35号表紙

No.35(昭和50年2月)

特集:

神戸の民話(上)

神戸の民話(上)
 エキゾチックなまち神戸にも、たくさんの民話がある。
 たわいがないようにみえて、そのひとつ、ひとつには生活のにおいがある。生活を守る庶民のたくましさ、ユーモアかも知れない。話す人によって、そのひびきが全然違ってくるのもまたおもしろい。口から耳へというより、親と子のハートからハートヘ語りつがれてきたところに、今日に生きる民話の根強さがあるのだろう。(掲載の民話は兵庫県学校厚生会発行「郷土の民話・神戸編」から)

金棒池と雌岡山

金棒池と弁慶(かなぼういけとべんけい)

 神戸の西北のはずれに、ずっとむかしから、雌岡(めっこ)山と雄岡(おっこ)山という形のいい山が二つ並んでいます。どちらも同じくらいの高さで、それに、どちらが優(まさる)るとも劣らないほど美しい山だったので、両方の山のふもとに住んでいる人たちは、自分たちの山の方が高いとか、きれいだといいはって、あらそいがたえませんでした。
 山の新緑(しんりょく)が目のさめるほど美しい初夏のある日、この日も雌岡側と雄岡側にわかれて、人びとははげしくいいあらそいました。
 「高くて、きれいなのはこちらだ」と、おたがいわめきあい、しまいには石がとび、なぐりあいまでするありさまでした。
 そこへ、修験者(しゅげんしゃ)が従者を二人つれて通りかかりました。
 二メートルはたっぷりある大きなからだに、色のあせかけた赤いケサゴロモをまとい、青いひもを腰にまき、ジャランジャランとなる金棒(かなぼう)をついています。
 人々は、あらそいをやめて、行者をとりまき、「雄岡が高いといってくだされ、行者さん」
「いや、雌岡が高いといってくだされ。どちらが高いか、うらなってくだされ」
と、口々にうったえました。
 「まて、まて。あらそいは万物(ばんぶつ)を枯れさせ、土地をやせさせるばかりじゃ。おそろしい、ほろびの地獄(じごく)じゃ」
 行者は、雌岡と雄岡のおおしい姿に、しばしみとれていましたが、
 「ようし、わしが修験の功徳(くどく)によって、どちらが高いか、うらなってやるからみておれ!」といって、指(ゆび)をくみ、じゅ文をとなえると、金棒は、みるみる巨大な棒になりました。
 行者は、その金棒を二つの山につきさしました。
そして、山の重さからその高さをはかろうと、金棒の中央に肩を入れ、こん身の力で立ちあがろうとしました。大地は地鳴りをおこし、両方の山はゆれ動きましたが、あまりの重さに、棒は、まん中から二つにぽっきと折れてしまいました。
 行者が、折れた棒をぬきとり、二つの山の間にすてたところ、金棒の重みで土地がみるみるへこんで、池ができました。
 「里人よ。金棒でできたこの池を、金棒池と名づけるのだ。これからは、この池を境界として、決してみにくいあらそいをせぬようにな」というと、ゆったりと、ケサゴロモを初夏の風になびかせながら、去っていきました。「わたしたちの郷土神出」
 金棒池と雄岡山、雌岡山にまつわる民話には、弁慶がでてくるこんな話もあります
 あるとき、弁慶がここをとおりかかり、あまり山の形がいいので、この二つの山が自分の庭山にほしくなりました。そこで、いつもぶらさげている大きな金棒で、山をかついでかえろうと思いました。
 弁慶は、山に金棒をつきさし、肩でかつごうとしましたが、山はびくともしません。そして、弁慶が腹たちまぎれに、ありったけの力をこめて持ちあげると、太い金棒はぽきりと折れて、山と山の間に落ちました。
 金棒が落ちたあとに、やがて水がたまって大きな池になりました。池の中に、小さい島が二つあるのは、弁慶の足あとだそうです。(垂水区)

雌岡山(左)と雄岡山

夢野の鹿(ゆめのしか)

 むかしむかし、神戸に、動物たちがなかよく遊び暮らしていた野原がありました。
 そこには、こんもりした森もあり、草原がひろがり、小川にはきれいな水が流れていました。いろいろな小鳥が遊び、きつね、野うさぎ、リすなどの、かわいい動物たちがたくさんいました。
 そのなかに、一組の夫婦(ふうふ)の鹿がいました。そのころは、夫婦といっても、いっしょに住まず、雄(おす)の鹿が、ときどき雌(めす)の鹿のすみ家(か)にいく習慣でした。
 ふとしたことから、雄鹿(おじか)は、遠く海をわたった向こうの、淡路島(あわじしま)に住むめすの鹿となかよくなりました。雄鹿は、以前からの雌鹿(めじか)のことを、すっかり忘れてしまったように、くる日も、くる日も、淡路の新しい友だちのところへ遊びにいきました。雌鹿はさびしくてなりません。
 ある日、ひさしぶりに雄鹿が、雌鹿のところへやってきました。あくる朝、目がさめた雄鹿は、雌鹿にこんな話をしました。
「じつはね、きのうの晩(ばん)おかしな夢をみたんだよ。一つは、ボクがねむっている間に、ボクの背中に、こんなに雪が積っている夢なんだ。ねむっているのに、雪が積るなんて、おかしいだろ。それからもう一つは、ボクの背中にすすきが生え茂っている夢なんだ。これが良い夢なのか、それとも悪い夢なのか、ボクにはさっぱりわからないんだよ」
 雌鹿は、この話をだまって聞いていましたが、頭の中では、どう答えようかといろいろ考えていました。雄鹿がめったに自分のところへこないで、淡路の新しい友だちのところへばかりいくのが、ねたましかったのです。そこで、こんなウソをいいました。
 「それはそれは、いやな夢ですこと。とっても悪い夢です。背中にすすきが生えるというのは、猟師の矢が、からだにささることです。そして、背中に雪が積るというのは、あなたの肉が塩づけにされるしらせです。こんど、あなたが淡路島へわたろうとされるとき、きっと猟師にであって、海の上で射殺されるでしょう、うっかりでかけてはなりません」
 この話を聞いた雄鹿は、もっともなことだと思って、しばらくは雌鹿のいうとおりにおとなしくしていましたが、どうしても、淡路の友だちのことが忘れられませんでした。
 とうとう、あいたい気持を押えきれずに野原をでて、淡路へ向かいました。そして海を泳ぎすすんで、もうすぐ淡路島へたどりつく少し手前で、浅瀬(あさせ)の岩へあがって休んでいました。そこへ突然(とつぜん)、猟師が船にのってあらわれ、雄鹿は射殺されてしまいました。雌鹿が、口からでまかせにいったウソが、ほんとうのことになってしまったのです。
 それからは、小鳥や動物たちが、たのしく遊び暮らしているこの野原を夢野(ゆめの)とよび、また「鹿の夢しらせは、良いように思えば良くなり、悪いように思えば悪くなる」と、世のことわざにいわれるようになりました。(兵庫区・「日本書紀」「摂津国風土記」)

白川の里

雨ごいと虫おくリ

 今でこそ道はようなり、近くにバスも通って便利になったが、おじいさんがまだ小さいころは、この車(くるま)や、妙法寺(みょうほうじ)、白川(しらかわ)という村は、谷あいの、さびしい農村やった。
 今から思うても、そのころの人びとは、ようはたらいたもんや。田植えのあと、秋のとり入れがおわるまで、赤ん坊をおぶった若いよめごも、子どもも、一家総出(そうで)で、田や畑の作物(さくもつ)の世話をしたもんや。今の子どものように、畑仕事をいやがって、こっそり遊びにいったりせなんだぞ。
 それでも、しょっちゅう、自然の災害(さいがい)に苦しめられたもんやな。雨が降りつづくと、川の土手がくずれないかと心配し、すこし日照りがつづくと、川の水がなくならないかと心配する。安心して、ぐっすりねむれる日など、かぞえるほどしかなかったくらいや。
 そうそう、おじいさんが子どものころ、五十日以上も、日照りがつづいたことがあってのう。池の水も、井戸の水も、干上(ひあ)がってしもうたことがある。稲(いね)や野菜(やさい)にあたえる水どころか、人びとの飲む水すら残り少ないありさまやった。
 村じゅうの人があつまり、どないしたもんやろと相談をしたが、なかなか、ええ知恵はない。そして、こまった、こまった、とみんなでいうとるうちに、だれいうとなく、お天とうさんに雨ごいをしよう、ということになったんや。
 そこで、村のはずれにある落合(おちあい)山の一番高い所に、たき木を山のように積みあげて、いつでも火がつけられるようにし、その間に二人の村人が、琵琶湖(びわこ)にうかぶ竹生島(ちくぶじま)の弁天さまにおまいりして、火をいただいて村へ帰ってくることにしたんや。
 両方ともうまくいって、二人は火なわにつけた火を大事にもって帰ってきた。そして、村でもう一度、村人やお坊さんがその火においのりをし、いよいよ山の上のたき木にその火を移したわけや。
 パチパチという音とともに、天にもとどくかと思われる火柱(ひばしら)を立てて、たき木はもえあがった。
 するとどうや。空がだんだんくろうなったと思うと、ザーツと雨が降りだしたんや。みんなよろこんだのう。「わっ」と声をあげ、びしょびしょにぬれながら、山を走っておりたもんよ。
 もう一つは、毎年、夏のあつい土用(どよう)に、虫おくりという行事もあったな。むぎわらで、サネモリの人形をつくり、一人の村人がそれをかついで、となりの村との境(さかい)をねりまわるこの人のまわりに、火のついたタイマツをもった四、五人がしたがい、また五人ほどがカネやタイコをたたきながら、口々に大声で、
「サネモリ ごしょらく 稲の虫は お供(とも)せい」
と、となえるんや。
 こうして、村の境をまわったあと、タイマツでこの人形をもやすと、めらめらともえるサネモリ人形といっしょに、稲につく悪い虫どもも、焼けほろんでしまう、といわれたもんやった。(須磨区)

サネモリ=虫おくりの神さま。
ごしょらく=後生楽。後世は安楽であるの意

どんべら淵から見た夕陽

どんべら淵付近で

どんべら淵(ぶち)のサル

 神戸のずっと西のはずれに、押部谷(おしべだに)というまちがあってのう、そこに、どんべら淵(ぶち)という水たまりがある。ちょうど明石川の支流と本流にはさまれた、田んぼの中じゃ。
 池の直径は、十五メートルほどもあろうかの。流れがないので、どろんと、よどんだようにみえる。お天気のわるい夕方なんかに、この池のふちに立つと、池の中からにゅーっと、がたろう(カッパ)でも出てきそうな、そんな、気味のわるい池じゃ。
 でもむかしは、もっときれいな、池だったそうじゃ。ずっとむかしの話だが、このどんべら淵には、近くの山からおサルがときどきやってきた。どんべら淵から、北へニキロメートルばかりの山つづきに、神出(かんで)というまちがあり、そこに雌岡(めっこ)山という形のいい山があっての、土地の人たちはこの山から、サルがやってくるのだと話しあっていた。
 そこで、よくみでいると、どんべら淵にやってくるサルは、どれもがきまって子もちのサルじゃということがわかった。ふしぎに思って、もっとよくみておると、サルは生まれたばかりの赤ちゃんをおぶって、やっぱり雌岡山から、この淵へやってきていたのじゃ。
 どんべら淵は、もとは、すみきった水が、どこからともなく、こんこんと湧(わ)いていたのじゃな。それで、山でお産をしたサルのおかあさんは、そのまま赤ちゃんザルをおぶって、この淵にたどりつき、ここの水で赤ん坊を洗っていたんじゃ。
 この話は、やがて人から人へ伝わっての。どんべら淵の水で、赤ちゃんのうぶ湯をたてると、その子が丈夫に育つだろうと考える人が多くなった。地元の人たちは、赤ちゃんが生まれると、この淵の水をくみとって帰り、これでうぶ湯を立ててみたところ、ふしぎに、その子は病気をしない。みんなすくすくと、元気に育つたというのじゃ。
 そんなことで、どんべら淵の水は、お産になくてはならないようになり、近くの村からも、この水をくみにくる人がだんだんふえての。なかには、何キロメートルもはなれた土地の人が、たずねてくるようになったそうじゃ。
 今では、家でお産をする人がすくなくなって、この水をとりにくる人もへったが、たとえ病院でお産をしても、一度は、この淵の水を入れて、お湯をたてることにきめている人が、まだいるということじゃ。
 どうじゃな、おまえたちも一度、どんべら淵へ行ってみたいかの。赤い夕日のしずむころには、今でも、おサルがやってくるかもしれんぞ。(垂水区)

こうじみそと海亀(うみがめ)

 むかし、兵庫の西の町はずれに、大きな柳(やなぎ)の木がはえていました。野っぱらに、柳の木がぽつんとあったので、みんなはこのあたりを柳原(やなぎはら)とよんでいました。
 この柳の木の下に、小さな家が一軒あって、木下の源太兵衛夫婦(げんたべえふうふ)が住んでいました。源太兵衛さんはぞうりを作って道ゆく人たちに売り、貧しいながらなかよく暮していました。
 ある年の暮(くれ)に、一人の坊さんがこの家に来て、一夜の宿をたのみました。
 「貧しいので何もおもてなしはできません。わたしたちと同じものでよろしかったら…」と、源太兵衛さんは気持よく坊さんを家に招き入れ、さっそくおかゆをつくって、さしあげました。
 あくる日はお正月でした。坊さんは、かまどに手を合わせて仏の名をよび、そばにあったぬかみそ桶(おけ)にお経をとなえ、世話になったお礼をいって、どこへともなく立ち去っていきました。
 しばらくすると、ぬかみそ桶から何やらよい匂がします。源太兵衛さんが首をかしげながらふたをあけると、ぬかみそが「こうじみそ」にかわっていました。ひと口なめてみると、それはそれはおいしかったので、近所の人たちにも分けてあげました。
 桶はからっぽになりましたが、つぎの日には、桶はまたいっぱいになっていました。おいしいこうじみその話を聞いた人たちが、みそを分けてもらいに源太兵衛さんの家へやってきました。
 それから源太兵衛さんは、こうじみそを売るようになりましたが、いくら売っても桶の中のみそはなくなりません。それでたいそうお金持になって、みんなは木下長者(きのしたちょうじゃ)とよぶようになりました。
 こうして、源太兵衛夫婦はしあわせに暮していました。ある時、以前の坊さんが夢にあらわれました。源太兵衛さんは、自分たちがいましあわせに暮しているのは、あのお坊さんのおかげだから、お寺をたてようと思いました。
 それで、大きな船をなんそうも用意して、西国(さいごく)へ材木を買いにいかせました。ところが、材木を積んだ船が兵庫の港に入ろうとして和田の沖までくると、とつぜん、大風が吹いて船は海底に沈んでしまったのです。知らせを聞いて源太兵衛さんは、和田の岬まで走っていきました。そして、がっかりして何もいえませんでした。
 その時、別のお坊さんがとおりがかり、源太兵衛さんにいいました。
 「これは、きっと海の神さまが、あんたの心をためしているのじゃ。もう一度西国へいって、以前よりたくさん材木を買ってきなさい。それで、あんたのお金がなくなったとしても、以前の生活にもどるだけのことじゃ」
 源太兵衛さんは、以前には小さなあばら家(や)に住んでいても、しあわせだったのを思い出しました。
 そしてさっそく、また大きな船をなんそうも用意して、西国へ材木を買いにいかせました。こんどは、材木を積んだ船が兵庫の港に入ろうとして、和田の沖までくると、前に沈んだ船がみんな浮き出してきました。
 ふしぎなことに、積んでいた材木は、ひとつも失われていませんでした。よく見ると、牛を十頭もひとのみにするくらいの大きな海亀が、その船を背負っていました。(兵庫区)

野瀬の大杣池

大杣池(おおそまいけ)の赤牛

 「おーい、池がきれたぞー。大杣の池がきれたんじゃー」
 ひきつったようなさけび声が、降りしきる風雨のなかを山から村へ、かけめぐっでいきます。
 なん日も前から降りつづいている雨は、ますます、ひどくなるばかりです。村の男たちは、一人のこらず大杣池の見はりをし、家の中にいる女や子どもは、神だなにあかりをつけて、「どうか、池がぶじでありますように」と、祈っていました。
 「また池がきれたか。たいへんなことになったものじゃ。わしらはどんな苦労もかまわぬが、かわいそうなのは、息子と娘よ」
 おばあさんや、おかあさんは、たたみにひたいをすりつけて、泣きました。
 この村の南の山頂から、摂津(せっつ)の国ざかいまで、えんえんとつづく高原の中に、村の田畑をうるおすみずうみのような、大杣池があります。
 くずれやすい土のせいか、この池は、むかしからたびたびきれました。池がきれると、お米もできません。また、村の人は総出(そうで)で元どおりにする工事にかかりきり、そのためにみんながつかれきって、まずしい、悲しい年が数年もつづくのでした。
 この谷すじの八幡宮のおまつりには、娘や若いよめたちは、いつも美しい着物をきておまいりしていたのに、一度池がきれると、そんな着物までなくなってしまうほど、池の復旧にはお金がかかりました。
 「庄屋さん、こんどこそは、赤牛をいけにえにせにゃなりませんのう」
 池がきれるたびに、赤牛のことが話にでますが、
 「そんなむごいことが、なんでできようか」
と、いつもうち消されてきました。牛はむかしから、百姓にとって、神さまのようにいわれてきました。牛がいなければ、田をたがやすことができません。
 だがこんどばかりは、村中の人がのこらず、赤牛のいけにえのことを口にします。庄屋さんは、しかたなく決心をしました。
 やがて、村中の人が鎮守(ちんじゅ)の森にあつまり、神さまのおみくじによって、いけにえにする赤牛をきめました。くじできまった赤牛は、六百キロもある、とてもよく肥えた牛でした。
 その日になると、牛のからだを、きれいに洗い清めたあと、赤白の首輪(くびわ)をかざり、角(つの)にはしめかざりをつけ。最後に、ごちそうを腹いっぱいたべさせました。いよいよ、その家から牛がひかれていく時は、家中のものが、牛にすがって泣きました。
 やがて牛は、池の堤(つつみ)のくずれた底に、しっかりとつながれました。村の人たちは、悲しさをこらえて、どっと牛をめがけて土をはこびました。投げこまれた土は、みるみる牛の足元をうずめ、腹をうずめ、背をうずめました。
 土をはこぶ村の人たちは、声をあげて泣きました。牛も泣きました。やがて赤牛はうずめられ、池の堤はりっぱにできあがりましたが、人びとの耳には、悲しい赤牛の泣き声が、いつまでもいつまでものこりました。
 それから大杣池の堤は、一度もきれていません。(北区)

竹やぶのある山みち

オトチになったおモチ

 みんなから「あわてもん」といわれていた男が、ある日、よめの里(さと)へいった。およめさんをもらって、初めての里入りやった。
 初めて、むすめのむこどのが来るっちゅうんで、よめの里では、朝からもう、ごちそうのこしらえや、むこどのに持たせてかえすみやげの準備やらで、てんてこまいのいそがしさであった。
 よめの里は、よめの兄が、その家のあとつぎをしていた。兄夫婦には、幼(おさない)い子どもが二人いた。よめの里には、よめの両親(りょうおや)もいたが、むこどのが来るというんで、ゆんべから孫のことなどはほったらかしで、ただもう、うきうき、おろおろしているばかりだった。
 むこどのは、みんなから大事(だいじ)にされ、朝からごちそうぜめで、もう満腹やった。おなかがいっぱいになると、急に、まちに残してきたよめがこいしくなってきた。今はもう、いっときも早く帰って、ぶじなよめの姿が見たいもんだと、やきもきしはじめた。
 里の親たちは、これ以上ひきとめてもむだだと知ると、むこどのに、おいしいあんもちを持たせてやろうと、いそいでもちをつき始めた。
 むこどのは、もう気が気でない。何を作ってくれるのか知らないけど、家の者があつまってはひそひそ相談したり、あやしげな音が聞えたりするのが、何だか気味わるく思われてきた。
 そのうちに、この家の孫たちが、もちつきのそばに来て、もちをつまむやら、うすをいらうやらで、邪魔になってしかたがない。とうとう
 「これこれ、これはオトチ(おばけ)だから、さわってはいかん。はよ、あっちへいき」と声を荒げたのが、むこどのの耳にはいってしまった。むこどのの顔色が、すーっと青くなった。
 さっきから変だと思っていたら、やっぱりそうや。わしにくれるみやげというのは、なんとオトチやないかー。
 どないしたらええやろ、とむこどのは思案(しあん)にくれた。
 もちがつきあがり、やがて、それをつつんでもろうて帰るだんになると、むこどのは里の人にたのんで青竹の長いのを一本もらい、その先に、おみやげの大きな風呂敷包みをしぼりつけてもろうた。それで、すこしは心がかるうなった。
 山里の日は、落ちるのが早い。里の人びとにわかれをつげると、もう夕やみであった。
 むこどのは、あたりが暗くなると、またこわくなった。竹ざおの先には、こわいオトチがいる。かたくしばってはいるけど、いつ、さおをつたって、わしの首すじにかぶりつくかも知れん。そう思うだけで、からだはふるえ、冷汗(ひやあせ)がにじんできた。
 山道がこんなに遠く感じられたことはなかったが、オトチがあばれそうで、走ることはできなかった。
 やっと山道も終ろうとするころ、さすがに、むこどのの気持がゆるんでいたのか、小さな流れをひょっととびこした。とびこしたひょうしに、包みがするするとさおをつたって、むこどのの首すじへ。ちょうど、重箱のふたがねじれて、中からはみ出したあんもちが、むこどのの首すじにぺたっとくっついた。
 「たすけてくれーっ」
 ものすごい大声だった。オトチにくいつかれたむこどのは、包みを投げだすと、手に持った竹ざおで、めったやたらにつきまわして、そのまま、いちもくさんに逃げ帰った。
 あくる朝、よめがオトチに会いにいってみると、重箱も、なかのあんもちも、どろまみれになって、おまけに、重ねた箱の間からあんもちが、にゅっと舌を出していたということやった。(垂水区)

板宿八幡神社の松

空を飛(と)んだ松

 こんどは、歴史にまつわる古い、いい伝えを話そうかいのう。
 今から一千年ほどのむかし、菅原道真(すがはらみちざね)というお人は、学問があって、みんなからしたわれたので、天皇(てんのう)さまもたいそうお引きたてになったということじゃ。そこで、たいへん権力(けんりょく)のあった藤原氏の一族がこれをねたむようになり、その悪いたくらみで、道真は京の都(みやこ)から、九州の太宰府(だざいふ)に流されることになったんじゃ。わかるかな?
 身におぼえのないことで、にぎやかな京から、人も住んでいないような太宰府へ流される道真は、重い足をひきずるように、今の神戸の須磨あたりまでやってきた。
 もうすぐ、お日さまが西の山にかかるころじゃった。それで、このあたりでひと晩休もうと家をさがしたんじゃが、適当な家はなし、足は疲(つか)れとるしのう。しかたなく、板でぐるりをかこっただけの家をつくって、そこに、とまりなさったわけじゃ。人びとはそのあたりを板宿(いたやど)とよぶようになったということじゃ。
 ところでのう、この道真というお人は京にいたころ、松(まつ)と梅(うめ)と桜(さくら)を、ものすごう愛し、育てていなさったそうじゃ。それで、道真が九州に流されると決まった時には、道真のやしきにあった桜は、またたくうちに枯(か)れて葉を落としてしまい、また梅はな、あのよいかおりが九州にまでとどくよう、東からの風にかおりを乗せて、はるばる送ってきたそうじゃ。ところが松だけは、まだ知らん顔じゃった。
 「草や木に心はないというのに、桜も梅も、これほどまでにこの道真を、したって悲しんでくれている。なんとうれしいことか。それにしても松の木は、なんとつれないことよ」
 そんな道真のことばを、京にある松の木は伝え聞いたんじゃろうな。松はすぐに京から空を飛んで、須磨までやってきたということじゃ。板宿の八幡神社に、「飛松」(とびまつ)という古い松の木のあるのが、それじゃといわれているそうな。
 それから、いよいよ九州に向かう道真の船は、いったんは沖へでたんじゃが、ひどく波が荒れていたんで、しかたなく西須磨あたりで岸につけられ、一行はまたとぼとぼと上陸した。
 そのころの須磨は、浜辺にうちよせる波の音だけが心をゆさぶる、さびしーい漁村じゃった。漁師たちは、暗い気持の道真をなんとかもてなそうと、魚をとる綱(あみ)についた太い綱(つな)を、地面にぐるぐるまいて丸い座席をこしらえ、そこに道真にすわってもらったということじゃ。
 のちになって、ここに建った道真を祭る神社を綱敷天神(つなしきてんじん)とか、綱巻(つなまき)天神とよぶようになったのも、このためじゃそうな。(須磨区・「兵庫名所記」)

青池

吉(きっ)さんとガッタラ

 青池という名の、深い深い池がありました。名前のとおり、水は青くすんでいましたが、深いので、底の方はみることができません。
 なにしろ、水がかれて、この池がひあがつたということを聞いた人はなかったので、村の人びとは、この池には何がすんでいるかわからないと、気味わるがっていました。
 それに、山の谷にできた池ですから、岸から一直線に深みになり、あまり泳げない子どもには、とてもきけんです。そのうえ、何がすんでいるかしれないので、ますます、青池は魔(ま)の池とされていました。
 そのうちに、青池には、ガッタラがいるというウワサがたちました。ガッタラというのは、カッパのことです。
 青池のガッタラは、子どもの姿になって出てきます。子どもたちが、おおぜいで行っているようなときは姿をみせないで、ひとりで遊びに行ったときなどに出てくる、ということです。口は少しとんがっていますが、ふんどしをしめたかっこうなどは、人間の子どもそっくりだ、ということでした。
 青池の岸で遊んでいますと、どこからともなく、知らない子どもが出てきて、そばへ寄ってきます。そばへくると、そっとお尻をさわり、お尻がやわらかいと、その子どもの尻をぬくというのです。
 近くの村に、吉さんというおじいが住んでいました。吉さんは子どものころ。このガッタラに一度だけ、出あったというのです。
 吉さんも子どものころ、もし青池で知らない子どもが寄ってきたら、それはガッタラだから、気をつけるようにと人から聞いていました。しかし吉さんは、元気ものの向こうみずだったので、ガッタラに、ひとあわふかせてやろうと思っていたそうです。
 吉さんは、家を出るとき、土びんのふたをこっそりふところにしのぼせました。池の近くにくると、吉さんは、土びんのふたをとリ出し、それを自分のお尻にあてて、その上から、きつくふんどしをしめました。
 そして、青池のふちに立っていると、何やら水がもこもこと動くのが見えました。
 「やってきよるな」と、吉さんは腹(はら)で思いながら、そしらぬ顔で、右をみて左をみました。すると、いつのまにか、ひとりの子どもが吉さんのそばに立っています。
 吉さんが平気な顔で、
 「あついな」
というと、その子どもも、
 「あつい、あつい、ほんまにな」
といいながら、吉さんのそばへもっと寄ってきました。
 いよいよだなと、吉さんがまた、右をみて左をみていますと、その子どもはそっと手を出して、吉さんのお尻をさわりました。
 それでも、吉さんは、平気な顔で、
 「あつうて、やりきれんわ」
と、ひとりごとをいうと、その子どもは、
 「おまえ、かたい尻やの」
と、びっくりしたようにいったので、吉さんは、きゅうにおかしくなり、
 「ガッタラは、やわらかい尻が、すきだということやの」
と笑ったとたん、吉さんのふんどしがゆるんで、ふんどしの下の土びんのふたが、ぽとりと外へ落ちました。こんどは、吉さんがびっくりしました。
 「やっ」
というが早いか、吉さんはお尻をおさえて、いちもくさんに逃げかえったというのです。
 「なんや、うしろの方で、ガッタラがさけんどったようやった」
と吉さんは、話のおわりを結びました。(垂水区)

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