39号表紙

No.39(昭和50年7月)

特集:

神戸の城物語(下)

特集・神戸の城物語(下) 豊臣秀吉肖像画(市立南蛮美術館蔵) 城物語に出てくる城跡
 

大きな丸太が浮ぶ兵庫運河

「兵庫城跡」の碑

元禄の兵庫の町

一、四〇〇メートルにおよぶ堀 兵庫(ひょうご)城

 神戸市の中央卸売市場の中にあるアパート群の片すみに「兵庫城跡」の石碑が立っている。この一帯は車の往来がはげしく、早朝から仕人れ商品の荷さばきをするざわめきが絶えないので、石碑に目を止める人も少ない。また裏側の兵庫連河には、大きな丸大がいつも並び、けんとびを手にした筏師(いかだし)が器用な身のこなしで立ち働いている。
 天正八年(一五八〇)七月二日、荒木村重が支配していた花隈城は、織田信長の軍勢によって攻め落された。手柄をたてたのは池田信輝(のぶてる)とその子どもたちである。その功績によって信長は城を信輝にまかせた。ところが天正十年、信長は明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)によって本能寺で急死し、光秀も羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉)との合戦で倒される。そして秀吉は、その翌年、柴田勝家(しばたかついえ)と戦って勝ち、天下統一へ近づいて行くー。
 この間、信輝は秀吉側に立って戦い、その年の六月に美濃(みの)の国(岐阜県)の大垣城になったので、信輝が摂津の国を支配していたのはわずか二年である。信輝はこの間に、花隈城のあとの石を運んできて兵庫に城を築き始めたといわれる。
 しかし、その兵庫城がどんな大きさの城で、なぜ兵庫に城を築く必要があったのかは、現在でもはっきりしていない。
 ただ古い兵庫の町の地図(元禄(げんろく)九年、一六九六)によると、今の兵庫区切戸町、新町、関屋町あたりに、東西・南北ともに約百四十メートル、まわりに幅三・六メートルの堀を持った場所が書かれている。そこが城の築かれた所だといわれている。
 信輝が花隈城を攻めていたころの兵庫の町はさびれていた。平清盛の時代から発展してきた港も、中国(当時は明(みん))との貿易を堺にとられ、いく度か戦場にもなったので町はおとろえていた。ところが信輝が領有したころから、兵庫の港は再び重要な港になってきた。そこで、港を管理するために兵庫城を築いたとも考えられるし、また、町を発展させるため城下町として整備しようとした、という見方もできる。だから城としてはごく小さな規模のものだったのだろう。
 元禄時代の地図を見ると、町の周囲を堀でかこみ、堀の内側には土塁(どらい)(土を盛り上げた堤)が続いている。堀の長さは約千四百メートルに及び、今の入江小学校のあたりから湊町一丁目の八幡神社、さらに国鉄ぞいに兵庫駅の東に出て、そこから南東の方へ大輪田橋から三菱造船所へとつながっていた。町の外に散在していた寺を町の要所に集め、寺町を形成しているのも大きな特徴である。町と外側とをつなぐ道はすべて橋によっていた。
 堀の外側はほとんど田や畑になっていて、田の用水は湊川から引いていた。堀の水は、田の用水路から流れ込むようになっており、もし敵が攻め寄せたら、湊川の水を田や畑に流し込んで、広い湖のようにして町を守る考えだったのだろう。以前は和田岬方面へ流れていた湊川を、今の新開地筋へつけかえたのも、この城を築いた時だとする説もある。
 江戸時代が終り明治になると、明治元年(一八六八)城のあった場所に最初の兵庫県庁が置かれた。県庁はすぐに神戸駅の北(今の裁判所)に移って、その後に、神戸で最初の学校であった明親館(今の八明親小学校)が入った。
 そして明治六年、町が発展するのに堀や土塁は邪魔になるからと取りはらわれてしまい、さらに、明治七年から八年にかけて新川運河の工事が行われ、城跡の中心地はほとんど運河の底になってしまった。
 これで城跡や、城下町名ごりの堀や土塁も完全になくなったわけで、兵庫城はまさに"まぼろしの城"になってしまった。

 〈あし〉中央卸売市場…市バス「中之島」下車。

城を型どって積まれた無縁仏や五輪塔(福徳寺)

花隈城の図(池田家文書のうちから一部模写)

哀れな荒木一族の最後 花隈城(はなくま)

 市街地の城跡の中では最も知られている。むかし、花隈城のあったあたりだといわれている繁華街のまん中に今は「花隈公園」が整備され、城になぞらえた石積みの上に植込みや噴水があるほか、地下は駐車場になっていて利用者が多い。
 この花隈城は永禄(えいろく)十年(一五六七)、摂津守(せっつのかみ)荒木村重(むらしげ)が家臣の野口与一兵衛(よいちべえ)に命じて築いたといわれる。村重は織田信長(おだのぶなが)の武将として、その勇名を遠くまで鳴りひびかせていた。
 城の築かれた今の生田区付近は、もと上部(かんべ)村とも神戸(かんべ)村ともいい、この地は古くから陸上や海上の交通の要所だった兵庫津(ひょうごのつ)(現在の兵庫港)にも近く、重要な所だった。なかでも花隈は要害(ようがい)の場所として知られ、「鼻の隈」(はなのすみ)−つまり、海に近い高台の端というところから、このように名づけられたのだろう。
 完成した花隈城の規模は一ノ曲輪(くるわ)(郭〔くるわ〕とも書く)、ニノ曲輪、三ノ曲輪にわかれ、大阪城や姫路城にくらべると、その構造は簡単で戦国時代の終りのころの特徴をよく表わしている。たとえば、一ノ曲輪は南北九十五間(けん)(約一七一メートル)東西四十間(約七二メートル)の長方形だが、その北面と南面はそれぞれ三間(約五メートル)と四間(約七メートル)の切り立った崖(がけ)になっている。また、ニノ曲輪の北面の岸の高さは約七メートル、東西と南面はともに約十二メートルもあって、一ノ曲輪よりさらに高台に築かれている。そして、一ノ曲輪の東面と、ニノ曲輪の西面の間には水路が通っていて、城の防御(ぼうぎょ)をさらに強くしている。
 ところで、菊やつつじの花で有名な生田区中山手通の相楽園(そうらくえん)に、神戸の名木の一つであるくすのきの大木がある。この木は永禄十年に花隈城が築かれたとき、鬼門(きもん)(城から東北の方向)よけのために荒木村重が植えたものといわれている。同じく元町通六丁目に走水(はしうど)神社があるが、かつて花隈城の栄えたころはこの神社が「モロテ鬼門」に位置したことを伝えている。
 このようなところから考えると、花隈城のあったのは東は県庁の西通、西は下山手六丁目、北は山手のバス通りから北へ約百メートルぐらい、南は国鉄高架線の北あたりの範囲ではなかったかと思われる。
 天正六年(一五七八)、それは、花隈城が運命の日を迎える発端(ほったん)になった年である。荒木村重が、信長に対して謀反(むほん)を起こしたのだ。同年十一月二十八日、信長は伊丹城にたてこもった村重を討つため、伊丹の昆陽野(こやの)に陣を張った。そして、その先発隊はいち早く西宮、芦屋、住吉、御影、滝山(葺合区)をへて、生田 の森に本陣をすえた。人数はおよそ五千。

 このとき、花隈城は村重の一族である荒木志摩守元清(しまのかみもときよ)が守っていた。勇猛をもって鳴る村重の部下だけに、花隈城の守りは少しのすきもない。しかし一方、村重に対する信長の憎しみは異常ともいえるほどで、鉄砲隊の精鋭をつぎつぎとくり出した。それでも、伊丹、花隈の両城とも荒木籠城(ろくじょう)軍はよく耐えぬき、はげしい攻防のうちに天正六年はようやく暮れた。
 翌天正七年三月、信長は大軍をもって再び伊丹城をとり囲み、ただちに兵糧(ひょうろう)攻めを命じた。春が過ぎ、やがて夏が過ぎようとした九月二日の夜、村重は五、六人の家来を連れてひそかに城をぬけだし、尼崎城へ移った。これを契機に籠城軍にもようやく疲労とあせりの色が濃くなり、十月十九日、壮烈な鉄砲戦のすえ、とうとう伊丹城は落城した。
 それでも村重は尼崎と花隈の城を手離さず、信長からの降伏要求を受け入れなかったので、信長は、婦女子を含む荒木の一族百二十人を、尼崎城に近い七つ松において全員はりつけにした。口を覆(おお)うような悲しい一族の最後だった。
 そして翌天正八年の二月二十七日、信長は丹羽長秀(にわながひで)ら二人の武将に命じて海上から兵庫の港と花隈城を攻めさせた。しかし城がなかなか落ちないので、丹羽長秀らは池田勝三郎父子を残していったん引き上げたが、城中の兵糧米は次第に底をつき、夏に入ると餓死(がし)する人たちが出始めた。
 七月二日、その日の夕方から、池田方は三方から花隈城に総攻撃を加え、夜の四つ(午後十時)になってついに城は落城した。城中には侍が四、五人、そのほかは女・童(わらべ)・雑兵(ぞうひょう)あわせて二百人あまりが餓死したり、討ち死にしていたという。これまた悲しくも、哀れな最後だった。
 村重はそのご広島の毛利氏へ身をよせたと伝えられている。

 〈あし〉花隈公園…国鉄元町駅下車、西へ徒歩約五分。阪急高速花隈駅下車、駅のすぐ東。

  • 「花隈城天守閣之跡」のある福徳寺
  • むかしをしのばせる花隈公園の石垣
  • 市民のいこいの場・花隈公園

田のアゼにひっそりと立つ歴代城主の石碑

本丸跡に立つ「淡河城址」の碑

急にあばれだした雄馬 淡河(おうご)城

 神戸の北のはずれにある北区淡河町の南よりの高台に、淡河城があった。今では城のあった跡はほとんど田畑になっているが。アゼのところどころに中世の古い石垣が残っているほか、こんもりと木の茂った本丸跡には立派な城址の碑もある。ここからは、淡河のひらけた盆地がひと目で見渡せる。
 この城を築いたのは淡河氏である。鎌倉時代に、墓府から地頭に任命されてここに来てから土地の名前を名乗っていた。室町時代になって赤松氏の一族に加えられてからは、同じ一族の別所氏(三木の城主)に従っていた。ところが、別所氏が織田信長の命によって羽柴秀吉の城攻めにあったため、この淡河の城も羽柴の大軍に取り囲まれた。天正七年(一五七九)のことである。
 その年の六月二十七日、非常にむし暑い日だった。折しも城の西の丸門外の広場では双方の兵がはげしく戦っていた。汗だくで鎧(よろい)を着けている羽柴方に対し、淡河勢の五、六十人は、草ずりだけをつけ上半身は裸(はだか)である。やがて、涼しそうな姿で力いっぱい戦う淡河方に押され、羽柴の兵たちはじりじりと後退し始めた。
 これを見た羽柴方の大将秀長(秀吉の弟)は、叱るような声で命令をくだした。
 「裸の田舎侍(いなかざむらい)など切るに及ばん。馬蹄(ばてい)にて蹴散(けち)らせ!」
 馬が出てきたのでは、さすがの淡河の兵もかなわないとばかり、いちもくさんに城内に逃げ込んだ。
 城外では、あざけり笑う声がどっとあがった。すると城門がふたたび開かれ、裸の雌馬五、六十頭が、むらがる羽柴の騎兵めがけてまっしぐらにかけ出してきた。
 驚いたのは羽柴の騎兵たちである。乗っていた馬が急にあばれだしたからだ。羽柴の兵の乗った馬は全部雄の馬だったので、たくさんの雌の馬を見て喜んだのだ。戦の真っ最中だというのに、背中の兵たちを振り落し、それを踏みつけて雄馬たちは、雌馬を追い始めた。
 この時とばかり、城主の淡河定範(さだのり)は全軍に攻撃の命令をくだした。馬によって混乱している羽柴の兵たちに淡河勢はいっせいに打ってかかった。
 「逃げる敵を、あまり長追いするでないぞ」と、定範はほらを吹かせて兵をことごとく引き上げさせた。
 そして、三木に陣をしいている秀吉がきょうの負け戦を聞けば、あすは必ず大軍をひきいて攻めてくるに違いないと考えた定範は、その夜ふけに、三百五十人の兵たちとともに闇(やみ)にまぎれて三木城に入った。
 定範の予想どおり、その翌日、秀吉は自分自身で大軍を引きつれ淡河城へ攻めてきたが、城一面に淡河の旗じるしがひるがえっていたのに、城内にはねこの子一匹もいなかったという。
 淡河定範は、その年の九月の三木合戦で、はなばなしく戦死した。広々とした田んぼになっている淡河の城跡に、今も歴代の城主の墓がひっそりとなっているが、塔身に仏像をきざんだ宝きょう印塔は全国でも珍しいそうである。
 淡河城はその後、三木城攻めに手柄のあった有馬法印則頼(ほういんのりより)が城主となった。そして元和三年(一六一七)、徳川の大名統制の強化策として城はこわされた。

 〈あし〉三木から三田行き神姫バスで「淡河本町」下車、南へ徒歩五分。

城跡の高台から盆地を望む

訪れる人も少ない丹生神社

悲しい歴史をとどめる丹生山頂(中央・帝釈山から望む)

丹生山の登り口にあるお地蔵さん

地獄絵図のような夜襲 丹生寺城(たんじょうじ)

 羽柴秀吉が三木城攻めの本陣を置いた平片山からは、三木城や城をとりまく包囲陣が手にとるようにわかる。南を望むと、美しい山容を誇る丹生山、帝釈(たいしゃく)山越しに播磨灘(はりまなだ)がきらきら光って見える。
 天正七年(一五七九)五月二十二日、この日も秀吉は物見やぐらに上って播磨灘に目をやった。その上空には、雲がつぎつぎと湧き出て足いに動いていた。秀吉はその雲足を見て、竹中半兵衡に、
 「今夜は丹生寺攻めをいたそうぞ、どうだ日和(ひより)は」
 半兵衛はほほえみを浮かべながら、
 「申し分なき天候、午後からはさだめし強い風が…」
 半兵衛には、秀吉の魂胆(こんたん)がすでにわかっていた。案にたがわず、午後からは強い南風が吹き始めた。精兵三百人をよりすぐって平井山を出発させ、夕方には丹生山田庄(今の北区山田村)の衝原(つくはら)に着き、南の山中にひそんで夜を待った。
 やがて日がとっぷり暮れると、三百人の兵はしずしずと動き出した。衝原の東寄りから山田川を渡り、切り立った山道を音もなくよじ登って行った。頂上が近づくと、三百人の兵を三手四手に分けて丹生寺近くまで進ませた。山の頂上から谷間にかけて、丹生寺の堂坊(どうぼう)がたくさん建ち並んでいた。
 とつじょ、暗黒の闇を破って鉄砲の音がひびいた。それを合図に、羽柴の兵はいっせいに建物に火をつけた。折からの強風に火は建物から建物へと燃え移り、一瞬のうちに丹生寺全山は炎(ほのお)に包まれた。
「火事!敵の夜討ちだ!」
 わめき叫ぶ声がとどろき、この世の地獄のような状態がやってきた。羽柴の兵の吹くほら貝のひびきが、いっそう恐怖心をつのらせた。
 そのころ丹生寺は三木の別所方の大将、高橋政純まさずみ)が守っていた。そのほかにも毛利の兵や、食糧を運ぶため花隈城から来ていた和歌山の雑賀(さいが)の兵など、全部で約千人の人がいた。それが至るところで火攻めにあったので、取るものも取らずに炎からのがれようとし、尾根続きにある帝釈山の北側の谷が安全だと思って大勢の人がなだれ込んだ。
 だが、やけどを負った人や、谷に落ちた人など多くの人がここで死んだ。遺体(いたい)はその場に埋葬(まいそう)され、その人たちをとむらうために五輪塔がたくさん建てられたという。また、別所方に味方したからといって、山田庄の人びとが子どもも含めて大勢殺され、帝釈山の東の山に埋められた。この山は稚子(ちご)ケ墓山といい、山頂に小石の盛った塚が残っている。
 今も、丹生山の頂上には丹生神社がある。この神社のある所に、そのころ明要寺(みょうようじ)と呼ばれた大きな寺があり、この寺が三木城側について城のような役目をしていたわけだ。明要寺は、平清盛が福原にいたとき、京都の比叡(ひえい)山になぞらえてここへ月参りをしたと伝えられる古い寺で、山のふもとにある"丹生宝庫"には、寺の当時をしのばす物が数々ある。また、山の山道にはその盛衰をかたる二十数基の古い町石が残っている。

 〈あし〉丹生神社…神戸電鉄「箕谷駅」下車、市バス衝原行きに乗りかえ「丹生神社前」下車、北へ約二・五キロ。

木が生い茂る本丸跡

櫨谷城最後の城主・衣笠範景の碑(満福寺)

将軍が来て泊った 櫨谷(はせたに)城

 垂水区枦谷(はせたに)(櫨谷)町は、端谷(はじたに)と書かれたこともある。まっすぐな、奥行きの深い谷である。その一ばん奥の寺谷に、むかし衣笠(きぬがさ)氏の城があった。これが櫨谷城(衣笠城ともいう)で、小高い山の上には衣笠氏の菩提寺(ぼだいじ)である満福寺や本丸跡、二の丸跡が今も残っていて、むかしをしのばせている。この山上からは枦谷町はもちろん、遠く明石海峡まで望まれ、城のあった場所としては理想的だ。
 この城は、山の尾根の突端を利用した戦国以前の典型的な山城の形態をしている。城の東・西両面は天然の断崖(だんがい)で、南北にやや細長く続き、南側ほど低い。さらに最上部の本丸跡北側は人工によって深い堀切りをしており、この土はおそらく本丸に運び上げたのだろう。北側の尾根より本丸跡の方が五〜六メートルも高くなっている。
 衣笠氏は、赤松氏の一族で、赤松円心が墓府の六波羅(ろくはら)軍を破った時も、その先陣に加わって手柄があった。
 室町時代から戦国時代になり、近畿地方も多くの土地が戦場になったが、そのころ播磨の国の守護になっていた赤松義村は、第十一代足利将軍であった義澄(よしずみ)の子の亀王(かめおう)丸を預って育てていた。その播磨では、備前(びぜん)の東の方で勢力を持っていた一族の浦上村宗(うらがみむらむね)が勢力をのばしてきて、主君の義村にとってかわるほどになっていた。

 浦上氏を討って勢力の回復をはかろうとした義村は、亀王丸を奉じて永正十七年(一五二〇)十二月、船で明石に着き、櫨谷の衣笠範弘(のりひろ)の館をたずねた。範弘は、義村のために一族の者や家来たちを集めた。
 翌大永元年一月(一五二一)、義村は衣笠の軍勢や自分の兵たちと、浦上村宗を備前三石(みついし)城に攻めようと櫨谷城を出発した。御着(ごちゃく)(姫路の東)まで進んだ時、味方の先陣であった弘岡左京進(ひろおかさきょうのしん)が浦上方についてそむいたので、亀王丸は、加東郡東条の玉泉寺へ逃げ、衣笠範弘も櫨谷にもどってしまった。
 その後、亀王丸は京都に迎えられて義晴(よしはる)と名を改め、第十二代の将軍になったが、「赤松記」には、大永七年(一五二七)十二月二十六日に将軍足利義晴が櫨谷の衣笠範弘の館に来て、年を越したとある。
 衣笠範弘の子の範景(のりかげ)の時代になると、各地の戦はますますはげしくなる。範景も櫨谷の城を堅固なものにしたが、天正六年(一五七八)、織田信長の命で羽柴秀吉が三木の別所氏を攻めた時、範景は別所方についたため攻め落され、戦死した。
 そのころの櫨谷城は、外部の防衛を強くするため枦谷地地区内に五カ所、押部谷地区に一力所、さらに東南方から太山寺に通じる場所に一力所の計七力所に、砦(とりで)を設けていたという。

 〈あし〉国鉄明石駅から神姫バス寺谷行で「寺谷」下車、すぐ西の山。

  • 櫨谷城の地図
  • 櫨谷城址のあるこんもりとした城山
  • 城跡からの遠望

城跡に祭られているお稲荷さん

広い河原をゆったりと流れる道場川

倒された「鶴の松」 道場(どうじょう)城

 神戸電鉄道場河原駅のすぐ東に小高い岡があり、大きな松が何本も立っている。この岡の南側は高い崖(がけ)になっていて、その下に有野川(道場川ともいう)が、きれいな河原の中をゆったりと流されている。この岡が城のあったところで、今は岡の上にお稲荷(いなり)さんが祭られているだけで城跡らしいものは何も残っていない。
 この城にまつわる話として、こんな言い伝えがある。
 城下の侍屋敷に、山本清右衛門という武勇にすぐれた人が住んでいた。病気のため、城へも行かず毎日家にとじこもっていたが、その屋敷の中に、千年もへたかと思われる大きな松がそびえていた。「鶴の松」と呼ばれ、城下の名物の一つにかぞえられていた。
 しかし、病気のためこの老松を見て寝ている清右衛門にとって、この松のあることがかえって腹立たしく思うことがある。城内のどの部屋からでも美しい枝ぶりをした「鶴の松」が見える。酒盛りをすれば、かならず「鶴の松」を見ながら酒を飲むので、そこに住む清右衛門の良いこと、悪いことがうわさされるからである。
 とうとう、この松さえなければ、城内から自分の家をながめることもなくなるし、うわさもしなくなると思いつめた清右衛門は、妻の反対聞き入れず、家来にいいつけて「鶴の松」を切ってしまった。天正五年(一五七七)三月十五日のことだ。
 それを知った城中では、大さわぎになった。なかでも心を悩ましたのが松原祐右衛門(すけえもん)という古参の武士で、「清右衛門め、おそろしいことをしたもんじゃ。あの鶴の松は、前のご城主の筑前守定友(ちくぜんのかみさだとも)さまが特に愛されていたのに…」と、「鶴の松」のいわれを、部下たちに語って聞かせた。
 永禄三年(一五六〇)の春のある日、どこから飛んできたのか鶴の夫婦が、この松に巣(す)をかけた。やがて、かわいい二羽のひなが育ち、このひなが大きくなると、親子の四羽はいずれかへ巣立って行った。それからはだれいうとなく、この松を「鶴の松」と呼ぶようになった。
 そして、むかしから"鶴は千年"ことわざがあるところから、ご城主さまは鎮守(ちんじゅ)の日下部大明神にこんな願をかけて祈ったという。
 「もしもこの松が枯れたならば、城が落ちてもやむをえません。どうかこの松がある限りは、この城も無事でありますように…」
 しかし、城主が亡くなった今では、このことを知っているのは松原祐右衛門ら古参の武士二人だけになっていた。
 さて、それから二、三日して清右衛門はとつぜん気が狂(くる)いだし、とらえようとした足軽(あしがる)に向かって槍(やり)を持ってあばれたので、城兵たちによって刺し殺された。
 そうして、それから二年後の、松の木が切られた日と同じ日に織田信長の部下に攻められ、城はあっけなく落ちた。天正七年(一五七九)三月十五日のことである。
 道場のこの城をいつだれが築いたのか、はっきりしないが、約六百年前ごろ赤松氏範(うじのり)が有馬郡を支配していた時だろうといわれている。

〈あし〉神戸電鉄「道場河原駅」下車。

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