36号表紙

No.36(昭和50年4月)

特集:

神戸の民話(下)

神戸の民話(下)
 

石のほこらが点在する唐櫃道(行者道)

唐櫃道(からとみち)の魔(ま)もの

 春になると、六甲山はハイキングをたのしむ家族連れや、若い人たちで大へんにぎわいますが、むかしも、六甲山の南がわと北がわの人たちは、おたがいに山をこえて行き来しました。ことに、商売をする人にとっては、六甲ごえの道はひじょうに大事な道でした。御影(みかげ)や住吉(すみよし)の商人は、牛の背中に魚やお酒、小間物(こまもの)などをつんで六甲山をこえ、北がわの唐櫃(からと)へ出ました。そうして、有馬(ありま)や付近の村村をまわって、それらの品物を売っていました。
 反対に、北がわの百姓さんたちも、やはり牛の背中に米や麦(むぎ)、みそなどをつみ、唐櫃から六甲山をこえて南の御影や住吉に出て売っていたのです。
 しかし、この六甲山の往来は昼の間だけであって、夜になると、人通りはぱったりとだえました。夜になると恐ろしい魔(ま)ものが出て、通る人や牛を食い殺すといわれていたからです。どうしてもいそぎの用事で、夜に山をこさなければならないときは、唐櫃の四鬼(しき)という家から火なわをもらって行きました。四鬼家でおまじないされた火なわには、魔ものも近よらないといわれていました。
 ある年の十一月のなかばのことでした。御影の乾物屋(かんぶつや)の番頭(ばんとう)さんで、仁兵衛(にへえ)という若者が、いつものとおリ六甲山をこえて商売にやってきました。有馬や付近の村村をまわりましたが、その日は乾物がよく売れたので、かえるのがおそくなりました。そこでいそいで唐櫃に行き、よく知っている茶店で御飯(ごはん)をたベ山へのぼろうとしました。茶店のおばあさんはあわてていいました。
「仁兵衛さんや、やめなされ。六甲の山で、恐ろしい魔ものがてたらどうしなさる」
 しかし仁兵衛は、腰にさしている刀を指(ゆび)さしながら、
「これがあるから大丈夫。それに、わたしは剣術(けんじゅつ)を知っているしな」
「それでは、せめて四鬼さんから火なわをもらって、それを持っておいき」といいました。それでも仁兵衛は笑いながら首を横にふり、
「ごちそうさん」とだけおばあさんにいって、坂道をのぼって行ったのです。夜はとっぷリ暮れて、空には星がきらきらかがやいていました。
 ところが翌日のことです。村の人が六甲山へたきぎをとりに行くと、ある岩かげに、その仁兵衛が血だらけになって死んでいました。しかも身体のあちこちに、大きなツメでひっかかれたような傷がのこっていました。
 それからは、人びとは六甲ごえをいっそうこわがり、昼間でも四鬼さんから火なわをもらい、往来(おうらい)するようになったそうです。(北区・「六甲」「有馬郡の伝説とその背景」)

田畑を見渡すようにたつ「新兵衛石」

少年新兵衛(しんべえ)

 山あいにひろがる山村に、領地(りょうち)見まわりをする殿様の行列がやってきました。村の人たちは、道の両がわに土下座(どげざ)して、うやうやしく行列を迎えました。そのとき、思いもかけない事件が起ったのです。
「お殿さま、お願いでございます。どうかお聞きとどけくださいませ」
 年のころ十四、五歳の少年が、必死(ひっし)の表情で土井大炊頭(どいおおいのかみ)の駕(かご)のそばへかけ寄り、訴(うった)えました。
「無礼者(ぶれいもの)め」といっかつされ、少年はその場でとらえられました。そして、大炊頭の宿へつれていかれました。
 これは江戸時代のはじめのころの話で、丹生山田(にうやまだ)の里で起ったことです。そのころ、殿さまに百姓が直接に訴えることは、決してしてはならないことだったのです。もしすれば死刑です。
 そのときの土井大炊頭の宿は有馬でした。大炊頭は、あどけない少年の顔をみて、事情も聞かず死刑にするのがふびんになりました。
「これ、子ども。さようはなぜあのような無礼なことをしたのか。理由を聞いてやるから、つつみかくさず申してみよ」
 少年の目にみるみる涙(なみだ)があふれました。殿さまのやさしいことばに少年は、思い切って話しだしました。
「お殿さま、お願いでございます。私たちの村は、たび重(かさ)なる不作で、とうてい重い年貢(ねんぐ)を納めることができません。なんどもこのことを、村のお役人をとおしてお願い申しましたが、お聞きとどけがございません。これ以上、年貢をお取り立てになれば、私たち村びとは、村を捨てるか、餓死(うえじに)するほかございません。毎夜毎夜、おとなたちが、ひたいをよせあって相談している姿をみるにつけ、私はいたたまれなくなって、このような無礼な振舞(ふるま)いをいたしました。私の科(とが)はどんなになってもかまいませんが、どうか村びとの難儀(なんぎ)だけはお救いください」と、涙ながらにせつせつと訴えました。少年の、この覚悟(かくご)を決めた訴えに、土井大炊頭も深くうたれました。
 そこで従来のしきたりを破って、少年の訴えは聞き入れられることになりました。少年は無罪放免(むざいほうめん)、村の年貢も軽くなり、それからは、村も次第にゆたかになったということです。
 この少年の名は、村上新兵衛といいました。村びとは新兵衛の勇気をたたえ、ちょうど新兵衛が訴え出たところにあった石を記念として、村の一角に残しました。これが、いまも山田町の福地に残る「新兵衛石」です。(北区)

蜘蛛(くも)の道案内

落葉山からみた有馬温泉

 むかし、神戸地方に長い間、大雨が降りつづき、そのため、六甲山に山津波がおこって山はくずれ、川があふれ、古くから有名だった有馬の温泉も家も、みんなドロにうずまってしまった。
 それから百年近くたった。
 奈良の吉野に仁西(にんざい)というお坊さんがいたが、ある夜、寝ているとえらい神さまが夢のなかに現(あら)われ、
「仁西よ、摂津(せっつ)の国にある有馬の温泉が、見るかげもなくさびれたままになっている。むかしから病人によく効(き)く温泉だから、すぐに有馬へ行ってもとのように温泉が出るようにし、病気で困っている人々を助けるように。有馬まではクモが案内する」といわれた。
 朝になって仁西が玄関に出てみると、大きなクモが糸をひいてたれさがっていた。仁西は、すぐに旅の仕度をし、このクモの道案内で有馬をめざした。
 いよいよ、けわしい六甲の山道にさしかかった。寒い日で、ハダをさすような冷(つめ)たい風が吹(ふ)いていたが、この山を越えたあたりが有馬らしいと仁西にもわかったので、クモのあとについて一歩一歩、踏みしめるように山を登って行った。
 ところが、ようやく山上の付近までくると、とつぜんクモの姿が見えなくなった。仁西はけんめいにあたりをさがしたが、どこにもクモは見あたらない。夜のとばりがおりかけて、あたりは次第にくらくなってきた。途方にくれた仁西が石に腰をおろして、あれこれ案じていると、まっ白いひげをたらした老人がすーっと現われ、
「遠い所までよくぞきてくれた。これから先は、わしが案内しよう」といって、歩きはじめた。しばらくして、ある小高い山の上までくると、老人はそばにあった緑の美しい木をゆびさして、
「仁西よ、この木の葉をちぎって、下へ投げるのだ。その落ちた所に温泉がある」というと、老人はまた煙のように消えてしまった。そこでいわれたとおり、仁西がその木の葉をちぎって投げると、木の葉は光りながらひらひらと、谷の方へ落ちていった。
「そうだ、あのクモや白髪の老人は、きっと夢にでたえらい神さまなのだ」
 仁西はその場にひれ伏し、両手をあわせておがみながら、有馬の温泉をもとどおりにすることを改めてちかった。
 翌朝、山をおりた仁西は、昨夜の木の葉の落ちたあたりを掘りはじめた。まもなく、湯けむりをあげて温泉がふき出してきた。
 それから仁西は、すぐに大ぜいの大工さんをやとって温泉の入浴場をたて、むかしあった温泉寺(おんせんじ)というお寺も復興(ふっこう)した。そのご、お寺におまいりする人や病気で温泉にくる人がふえるにつれ、お寺のそばに寝泊(ねとま)りする宿坊が十二にふえたので、それぞれの宿坊(しゅくぼう)には、何何坊というように坊の名がつけられるようになった。
 今も、有馬の温泉旅館で坊の名のつくところが多いのは、ここからはじまったと伝えられ、また裏山に落葉(おちば)山という名も残っている。(北区・「摂津名所図会」「有馬湯治記」「摂陽群談」)

春先になっても雪を残す「くもの滝」。有馬四十八滝のひとつ

有馬(ありま)の大蜘蛛(おおぐも)

 六甲山の最高峰(さいこうほう)から、湯(ゆ)のまち有馬(ありま)に流れこんでいる川の上流には、たくさん滝(たき)があります。今でも、山のぼりになれない人はこれらの滝に近よってはあぶないといわれるほど、ひるでも薄ぐらい樹林(じゅりん)がうっそうとしげり、コケむした岩石がごろごろしていて、山深い渓谷の感じにうたれます。
 遠いむかしのことでした。
 有馬に一人の木こりが住んでいました。木こりは毎日毎日、明けても暮れても山の奥へ行っては木を切り、柴(しば)を刈ってはまちの人に売って暮らしていました。
 ある日、行ってはいけないといわれている山奥へ、柴をさがしにのぼっていきました。川にそって渓流をしばらく行くと、目の前に真白(まっしろ)い布が落ちているような美しい滝がありました。
 めったに人が行かないのでしょう。滝のあたりにはうっそうと木がしげり、木こりは、またたくうちにたくさんの柴をこしらえました。
 やがてひるになったので、木こりは滝のそばで弁当(べんとう)を開き、滝を見上げながら食事をしました。とっても暖(あたた)かい春の日のことでした。こんな春の日ざしをまともにうけ、それに、おなかがいっはいになった木こりは、滝つぼに足先をつけながら気持よくなり、うとうとと眠ってしまいました。
 ときどき鳥のなき声がするだけで、あたりはこわいほど、しーんと静まりかえっていました。木こりは、心地(ここち)よさそうに眠りつづけています。すると、滝つぼの中からとつぜん一ぴきのくもがはい上がってきて、木こりの足に近づくと口から糸を出し、何回も何回も足に糸をまきつけました。そしてくもは、また滝つぼの中へ姿をかくしました。
 やがて木こりは目をさまし、立ち上がろうとしましたが、足が動きません。よく見ると、くもの糸が両足を何回もまいていたのでびっくりしました。
「なんだい、いい気持で眠っていたのに」
 木こりはぶつぶついいながら足にまきついたくもの糸をほどき、そばにあった大きな木の切り株へひっかけました。そして、帰りをいそごうと柴のたばに手を通した時です。
 とつぜん、滝つぼの中から大きなくもが頭をもち上げ、糸をぴんとはりました。それからたくさんの足で、その糸をぐいぐいたぐりよせると、滝つぼの水は怒涛(どとう)のようにさかまきました。そうして、くもの糸のかけられた切り株は、みるみる滝つぼの中へ引きよせられ、とうとう大きな切り株は、滝つぼの中へ姿を消してしまいました。
 真青(まっさお)な顔で、木こりはこれをじっと見つめていました。足にまきついたくもの糸をほぐすのがもう少し遅かったら、木こりが殺されていたのです。
 やがて、滝つぼがもとの静けさにかえったので、木こりはやっと我(われ)にかえり、柴も持たずいちもくさんに家へ逃げて帰リました。
 それからはだれいうとなく、この滝のことを「くもの滝」とよぶようになりました(北区)

都会のまん中で、ひるでもロウソクの火がゆれる「北向き地蔵さん」

北向き地蔵(じぞう)さん

「このなが雨で、大水が出にゃええがのう」 「去年(きょねん)も秋のあらしで川の土手がきれ、田んぼかわやになってなんぎしたのに、つづけて米がとれなんだら、どないしたらええのやろ!」
 生田(いくた)村の人たちは、昔からなんども大雨のたびに土手がきれ、田をだめにされてきました。雨はますますひどくなり、夜になって風もでてきました。村の人たちは雨のなかで、ただ心配そうにまっ黒い川の動きを見つめていました。
「上(かみ)の方があぶないぞーっ」という叫び声が聞え、みんなはいっせいに走リだしました。前の年にこわれた土手のところへ集った村の人たちは、もう夢中(むちゅう)です。雨のなかでくわをふるい、土をつめた土俵(どひょう)をはこびました。はあはあ、と肩(かた)でいきをしながら、土手の石をつみなおし、土をかためました。
 しかし、雨はやまないし、風も強くなってきました。ときどきピカッといなびかりがし、ゴロゴロというかみなりの音もしました。そのころになると、村の人たちはすっかりつかれはててしまい、こんどどこかがくずれかけても、もうだれもはたらけないくらいでした。
「土手が切れかけたぞうー」
 こんなさけび声が聞えても、だれもおきあがる人はいません。
「ああ一、もうだめだ!」
 頭をかかえてすわりこむ人もいました。またことしも田が流されてしまうと、みんなが思ったときでした。
 ドスン。ドスン。ドスン…という、大きな足音が近づいてきました。
 ズーッ。ズーッ…という、重いものをひきずるような音もしました。村の人たちは、こわくてふるえあがりました。
 こんどはザブーン。ザブーンと、大きな石を川へなげこむような音がしました。そしてしばらくすると、シーンとなって、水の流れがかわったように川はしずかになりました。それでも、村の人たちは小屋から出ようとせず、夜があけるのをまちました。
 やっと夜があけ、村の人たちはおそるおそる土手ヘあがっていきました。みんな、たすかったのがふしぎでした。流されてきた木がいくつも岸にひっかかっており、もう少しで土手は切れるところでした。
「あふなかったのう」
「そうじゃ。すんでに土手が切れたと思うたにのう」
 口々にいいながら、ふと見ると、小さなお地蔵(じぞう)さんが目につきました。川の水にえぐりとられた土手のあなに、だれがなげ入れたのか石がぎっしりとつまり、その上にちょこんとお地蔵さんがのっているのでした。
 それではじめて村の人たちは、昨夜のドスンという足音や、重いものをひきずるような音、それから大きな石を川ヘなげこんだのも、このお地蔵さんだったことを知りました。そしてだれいうとなく、この川べりに小さなお堂をたてお地蔵さんがすわっていた北向きのまま、おまつりすることにしました。
 お地蔵さんは、今も「北向き地蔵」として神戸のにぎやかな中心街にのこっており、まちの人ひどがおまいりをしています。(生田区)

布引の雄(おん)滝

布引滝(ぬのびきだき)の怪女(かいじょ)

 今からおよそ九百年ほどむかしのことです。そのころ、たいそう強い勢力をもっていた平家(へいけ)の大将、平清盛(たいらのきよもり)は京都に住んでいましたが、その清盛の長男の平重盛(たいらのしげもり)が、夏のある日、布引滝を見物に出かけた時のことです。
 重盛は、布引の滝の前に立って、やっぱり来てよかったと思いました。
 あたりの木のみどり、流れ落ちる水しぶきの白さ、深い滝つぼの青さ。すべてが神秘的(しんぴてき)といえる美しさでした。しばらく見とれていた重盛は、ふと、この滝つぼがどれほど深いのだろうと思いました。
「だれか、この滝つぼの中の様子をさぐってみる者はいないか」と、お供の者に呼びかけましたが、不安に思って、だれも名のり出ません。しばらくして難波六郎経俊(なんばのろくろうつねとし)という者が、
「私が行ってみましょう」と名のり出ました。経俊は、ふだんから大切にしていた刀を小脇に飛びこむと、勢いよく底の方ヘ泳いでいきました。
 しかし、経俊が想像(そうぞう)していたより底が深いのか、いくら泳いでも、なかなか底につきません。
 ずいぶん泳ぎました。もともと泳ぎは達者(たっしゃ)な経俊ですが、それにしても、長い時間をかけたように思われました。やっと先方に、ぼんやりと明かりが見えてきました。
 明かりのところヘたどりつくと、急にあたりが真昼(まひる)のように明かるくなりました。そこには、あらゆるめずらしい宝石をちりばめた御殿(ごてん)があり、美しい御殿の前ヘ行くと、いつのまにか水はなくなっていました。
 四方を見渡すと、それぞれ違った四季の景色(けしき)がひらけていました。
 でもふしぎなことに人の姿はありません。ただ、どこからともなく、はた(お)織りの音だけが静かにひびいてきました。
 経俊は刀をしっかりにぎりしめ、この音をたよりに御殿の奥ヘ進んで行きました。いちばん奥の部屋の前で戸のすき間から中をのぞくと、そこには身長が二メートル以上もある、長い髪をうしろにたらした三十歳ばかりの女の人が、はた織りをしていました。経俊は、
「もし、ここはどこでしょうか。どなたのお住まいでしょうか」とたずねました。すると女の人はふリ向きもせず、
「ここは、布引滝の竜宮城(りゅうぐうじょう)じゃ。お前らがくるところではない。さっさと帰れっ」とこたえました。
 びっくりした経俊は、必至に泳いでやっとのことでもとの滝つぼの上へたどりつきました。そこで重盛に、竜宮城の怪女(かいじょ)のことをくわしく話していますと、それまて晴れていた空が急にくもり、滝の上はみるみる黒い雲におおわれて大嵐(おおあらし)になりました。経俊は、
「これは、きっと私をねらっているのです。あぶないですから、殿様はここをはなれていてください」と申しました。人びとは恐ろしさのあまり、先を争って建物ヘ逃げこみました。
 まもなく雨はやみ、空はもとのように晴れ上がりました。
 重盛と家来がそっと建物から出てきてみると、そこには経俊が、何かするどいつめのようなもので、引きさかれて死んでいました。経俊の右手にしっかりとにぎられた刀には血がついており、そのそばに、猫(ねこ)の足のようなものが切り落されていました。(葺合区・「源平盛衰記」)

"下しが淵"の奇岩の上にある河童の石碑

"下(くだ)しが淵(ぶち)"の河童(かっぱ)

むかし、むかし。神戸の北のはずれにある淡河(おうご)という村に、広い田んぼや畑をたくさん持っていたお百姓のだんながいました。この人はとってもよく働く人で毎日毎日、草刈りをしたり、田をたがやしていました。
 夏のあつい日のことでした。この日もだんなは、草取りに夢中でした。
 そのとき、田のあぜから声がしました。あぜには、汗にまみれた小さな男が立っていました。近くにある"下しが淵"から、いそいでかけあがってきた様子です。子どもぐらいの背丈(せたけ)なのに、陽やけした顔はかなり大人(おとな)びていて、浅黒い押しつぶしたような顔に、口だけがでていました。
「何か用かのうー」
「だんな、おら、旅のもんだが草取りを手つだうから、一晩泊(と)めてくれんかのう」
「へえー。草取りはえらいぞ」
 だんなの声が終らぬうちに、もう男は稲田へしゃがんで、草取りをはじめました。
 なんと、その草取りの早いこと。人間わざとも思えないほど早いうえに、あとには草一本ものこっていません。さすがの働きもののだんなも、ただあきれるばかりでした。
 ところがしばらくするうちに、だんなは変なことに気づきました。その男が草取りをしながら、だんなのうしろへ、うしろへ回(まわ)りたがっているように感じたのです。だんなは気味(きみ)がわるくなってきました。
「河童(かっぱ)は、お尻(しり)から人間の生血をすう」という話を思いだしたがらです。
 でも、本物(ほんもの)の河童とわかったわけでもないので、だんなは、それからは素(そ)知らぬ顔で草取りを続けながら、男が自分のうしろへ来れないように心がけました。
 夕暮れになりました。男に手伝ってもらったおかげで、この日の草取りは非常にはかどりました。だんなは手の土をはらいながら、男をうながして家へ帰りました。  しかし、帰る途中の道でも、だんなは考えこんでいました。
 男がだんなのお尻の方へ回りたがっていた様子もあやしいし、顔や体つきも河童にそっくりだ。そういえばあの男、いくらあつくても背中を見せなんだ。きっと背中に甲羅(こうら)があるのではなかろうか。こんなふうに疑うと、ますますあやしくなり、だんなは、男が河童に間違(まちが)いないと思うようになりました。
 河童を家に泊めたりすれば、いつお尻から生血をすわれるかも知れぬ。そうだ、河童は、おがら(あさの皮をはぎとったくき)のはじでものを食ベたら死ぬというではないか。  そこで、さっそくためしてみようと、その夜は家旅中が、おがらのはしで食事をすることにしました。
「だんなさま、このはしは、おがらじゃないですか」と男はいぶかりましたが、だんなは、桐(きり)のはしだといってうまくごまかしました。そして、半信半疑(はんしんはんぎ)で食ベおわった男は、しばらくするとパタンと横にたおれ、死んでしまいました。
「やっぱり河童だったのか。それにしても、かわいそうなことをしてしまった…」
 だんなは草取りの早かった河童がかわいそうになりました。さっそく盛大な葬式をしてやり、「下しが淵」に石碑をたててねんごろにまつりました。(北区)

今も東小部に残る大木戸弾右衛門の墓

百人力(ひゃくにんりき)のお相撲(すもう)さん

 きょうは、お相撲(すもう)さんの話をしよう。お相撲さんというても、ずっとずっと、むかしのお相撲さんのことや。
 今の北区(きたく)の鈴蘭台(すずらんだい)からまだ少し北の東小部(ひがしおうぶ)村に、大木戸弾右衛門義高(おおきどだんえもんよしたか)というお相撲さんがおった。背の高さが一九四センチ、一五七キロというから、今の高見(たかみ)山にもまけはせん。
 弾右衛門は、ちいさいころから相撲がすきで、大きくなるにつれ、百人力もあるほどの強い相撲とりになりたかった。
 そこで、垂水(たるみ)区にある有名なお寺のお堂にこもり、二十一日間何もたべすに、どうかわたしに大力(だいりき)をくださいとおねがいした。
 ちょうど、お堂にこもってから二十一日目のま夜中(よなか)のことや。赤ん坊をだいた白髪(はくはつ)の老人がすーっとあらわれ、
「この子をしばらくだいていておくれ」と、弾右衛門にあずけると、消えるようにいなくなった。
 弾右衛門は、老人にいわれたまま、朝まで赤ん坊をたさあかしてよく見ると、なんと、だいていたのは赤ん坊でなく、大きな岩やった。この時から、ねがいのかなった弾右衛門はものすごい力もちになった。そしていつも、直径三〇センチほどの丸い石を、たもとに入れて歩いていたということや。
 しかしこまったことに、あまりの怪力(かいりき)のために、ちょっとふれただけですぐ物がこわれてしまう。また、あるくと足が地面にめりこみ、そのあとがくぼみになって、雨が降ると水たまりになるので、村の人たちが苦情(くじょう)をいうようになった。弾右衛門は、自分があまり大きな望(のぞ)みをしたことに気がついた。
 そや、人間はなにも、百人力もの力はいらんのや。その時に応じて、相手の倍(ばい)の力があればじゅうぶんやー。
 そう思って弾右衛門は、「相手の倍の力」にしてほしい、と願(がん)をかけなおし、そのとおりになったということや。(北区)

風趣ゆたかな山田の里

虎(とら)をかみ殺した犬

 むかし、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家臣に加藤清正(かとうきよまさ)という勇将がいて、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)でのいくさで生どりにした虎(とら)を、大阪へ連れてかえってきました。
 これは、この虎にまつわる話です。
 大阪城ではさっそく大きなおりをつくって虎を入れましたが、大きな虎ですから、毎日毎日のえさを用意するのにたいへんでした。そこで、近くの国の村々から犬を集めて虎のえさにすることになりました。こうしてたくさんの犬が、毎日、虎のえさとして大阪城に送られてきました。
 ある日、いつものように送られてきた犬のなかに、白黒のぶち犬がいました。顔が長くて、目が大きく、足も太く見るからにたくましい犬でした。この犬を虎のおりに入れると、虎は犬のすさまじい形相(ぎょうそう)に押されて、たじろぎました。いつもなら、犬を入れると喜んでとびかかる虎が、とびかかりもせず、犬とにらみ合う形となったのです。
 この珍しい状景を人びとが見守っているうちに、虎は犬をめがけてとびかかりました。犬も負けてはいません。さっと体をかわし、ねらいすまして虎のノドにかみつきました。虎は犬をふり切ろうと体をゆすり、左足のつめで犬をかきむしりました。だが、犬はノドにくいついたままはなれませんでした。
 しばらくして、犬も虎もその場にどうと倒れ、ともに死んてしまいました。人びとは、このすさまじい光景にしばらくの間、声も出ないほどでした。
 虎をかみ殺した犬の話は、大きなウワサになって各地にひろがりました。
 この犬の飼い主は、丹生山田(にうやまだ)(今の北区山田町)に住む夫婦づれの猟師(りょうし)でした。この犬は利口(りこう)もので、夫婦のいうことがよく聞きわけられ、二人の生活にはなくてはならない家族同様のたいせつな犬でした。
 ところがある日、村の庄屋(しょうや)がたずねてきて夫婦に、
 「この村から大阪城の虎のえさにするため、一ぴきの犬を出さねばならない。お前のところの犬は、よい犬だから差し出すように。いやだとはぜったいにいえぬ」といいました。猟師夫婦は泣いて庄屋にたのみました。
「ならぬ。この犬のように、大きくて、肉づきのよい犬がほしいのだ」
 猟師夫婦は、どうしても、聞き入れてもらえそうにないことがわかると、仕方なく犬にいいました。
「お前も知ってのように、どうしても庄屋さんは許してくれぬ。お前をむざむざと虎のえさにさせるかと思うと、はりさけるほど口惜(くちお)しいけれど、いまの私たちにはどうすることもできぬ。かんにんしておくれ。こうなれば、どうかむざむざと虎にくわれることなく、虎のノドにくいついて、虎をくい殺しておくれ」
 犬は、この話を、首をうなだれて聞いていました。そして、しおしおと庄屋につれられて村を出て行きましたが、大阪城のおりに入れられてからは、夫婦のいいつけどおり、勇ましくたたかって最期をとげたのです。
 そのご、無理に引き立てた庄屋は罰せられ、庄屋の持っていた全財産(ぜんざいさん)は猟師夫婦にあたえられたということです。(北区・「新著聞集」)

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