38号表紙

No.38(昭和50年6月)

特集:

神戸の城物語(上)

特集・神戸の城物語(上) 「滝山城之図」(葺合懐古三千年史から)
「城」には攻防の歴史がある。悲喜哀歓の物語がある。今はあとかたもなく住宅が建ち並ぶ山すその高台に、近くの山に、そのむかし砦(とりで)や城がつくられていたことを思うだけで、栄枯盛衰の祖先のあしあとが息づいてくる―。
(掲戴の城物語は兵庫県学校厚生会発行「郷土の城ものがたり・神戸編」から)

天上寺の近くにある赤松円心の碑

円心が使ったといわれる陣太鼓(天上寺蔵)

由緒の古い天上寺境内

たそがれの摩耶山頂付近

幕府軍を相手に大勝利 摩耶(まや)城

 長い間続いた鎌倉幕府の力がだんだん弱くなったころ播磨の国で討幕(とうばく)の兵を挙げた赤松円心(あかまつえんしん)(則村(のりむら))と摩耶城が、さっそうと世に登場してくる。兵を挙げた円心はさっそく摂津(せっつ)の国(現在の大阪府と兵庫県の一部)に進出し、兵庫(神戸)の町の北にあたる摩耶の山寺に城を構えた。円心が京都に近づくことを恐れた幕府方は、約五千の兵をもって摩耶の城に攻め寄せたが、円心の計略で赤松軍は大勝利をおさめ、この戦いで幕府方は約四千の兵を失い、わずかに千名たらずが逃げ帰った。「太平記」には、この摩耶合戦のことがくわしく書かれている。
 摩耶合戦は摩耶山のふもと一帯で戦いが行われたとみられるが、では摩耶の城とか、摩耶山城と呼ばれる城はどこにあったのだろうか。
 摩耶の山寺といえば、摩耶山とう利天上寺(とうりてんじょうじ)を思い出す人が多いだろう。お釈迦(しゃか)さんの生母摩耶夫人の像を安置している真言宗の古いお寺である。昔から八州嶺(はっしゅうれい)と呼ばれる摩耶山頂から天上寺までは、奧の院の天狗岩大明神はじめ、西国八十八ヵ所の祠(ほこら)がうっそうとした森のなかに続き、いかにも信仰の山らしく霊気にみちている。また摩耶ケーブルの終点からロープウェイに乗り換えて、天上寺のある中ほどの深い谷を見おろしてもわかるように、寺のまわり三方は崖(がけ)になっていて守りよく、攻めにくい所である。円心が天上寺に城を構えたとすれば、攻め寄せる敵は見つけやすいし、これほど守るのに適した場所はない。
 ところが、寺のある場所や山の途中にある平地を合わせても、とても円心の率(ひき)いる軍勢が立てこもれるような広さはない。そんなことを考えると、円心がここへ来たころの天上寺は強い勢力を持っていて、近くの寺や建物がその支配下にあったので天上寺だけでなく、摩耶山のふもとにあった寺などにも赤松の兵は分かれて入っていたのだろう。昔から大きな寺が城や陣地のかわりとして利用されたことがたびたびあり、その時も、天上寺を中心に、それらの寺にも簡単なやぐらや柵(さく)を作って城にしたことが考えられる。つまり摩耶山天上寺からふもと一帯を、摩耶城と呼んだのではないだろうか。
 明治四十一年(一九〇八)、神戸大学の本部がある灘区六甲台町の高台で、建物のあとや石垣のあとが見つかった。当時の人びとは、これが円心の築いた赤松城のあとであると、この地に「赤松城跡」の石碑を建てた。今も近くに赤松町の地名があるのはそのためである。
 しかし、その後の研究で城あとでなく寺のあとだとされた。石屋川の上流、神戸大学から東に台地を下って行くと、一王山(いちのうさん)十善寺という禅宗の寺がある。寺の言い伝えでは、古い昔の寺は摩耶合戦の時に戦場になり焼けてしまったそうで、神戸大学の寺のあとは、この十善寺のあととされている。円心が摩耶山天上寺に入ったころの十善寺が天上寺の支配下にあったかどうかはわからないが、川にはさまれた台地の上にあり、北には六甲の山がせまり、南は崖になっていて、陣地として利用するのにも優(すぐ)れた場所である。円心がこの寺を城として利用したことは容易に想像できる。
 いずれにせよ、円心がこの寺を拠点として幕府の六波羅(ろくはら)軍を破ったことは事実で、その結果、隠岐の島に遷幸中の後醍醐天皇も都へかえられ、「建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)」の基をつくった功績は大きかった。

 〈あし〉天上寺…「摩耶ケーブル」か「奧摩耶ロープウェイ」終点から徒歩。十善寺…市バス外大前下車、北へ約三百メートル。神戸大学…市バス神戸大学正門前下車。

「新しい城」と「古い城」

 「城」といえば、天守閣を中心に、高い石垣や大きな堀のあるお城をふつうは想像しがちだが、こんな城は、日本に鉄砲が伝えられた後に築かれるようになったもので、それ以前の城は天守閣もなく、自然の地形を利用した砦(とりで)のようなものが多かった。鉄砲の伝来を契機に、いわゆる"古い城"から"新しい城"へと変ったわけだ。
 その理由の一つは、鉄砲によって合戦のやり方が大きく変化したことである。鉄砲がなかったころは、飛び道具といえば弓矢だけだった。弓矢はタテがあれば防ぐことができたし、戦いの勝ち負けも刀とヤリによる取っ組み合いによって決まった。しかし鉄砲が使われるようになると、破壊力が強く、遠くからでも相手をたおすことができるようになったため、強固な城を築く必要にせまられた。
 いま一つは、"新しい城"が殿様の住む場所となったことである。"古い城"では、殿様がふだん住んでいる所と城とは別になっているのが多かった。しかし、各地の武士が武力で領土をひろげようとした戦国時代になると、いつ敵が襲ってくるかわからないので、堅固な城の中に殿様も住むようになったわけだ。
 神戸に伝えられるいくつかの城跡は、いずれも"古い城"と考えられるものばかりである。

御影北小学校付近の高台

石垣の多い屋敷のたたずまい(御影町)

静かな忠勝寺の門前

農民になった城主 平野(ひらの)城

 「建武の中興」を実現するのに手柄のあった赤松円心が、その部下に命じて守らせていた城の一つに平野城がある。
 平野というのは東灘区御影町平野のことで、古くからの言い伝えによると、昔はここに城があったそうである。城があったのではないかと思われる古い地名として、御影には大手筋(おおてすじ)、大蔵(おおくら)、城之前(しろのまえ)というような所があった。しかし城といっても天守閣がそびえ、石垣に取り囲まれたようなものではなく、武士の住まいを中心にした砦(とりで)のようなものだったのだろう。城としての遺跡は今は何も残っていない。
 阪急電鉄御影駅の西一帯が城のあった所だといわれている。御影北小学校あたりを中心に、東は深田池、浅田池、北は御影山、西は石屋川の谷によって区切られた高台だ。南のながめもよく、今も住宅地として良い場所である。
 円心は部下の平野忠勝(ただかつ)に命じてこの城を守らせていた。平野の地のすぐ東に郡家(ぐんげ)という地名がある。ここは平安時代に郡の役所があり、郡の長官(郡司(ぐんじ))がいた所なのだろう。だから平野城は、忠勝が来る前からあったと考えられる。
 ところで観応(かんのう)元年(一三五〇)一月、忠勝の主人であった赤松円心が七十二歳で亡(な)くなった。
 そのことを聞いた忠勝は、長い間、武士として戦って人びとが多く死ぬのを見てきていたので、武士を離れて農業をして暮らそうと決心した。城を去った忠勝は隣の郡家村に家を建てて農民の指導者になり、その子孫もずっと郡家に住んだという。
 後になって忠勝をとむらうためにつくられた忠勝寺は、今も御影町にある。平野城がいつなくなったかは、わかっていない。

 〈あし〉忠勝寺…阪急御影駅下車、東南へ約五百メートル。

たそがれの城山

滝山城の配置図

鉄砲を使った織田信長 滝山(たきやま)城

 山陽新幹線新神戸駅の下を流れる生田川をさかのぼって行くと、有名な「布引の滝」に出る。滝山城は、この滝の西側に、市街地にぐっと乗り出すようにそびえている山にあった。この山は、今でも城山(しろやま)と呼ばれている。
 滝山城への登り口は、新神戸駅のガードを通りすぎてまもなく、「滝山城跡」の石碑が建っている所から左に折れて登りにかかる。かなり急な細い山道である。
 上へ登るにつれ、道はくねくねとつずら折に曲っているが、これは、下から攻めて来る敵の視界を悪くするため、わざとこんな道にしたのだという。
 山道を少し登ると、小さな平地が二つ尾根伝いに並んでいることに気付く。この平地は郭(くるわ)と呼ばれ、簡単な木の塀(へい)や柵(さく)を設けて攻めてくる敵を防いだ所だ。このような平地が尾根伝いに大小二十六もつくられている。山の頂上はかなり広く切り開かれた平地になっていて、ここが城の中心である本丸のあった所だ。本丸の入口のある付近では、山の尾根を掘り下げて崖のようにしており、また近くの郭には高さ一・五メートルの石垣もあって、本丸への攻撃をしにくくしている。本丸のある頂上から南東の方の尾根には、敵を見張る見張所もあったようだ。
 このように、滝山城は自然の地形を防備のために利用した典型的な"古い城"の一つだ。敵から攻められた時にだけ利用された城である。城の東側は「布引の滝」の断崖絶壁(だんがいぜっぺき)になっており、南側も西側も傾斜の急な谷になって、守るにやすく攻めるにむずかしい。そのうえ城の北側は、現在も布引貯水池になっているように、水を得るのに便利だった。
 滝山城がいつ、だれによって築かれたかはわからない。滝山城が古い記録に出てくる最初は元弘三年(一三三三)で、赤松円心が護良親王の命を受け、摩耶城を舞台に京都の六波羅軍を破った後に、布引の城にこもったとある。また城の最後は、天正七年(一五七九)に全国統一をめざす織田信長に攻められ、その時の城主池田泰長(やすなが)が戦死し落城したことで、この城の運命は終っている。泰長は、摂津守(せっつのかみ)として勇名を遠くにまではせていた荒木村重(むらしげ)の部下だったが、村重が信長にそむいたため信長の城攻めにあった。
 信長は新しい武器として鉄砲をとり入れたことでも有名だが、鉄砲を使った新しい戦いの方法には、地形にたよった滝山城も守りきれなかったといえる。しかし一三三三年から一五七九年までの二世紀半にわたって、幾度かの血なまぐさい戦いを経ながらこの城が存続したことは、いかに滝山城が重要な位置にあったか、また強固な攻めにくい城であったかがわかる。

 〈あし〉城山…山陽新幹線新神戸駅すぐ北、山頂まで三十分。

  • 城山の北側にある布引貯水池
  • 木立に覆われた滝山城址
  • "くるわ"の跡といわれる小さな平地(左)

足利尊氏の率いる水軍が上陸した駒ケ林付近

むなしかった楠木正成 湊川(みなとがわ)の合戦

 九州から京都へ攻めのぼってきた足利尊氏(あしかがたかうじ)の大軍を兵庫の湊川で迎え討った楠木正成(くすのきまさしげ)、新田義貞(にったよしさだ)らの陣地(じんち)を、古い城の範ちゅうに入れてよいかどうかは疑問がある。しかしこの合戦が、源平(げんぺい)の合戦と並んで神戸を舞台にした有名な戦いであり、また、古くは寺や高台などに簡単なやぐらや柵を作って城にしたケースも多いので、あえてここで合戦の模様をとりあげてみた。
 とうとう鎌倉幕府はほろび(一三三三)、後醍醐天皇による「建武の中興」が始まった。しかし、公家(くげ)の間には武家を軽くみる風潮が強く、戦後の恩賞にしても、実際に功績のあった武家より公家の方に厚く、全国の武士たちはたいへん失望していた。
 こんな武士たちの期待を集めたのが足利尊氏(あしかがたかうじ)で、建武(けんむ)三年(一三三六)一月、尊氏は武家政治を再開するため反乱を起こした。
 尊氏の軍は一度は京都の占領に成功したが、天皇側の援軍の総攻撃を受けてこらえきれず、京都をすてて九州へ逃げた。公家たちは勝利の喜びにふけり、朝廷(ちょうてい)内には大きな笑い声がたえなかった。
 ただひとり楠木正成(くすのきまさしげ)は、
 「このまま九州にひきこもってしまうような尊氏ではない。きっとふたたび京都へ攻めのぼってくる。この際、尊氏を京都へ呼びよせ、和解をされては…」
 と天皇や公家に進言したが、正成の和解策は公家たちに理解されなかった。
 いったん九州へ落ちのびた尊氏は、九州の武士たちを味方にしてみるみる勢力をもりかえし、大軍を率いて京都へ攻めのぼってきた。正成が考えたとおりになったわけだ。五月のある日、尊氏を討つため出陣していた新田義貞からの早馬(はやうま)が京都につき、尊氏の勢力に押されて兵庫まで後退したという知らせを伝えてきた。
 正成はふたたび
 「この際、新田殿に加勢して兵庫で尊氏を迎え討つよりは、尊氏の軍勢を京都へさそいこみ、食糧の供給路を断って南と北からはさみ討ちにした方が勝目(かちめ)があります」
 と進言したが、京都での合戦をいやがった公家たちは、正成に兵庫で戦うようすすめた。もはや仕方がないと心に決めた正成はその年の五月二十四日、総勢五百騎を率いて兵庫へ出陣した。

10年ぶり楠公行列―湊川神社―

 湊川神社では毎年、5月25日に「楠公祭」を行っているが、交通事情が悪化したため中止されていた楠公行列がことし10年ぶりに復活された。
 楠公行列は、馬上の"大楠公"を先頭に騎馬武者や稚児ら350人が汗をふきながら進み、たくさんの見物客が興味深そうに見ていた。

楠木正成が陣を構えた会下山と遺跡

義貞の退却で孤立した正成

 明けて二十五日、早くも沖のかなたに尊氏の水軍が見え、大小あわせておびただしい数の船がやってきた。また、尊氏の弟直義(ただよし)が率いる陸上からの兵も、須磨や鷹取山(たかとりやま)の北の方から押し寄せてきた。どちらも正成や義貞の予想をはるかに上回った規模で、見ただけで圧倒されそうな大軍である。
 この大軍を迎え討つ新田・楠木軍は、まず新田義貞の率いる部隊は和田岬(わだみさき)の西の松原一帯に陣をしいて、尊氏の水軍に備えた。尊氏軍はおそらく、駒ケ林から和田岬の間のどこかに上陸してくるものと推測して、海岸ぞいの三ヵ所にわけて陣をはったわけだ。
 一方、楠木正成の軍は会下山(えげやま)・頓田山(とんだやま)に陣を構えた。須磨や和田岬方面がながめやすく、直義軍を迎え討つのに良い位置だと考えたからだ。
 戦いは、この日の午前十時ごろから約六時間であっけなく終った。一時は尊氏の弟直義を討ち果す寸前にまで追いつめた正成の軍も、ぐるりを足利勢にとり囲まれ、ついに残るは七十三騎。全員が手足や身体に矢きずを受け、これ以上戦い続けることは不可能になっていた。戦いが始まってまもなく、義貞が尊氏らの攻撃を受けて東へ東へと退却したので、小軍勢の正成は早くから孤立してしまっていた。
 「もはや、これまでだ。お前たちは布引(ぬのびき)の方へ落ちのびろ」
 と、正成は部下とわかれたあと、弟の正季(まさすえ)ら一族を連れて湊川を渡り北へ走って、とある民家にかけこみ、一族二十七人とともに腹を切って自害した。時に、正成は四十三歳、正季は三十二歳だった。

 〈あし〉湊川神社…高速神戸駅すぐ北。

子院かヘイをつらねる石峯寺本堂への道

緑に映える石峯寺三重塔

兵火をまぬがれた建物 石峯寺(しゃくぶじ)城

 神戸の北のはずれにある石峯寺は、重要文化財の三重の塔や薬師堂があるので有名だが、寺のすぐ後ろにあるこんもりとした山に気をとめる人は少ない。低いながら木がうっそうと密生し、クモの巣をはらいながら登ると、細い山道が西の方へ尾根伝いに続いている。また森を越えた寺の裏側には、まるでお城の堀のような大きな池があり、あざやかな山の緑を水面に映して静まりかえっているのが印象的だ―。
 ところで、「建武の中興」が始まってまもないころの石峯寺は、四十七の坊があり、それに付近の百姓を加えると二百人あまりの僧兵を擁していた。そして丹生(にぶ)の山田(北区山田町)の丹生寺(たんじょうじ)を中心に、北摂の鏑射(かぶらい)寺、香下(かした)寺などとともに南朝方に味方していた。ところが、はじめは石峯寺の衆徒たちと一緒に南朝方について兵を挙げた赤松円心は、建武の中興ののち足利尊氏に味方して北朝方についたため、寺の衆徒たちとは激しく反目し合う間柄になっていた。
 暦応(りゃくおう)二年(一三三九)八月二十九日、石峯寺の後ろにある高い峰からけたたましいほら貝の音が響きわたった。すると、あたりの谷間や丘のかげにある僧坊から手に手に薙刀(なぎなた)や槍(やり)をひっさげた僧兵がかけ集ってくる。この日、赤松円心は三男の則祐(のりすけ)に命じ、東播州一帯の南朝軍を攻めさせたのである。
 石峯寺城の近くにあった淡河(おうご)城も同時に攻められ、城主淡河大炊助政高(おおいのすけまさたか)は、はやばやと奥の城である高泉寺に引きこもってしまった。もはや淡河軍の救援は望めず、二重三重に取りかこまれた石峯寺城の僧兵たちは、何よりも本堂などの建物が気がかりでならなかった。本堂はじめ東金堂、西金堂、三重の塔などは、それより五十八年前の弘安四年(一二八一)に再建したばかりであったからだ。
 石峯寺城は、後ろの貝吹山(かいぶきやま)の東の峰続きにあって城のふもとは屏風(びょうぶ)を立てたような岩がとりまく天然の要害だったが、城を取り囲んだ赤松軍は動こうともせず、向かい合ったまま半日以上を過ごした。このまま夜を過ごせば、赤松軍はかならず境内に討ち入って乱暴の限りをつくし、やがては放火して堂塔も灰になってしまうだろうと、僧兵たちはやきもきしながらひとつの策を立てた。
 城内から突然、太鼓(たいこ)や鐘(かね)、ほら貝が鳴りわたり、城門が左右に開いたと思うと刀をぬいた僧兵が、まっしぐらに赤松軍を目がけて突進した。二百人あまりの僧兵たちは敵の第一陣を破り、第二陣も突破して北の大門さして逃げ出してしまった。
 「敵は逃げたぞ!ものども、後を追え!」
 赤松の兵たちは僧兵の後を追いかけたが、二百人あまりの僧兵たちは天に登ったのか、地に潜(ひそ)んだのか、四キロばかり追っても僧兵たちの姿は一人も見かけなかったそうである。みずから城を逃げ出して建物を兵火から守った僧兵たちが、敵の知らない細い尾根道にまぎれて逃げたのかどうかは、はっきりしない。

 〈あし〉石峯寺…神姫バス、三田発三木行に乗り「野瀬」で下車、北へ徒歩約二キロ。

石峯寺の薬師堂

石峯寺を守るように続く裏山と新池

松岡城があったといわれる"飛松の岡"

切腹しかけた足利尊氏 松岡(まつおか)城

山陽電鉄の板宿駅と東須磨駅の間の北一帯は、今でも大手町と呼んでいる。大手という地名は、日本のあちこちにある地名で、城の正面にあたる所だ。この大手町にある勝福寺の後ろの飛松(どびまつ)の岡に、松岡城があったといわれる。
 「太平記」によると、観応二年(一三五一)二月、足利幕府の最初の将軍であった足利尊氏は、弟の直義と御影の浜で戦ってやぶれ、高師直(こうのもろなお)、師泰(もろやす)兄弟とともにこの松岡城に立てこもり、自害しようとした寸前になって幸い和議が成立したので、尊氏は城を出て京都へ帰った。
 御影の浜から松岡城に逃げこんだ尊氏は、師直と師泰を呼びよせ、
 「いつの世でもそうだが、戦いにやぶれると部下はばらばらになって逃げて行く。饗庭命鶴(あえばみょうずる)はどうか」と、不安そうに聞いた。
 「その方がたも、はや逃げられました。いま残っているのは総勢五百名ぐらいです」と答えると、尊氏は、
 「皆の者、今夜を限りにこの世に別れをつげようではないか」といって、みずから鎧(よろい)をぬいだ。これを見た部下の師直など二十三人も二列に並んで、尊氏が自害したら直ちにお供をしようと腰の刀に手をかけ、息をころして見守っていた。
 その時、逃げたものと思っていた饗庭命鶴が声をはりあげて、
 「弟直義さまと仲なおりのことが決まりました。はやまって自害などなさいますな!」と、叫びながら飛び込んできたのである。
 勝福寺の石段の上り口左手に、証楽(ちょうらく)上人の墓所のあるあたりに「ハラキリ堂」の名が残っているのは、自害しようとした尊氏のことに由来しているのだろう。また、後ろの山から東へ続く峰を得能(とくのお)山と呼んでいるのは、建武三年(一三三六)、新田・楠木軍と足利の両軍が兵庫で戦ったとき、四国の得能氏がここに陣所をおいたからだという。この陣所も松岡城と関係がありそうだ。
 また、飛松の岡は菅原道真が九州へ左遷のとき、京都から愛していた松が道真をしたってこの地へ飛んで来たという伝説からこの名がついたもので、今もこの岡の東端にある板宿八幡神社の境内に、その老松の巨株が保存され、標石が建てられている。

 〈あし〉勝福寺…山陽電鉄東須磨駅下車、東北へ約三百メートル。

証楽上人の墓所

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