33号表紙

No.33(昭和49年12月)

特集:

神戸と文学(上)

神戸と文学(上) 「蒼氓」の舞台となった神戸移民あっせん所(現市立高等看護学院)

文学はぐくむ神戸の風土

 「海には夢が、山にはあこがれが、港には詩が、街にはいのちが、ある。自然と人との、そのような環境にくるまれて、神戸の文学は、ある…。」これは、朝田神戸大学教授がかつて"神戸の文学"について書かれた文章の一節である。ハイカラさと、開港100年の古さが奇妙にとけあった神戸の風土は、私たちをはぐくんでくれたと同じように、数々の文学作品に夢と、あこがれと、いのちを与えた風土である。

参考図書「文学の旅・兵庫県」宮崎修二朗著、神戸新聞社発行 「神戸の遺跡と文学」日東館発行 「神戸の史跡」神戸市教育委員会編

旧谷崎邸近くの静かな小路

旧谷崎邸 谷崎潤一郎はここで「細雪」の筆をとった

「細雪」の筆をとった旧谷崎邸

 

「源氏物語」の現代版といわれ、戦後好評を博した谷崎潤一郎の大作『細雪』(ささめゆき)上巻の奥付けには次のように記載されている。「昭和十九年七月十日初版印刷。昭和十九年七月十五日初版発行。著作者谷崎潤一郎。兵庫県武庫郡魚崎町魚崎七二番地の三七」
 現在、児山破魔吾氏が住んでいる東灘区住吉東町一丁目の家は谷崎潤一郎が昭和十一年から十七年までの七年間住み、「細雪」の筆をとったところ。実際の小説の舞台になったのは谷崎氏と親交のあった詩人富田砕花氏がいま住んでいる芦屋市宮川町の家だが、ここヘ引っ越してから「細雪」上巻に着手、昭和十八年に川向いの反高橋の東詰にあった魚崎町の家へ移ってから完成した。
 門を人ってすぐ母屋があり、彼の書斎はその奥に別棟で建っている。書斎の畳をあげると愛用したいろりがそのまま残っているという。
 「細雪」にはそれぞれ性格の異なる四人姉妹の織りなす甘美なムードがあふれているが、昭和十三年に阪神を襲った大風水害のくだりは目のあたりに体験しているだけに、さすがに迫力がある。その時、「揚子江か黄河の氾濫か」と表現した住吉川の大洪水は、今は跡かたもなく静まりかえり、この邸のすぐ前を小さなせせらぎの音を立てて流れている。
 十八年一月に「細雷」は中央公論に掲載されたが、軟文学をきらった軍部の命令で掲載禁止となり、十九年、彼は自費で二百部を限定出版してささやかな抵抗を試みている。二十年五月、この家から岡山県へ疎開した。これが彼の阪神生活との別れの日であった。魚崎町の家は戦災に焼かれ、いまは道路が拡張され跡かたもない。
〈あし〉阪神電車魚崎駅下車、線路ぞいに西へ住吉川を渡り、川の西岸を北へ約三百メートル。

悲恋に泣く万葉乙女と求女塚

 東灘区住吉町の求女児童公園内に求女(もとめ)塚古墳がある。この古墳から西へ一キロの御影塚町に処女(おとめ)塚、さらに西一キロ半の灘区都通三丁目に西の求女塚があり、古来「うなひ処女」にまつわる伝説が残っており「万葉集」や「大和物語」、謡曲「求女塚」などで広く知られている。
 「大和物語」の話を要約すると、むかし、この菟原(うはら)に住む美しいおとめがいた。これに恋する青年が二人いて、一人は同じ土地に住み名を菟原男(うはらおとこ)、一人は和泉国に住み名を茅努男(ちぬおとこ)といった。どちらも美男子で気立てもやさしく、武芸もよくできた。おとめはどちらになびくこともできず、思いなやんだすえ生田川に身を投げた。二人の青年もあとを追って飛び込み、おとめにとりすがりながら沈んでいった。
 この三人の亡きがらを葬ったのがそれぞれの塚で、おとめの塚は中央の御影塚町に、ちぬ男の塚は東の住吉町に、うはら男の塚は西の都通にあるが、それだと伝えられている。
 しかし、この三つの塚を考古学的にみると、築造年代にかなりの差が認められる。東の求女塚は前期古墳であるのに、おとめ塚と西の求女塚は中期古墳で、とくに西のは中期盛期の古墳とみられている。
 万葉の人たちのころには、海路を行く人にも、陸地を行く人にも、広野のなかに目立つような同じ形の塚が、ほぼ同じ間隔で三つも並んでいるのが強く感興をそそったのだろう。そんなことからやがて伝説が生まれたと思われる。

〈あし〉東の「求女塚」は阪神住吉駅下車、高架北側を東へ200メートル、求女児童公園内。南隣が市立遊喜幼稚園。

  • 万葉のむかしの悲恋物語を伝える東の求女塚(東灘区)
  • 東の求女塚とともに、万葉のむかしから道行く人の興趣をそそった御影の処女塚(上)と西の求女塚(左)

今も昔も学生の多い並木道(王子動物園付近)

くすんだ赤レンガの旧関西学院校舎(王子動物園北)

横光利一が夏休みを過ごした西灘

 大正末期から昭和にかけ新感覚派の代表作家として盛名をはせた横光利一は、西灘に嫁いでいた姉のもとで学生時代の夏休みを過ごすのが例であった。そのなつかしい西灘周辺に回想をはしらせながら、文学の叙情時代が終りを告げかけていたころの悩み多い心の状態をつづった一文に「灘にいたころ」というのがある。
 「大正九年十年のころ私は西灘で暮したことがある。姉が其処にいたので、夏になると其処へ帰る癖があった。帰るといってもその辺りを散歩するのが私の楽しみの一つであった。何処ともあてどもなく歩いていると、ふと関西学院の前へ出たりした事があったが、其の頃は家が殆ど灘にはなく、大きな酒倉ばかりが目についた。倉と倉の間から、外国船の巨大な腹がよく見えた。荷馬車が絶えず埃をあげた街道に通っていて、馬糞の実に多い町だったと憶えている。…その頃その辺りで学院の生徙によく出遇う事があった。そのときいつも一体ここの生徙はどのような事で悩んでいるのであろうと思ったりしたものである。まだ文学に目鼻もつかぬ青年期のある時期には、誰も一度は通らねばならぬあの憂鬱さは、何とも手のつけようのないものであるが、この学院の生徒の顔色をその頃見ていると、やはり悩みは自分と同じようなものであろうかとひそかに顔を覗いたものである。…」
 そして大正十一年には「青い石を拾った時」という短篇を書いているが、それもこの西灘に結びつく作品である。

〈あし〉市バス王子動物園前下車、西へ約100メートルにある市立王子図書館は元関西学院のチャペル。王子動物園北側にも元同学院の校舎が残っている。

仕込みをまつ大きな酒樽と、むかしながらの酒倉(灘五郷で)

六甲の高台にある神戸大学経済学部構内。この南端に赤松城の跡といわれる石垣がいまも残っている

現在の一王山十善寺

赤松円心の奇略―赤松城址

 灘区六甲台町の神戸大学経済学部の正門をはいると石段があり、これを登って学舎前の美しい松林を横切って最南端のガケぎわに行くと、「赤松城址」の標柱が立っている。保存されている石垣の一部はところどころコケむして、六百年の風雪がしのばれる。
 元弘三年(一三三三)、赤穂の名族赤松則村(円心)は、大塔宮護良親王の命をうけて、赤坂城や千早城に拠る楠木正成に気を奪われている北条勢のスキに乗じてこの六甲山に城を構えた。北条六波羅勢は赤松城を一気に攻め落とそうと五千騎で押し寄せ、六甲山ろくの八幡、求(もとめ)塚に布陣した。
 円心は一計を案じて二百の足軽をおろし、遠矢をしかけて七曲りの細道におびき寄せ、横あいから少人数で切り込ませたところ五千騎の大軍は山中の細道で大混乱となり、北条勢が武庫川西岸までたどりついたときは、一千騎たらずになっていたと「大平記巻八」に出ている。
 明治四十一年にある人が、現在の神戸大学の地の雑草のなかに建物の遺構や石垣の跡が散在するのを見つけ、これを赤松城の跡と発表してから強いて反対するものもなく、そのままに過ぎ、赤松町の町名もできた。しかし現在、赤松城址といわれている所は一王山十善寺の元の所在地で、要害の場所にある立派な寺であったから、円心はそれを戦いに利用したので、初めから城として築いたものではなかったという説もある。十善寺はそのご神戸外国語大学の北五百メートルの地に移された。
 いずれにしろ、円心がこの地を拠点にして六波羅勢を討滅したことは事実で、建武の中興の基をつくった功績は大きかった。

〈あし〉阪神御影、阪急六甲駅から六甲ケーブル行の市バスで神戸大学前下車、神大の正門をはいって石段を上り、右手の学舎前の松林を横切って最南端へ。

布引の滝へと続く石橋。新神戸駅から五分とかからない

雄滝と雌滝を結ぶ散歩道(葺合区)

布引の雄滝

金星台にある金星観測の記念碑(生田区)

都びとも歌をよんだ布引の滝

 ポルトガルの海軍軍人だったW・J・S・モラエスは明治二十八年に来神し、同三十一年に神戸駐在のポルトガル副領事に任命され、のち総領事になった。やがて福井ヨネを見そめて妻にし、加納町二丁目(現在の市立中央市民病院の南約三百メートル)に住んだが、ここで「日本精神」「日本夜話」「茶の湯」など二〇冊にのぼる著書の大半を書き、ポルトガル文壇の第一人者としての地歩を固めた。
 このモラエスにとって、家から布引の滝までの山路は、著述に疲れた頭を休めるのに絶好の散歩路であったにちがいない。彼は「尼さん」のなかの一節で次のように書いている。
 「神戸に上陸した者なら誰しも、街の散歩に二、三時間をさきさへすれば、近傍で名高い天然の奇観、布引の滝に行くことが出来る。この滝に行く坂道を登り、絵葉書の類や、ささやかな品々を店先に並べた張店の軒並が急に眼の先に現われだすと、やがて左手にあたって、峰の方へ曲りくねりながら続く峻しい道が現われる。…」
 現在は滝の上流に貯水池があるので水勢は弱められているが、上流から雄滝(高さ四三メートル)夫婦滝、鼓ケ滝、雌滝(高さ一四メートル)の四つがあり、その間二百メートルは見事な渓谷美をつくり、今も絶好の散策コースとして市民に親しまれている。
 布引の滝は平安朝のむかしから歌枕として有名で、宇多天皇をはじめこの地を訪れた都びとは数多く、この滝をよんだ古歌も多い。明治五年ごろ滝の名歌の碑三十六基を周辺に建てたそうだが、現在もそのいくつかが残っている。

 布引の滝の白糸夏来れば 絶えずぞ人の山路だづぬる 定家
 布引の滝の白糸うちはへて 誰山風にかけてほすらむ 後鳥羽院

〈あし〉市バス布引で下車、生田川西岸ぞいに北へ約200メートルで新幹線新神戸駅。ガードを抜けて山道をあがるとすぐレンガの砂子(いさご)橋がある。さらに100メートルで雌滝、ここから坂道で雄滝まで徒歩約5分

布引ハイキングコースのざわめきをよそに、しんと静まる徳光院境内

木の実拾いに興じる子どもたち

諏訪山の名所"ビーナスブリッジ"

みなとを見おろす金星台の碑

 諏訪山の展望台にのぼると、高見順の小説「朝の波紋」にえがかれた展望そのままの風景が、眼下にひろがる。
 「…山上の展望台から神戸の全市が見下せた。神戸港の突堤が櫛の歯のように並んでいる。その西寄りに、付属の形で兵庫港があった。いましも貨物船が出てゆく。篤子は思わずそれに手を振った。神戸特有の西風が山の上では一段と強い。…」
 また俳人它谷(だこく)の"紀の海の阿波へ流れる月夜かな"の句碑も、海の眺望のすばらしさを伝えている。この展望台を金星台と呼ぶのは、明治七年、フランス人ヤンセンがここで金星の観測をした記念碑が建っているからで、勝海舟自筆の「海軍営の碑」もここにある。
 このふもとにはもと鉱泉が湧き出て料亭もあり、明治二十六年ごろ中山手七丁目に住んでいた丸岡九華の家に滞在していた尾崎紅葉も、しばしば入浴に出かけたという。
 諏訪山の山すその道を東へたどると、もとの「神戸移民あっせん所」(現立高等看護学院)がある。石川達三の出世作「蒼氓」第一部の舞台となったところ。第一回「芥川賞」を受けたこの作品は、「細々と煙る春雨である。海は灰色に霞み街も朝から暮時のやうに暗い」と当時の暗い社会をしのばせながら
 「三宮駅から山の手に向う赤土の坂はどろどろのぬかるみである。この道を朝早くから幾台となく自動車が駆け上って行く。それはほとんど絶え間もなく後から後から続く行列である。この道が丘につきあたって行き詰ったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。…」と、みずからの体験を通して、当時のブラジル移民の生態と、政府の移民政策をするどくえぐっていく。

〈あし〉三宮から平野まわり神戸駅行の市バスで諏訪山公園前下車。元町駅から北へ県庁―相楽園―諏訪山のコースで歩いてもそう遠くない。

初冬の日ざしを浴びて

明治百年を映す坂道と異人館

 明るい日ざしを浴びて下町の繁華街と港を見おろす生田区北野町一帯は、古さと新しさをおりまぜた国際港都の代表的な住宅地だ。異人館の点在する坂の小路を上り下りしながら船の汽笛をふと耳にすると、"やっぱり神戸だな"とダレしも思うらしい。昭和七年、神戸を訪れた堀辰雄は「旅の絵」という作品の中で、この情緒を次のように表現している。
 「私たちの上って来たやや険しい道は、一軒の古い大きな風変りな異人屋敷―その一端に六角形の望楼のようなものが唐突な感じでくっついている。そして…」「山手のこのへんの異人屋敷はどれもこれも古色を帯びていて、なかなか情緒がある。大概の家の壁が草色に塗られ、それがほとんど一様に褪めかかっている。そうしてどれもこれもお揃いの鎧扇が、或いはなかば開かれ、或いは閉ざされている。…」
 文中に「私たち」とあるのは、神戸在住の詩人竹中郁氏に案内されたからだ。昭和九年、神戸を訪れた作家丸岡明氏も同じく竹中氏に案内してもらい、「堀辰雄とその作品」のなかで次のように記している。
 「北野天神からの眺めは、海岸付近のオフィス街と、中間の商店街と、山手の住宅街との三本の帯で神戸の街がなり立っていることを了解させた。港には、商船に並んで、灰色のイタリーの軍艦が浮かんでいた。…北野天神の裏から浄水池の上に出ると、六甲の裾に沿った海岸線が、湾になった遠くまで見渡されて、大阪までひと眼であった。…」
 また大仏次郎の「宗方姉妹」にもこのあたりが舞台になって登場する。
 「宏の親の代からの家あるこの付近は、もとの東亜ホテルを中心に置いて、神戸でも静かな屋敷町で、下町の繁華街と港を見おろしていた。…」 

〈あし〉トアロードを上がって、その突きあたりを東へ折れるか、加納町三丁目とか市立中央市民病院前から西北ないし西へ歩く。急な坂道と、横文字の表札の家が多い。

エキゾチックな坂道

古さと新しさをミックスした異人館

若き雲水と夏目漱石の文通

 市バス五宮町のバス停から北へ入ると、山腹に祥福寺の宝塔が見える。この一帯の平野は古くから奥平野村として知られた所で、古いたたずまいを残した家並の小路がいまでも珍しくない。祥福寺の清潔な石段をのぼると、澄んだようにさっぱりとした境内が静まりかえっていた。
 この祥福寺と夏目漱石―といえば一見奇異なとりあわせに感じるが、ここの二人の若い雲水と漱石との文通書簡が「漱石全集」に二十五通も収められている。
 「私はあなたよりいくつ年上か知りませんがあなたが立派な師家になられた時あなたの提唱を聴く迄生きていたいと願っています其時もし死んでいたらどうぞ私の墓の前で御経でも上げて下さい又間に合ったら葬式の時来て引導を渡して下さい私に宗旨はありませんが私に好意をもってくれる偉い坊さんの読経が一番ありがたいと考へます、…今度もし関西へ行ったら祥福寺へ行ってあなたと鬼村さんに会いたいと思います。…」
 この書簡は大正初年、当時祥福寺の雲水だった故富澤敬道師にあてたもので、文中の鬼村さんは故鬼村元成師のこと。漱石は明治四十三年に胃潰瘍のため吐血してから死の問題を痛切に考えるようになり、祥福寺ヘの関心もおのずから深くなっていたのだろう。大正五年十月には二人を東京見物に招いている。
 平野の交差点から西へ約二百メートルの湊山小学校校庭に「雪見御所旧跡」の碑がある。雪見の御所はむかし平清盛の別荘のあったところで、治承四年(一一八〇)六月三日、清盛は突然、都を京都から福原に移した。あまり急だったため皇居の準備もできておらず、安徳天皇はとりあえず清盛の弟、池の中納言頼盛の山荘に旅装をとき、ついで雪見の御所に移り、一時そこが皇居になった。このくだりは「山槐記」の治承四年十一月二十二日の条に「本皇居は、禅門(清盛)家の雪の御所の北にあり」とある。
 当時は付近に平家一族の別荘が点在して、京都との往来もひんぱんに行われ、この地方はさぞ壮観であった思われる。しかし遷都からわずか半年で都は再び京都にかえり、そして三年後の寿永二年(一一八三)七月、今度は源氏に追われ、天皇と平家一門は京の都を捨てなければならなくなる。都落ちの途中、人々はここに立ち寄り、一夜を明かして名ごりをおしんだ…。

〈あし〉祥福寺は市バス五宮町下車、北百メートル。雪見の御所跡は市バス石井橋下車、東へ百メートル行くと道路ぞいに湊山小学校があり、校庭の南端に碑が立っている。どちらも平野から歩いても遠くない。

  • 平野の由緒をしのばせる落着いた家並(兵庫区五宮町)
  • 平野祥福寺の清そなたたずまい
  • 平野からほど近い烏原貯水池の散歩道
ページトップへ