二郎も、じつに百八十回余りブチ込まれた。これではたまらない。そこで、演説の内容を歌や芝居に託して宣伝しようとはじめたのが、演歌であり、新派劇のさきがけとなった壮士芝居である。オッペケペも、この自由民権運動のいわば産物だったといえないこともない。
 人気絶頂の音二郎は、そのご二十人の同志を集めて芝居を組織した。堺での旗上げ興行は失敗したが、東京・浅草の舞台に立ったところ、これが四十三日間売り切れという意外の大当り。熱演のあまり、座員にケガ人が続出するという"迫真の演技"も、江戸っ子気質にうけた。
 やがて音二郎は貞奴(さだやっこ)と結婚、明治三十一年には一座の十九人とともに神戸港から船でフランスヘ洋行する。
 洋行後も、彼はたびたび神戸をおとずれた。当時すでに相生、大黒、岩井、朝日の各座が並び、大阪につぐにぎわいだったので、その機会も多かった。三十六年三月に「オセロ」、三十七年十二月に「ハムレット」をそれぞれ湊川神社前の大黒座でやり、新しがりやの神戸っ子に受けた。とくに「ハムレッ卜」は音二郎のハムレッ卜、貞奴のオフェリアで評判だった。貞奴はファンから贈られた布引のモミジを頭にさして舞台に立った、という話も伝えられている。
 そのころ大黒座の近くに「紀の松」というすし屋があった。もと京都で巡査をしていたことのある松尾清之助が主人で、えらそうにする客には絶対にすしを売らない変り者。それがまた名物で、音二郎夫婦が「ハムレット」の舞台のあと連れだって座敷へあがった。なんと、その主人が約二十年前、京都でアジ演説をしていた音二郎をつかまえた巡査だった。音二郎の方はとっくに忘れていたが、主人はなつかしがって大切にもてなし、いろいろと話しかけてきたという。
 自由党壮士、オッペケペと勇ましく政府にたてつき、あるいは西洋劇を紹介してきた音二郎の人気も長くは続かなかった。彼は大阪の北浜に帝国座をつくり、興行師として再出発をはかるが、これが完成した翌年(明治四十四年)楽屋で倒れ、そのまま息をひきとった。



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