34号表紙

No.34(昭和50年1月)

特集:

神戸と文学(下)

神戸と文学 有馬温泉の古い旅館街。幸田露伴が逗留した旅館(手前)は今は薬局になっている
 

"有馬温泉発祥の地"に湧く元湯(有馬温泉会館前)

日本最古の温泉として多くの人に親しまれている有馬温泉

幸田露伴をひきつけた名湯

 有馬の秋は短い。瑞宝寺跡や鼓ヶ滝の名物のもみじが深紅にもえはじめると、早やハラハラと散りはじめ、庭のあちこちで落葉をたく煙がせわしく立ちのぼるようになると、もう冬である。
 日本最古の温泉郷である有馬は、今でこそ大規模な近代建築の温泉旅館が軒をつらねているが、古い歴史をしのびながらゆっくり散策すると、山のふところ深く抱かれた閑静な情趣が味わえる。「日本書紀」によると、奈良朝時代の六三一年に舒明天皇が入湯のために二度有馬に来られ、また孝徳天皇は大化三年(六四七)に約一ヵ月半ここに滞在され、このときは大臣や重臣もつれて来ておられる。
 そのご聖武天皇のころ僧行基、さらに建久二年(一一九一)に大和の僧仁西がこの地に来て、衰えていた温泉を復興した。また豊太閣秀吉も有馬を愛し文献などによれば十数度も来ているという。
 明治二十三年、幸田露伴は現在の国鉄住吉駅からカゴで六甲を越え、六日間有馬に遊んだ。この旅の模様は明治二十六年に刊行された露件の紀行文集、「枕頭山水」に次のように記されている
「五月六日の朝いと夙く起き出でて、…神戸行きの一番汽車に乗りて有馬の温泉へと志ざす…住吉々々と駅夫の呼ぶ時心得たりと飛び下りけるが此所より有馬へは三里に足りぬところなれど、打仰ぐばかりの山を望みて上ることなれば…」ということで、力ゴかきから力ゴをすすめられるとがまんできなくなり、力ゴ二挺をつらねて山路を進む。 「前には摩耶六甲の山々赫く禿げたるところどころに小松の簇生へるを見、背には晴れたる海の平らかにして日の光りを受けたる帆終の彌(いや)白く見ゆるが遠く近く浮かべるを見るなど眺望の興少からず。…」
 斉藤茂吉も万葉集の「有馬山猪名(いな)の笹原…」の歌の踏査のため昭和十二年に有馬に来た。また竹久夢二の歌集「山に寄する」には「有馬笠笠に姿はつつめどもわが恋妻は人も知りきや」など有馬をよんだ二点が収められている。

〈あし〉高速新開地駅から神戸電鉄に乗りかえて有馬へ。このほか三宮から市バス有馬行急行、国鉄・阪急宝塚駅から阪急バス有馬行がある。また六甲ケーブル山上駅から日本一長い六甲有馬ロープウェ−もある。

参考図書
「文学の旅・兵庫県」宮崎修二朗著、神戸新聞社発行▽
「神戸の遺跡と文学」日東館発行▽
「神戸の史跡」神戸市教育委員会編

校庭を見おろすように建つ島田叡氏の慰霊碑

静かなたたずまいをみせる兵庫高校の校庭

「悪童」も受験した神戸二中

「神戸市外の西にあった県立二中の入学試験に二年続けて落ちた私は、よんどころなく、東の原田村にある関西学院の無試験入学の手続を取った。…」今東光の少年時代の自伝といわれる「悪童」の一節である。
 旧県立二中の兵庫高校校庭には、同校の出身で終戦直前に最後の沖縄県知事として沖縄の地に散った島田叡氏の慰霊碑が昭和三十九年に建てられ、同じ同窓の詩人竹中郁の次のような詩がきざまれている。

このグランド
このユーカリプタス
みな目の底に 心の中に収めて
島田叡は沖縄へ赴いた
一九四五年六月下浣 摩文仁岳近くで
かれもこれも砕け散った

 この詩にあるユーカリは、県立二中が創立された明治四十一年に植えられた。そのころ今の校庭一帯は排水の悪い、ひどい湿地帯だったところから、初代校長の鶴崎久米一氏らが湿地に強いユーカリを植え、これが地質にあって、人間の若苗とともにスクスクと成長していった。
 そして、「ユーカリのように素朴に、たくましく」というのが同校のモットーになり、戦後の高校昇格で校歌にとり入れられ、その葉と花と実をあしらった今の校章もつくられた。
 いま校庭にある若々しいユーカリは、最初に植えた木がすべて倒れてしまったあと新しく植えたものである。

〈あし〉市バス五番町二丁目で下車、室内商店街を北へ抜けると左側に校門が見える。

校庭の片隅で昔のなごりをとどめる"蓮池跡"

昔のおもかげを残す須磨離宮道

もののふの哀れを映す蓮池跡

 神戸高速鉄道が地下から地上の西代駅へ出てきたすぐ北側に蓮池小学校がある。この校庭の隅に小さな池があって、かたわらに「蓮の池跡」の石碑がある。
 この蓮池は、有馬温泉の再興に力のあった行基がこの地方のかんがい用の池として築いたものといわれ、古い記録には広さ四町二反(約四百アール)とある。
 有名な平家物語巻九には、生田の森の副大将として出陣した平重衡が、戦いやぶれて主従わずか二騎となって落ちのびるさまを、次のようにえがいている。
「渚には助船ども多かりけれども、後より敵は追いかけたり。乗るべき隙もなかりければ、湊河刈藻河をも打ち渡り、蓮池を馬手(めて)に見て、駒の林を弓手(ゆんで)になし、板宿須磨をも打ち過ぎて、西をさしてぞ落ち給う」
 この合戦で、平家の公達が多数討ち死にしたが、重衡は、結局力とたのむ腹心の部下の突然の心がわりにあって、あわれ、ひとりとらわれの身となって鎌倉に送られた。
 また太平記巻一六には、湊川の合戦で楠木正成がわずか七百騎の手勢で敵の大軍に立ち向かい、この蓮池のあたりで敵将足利直義をすんでのところで討ち取ろうとしたことが述べられている。蓮池は昭和六年に埋め立てられ、今の市民運動場になった。
 市民運動場から県立スポーツ会館などのある広い通りを東へたどると、北側に長田区役所があり、新湊川をはさんだ東側の村野工業高校のヘイの南角に「源平勇士の碑」があるが、車の往来がはげしく、立ち止まる人も少ない。
 この碑の特徴は右から平知章、平通盛、源氏の猪俣小平六、同じく木村源吾と、源氏・平家の別なく並んでいることである。このあたりの合戦の模様や、子どもの知章が討たれるのを見ながら船へのがれた大将軍平知盛のはりさけるような苦悩ぶりは、平家物語にくわしく出ている。これらの霊をまつった庶民の心情としても、敵味方の別なく、ただ死者があわれだったのだろう。

〈あし〉山陽電鉄西代駅下車、踏み切りを北へ渡ると蓮池小学校がある。

松風村雨堂の前で遊びにふける子どもたち

光源氏がすごしたと伝えられる須磨の現光寺

悲恋物語を伝える松風村雨堂

 須磨離宮公園の正門前からまっすぐ南に下る"離宮道"は、車道と歩道が松並木でへだてられ、その両側に庭木の多いひっそりとした邸宅が並んで由緒ある景勝地の面影を残している。近くの月見山は、在原行平が仁和二年(八八六)、光孝天皇の怒りにふれて須磨の地に配流されたとき、ここで月を賞したから名づけられたといい、一帯はもと松林だった。
 離宮道の山陽電鉄踏み切りのすぐ北の東側に、ささやかな松風村雨堂があり、松風、村雨という二人の姉妹にまつわる悲しい物語りが伝えられている。在原行平が須磨にいたとき、浜辺に潮くみに通っていた多井畑の村長の姉妹をいとおしく思い、松風、村雨の名を与えて仕えさせた。三年後、行平は許されて京都へ帰ることになったが、二人があまり別れを悲しがるので歌人でもあった行平は、「小倉百人一首」で有名な

 立ち別れいなばの山の峰に生ふる
 まつとし聞かばいま帰り来む

の歌を残し、烏帽子、狩衣をかたわらの松の木にかけて姉妹への形見にしたという。あとでこのことを知った姉妹は行平の住居のかたわらに庵を建て、観世音をまつって行平の無事を祈ったと伝えている。付近の松風町、村雨町、衣掛町、稲葉町などの町名は、この伝説にちなんでつけられた。
 ここから西へ道をたどると、平家物語で全国に知れわたった「青葉の笛」の須磨寺がある。古くから平敦盛にゆかりのある所として有名で、元禄元年にここをたずねた芭蕉は、「須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇」とよみ、この句碑が寺務所の前庭にある。また子規も須磨保養院にいたころ何度もこの寺を訪れ、今も桜寿院の境内に「暁や白帆すぎゆく蚊帳の外」の句碑が建っているほか「山門や青田の中の松並木」「秋風や平家弔ふ経の声」など、須磨寺をよんだ句は相当ある。そして小説「土」の作家、長塚節も明治三十八年に須磨寺を訪れ、「須磨寺の松の木の葉の散る庭に飼ふ鹿悲し声ひそみ鳴く」をのこしている。
 このほか尾崎放哉、土田耕平、川田順、大井広など多くの歌人がここを訪れている。

〈あし〉山陽電鉄月見山駅、市バス離宮公園前下車。月見山駅から須磨離宮公園までは北西へ歩いて約十分。

須磨浦公園の"みどりの塔"。この付近に須磨保養院があった

鉢伏山の中腹にある子規と虚子の句碑

子規が病いをいやした須磨浦

 須磨浦公園の松の木の間に、金色の「みどりの塔」がひときわ目に映えるあたりは、かって子規が病いをいやした「須磨保養院」のあった所である。明治二十八年七月、神戸病院から転地した子規は、それからの一ヵ月を涼しい海辺の松林のなかで再生への日々を送った。この間、子規は付近の遺跡めぐりをしては源平合戦のむかしを心にえがいたりしている。

  石塔に漏るる日影や夏木立(敦盛塚)
  撫子に蝶々白し誰の魂(源平合戦を偲んで)

 須磨浦海岸には芭蕉や蕪村も訪れ、蕪村は「笛の音に波もより来る須磨の秋」の句をよんでいる。「蝸牛角振り分けよ須磨明石」の句を彫った芭蕉の句碑は、鉢伏山中腹にある。その少し上に建つ須磨観光ハウスも大仏次郎の「宗方姉妹」に使われた舞台の一つである。
 鉢伏山は山全体が須磨浦公園になっており、急斜面の階段状の石だたみの道を登りながらふり返ると、木々の緑のかたまりが一気に海へすべりこんでいる感じがする。大小の船が行きかう海のむこうに淡路島が浮かび、そのかなたに紀淡海峡の島がかすんで見える。さすが「源氏物語」の詩情をたたえた風光である。
 紫式部の「源氏物語」といえば、主人公である光源氏がすごしたと伝えられる須磨の現光寺は千守川沿いの少し小高くなった所にある。当時の須磨は海辺の一寒村にすぎなかったが、古くから観月の名所として名高く、不幸な主人公のさびしい生活をえがく作者のイメージとしてこの地がぴったりだったのだろう。現光寺の門をくぐった正面に芭熊の句「見わたせばながむれば見れば須磨の秋」をきざんだ石碑がある。

〈あし〉須磨浦公園は市バス、山陽電鉄須磨浦公園駅下車。現光寺は市バス、国鉄、山陽電鉄須磨駅下車、国道山側の歩道を東へ約一五〇b行き、そこから北へ須磨寺の方へ向かうと山陽電鉄のガードがある。ガードを越すとすぐ右手に現光寺の石段が見える。

冬の日ざしを浴びてしずまる須磨海岸

舞子公園と六角堂

朝もやにけむる垂水沖の平磯灯台

「暗夜行路」にえがかれた舞子の浜

 志賀直哉の「暗夜行路」に、舞子の海岸風景をえがいた次のような一節がある。
「塩屋舞子の海岸は美しかった。夕映えを映した夕なぎの海に岸近く小舟で軽く揺られながら胡坐をかいて綱をつくろっている船頭がある。白い砂浜の松の根から長く綱を延ばして、もう夜泊りの仕度をしている漁船がある。…」
 舞子という地名の起こりは、在原行平や平清盛がここで女子に舞をまわせたからだとか、松の姿が舞子の舞うのに似ているからだとかいわれているが、潮流の関係で潮の舞い込む浜の意味だという説がもっとも近いようである。東は須磨の浦につづき、西は明石市に接し、北は歌敷山、そして南は明石海峡をへだてて淡路島をのぞむ。付近には風趣に富んだ老松が多く、須磨とならんで古くから風光明媚(ビ)な名所として名高い。
「私は、関西の一私鉄に働いている名もない労働者である。十九のとき、この私鉄に入って以来、三十年近くつとめて、今年はもう四十七になる。…」といった書き出しで椎名麟三の「美しい女」ははじまる 作者が昭和三年、宇治川電気鉄通(今の山陽電鉄)に入社し、やがて労働運動に従事するようになった昭和五年ごろの生活が、この小説の下敷きとなっている。
 そして疲れた体で電車を運転しながら「…海がよかった。へッドライトヘかすかに白い泡立ちながら、男岩と呼ばれている大きな岩へ押し寄せては、ええっ、しょうがないんや、これでもしょうがないんや、と調子をとってぶつかりながら闇へ高々と白い飛沫をあげていた。…」と海岸沿いの美しい景色に、対人関係でみじめな立場におかれた主人公の切ない気持をやわらげる。
 大正のはじめに中国人富豪が舞子海岸に建てた"移情閣"は通称六角堂として有名で、獅子文六の「バナナ」に登場する。また垂水沖の平磯灯台は、潮流れが激しく暗礁の多いこの地点での船の遭難を防ぐため明治二十六年に建てられたものだが、英国の小説家サマセット・モームはこの灯台を織り込んだ短編小説「ア・フレンド・イン・ニード」(困った時の友)を書いている。

〈あし〉国鉄舞子、山陽電鉄舞子公園駅下車。

山村の風趣をとどめる白川の里

銘木「石抱きかや」

"やまももの里"―白川

 しっとりとした山村の風情で古くから知られた白川も、いま神戸・三木間の県道を車で疾走すると、高台に新しく造成された白川団地が目にはいるだけであっというまにすぎてしまう。県道ぞいの見上げるような所に建っている新しい白川小学校が、様相を一変しつつある白川の里を象徴しているようである。
 しかしバス停から北側の東へぬけている道へ一歩はいると、古風な家屋がひっそりと寄りそうように建っている。この一帯が古い白川の里である。さながら山狭の地といった感じで、意外と戸数が少ないのがいっそう落ちつきを感じさせてくれる。また、道ばたの随所に白色凝灰岩から成るいわゆる"白川層"が露出して、清水のにじみ出ている所が多い。
 このあたりは、明治二十三年に今の県道が開かれるまでは山にかこまれた寒村で、四斗俵の米を牛に負わせて兵庫の市へ出すのに一日以上もかかったといわれるくらい、交通の便の悪い所だった。ところが白川や隣の車(くるま)村には楊梅(やまもも)の木が多く、この楊梅が、千年のむかしから明治維新まで年々献上物として宮中へ送られていた。
「新勅撰集」の中の一首に新古今和歌集の撰者であり、鎌倉時代初期の代表的歌人として知られる藤原定家の「玉ほこの道行く人にことづてて楊梅おくれ白川の人」というのがあり、この村の旧事をよく伝えている。村の旧記によると「楊梅上と白楊梅は、よく吟味した上、献上物として、中・下の楊梅は在所の百姓のものとし、上の楊梅、白楊梅を少しでも隠すことは罪になる」とある。
 源平一ノ谷合戦のとき、源義経の道案内をしたといわれる鷲尾径春の子孫という古い家もある。また、根に五輪の石塔を抱きかかえた名木、「白川の石抱きかや」は、旧白川小学校跡から少し西へ行った小高い辻にある。

〈あし〉国鉄神戸駅から市バス車大道行(板宿経由)で白川下車。

"神出富士"と呼ばれる雌岡山の英姿

今は訪れる人も少ない"野中の清水"

旅人のオアシス「野中の清水」

 青白いキャベツが、冬の畑でいかにも寒そうに葉をまいている垂水区岩岡町の田んぼの中に「野中の清水」はある。平安末期の歌人であった西行法師が姫路の書写山円教寺へまいる途中、「昔見し野中の清水かはらねば我が影をもはや思ひいづらむ」と詠んだ清水である。「古今集」に「いにしへの野中の清水ぬるけれどもとの心を知る人ぞくむ」とあるのも、この清水を詠んだ歌だ。
 また「増鏡」第十六「久米のさら山」の条に、元弘二年(一三三二)三月、後醍醐天皇が隠岐国へ行かれるところに「明石の浦をすぎ…、野中の清水、ふたみの浦、高砂の松など名ある所々御覧じわたさるも…」とあり、このほか、この清水は謡曲や狂言にも仕組まれて広く知られた。
 一説では、日本五水の一つとも、播磨十水の一つともいわれ、室町末期には有給の水守をおいたという伝えもある。明石藩では元禄三年(一六九〇)にこの清水をさらえ、岸を築いて御礼を立て、藩主は茶事にこの水をよく用いたという。そして元禄年間には大和屋という酒造家が、この水を酒造用にし、これを記録した「野中清水醸造記」が正徳二年(一七一二)にできた。
 ところで、元禄年間に明石藩によって開拓されるまで岩岡は原野のままで、この野中のあたりは昔の細々とした道筋にあたっていた。大和方面から来る人は、鵯越から押部谷を経て、由緒のある雄岡(おっこう)・雌岡(めっこう)の山を見ながら岩岡を通り、魚住の泊まりへと、この道をいそいだことだろう。
 水はどこにでもあるものだが、飲料に適した名水といわれる水はざらにあるものでなかったから、これを見つけた昔の旅人には、いっそうたまらなかったに違いない。
 現在の「野中の清水」は青くにごった水がよどみ、本当に水が湧いているかどうかもはっきり見えないが、ここから雌岡山までの間は今でもきれいな小川と、ところどころに松並木のある田のあぜ道が続いている。

〈あし〉国鉄明石駅から神戸市バス岩岡行で上岩岡下車、南へ約一・五キロの所にあるガソリンスタンドを右に折れて約五メートル。

「孤高の人」を生んだ神戸の背山

 低いながら美しい山容で人々から親しまれている高取山の山上は、かなり強い風が吹く冬でも、ハイカーや元気な子どもたちの姿がたえない。粉雪が舞う冬のある日、この山上に立った若者が一人の老人から、"速足の文太郎"の異名で知られた加藤文太郎の思い出話を聞くところから新田次郎の「孤高の人」ははじまる。
 「…加藤は生れながらの登山家であった。彼は日本海に面した美方郡浜坂町に生れ、十五歳のとき神戸に来て昭和十一年の正月、三十一歳で死ぬまで、この神戸にいた。彼はすばらしく足の速い男だった。彼は二十歳のとき、六時に和田岬の寮を出て塩屋から山に入り、横尾山、高取山、菊水山、再度山、摩耶山、六甲山、石の宝殿、大平山、岩倉山、宝塚とおよそ五十キロメートルの縦走路を踏破し、その夜の十一時に和田岬まで歩いて帰った。…そのころ彼はもう、けたはずれの登山家になっていたのだ」
 加藤文太郎は神戸に来て、裏庭のような六甲に魅せられる。やがて日本アルプスに足をのばし冬山の魅力につかれるが、彼は孤独を愛し、その登山はいつも一人だった。しかし彼を慕う青年登山家のたっての願いを入れ、はじめて人と組んで厳冬の槍ヶ岳北鎌尾根へ向かう。そして、この登山で青年の無謀な計画にひきずられ、遭難死してしまう。
 加藤文太郎がはじめて日本アルプスへ登った時、ある登山グループと交わした次のようなやりとりがある。
 「…遠くから来たんですか」神戸からですと加藤が答えると、その男は「ああ関西か」といった。…「山をやったことがあるんですか」別の男が、なじるような顔でいった。「神戸付近の山ならたいてい歩きました」すると…若い人たちはいっせいに笑い出した。「神戸付近の山なんか山ではありませんよ まあ丘のつづき見たようなものでしょうな」…  新田次郎は、この不世出の登山家を通して"なぜ山へ登るか"の問題を堀り下げると同時に、低山をバカにし、見かけの服装だけが派手になっていく最近の一部の風潮を、たくみに風刺している。

〈あし〉五位ノ池行市バスで長田小学校前下車。その西約五十bが高取山登り口。

高取山の山上

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